5.聞き慣れた呼び声
メイリアはまつげの隙間から枯れた薔薇色の瞳で虚空を見つめる。
泣き疲れて眠っていたらしい。再び目覚めた時には日が落ちていた。
「……二人は騙されているから私がちゃんと話さないといけないのに……」
全ては結婚相手となるあの白髪交じりの男のせいでこんなことになっているのだから、真実を知っている自分がどうにかしないといけない。
冷静になった頭で考えると、何も言えなかった自分が悪いのだと気が付いた。
「でも、ちゃんと話せるかな……」
起き上がりベッドの上で膝を抱える。
糸のような金色のか細い髪がサラサラと肩から零れていった。
メイリアの虚ろな視線の先には二つの長ソファがあった。
昨日まで置いてあった毛布とクッションはなく、ただがらんとしている。
今朝、メイリアが書斎として使っていた隣の部屋にベッドを二つ運び込みセルデンとレイの部屋とした。だからもうこの寝室で三人で寝ることはない。
賑やかだったあの時間を思い出しては寂しさを感じ、息をはく。
「はぁ……」
諦めるように瞼を閉じると、沢山の貴族達の集まっている広い室内で何かを話す両親と老人の姿がぼやけて視えた。
驚いて思わず後退る。背中が壁に当たり鈍い痛みが走った。
「―――ッ!いまのは何!?」
メイリアは咄嗟に周囲を見回した。そこはメイリアの寝室で異変が起きた様子はない。
静寂を切り裂くように、軽やかなノックの音が響いた。
メイリアが何も返答しないでいると柔らかな声色が聞こえてきた。
「メイリアお嬢様、さきほど戻りました」
(セルデンだっ……!)
メイリアはベッドから飛び出て扉を開け放つ。
「おかえりなさいっ!」
「あ、ありがとうございます……」
勢いよく開いた扉にセルデンは目を丸くした。
主人である人にこんな風に出迎えられたのは初めてだった。
上手く表情が取り繕えないまま小声で言葉を紡ぐしかできなかった。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません……」
「いいえ!……いいえ、そんなに待ってませんよ!」
メイリアはさっきまでの陰鬱とした空気が一気に弾け飛ぶのを感じていた。
(今なら、お母さんとお父さんに説明できる気がする……!)
拳をぎゅっと握りしめる。
絶対な味方の存在が心強い。王女様もこんな気持ちなのだろうか。
「両親が帰ってきたんです!お二人をご紹介します! そうだ、夕食も一緒に食べましょう!レイを呼んできてください!先に行ってますね!」
そうセルデンに言い放ち、階段を駆け下りてリビングへと向かった。
ソファにもたれ掛かりながら齧りつくように新聞を読む父親、画集をつまらなそうに見る母親。
メイリアは二人の前に立ち、意気揚々と口を開いた。
「お父さんお母さん、あの人は嘘をついてる! あの人が煙草を押し付けてきたの!それに私には恋人なんていないし助けてくれたのはお客さんの一人よ!」
「……メイリア、本当か?」
メイリアの父親が眉を下げて尋ねる。
どちらの言い分にも証拠は何もない。それでも両親が自分を信じてくれるとメイリアは信じている。
「はい!」
強く頷いて二人の反応を待つ。
先に動いたのは母親だった。
両手で顔を覆い震えた声で喋りだした。
「メイリア。本当にごめんなさいっ……。そんな人だって知らずに貴方を傷付けたわ……!」
「ううん、悪いのはあの人よ。お母さん気にしないで」
メイリアは母親の隣に座り、震わせる肩に手を添えた。
悲しませたいわけじゃないのに、どうしてこうなってしまったのだろう。もっとはやくもっとうまくやれていれば。
そんな後悔の念にかられた。
「メイリア」
「なぁに?」
メイリアは父親に呼びかけられ、その姿勢のまま視線を向ける。
父親が机の隅に置かれていた本のようなものを開きメイリアに見えるように置いた。
