4.嘘と真実
帽子を深々と被った男は、艶のある紺色コートのポケットから煙草を一本取り出し咥えて火をつける。
「先月来れなかったからって夢にまで出てくるんじゃねぇ。……ったく、誰かさんのせいで料理店の方は今月も赤字だよ。使えるやつもいなくなっちまったし、どうしようか考えてるよ」
文句を一度言い切ると、吸っていた煙草を石の上に置き舌打ちをした。
ひとりでに煙だけが空へのぼっていく。
男は脇に抱えていたぐしゃぐしゃな一月前の新聞を投げ捨てた。
「知ってるか?王女様を救ったやつのおかげで奴隷制度の廃止だってよ。 あぁお前は知らないか、動かねぇもんな」
憎まれ口を叩いても、聞き慣れた負けん気のある声は返ってこない。
男はジデフ・エソの名前が彫られている墓石を見下ろし苦笑した。
今は亡き兄弟へ向かって話しかける。
「あと数年生きてりゃ……いや、この前埋められてたやつもいたのに馬鹿馬鹿しい話だよな。まあそんな訳でこれからもっと忙しくなるからこの辺汚れても許してくれ」
別れを告げて店の方へ戻ると、看板に寄りかかる男が遠めに見えた。
男は目が合うとこちらに手を上げた。
いま人気のカフェのテラス席へ座る。
店の前を通り過ぎる何人もの女達がいかにも好青年なその男を一瞥してははしゃぎ声をあげていた。
焦げ茶色の髪をした男はにこやかに笑いながらグラスに注がれたアイスティーを飲む。
「昨日までの忙しさが夢みたいだ」
静かで柔らかな声色に思わず近くにいた女が振り返った。
顔をしっかりと確認してから声をかけてくる複数の女達に、また会えたらと差し当たりない言葉を繰り返す。
人当たりの良い、というものを通り越した男のそれは、店の呼び込みにぴったりだった。
だが今は、まともに話すらできないことにいい加減うんざりとする。
自分が被っていた帽子を茶髪の男に無理やり被せ顔を隠させた。
これでもう話しかけてくるやつはいなくなるだろう。
「何の用で来た」
「分かっているだろう、やっと自由になれるんだ。今回も別に難しいことじゃない」
「やめておくべきだ。罠の可能性もある」
「大丈夫だよ、明日イベントがあるらしいからその隙を見てまた来るよ。 そろそろ行かないと」
男は自信満々にそう言い切り立ち上がり、紺色の帽子を被ったまま去って行った。
*
何店舗目か忘れたが男性向けの服屋を出た時にはもうヘトヘトだった。
メイリアは先ほどまでの時間を振り返る。
店の中に入るメイリアの後ろからセルデンとレイが姿を現すと店内はざわつき、一目見ようという強い視線が痛いくらいだった。
一部の者たちは幻かと疑い何度も目をこすっていた。
客や店員たちには、ひとりは春の訪れを祝うような光を帯びた茶髪に太陽のもと輝く新芽のように澄んだ緑の瞳は妖精のように見えて、もう一人は光を吸った黒髪に深い海色の青い瞳が象徴的で美しい神聖な月夜の遣いにさえ見えた。
店員たちは我先にと服を薦め、流れに身を任せ着替えを繰り返す。店内はいつの間にか甘いため息で充満していた。
きりがなくなった頃シンプルなシャツを彼らは自ら選んだ。
そして薦められた服は全て購入し馬車へ乗せてもらうよう店員へ頼み、やっと買い物が終わった。
(全て似合うのも問題なのね……)
そんなことを思い返してメイリアは二人を改めて見る。
レイはなんてことのないように無表情のままで、セルデンは楽しそうに目を合わせた。
「今日やることはこれで終わりですか?」
「掃除も終わったし二人の寝室も整理したし……そうですね!」
「メイリアお嬢様、申し訳ありません。大切なものを忘れてしまったのであの店に取りに行ってもよろしいですか?」
セルデンが申し訳なさそうに訊いてくる。
"あの店"。はっきりと口にしなくても彼らが昨日までいた元奴隷の館であることはメイリアに分かった。
