4章 嵐のバラ園 1
翌日は、昨夜のあれやこれやが嘘みたいに気持ちのいい天気だった。
空は青く、白い雲が点々と浮かんでいる。
(きれい……)
ヘイゼルは王宮のバラ園で、流れる雲をのんびりと見ていた。
さすが王宮の庭園だけあり、手入れが行き届いている。芝生は短く刈りととのえられ、ベンチには汚れひとつない。
ヘイゼルはもうさっきから、かなり長い時間ここでこうしている。
「そして、誰も来ない」
思わず口に出して言ってしまってから、ちょっと笑った。
そう、昨日の夜届いた手紙の最後の一通は、貴族の女性からの招待状だったのだ。
女性三名の連名で、明日の昼、よかったらバラ園でお茶でもいかがでしょう。手紙にはそうあった。
女だけの集まりと思ってドゥンガラは連れてこなかったが、こうまで誰も姿を見せないところをみると、あの招待状はどうやら嘘だったらしい。
(バラがきれいだから、いいわ……)
ヘイゼルは奇妙に平和な気持ちで、色とりどりの景色を堪能している。品種まではわからないが、数えきれないほどの花びらがぎっしりと詰まった大輪のバラが花盛りだ。風もないのに甘い芳香が漂ってくる。
(嘘の招待状が気にならないわけじゃないけど……)
でも、今日はできれば図書室には行きたくなかったから、ある意味ちょうどよかったのかもしれないとヘイゼルは思う。
右にも、左にも、背後にもバラ。正面の芝生の向こうにも延々とバラである。
競い合うように咲いているバラの中には、花自身の重みで静かにうつむいているものもあった。バラの間には、空色や青紫のデルフィニウムが立ち並んでいる。
(アスランは、今頃なにしているかしら……)
ふいにさみしくなって、ヘイゼルは小さなため息をついた。
こんなにきれいなものを見ているのに、さみしくなるというのもおかしなものだった。
『おいで、ヘイゼル』
『いやなの?』
『──わかった』
別れ際のやりとりが鮮やかに思い出されて、ヘイゼルは寒くもないのに少し震えた。
(自分でも素直になれていないとわかってる時に言われる「わかった」ほど、怖い言葉ってないのね……)
あいつは怒ってないから大丈夫だ、とドゥンガラに言われているものの、最後に聞いた言葉というのは耳に残りがちなのだった。
今なにをしているのだろう。無理していないだろうか。危ない目には遭っていないか。
(早く帰ってきてほしい……)
元気な顔が見たい。どこもけがなどしていないかこの目で確かめたい。
そしてなによりも、早く謝って、仲直りがしたかった。
じわっと涙が浮かんできそうになって、ヘイゼルは慌てて顔をあげて涙をこらえた。
こんなに美しい庭園で、ひとりきり、天気も良くて平和なのに、泣く必要なんてないじゃないのと自分に言い聞かせながら。
(落ち着いて。今は私がやるべきことをやるしかないのよ……)
調べ物はまだまだたくさんある。
明日からはまたドゥンガラについてきてもらって図書室で本を借りてこなくては、とヘイゼルは背筋を伸ばした。
(今日はちょっと休むけど……また明日から……)
もう少しだけここで休んだら部屋に帰ろう、とヘイゼルが思った時。
後ろで芝を踏む足音がした。
振り返ると、ジャジャが立っていた。
ヘイゼルとジャジャはつかの間、互いを見つめて沈黙する。
彼が現れると思っていたわけではなかったが、なぜだか、ヘイゼルは驚いていなかった。
ジャジャのつやのあるグレーの髪は最後の時より幾分伸びて、後ろでひとつに結んでいる。
この子少しやせたかしら、とヘイゼルは思う。
「ガーヤは」
やや長めの沈黙ののちに、先に口をひらいたのはジャジャのほうだ。
「ガーヤは元気にしていますか」
「元気よ。あっという間に砂漠にも順応して」
「──まあ、あの人ですからね」
皮肉な微笑を浮かべて肩をすくめるしぐさが、前とは違う。
よく言えば大人っぽいし、正直に言えば疲れているように見えた。
「最近はね、どつくって技を覚えたみたいで」
「ムチではなく?」
「砦の中は狭いし、ムチは向かないと思ってるみたい」
ああ、とジャジャはその様子を想像したようにちょっと笑った。見ているほうが悲しくなるような、ゆがんだ笑い方だった。
「それ、僕と暮らしてる時に会得されなくてよかったですよ」
「ジャジャは、口で言えばわかる子だったからでしょう。砦の男性陣には、どついたほうが通じるんだって」
はっ、とジャジャが笑い声を立てる。
「なにごとも、相手によって手段を変えるって、大事なんですって。そういえば、技といえば、私が練習させられてたあれ」
「ああ」
あれ。ああ。
暮らしてきた期間が長いので、それだけで通じる。
「男撃退の技ですよね」
