1章 棄てられた王女は幸せに暮らしている 1
物語のお姫様はたいてい、恋を実らせる。
実らせたら、物語はそこで終わる。
それからふたりはずっと幸せに暮らしました──そんなふうに。
そういうものだと思っていた。
紆余曲折の末に恋を実らせ、幸せになって、永遠にそれが続くのだと。
その先になにがあるか、想像もしていなかった。
物語のお姫様は、嫉妬をしない。王子様と喧嘩もしない。自己嫌悪に陥ったりも、もちろんしない。
だから実際の恋も同じ……なんて、そんなこと考えていたわけじゃない。
そこまで世間知らずではないつもりだ。
ただ、思っていたよりずっといろんなことがあるという、それだけのことだった。
そこは平和な終着点などではまったくなかったのだった。
◇◇◇
──けほん。
坑道からあがってきた途端、かるい咳が出て、ヘイゼルは片手で口元を覆った。
──けほけほ、けほっ。
すぐ止まるかと思ったら、咳は立て続けに出て、止めようとしても止まらない。
体がいうことをきかない感じで、涙目になるほど苦しくて、ヘイゼルは両手で口を押さえた。
(早く落ち着かないと、アスランが気にする)
ヘイゼルはオーランガワード王国の第5王女である。
だが産まれた直後、預言者によって城から捨てられた。
それからは、乳母のガーヤと近衛のジャジャと三人、国境近くのファゴットの森で暮らしていたのだが、17歳の秋にアスランと出会った。
そして冬、彼が束ねる砂漠の砦にやってきたのだ。彼の妻として。
もともと体が弱いヘイゼルが砦での生活になじめるかどうか、アスランは最初からずっと心配しており、砦に着いても決して彼女に無理をさせようとしなかった。
それが、最近少しずつ内外を案内してくれるようになってきて、それなのに、少し歩いたくらいでこの咳だ。
(やっぱりまだ早かったって思われたくない……のに)
案の定、アスランが心配そうにする。
「ヘイゼル、大丈夫?」
「んっ」
──大丈夫。
そう言いたかったがなかなか咳が止まらない。
あせるし、苦しい。
どうして自分の体はこうも思い通りにならないのだろうと、いつも思う。
ヘイゼルは小さな頃から、季節の変わり目には体調を崩してよく寝込んでいた。
今もちょうど、そんな時期なのだった。
連れていかなければよかったと思われたくない、とヘイゼルが思っていると、アスランは周囲に目をやっている。
どこか休める場所はないのか考えているらしかったが、あるはずがない。砦は砂漠の真ん中に位置する巨大な岩でできた居住区で、その内部で暮らしている以上、通路は細いしどこも急勾配だしで、咳き込むヘイゼルをゆっくり休ませてやれるような場所など簡単にはないのだった。
「ごめんね、下を歩かせすぎたかな……」
ううん、とヘイゼルは首を横に振る。
「いろいろ……教えてくれて……うれし」
嬉しかった、と最後まで言えずにまた咳が出る。
「あ、そうだ、ちょっと待ってて。少しひとりにするけど、大丈夫?」
アスランはヘイゼルの顔を覗き込んでそう言うと、身を翻して再び下に走っていった。
『下』というのは地下に広がる宝石と鉱物の坑道のことだ。
網の目のように入り組んだそこでは、通称『石と砂』と呼ばれるものが採れる。
モルフォと呼ばれる紫色の宝石は希少価値が高く、大陸中の貴婦人やコレクターの垂涎の的だが、重冠砂と呼ばれる砂のほうが、実ははるかに価値が高いので、アスランは砦に入れる人間を厳しく精査して、砦の秘密を守っている。
ほどなくして戻ってきたアスランは、一杯の水を手にしていた。
「飲んで」
素焼きの器を受け取って口をつけると、水は砂漠の真ん中で汲んだとは思えないほどよく冷えており、体にしみわたるようだった。
ヘイゼルはほっと息をつく。
「うちの水って、どうしてこんなにおいしいのかしら……」
「それはね」
アスランは嬉々として言いかけて、ふとやめる。
じっと見つめられて、ヘイゼルはどきっとする。
「……なに?」
「あのね、好きな女が興味を持ってくれたら男は蘊蓄を語りまくるものなんだよ」
「うんちく?」
そー。特にこの砦は俺の自慢でもあるし、誇りでもあるし。自慢じゃないけど語らせたら俺は長いよ、ここの地質から始まるからね、とアスランは言ってちょっと笑った。
「だから、今は言わないでおく」
「どうして」
素朴な疑問を口にすると、そんなの決まってるでしょうという顔をされた。
「咳が出てる人にあれこれ蘊蓄を語るほど自分勝手じゃないよ。……飲んだらこっちおいで」
からになった器をヘイゼルから受け取ると、アスランはそのあたりの岩に腰かけ、膝を叩いてヘイゼルを呼んだ。
ヘイゼルはとっさにあたりを見回す。
そこは泉に向かう道でもあり、また、坑道を出入りする男たちもよく通る。こうしている間にも、水がめをわきに抱えた女や掘り出した石を背負った男などが行き来している。
だがアスランは人目を気にするヘイゼルの手首をつかんで、やんわりと、だが確固とした手つきで膝の上に座らせた。
「私、もう平気……」
「だめ。さっき咳出てたから。落ち着くまではだめ」
「もう落ち着いたと思うけど……」
「勉強したのは自分だけだと思ったら大間違いだからね」
えっ、と首をかしげるヘイゼルに、アスランは続けた。
