4章 嵐のバラ園 3
同じころ、ロンバルド王宮の一角ではブルーデンス・ディアドラ・マクシミリアンがひっそりと物思いにふけっていた。
(昨日の夜会を、わたくしは一生忘れないだろう)
今思い出しても、まるで自分のことのように胸がどきどきする。
どきどきは、よくない意味でだ。
(だって……父が娘を無視するだなんて、あれではまるで)
ヘイゼル第五王女は明るくてほがらかで、王家のしがらみからも自由で、まわりの人々に愛されている。そんな人なのかと思っていた。
噂ではいろいろ聞くけれど、実際会ってみた彼女からは虐げられてきた人間特有の薄暗いかげりは一切見えなかったからだ。
だけど昨夜の夜会で、彼女の父はあからさまに彼女を無視した。
彼女が膝を折ったのに、その横を無言で通り過ぎたのだ。
それがどんな波紋を呼ぶか、わからないわけでもないだろうに。
──あれではまるで、自分たち親子のようではないか。
ブルーデンスは悲しい気持ちでそう思う。
彼女の父は、今では、ブルーデンスに言葉もかけない。
(──いったい、この人はなにもの?)
初めてヘイゼルを見たとき、ブルーデンスはそう思った。
とっさに感じたのは複雑な思いだ。
憧れ、嫉妬、好意と拒絶。
相反する感情が激しく渦巻いて、あまりの苦しさに考えることを途中で放棄したほどだ。
それほどに、馬車から降りてきた彼女はまぶしかった。
金色のドレスがではない。控えめにふるまってはいても、隠しきれない明るさとまっすぐな人懐こさがにじんでいた。夫であるアスランに会いたくてひたむきに旅をしてきたことがよく伝わってくる。
捨てられた王女だとか、砂漠の卑しい男にさらわれたのだとか、彼女を見ればそれらの噂がどれほどでたらめかよくわかる。彼女は本当に幸せそうだった。
(この人は愛されているんだわ)
そう思った。同時に強烈な嫉妬が浮かんできた。
(わたくしが、王女として劣っていることはわかる)
足は生まれつき悪くて杖がなくては歩けないし、人前で話そうとするとどもるし、社交もあまり得意ではない。
美しいと言われることがないわけではないが、デビュタント兼婚約者との顔合わせでも失敗したことを思い出すと、本当に美しいのか疑問になる。
婚約がなかったことになった理由はブルーデンスには知らされていない。
足のせいなのか、口ごもってしまってうまく話せなかったせいなのか、わからない。
だが当時、そばに仕えてくれていた侍女は責任を取らされて王宮から出ていかされた。
(デビューに失敗したあの夜……お父様はわたくしにお声をかけられなかった)
夜会デビューとはいえ、もちろんこの足でダンスはできない。なので、婚約者である男性がブルーデンスに声をかけ、親しく談笑してくれる予定だったのだ。
だがいくら待っても、ブルーデンスの前に婚約者は現れなかった。
そしてそんな彼女に声をかけようとする貴族たちもまた、いなかったのだ。
(本当に、昨夜のあのかたと同じ……)
あのデビューの夜、ブルーデンスは足の感覚がなくなるまで立っていることしかできなかった。
涙が出ないよう表情を動かさず、背筋だけをまっすぐ伸ばして。
それが彼女にできる精一杯のことだった。
そんな彼女に、兄のカルマは滑るような足取りで近づいてきて、こう言った。
「ぶざまだな」
彼女にだけ聞こえるように、兄は耳元で嘲笑った。
「あまりみじめなふるまいをするなよ、王家の一員として自覚があるなら」
兄は心なしか楽しげだった。
「あれのことは、少し甘やかしすぎたようだ」
父もそう言っていたと、のちに人づてに聞いた。
「人前にまったく出さぬわけにもいかないが、王家の恥になるゆえ、控えさせよ」
それ以来、夜会の時の彼女の指定席は二階の桟敷席になった。
誰とも親しく話すことのない、隔離された場所だ。
そして侍女の数は減らされ、その侍女も多くが父の腹心のものに変わった。
ブルーデンスがしたことは逐一、侍女を通して父に報告され、侍女と親しく口をきくことはもちろん、友人をつくることもできない。
だが、ブルーデンスはそれでもいいと思っていた。
(だって、わたくしがなにか失敗したら、必ず誰かが罰を受けるから)
デビューの夜、ブルーデンスに話しかける人間はいなかった。
王女と関わり合いになることで、自らに災いが及ぶことを誰もが回避したのだ。
あの、自分のまわりだけ掃いて散らしたように空間ができていた、あの景色を彼女は忘れられない。
(だけど、あの人はわたくしと違った)
ぐずぐずその場にとどまることなく毅然と退出するヘイゼルは、みじめでもなければぶざまでもなかった。
(きれいだった、潔かった、素敵だった)
──でも。
ブルーデンスは今、罪悪感で胸が痛んでいる。
あの時のヘイゼルを見て、拍手したい気分だったことは本当だ。
だけどそれを素直に伝えられなくて、結局、いつもと変わりない儀礼的な文面の手紙を送ってしまったのだ。
侍女の目を気にしたことも事実だった。
せめて、なるべく早く届けることで気持ちを伝えたつもりだったが、きっと伝わってはいないだろう。
(それどころか、またなにもできなかった)
自分のデビューの夜、しかり。
昨日の夜も、しかり。
(わたくしは結局、誰にも責められない、安全なところから見て見ぬふりをしただけじゃないの)
勇気が出せなかった自覚はあった。
自分のしたことがひどく残酷であることも。
(そしてそれは、自分がされて一番嫌だったことなのだわ……)
最低だ、と自分のことを責めながら、ブルーデンスは椅子に深く背をもたせかけた。
自分の好みとはまるで違う、若い女性らしい甘いしつらえの部屋だ。
(なにひとつ、できていない──もうずっと)
ブルーデンスは両手の指を組み、きつく目をつむる。
(本当にいいのかしら、このままで)
父は、王族に友など必要ないと昔から言っており、自分も実際にそうしている。
いるのは忠実な人間と敵だけだ。
(わたくしと関わると、相手の迷惑になると思っていた。だから誰とも関わらないようにしてきた。それが相手のためだと信じて)
血のつながった親ながら、父は誰に対しても分け隔てなく冷淡で、罰を与えることへの容赦がない。
実の娘ですらこの扱いであることを考えると、父の機嫌を損ねた相手がどうなるのか、考えるだけでおそろしい。
だけど。
──知らなかった。わかってよかったわ。
──その靴、とても素敵。よくお似合い。
──好き。
この間会いに来てくれた時の、彼女の表情が思い出された。
感情がそのまま顔に現れて、その素直さを好もしく思ったことも。
話しはじめのちょっと不安そうな様子も、最後のほうですっかり心を許して笑う顔も。
でも何より際立っていたのは、昨日の夜会での毅然とした態度だ。
(見習いたい……)
今からでも、間に合うかしら。
わたくし、勇気を出せるかしら。
ブルーデンスは閉じていた瞳をゆっくりひらくと、杖を使って文机の前に座った。
手紙を書き始めると、いつものように侍女がそれとなく後ろを行き来し始めたが、ブルーデンスは勇気を出して下がらせた。
ここはいいから、下がっていてちょうだい、と。
普段よりも口ごもってしまったが、なんとか言えた。
(言えた……言えたわ)
こんな小さなことで高揚感がこみあげてきて、ブルーデンスは夢中になって文字をつづった。