7.月が照らすもの
随分と遅い時間になってしまった、と男は早歩きで馬車から降りて店の中へと進む。
自身の執務室の扉を開くと、紺色の帽子を被った青年が高級そうな黒いベロア生地のソファに深く腰掛けていた。
「おかえり、ダトン」
奴隷の店の主人であるダトン・エソは驚いて目を丸くした。
この来客にではない。テーブルに置いてある古い紙の存在に驚いたのだ。
「セルデン……。おまえ、本当に持ってきたのか…………」
セルデンは返事の代わりになんとも言えない笑みを浮かべる。
魔法の契約書を見下ろす、茶髪の隙間から覗く緑の瞳は冷めきっていた。
「いつも通り半額を貰えるかな。いや今回は四分の一になっちゃうか」
セルデンがなんてことのない声で呟く。
彼の人好きする顔を見てダトンはため息をついた。
「半額でいい。その帽子も餞別にやる」
ただただ厄介なその紙を見ながら気配を探る。
「レイは来てねぇのか」
「ん?うん」
「セルデン。その契約は……」
簡単には解けない、ダトンはそう言いかけて口を噤んだ。
セルデンの目を真っ直ぐ見て考える。
メイリア・ダロト男爵令嬢に買い取られたことで、セルデンは既に店とは無関係だ。
なにより奴隷制度の廃止により、買ったメイリアのものでもないのだから通常の契約なら簡単だった。
メイリアの望んだものがこの魔法の契約でなければ。
魔法を用いた誓いの契約書は普通の人ではどうしようもなく、魔塔へ行って魔法使いに解いてもらうしか方法がない。
だが彼らは慈善団体ではないのだ。奴隷や平民が行ったところで姿すら見せて貰えないだろう。
知り合いの魔法使いは一人だけいるが多額の献金が必要にはなる。
それにもう明日にはこの街から去るだろう。
ダトンは奴隷が自由となるその姿を一度でも見てみたかった。
腕に布切れをぐるぐると巻いた少年に肩を貸しながらこちらに歩いてくる亡き兄弟の姿が脳裏を過ぎった。
「…………その契約は、レイとお前の二人分だから魔法使いに同時に解いてもらわなきゃならねえ。明日絶対また二人で来い」
「えっ」
目を丸くするセルデンの腕を掴み執務室から追い出す。
ひょいと投げたお金を入れた袋をセルデンがしっかり受け止めたのを確認してからダトンは扉を閉めた。
「……ったく、誰に似たんだか」
*
薄い雲に隠れた満月が怪しく光り輝き、胸騒ぎがするほど静かな夜。
(特別なディナー中だろうし、いま表から入ると悪目立ちしそうだ……)
セルデンは少し考え、ダロト男爵家の少し前の道で馬車を止めて屋敷の前まで歩いた。
蔦が巻き付いた門を見て、ふ、と息が漏れる。
必要最低限の明かりしかついていない不気味なこの場所も、なんだか見慣れてしまった気がした。
メイリアの部屋にはまだ明かりが灯っている。
彼女の部屋の大きな窓が開いているのかカーテンが風で揺れているのが見えた。
玄関扉から入ってメイリアの両親に出迎えられるよりはマシだろう。
(……よし)
外壁に手を付きよじ登る。2階とはいえ高さはあまりなかったため、あっという間にテラスへ着いた。
テラスと部屋を繋ぐ開いた大きな窓の方へ視線を向ける。
その光景を受け入れるのに一呼吸必要だった。
耳の横から聞こえているのかと錯覚するほど、セルデンの心臓がうるさく音を立て始める。
窓の奥、明るい部屋の中に見えたのは、真紅のドレスを着た白光りするほど艶のある金髪の少女が床に倒れている姿だった。
「―――メイリアお嬢様っ!」
すぐに駆け寄ってメイリアの口元に耳を近付ける。すうすうと浅い呼吸を繰り返しているのは確認できた。
自分でも知らない内に息を止めていたらしく、ホッとした途端汗が出てきた。
(一体なにが……)
少し冷静になり周囲を見回すと、ソファ横でレイも倒れているのが見えた。
テーブルの下に散らばったティーカップの破片と紅茶がただ事ではないと知らせてくる。
「―――いま何か聞こえなかったか?」
「!」