「そうそう。あの肘うち、ジャジャによく練習台になってもらったわね。いつも当たらなかったけど……」
「姫さまは上手でしたよ」
間髪入れず真剣に返された。
「スカートをめくって、金的蹴りを相手が警戒して下を向いたところを、もしくは足に気を取られたところを鼻に一発。あれは結構なフェイントです。普通の男には効くと思います」
「あなたには当たらなかった……」
「そりゃこう見えて近衛の一族ですし、鍛えてましたから」
ジャジャはしれっと答えてから、ふと気づいたように眉を寄せた。
「……まさか、あの技が役に立つ場面があったんですか?」
ヘイゼルが答えないでいると、ジャジャはたたみかけてくる。
「いつ? どこで? 誰に?」
いくら待ってもヘイゼルが答えないので、ジャジャは小さなため息をついた。
「あなたは、目を離すとなんだかんだ危ない目に遭う……」
「ちょっと、人聞き悪いわよそれ」
わざと冗談めかしてヘイゼルは言ったが、ジャジャはごまかされなかった。
ヘイゼルのエメラルドの瞳を見つめながら言う。
「僕が以前言ったことを、覚えていらっしゃいますか」
最後に別れたあの時のことだった。
「あの男があなたを泣かせたら、殺してやるって僕は言いました」
「そうね」
「追いかけて始末をつけるって、そう言いましたよね」
「覚えてる」
あれは、雪のちらつく夜のことだった。
城を出てゆくヘイゼルにジャジャがマントを着せかけてくれた感触をまだ覚えている。嘘みたいだ、あれから半年しかたってないなんて。
「でも私、泣いてないわ」
「泣いてなかったらそれでいいんですか」
打ち返すようにそう言われた。
ジャジャのきれいな顔が苛立ちにゆがんでいるのをヘイゼルはぼんやりと見つめる。
「だってあなた、今、ひとりぼっちじゃないですか」
「確かにそうね……」
ヘイゼルがちょっと笑いを漏らすと、ジャジャは聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
「僕が、自分の気持ちを伝えてこなかったのが、よくなかったんでしょうか……」
「え?」
ヘイゼルが聞き返すと、なぜだかジャジャはきっとなってヘイゼルを見返した。
「あなたときたら本当に、全然王女らしくなくて。好奇心は強いし変に人懐こいし、体は弱いくせに全然おとなしくしていないし。目を離すとすぐに森に遊びに行って、そのくせちょいちょい迷子になって探しにいくのは僕の役目だし」
「それは悪かったけど、だいぶ子どもの頃の話よね?」
ヘイゼルは言い訳したが、ジャジャは止まらない。
「おかげで僕はいつもいつもハラハラしっぱなしで、僕だって家から捨てられたも同然だったのに、さみしいと感じる暇もなかった」
思えば、そこは三人同じだったのかもしれない。
ヘイゼルは王家から捨てられたし、ジャジャは家の都合でヘイゼルのお守りをさせられたのだから捨てられたと言えなくもないし、ガーヤだって元は女官長まで勤め上げた人だった。あんな、国境間際の森の中で暮らしていい人ではない。
だがあの頃の暮らしを思い出すと、いいことばかりだった気がする。
「だから本当に感謝しているし、楽しかったし……そういうことを、もっと、伝えるべきだったんでしょうか」
全部、全部、楽しかった。
初夏になると咲くニセアカシアの白い花。房を作って垂れ下がった花は夜寝ていても甘い匂いがベッドまで届くこと。ガーヤが作ってくれた日々のおいしい料理のこと。毎晩ベッドで読んだ本のこと。
ジャジャに片思いをした近隣の村の女の子が家の近くまでやってきては、ヘイゼルの姿を見るなりすっ飛んでいなくなり、なぜか二度と現れなかったこと。それについてガーヤはひそひそとジャジャを叱り、ジャジャは悪くないと思ったヘイゼルが助け舟を出そうとすると、姫さまが聞いていい話ではありませんとふたり同時にぴしゃりと言われたこと。
「あなたは意外と冒険心が旺盛で、ガーヤのムチを真似して、ご自分で変なおもちゃだか武器だかわからないものを作ろうとするし……。縫い物は何年たっても下手で……」
ジャジャがごそごそと取り出したものを見て、ヘイゼルは赤くなった。
それは何年か前の冬、ヘイゼルが縫った革製のミトンだった。この距離で見ても、縫い目ががたがたなのがわかる。
「やだっそれ、もう捨ててよ!」
「いやです、けっこう温かいんです」
取り返そうとするヘイゼルの手からするりと逃げて、ジャジャはそのミトンをしまいなおすと、芝生の上に片膝をついた。
あっとヘイゼルは思う。
それは、近衛としての礼だったからだ。
今から何を言われるかわかる気がして、ヘイゼルは身構える。
「僕がおそばにいます」