「昨日は急でしたし、全然大丈夫ですよ!」
「ありがとうございます!メイリアお嬢様をお待たせしたくないので、帰りは館の主人の馬車借りて帰りますね」
「わかりました!」
そう言って、セルデンとレイはあの館の方へ歩いていく。
それを見送ったあとメイリアは馬車に乗りひとりで屋敷に帰った。
数時間が経ちメイリアが部屋で本を読んでいると、遠くから馬車の音が聞こえてきた。
窓から姿を確認し、喜びのあまり駆け足で玄関まで出迎えに行き二人を抱きしめる。
「お母さんお父さん、おかえりなさい!」
「ただいま、先に入っているよ」
メイリアに抱きしめられた、赤みがかった茶髪に黒い瞳の男はすぐに離れて歩き出した。
黄色みがかった茶髪に冷たい灰色の瞳の女が、メイリアの頬にそっと触れながら囁く。
「シェフはもう来ているの?」
メイリアは嬉しそうに目を細めて母親のぬくもりを感じた。
「ええ。今日は朝に到着したの。ずっと料理の準備をしているらしいわ!」
「そう、良かったわ」
「帰ってくるのは明日だと思ってた。早く帰ってきてくれて嬉しい」
メイリアの母親も同じように目を細めて、柔らかな絹糸のような髪を撫でた。
「当たり前でしょう。明日は大事な家族の時間だものね。 さあ、中に入ってゆっくり話しましょう」
背中に手を添えられて家の中へと二人は入る。
リビングのソファに座った両親へ紅茶を用意する。
父親は胸ポケットにしまっていた使い込んだ四角い眼鏡をかけて、メイリアを真っ直ぐに見た。
その瞳は光が一筋も入らない暗闇のようだった。
「さて、メイリア。昨日の結婚相手との顔合わせはどうだった」
父親の冷淡な声にメイリアの背筋が伸びる。
そっとソファに手を伸ばし腰掛けた。
母親は淹れられた紅茶を一口飲み、そんなメイリアを微笑ましく見つめる。
こんなに優しく自分を愛してくれる両親の進めた結婚相手が、昨日の昼に会った暴力を振るってきた白髪混じりの男だなんてメイリアは信じられなかった。
(きっとあの人はお母さんとお父さんの前で良い顔をして。二人は騙されているんだわ……)
右手の手袋をそっと外して、人差し指の付け根にはしっかりと残った痛みの跡を両親に見えるように差し出した。
「あの人が、急に、煙草を押し付けてきて。それでっ……」
「メイリア……」
悲痛そうに母親がすぐに手をとりなぞる。
メイリアに痛みはもうない。もうないのにどうしても心が痛かった。
目の奥が熱くなり感情が溢れてくる。
ぽろぽろと冷たい涙が頬を伝ってドレスを濡らす。
「嘘をつかなくていいのよ。全部知ってるわ」
母親の淡々とした冷めた声色に、時間が止まったように感じた。
「『恋人と結婚するから』って断って、自分で煙草を押し付けたそうね。それにその恋人があの人に水をかけたっていうのも知ってる」
身に覚えのない話にメイリアは何も言葉が出てこなかった。
恋人なんていない。
水をかけて救ってくれたのは初めて会ったあの店にいたただの客の一人だ。それも女性と一つの料理を分け合っていた男のほうだった。
なぞられていた右手を強く握られ、メイリアは次第に呼吸もしづらくなってきた。
「貴族の娘は家の繁栄のために政略結婚が必要って教えたでしょう。なのに顔に泥を塗るような真似をして、怪我をしたからってなに貴方の価値が下がるわけじゃないのよ! 恋人ともすぐに別れなさい。平民と付き合うなんて馬鹿なことしないで。今が一番大事なときって分かってるでしょう!」
涙でぐしゃぐしゃになり母親の顔もどんな表情をしているのかわからない。
「まあまあお母さん。 メイリア、夕食のときにもう一度話そう。それまで部屋にいなさい」
たしなめる父親の声が聞こえて、メイリアは母親から逃げるように部屋へ走る。
我慢していた分すべてを吐き出すように、ベッドに潜り泣きじゃくった。