セルデンは動きを止めて息を潜める。
カツカツと二人分の硬い足音がそばまで来ていた。
「お酒の飲みすぎでしょ、気のせいよ。 あ~あ、メイリアの部屋って一階じゃないのね」
「あの子のことだからあのへんにいると思ってたんだがな」
聞こえてきたのは、メイリアの両親の気怠げな話し声だった。
メイリアを探しているような口ぶりだが真剣味はあまり感じ取れない。
娘の部屋の場所さえ知らないのにも関わらず探している。
その行動に嫌な予感がして、セルデンは蝋燭の明かりをすぐに吹き消した。
唯一の明かりが消え一気に暗くなる。テラスに繋がる大きな窓から差し込む月明かりだけが部屋をほのかに照らした。
「もう薬効いてるわよね?」
「いつもより睡眠薬を多く入れたから今はぐっすり寝ているはずだ」
「そう。まあ、あの子が紅茶好きで良かったわ〜」
二人の会話に導かれ、セルデンの視線は床一面に広がった黄金色の水溜まりにあった。
メイリアとレイが倒れる直前まで飲んでいたであろう紅茶からは独特な香りが漂っている。
ふと、この家へ初めて来た日のことを思い出す。
メイリアに淹れてもらった紅茶を飲み、レイは突然倒れるように眠っていた。
(確かに違和感はあった……。メイリアがいつも飲む紅茶に睡眠薬が混ぜられていたとしたら……)
セルデンも無関係ではない。
馴染みのない場所で、しかも親しくもない人の前で欠伸をし眠気がくるなんて初めてだった。
ちょうど店が忙かったので、疲れが溜まっていたのだろうと気にもとめていなかったが。
(……俺とレイもそれを飲んでいたことになる。妙な眠気はそれが原因か)
皮肉にも納得のいく答えが出た。またも面白いものではないことに眉間に皺がよった。
「モニヤ伯爵は明日の昼過ぎ到着でしょう。その前にネグリジェも着替えさせないといけないのに困ったわ」
「まあ、明日の朝でも間に合うだろう」
「それだと起きちゃわないかしら?」
「ああ。麻痺薬も一緒に入れたから、意識があろうが動けないから問題ない。それよりメイリアに満足してくださると……」
「心配ない……だって清い体…………」
二人分の足音が遠ざかっていくに連れ、聞こえる会話の声も小さくなっていく。
断片的な情報からでも、明日にはメイリアが新しい結婚相手に手籠めにされるということは分かった。
それも両親によって睡眠薬と麻痺薬を盛られ、知らない間に全て終わる算段らしい。
「っ……」
奥歯が鳴りそうになるのを堪え、深く息を吐く。
メイリアの両親が話していたモニヤ伯爵という名には心当たりがあった。
(モニヤ伯爵……容姿が良い奴隷の女ばかりを買っては酷い怪我をさせ売り戻してくる酷い客だ……)
レイの呼吸も確かめて二人とも息をしていることに一安心した。
モニヤ伯爵から戻ってきた女達を見て、奴隷の店の店主であるダトンが怒り震えていた姿が今でも目に浮かぶ。
あれはここ数日のことだっただろうか。
(メイリアが店に来た日も、またこりもせず買いに来たからダトンが出禁にしてやったって言ってたな……)
モニヤ伯爵が買っていた奴隷は、色白で金色の髪をした若い女という共通点があった。
(……もしかして)
渇いた喉がコクリと鳴る。
月に照らされた青白い肌は陶器のように透き通っていて、金色の髪は夜空に浮かぶ星のようにきらめいている。
固く瞼を閉じたその姿は人形のようにさえ見えた。
(奴隷が買えなくなったから、次に簡単に買えたのは……)
モニヤ伯爵が出禁を言い渡された後、店から出てくるメイリアを見かけていたとしたら。
突然結婚話が蹴られたメイリアの両親にとって、金だろうが爵位だろうがそれは甘い誘いだったに違いない。
よほど逃したくないのか婚約期間のない結婚話。
仮説にしてはよくできた話だ。
はは、と笑いが溢れる。
(レイを連れて逃げるならチャンスは今しかない。わかってる……)
メイリアを見下ろす緑の瞳はゆらゆらと揺れ動いていた。