ヘイゼルが発作を起こすのを見ていると、いくつかの共通点が見つかったこと。
気温差が激しい時、疲れた時、埃っぽい場所に行った時。
「だいたい大きくわけるとこの三つだよね?」
「確かに、そうかも」
「ということは、気管支が炎症を起こしやすくなってる時に外的要因がなにか加わると発作が起きるってことになる」
「そうね」
「じゃあ発作を起こさせないためにはまず予防が第一。そして、発作が起きかけた時は、すでに気管支が炎症を起こしかけてるということでもあるから、とにかく休むことだ」
ヘイゼルは隙を見て彼の膝から立ち上がろうとするのだが、アスランはしっかり手に力を入れているので、動けない。
「ねえ、もう咳出てないから」
「だめ」
通りかかる全員が見ていくし、ヘイゼルとしては恥ずかしいのだが、アスランは引かない。
「ヘイゼルはねえ、体は弱いけど気は強いというか……頑張りたがるところがあるから」
「そうかしら」
「そうやって、ちょっと無理して、もうちょっとだけ無理して、その繰り返しで本格的に体調崩すよね?」
うっと、ヘイゼルはつまる。本当にその通りだったからだ。
この砦に来てからはそこまで具合を悪くしたこともなかったはずなのだがと彼の洞察力に恐れ入る。
「炎症っていうのはね、ヘイゼルが思ってるほどすぐには引かないものなんだよ。だからこの手はまだ離しません」
「ううう……」
「うーん、このあたりにちょっとした椅子置いてもいいのかもなあ。あっアデラ、どう思う?」
ちょうど通りかかったアデラに声をかけると、彼女は両手にひとつずつからの木桶をぶら下げて、にべもなく答える。
「どうも思わない」
「なんか小さい椅子をこのへんに。そしたら水くみの途中でひとやすみできるでしょう」
「あたし、ひとやすみしないもん」
「そっかあー」
アデラの遠慮ない物言いに慣れているのか、アスランは動じていない。
「はいちょっとごめんね、いちゃついてるとこ悪いけど通るわね。馬に水やらないといかんから」
狩りの名手でもあるアデラは、ほっそりした見かけによらず力持ちで、今も袖をまくり上げて木桶をふたつ、指先で引っ掛けるようにして持っている。
彼女に限らず、砦の女たちはみな頑丈で、よく働く。
急勾配の砦の中を一日何度もあがったりさがったりの日常だから、自然と足腰も丈夫になるらしく、ちょっと歩くだけで息が切れるのは今のところヘイゼルだけだ。
そうよね、ここでこんなにへなちょこなのは私くらいよね……とヘイゼルが内心しょげていると、アデラは体を斜めにして細い道を通り抜けていった。
「あたし帰りもまたここ通るからよろしく!」
「なら帰りはゆっくりめで」
てらいなく言うアスランに、アデラは行きかけた足をぎゅっと止めて振り返った。
「あんたって、ほんと悪びれないわね!」
「そうかなあ、照れるなあ」
「褒めてない」
「まあこの砦の中で静かにヘイゼルを休ませられる場所なんて、あんまりないからね……」
「ねえ、今、あたしのこと、うるさいって言った?」
「言ってない言ってない」
「いいところで出てくるなよ邪魔って思った?」
「思ってない。というか、誰でも気軽にひとやすみできるような、そういう場所を作らないといけないんだよな……みんなは慣れてるし足腰も丈夫だからいい、じゃなくて……」
厨房のおばばさまだっていい年なんだし、ガーヤだって今はいるんだし……とつぶやくアスランに、アデラが顔をしかめる。
「あたしの話聞いてる?」
「聞いてるよー」
ぽんぽんと遠慮なく言いあうふたりに挟まれた格好で、ヘイゼルはおろおろと右を見たり左を見たりする。
口では聞いてると言いつつも、アスランはなにやら新たな考えに取り憑かれたような顔で、アデラには明らかに生返事を返している。
「じゃあ少し掘るか……拡張は意外と簡単なんだよな……」
「だーもうっ、ねえヘイゼル!」
「はいっ」
急に自分に話をふられて、ヘイゼルがびくっとする。アスランが手を離してくれないので、まだ彼の膝の上に座ったままだ。
「あんた、ほんとにこの男でいいわけ? こんな、石のことしか考えてないような男!」
「ひどいなあ、他のことだって考えてますよー」
聞いてないようで聞いているアスランが話に入ってくる。
「えっ……その……」
ヘイゼルは口ごもった。
いいも悪いもなかった。どんなアスランでも好きだし、一緒に来たことを後悔していない。
それだけじゃない。いつも、見つめられるたびにどきどきするし、見とれるし、いつまでもずっと見ていたいし。
(真剣になにか考えてる横顔も好きだし、専門知識に造詣が深いのも素直に尊敬できるし……)
そう思ったが、それをそのまま言うのは明らかに惚気の範疇だと思ったのであいまいに笑って相槌を打っておく。
「てかあたし思い出した! この男、久しぶりに会ったら最初は必ずムカつくんだってこと!」
「えぇーひどいなあ」
アスランは生返事をしながらも、頭の中は別のことを考えているらしく、うん多分大丈夫だな、よし掘ろう、男連中にも相談してみよう、とひとりごちている。
だめだ、こうなったらこいつには話は通じないんだった、とぶつぶつ言いながらアデラがそこを離れていくのを、なんだかいたたまれない気持ちでヘイゼルは見送ったのだった。
アスランの膝の上で。