3章 男といってもいろいろある 7
(──えっ??)
なにが起きたのか、とっさに理解できなかった。
顔をあげても父はすでにそこにいない。
肩越しに振り返ると、父の後ろ姿だけが見えた。
(お父様に、無視された?)
でもどうして。
ヘイゼルの顔がわからなかったはずはない。
城で彼女を地下の拷問部屋に入れたのはほかならぬ父だ。あの時、理想的な親子の対面とは言えなかったけれど、確かにふたりは会っている。あれからそう長い時間がたったとも思えないのに、娘の顔を見忘れるはずもない。
わけがわからずのろのろと立ち上がると、ロンバルド王の顔が目に入る。その表情はかすかだが、愉快そうだった。
(──笑ってる)
顔がこわばるのをヘイゼルは止められない。
なんといってロンバルド王の前から退出したのか、後から考えても覚えていなかった。
とにかく、これ以上ここにいたくなかった。
大広間を突っ切り、もと来た道を戻る途中、誰もがヘイゼルをあけて先を通した。それはやさしい気持ちから出たものではなくて、もめごとを避けようとする気配がにじむものだった。
◇◇◇
誰もヘイゼルに声をかけなかったことは、かえってよかった。
(今はまともな受け答えができる気がしない……)
シリンがコルセットをしめてくれていなかったら、まっすぐ立っているのも難しかったはずだ。
ヘイゼルは戸惑いと怒りで頭がくらくらするのを感じながら、大広間を出て廊下の途中にある化粧室に入った。
夜会は始まったばかりだったのでそこには誰もおらず、ヘイゼルはほっと息をつく。
大きな鏡には、見事なドレスを身にまとい、こわばった表情の自分がうつっていた。
(ひどい顔してる……)
ドレッサーには誰でも自由に使ってよいパフや白粉が置かれてあったが、化粧を直す気にもなれなかった。
どうしよう、とヘイゼルは鏡の前できゅっと両手を握りしめる。
こんな早くに部屋に戻ったら、シリンやドゥンガラが何があったのかと心配するだろう。かといって、あの大広間に戻ることも考えられない。
(私に、恥をかかせるためだった……?)
改めて思い出せば、そうとしか考えられなかった。
だが、それをしてなんの意味があるというのか。
(私が動揺して、癇癪でも起こせば砦との交渉が有利になる──)
頭ではわかっているものの、あまりにも子供じみた画策である。
(しかもお父様まで……!)
あんなことに手を貸すだなんて、どういうおつもりなの。それこそ子供じゃあるまいし、仮にも一国の王が『無視』だなんてそっちのほうが良識を疑われると思わないのかしら?
ヘイゼルは、化粧室に誰もいないのをいいことに、眉間にしわを寄せてじっとそこにたたずんでいた。
(しかも、あちこちで笑われてた気もするし……)
父王に無視されたことを笑ったのかと思ったが、どうもそうではないようだった。
──でも、いつもは……。
──今日はさすがに別の……。
──わかりませんわよ。
くすくす、くすくすくす。
誰もヘイゼルの名前は出さなかったが、自分が笑われているというのは不思議とわかるものだ。しかし、なにを笑われていたのか、ヘイゼルにはさっぱりわからない。
(大丈夫、だって砦のみんなが選んでくれたドレス、それにシリンがしめてくれたコルセット……)
「どうしたの」
だから絶対大丈夫、と気を取り直そうとした瞬間。
背後の扉が静かにひらいて、声をかけた人がいた。
「泣いてるの?」
「な、泣いていません」
「ふーん」
その女性はわずかにかすれた低い声で言いながら、ヘイゼルのほうに近寄ってくる。
背の高いすらりとした人で、紫色の派手なウイッグがよく似合っていた。
「でもひどい顔じゃない」
「そ、それはわかってます」
気にしていたことをずばり言われてヘイゼルはたじろぐ。
その人の容貌は美麗そのもので、目尻は甘く垂れぎみの濃いライン。白い頬に長いまつげが影を落として、どきっとするほど目力があった。
「お化粧でも直してあげようか」
言うなり、両手で頬を挟んで仰向かせられた。
この人は、きっと貴族だとヘイゼルは思う。それも、かなりの上流貴族。
その見事なドレスのせいもあったが、なによりもその振る舞い。
多少なれなれしくしても許されてきた人間の、魅力も権力もあることをわかっている人間の振る舞いだ。
「いえ、結構です。お気持ちだけで……」
「そう? うまいよ?」
だがヘイゼルは違和感を感じる。
なんだろう? なにがこんなに落ち着かないんだろう?