右側にはなにか文章がびっしりと書かれていたが、メイリアは左側のそれに釘付けになった。
(さっきの、ひと……どうして…………)
夢か、幻か。
左に描かれている人物画の老人は、さっき視えた両親と話していた年老いた男と同じ姿をしていた。
「あの人のことは忘れて、この人と結婚しなさい。今度はお母さんとじっくり話して決めた人だから安心していい」
微動だにしないメイリアには構わず父親は言葉を続けた。
「なにより、メイリアの怪我も気になさらないそうだ」
「……」
リビングの大扉の前で聞こえたきた話に、気付かれないようセルデンは足を止める。
前を見ていなかったレイは彼の背中にぶつかった鼻を抑えた。
貴族達の結婚では婚約期間を置くのが普通だった。
家同士の結束を深めるという前提を除くと、どちらがより主導権を持つのかその間に決める必要があったからだ。
例外もあるが、それはたいてい示す必要のないほど相手との位の差がある場合か、よっぽど逃したくない理由があるか。
ダロト男爵家など聞いたこともない。例外のどちらかに当てはまるのは確実だろう。
自分の主人とも言えるべき人間の扱いが面白くないことにセルデンは眉間に皺を寄せた。
話を遮るためにわざと足音を立ててリビングへ入る。
「メイリアお嬢様。お待たせしました」
セルデンは眉尻を下げ彼女が喜び安心するであろう、にこやかな表情をつくった。
いつの間にか聞き慣れた呼び声に、メイリアは反応する。
(―――そうだ。二人を紹介するんだ……)
メイリアの体は自然と動き出し、リビングの入り口にいるセルデンとレイの隣へと行っていた。
「それは?」
「"それ"じゃないわ」
何気ない父親の声に、言おうとしていたこととは違う言葉がメイリアの口から漏れ出した。
(あれ、私なに言って……みんなの侍従を雇えたよって言うつもりだったのに……)
戸惑いながらも、止まらなかった。
「私の侍従を雇ったの。セルデンとレイよ。紹介も済んだし部屋に戻ります」
メイリアの声に微かに笑いが交じった。
気が付いたときにはドレスの裾を掴む手に力が入っていた。
メイリアにはどうしてかは分からない。
「行きますよ」
驚いた表情の父親を横目で一瞥し、二人と共に早足で自身の書斎へと急ぐ。
書斎の扉を開けハッとした。
掃除されたばかりのベッドが二つ。それぞれの横には包装された袋と箱が沢山積み重ねられていた。
(あっ二人の部屋にしたんだった……!)
それを思い出してメイリアが扉を閉めようとした瞬間、ふと目についた。
棚にはメイリアが読んでいた本が並べられたままで、壁には色々なものが額縁に飾られている。
大きな引き出しの付いた机の上には日付の古い新聞とスクラップノートを広げたままだ。
これではメイリアの荷物が多すぎる。セルデンとレイの部屋とは言えない。
「わ、私のものを置いたままでしたね……」
「たしかにそうですね。では、よろしければ教えてください。メイリアお嬢様のことを」
「あっ……」
セルデンにそっと左手を引かれメイリアは部屋へと入った。
「まずはこの本棚から」
棚に並べられた絵本や画集、小説を三人で見渡す。
「これは……行商人の知り合いが集めてくれたんです。ハッピーエンドだったら何でもいいって言ってたらこんな数になっちゃいました……」
「もし、お許しをいただけるなら、メイリアお嬢様のお気に入りを俺も読んでみたいです」
「好きに読んでもらって構いません!お気に入りはそうですね……この絵本です」
黒の背表紙がボロボロとなった金色の文字で"まぼろしのかじつ"と書かれた本を取り出し、セルデンに手渡す。
「ありがとうございます。大切に読みます」
「セルデンもこの中で気に入ったものができたら、その時は教えてくださいね」
「もちろんです」
レイは二人のやり取りを気にもとめず、棚にある本の背表紙を人差し指でさらさらとなぞっていく。
やがて手を止め勝手に本を一冊抜いてパラパラと捲っていた。