違和感の正体には気づけないまま、話は先に進んでゆく。
「まあひどい嫌がらせされてたもんねえ」
「えっ?」
「顔色悪くなっても無理ないか。日和見な貴族連中にまで無視されちゃってさ」
無造作に投げ出すような言葉の連続に、ヘイゼルの胸がひんやりと冷たくなる。
「あいつらも、ほんとは全員わかってる。あんなのただの意地悪。嫌がらせ」
「……ですか」
「だって、君と父上って生き写しなほどそっくりだし!」
ハスキーな声質も投げやりに近い話し方も、きわどいところで下品ではなかった。
だが、ヘイゼルの違和感は次第に大きくなり、今や警報に近い。
なんだろう、あと少しで違和感の正体に気づきそうなのだが。
その時、彼女が顔をぐっと近づけてきて、言った。
「君が偽物だなんて思ってるやつはひとりもいないから安心しなよ」
「……あの、どこかでお会いしました?」
距離の近さにひるみながらそう言うと、相手は笑いをはじけさせた。
大きくのけぞらせて笑う、そののどに、くっきりと段差があった。
「毎日のように会ってるだろ、図書室でさあ!」
「!」
「思い出させようか?」
含みのある意地悪な言い方をされたその瞬間、ぴたっとはまった。
この人は、カルマ殿下だ。
そうわかった瞬間、考えるより先に体が動いた。目の前にある相手の体を思いきり突き飛ばす。
「励ましてやったのに」
「最低です。ここは男性が入っていい場所ではないはずです」
そう言いながら逃げようとしたが、寸前、腕をつかまれた。
思いがけず強い力にヘイゼルはひやっとする。
「あのさあ。うちの王宮で俺が入っちゃいけない場所なんて、ないんだよね」
「離してください」
ヘイゼルは身をよじってその手から逃れようとしたが、彼の手はびくともしない。
どうしよう、とヘイゼルは思う。
(しかもコルセットのせいで、あまり力が入らないし……)
カルマは強い力でヘイゼルを引き寄せると、顔を寄せてきた。息がかかりそうなほど近い。
「どうしたの? 君は確か人妻でしょ? まさかこの程度で動揺?」
「手を、離してください」
ヘイゼルは語気を強めてもう一度言った。だがカルマは悪びれない。
「そうそう、化粧室の扉は次からあけておいたほうがいいね」
「えっ?」
「閉めておくと、俺が使ってることになるから」
「!」
使ってる、の意味が一瞬遅れて頭に入ってきて、ヘイゼルはきっと彼をにらみ上げた。
カルマは目を細めて笑っている。
「ひとつお利口さんになったね」
「普段から、こういうことをなさってるんですね」
「潔癖な女も、たまに相手にするぶんにはいいものだよね。毎回だとうっとうしいけど」
「いやだって、私、言ってますよね」
「いやがる女って嫌いじゃないんだよねー」
言っている間も、ずっとヘイゼルの瞳の真ん中をのぞき込んでくる。
ブルーデンスの宝石のような紫色の瞳とは違い、こっくりと濃い金茶の瞳だった。そしてその目は明らかに、ネズミをいたぶる猫の目をしていた。ヘイゼルの反応を見るのが楽しくて仕方ないのが伝わってくる。
(最低……)
女など、どれもこれも自分の好き勝手にしていいと思っているのを、彼は隠そうともしていない。
(ああもう……!)
できればこの手は使いたくなかった。
しかも相手が王族だとわかっている場合は、特に。
だがカルマは口で言ってわかってくれる相手ではなさそうだし、このままこうしているのはまずい。
『よろしいですか、姫さま』
かつてガーヤが教えてくれたことをヘイゼルは思い出していた。
『これは相手が密着している時にしか、使えません』
使わずに済めばそれに越したことはないが、女たるもの、いつ何時窮地に立たされるかわからないのだと。だから一応そんなときのための技を伝授しておくとガーヤは言った。
『特に姫さまは、乳母の欲目を差っ引いてもかわいらしく、愛らしく、聡明かつお美しい。男が変な気を起こさないとも限りませんからね』
ヘイゼルはその時の教えを思い出しながら、あいている両手でゆっくりとドレスの裾をたくし上げた。
長いスカートで隠されていた、白い足があらわになる。
「ん?」
カルマの目線が一瞬足元に落ちたその瞬間。
ヘイゼルは両手を顔の前で組み合わせて、尖った肘先を思いきり振り上げた。
ぱんっと鋭い音がしたかと思うと、カルマが自分の鼻を押さえてうめき声をあげる。
その機を逃さず、ヘイゼルは化粧台に体重をかけ、両足で思い切りカルマの腹を蹴りやった。
「ぐふっ」
履いている靴のヒールが相手の腹に申し訳ないほどめり込むのがわかる。
相手がよろけている隙に、ヘイゼルはもう、なりふり構わず化粧室を後にしたのだった。