1.ダロト男爵家の一人娘
古い木製の扉が開き、軋む音と共に来客を知らせる軽やかな鈴の音が鳴った。
丸い大渕眼鏡をかけた緑の目をした少女はカウンターの椅子に座ったまま、手元の本に下げていた視線を音の方へと向ける。
入口の前に佇む少女は腹部までずぶ濡れのくすんだ赤いドレスを身に纏い、頬に張り付いたしっとりした光を纏う白金色の髪の束を耳にかけた。
そんな姿が妙に映えていて、見惚れてしまっていた。
目元で揃えられた前髪の隙間から春を閉じ込めたような物静かな瞳と目が合いハッとした。
「―――メイリアっ!? どうしたの、何があったの!」
驚きのあまり椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、少女は親友であるメイリア・ダロトの元へと駆け寄った。
「ちょっと、ね」
口角がキュッと上がった唇を少し開いて、メイリアは言葉少なに微笑む。
「ちょっとね、じゃないでしょ!」
「アンロ、突然ごめんね」
「あーもう謝らないでいいから……ほら、こっち来て!」
アンロは丸い大渕眼鏡のズレを直しながら、メイリアの白い手を引っ張り店の奥へと連れて行く。
大きなタオルと、リボンとフリルが多く付いた濃緑色のドレスを棚から取り出す。
貯金して買ったもののどうせ自分には似合わない、とアンロは心の中で毒付きながらメイリアにそれらを手渡した。
「そのままじゃ風邪ひくでしょ。しっかり拭いてこれに着替えてから出てきて」
「あ、ありがとう」
自分から話したがらない以上、詮索することをやめることにしたアンロは、メイリアを一人残し、従業員室として使われている部屋を出た。
メイリアは濡れた白く光る金髪を優しく抑えながら、目をそっと伏せる。小刻みに震え自然と開いた唇からはため息すら出てこない。
「…………」
いま目を瞑ってしまったら、あの煙草の香りと熱さを思い出してしまいそうだった。
部屋の中にはメイリアの浅い呼吸音だけが響いていた。
しばらくして着替えも終わり部屋の外を出ると、待ってましたと言わんばかりに今度は温かなマグカップと新聞をアンロから手渡された。
「はい、ホットミルクと一週間前の新聞。今回だけ特別だからね」
「ありがとう……」
カウンター内の椅子に二人で並んで座る。
新聞を声に出し読み始めると、強張っていたメイリアの表情も和らいでいった。
―――とある冬の日、道端に倒れていた少年の前に天使が舞い降り命を救った。
その命を人々の平和に捧ぐため少年は剣の修行を積み重ね、やがて騎士試験の候補者にまで上り詰めた。
とあるパーティに参加したその少年は、起きるはずだった事件を見事防ぎ、王女は彼の功績を認め自身の騎士へと任命された。
そう、件の天使とは実は王女であり、少年は自身も知らぬまま十数年前の恩返しをしたのだった。
王国一の恩返しと言えるその一連の素晴らしい出来事からすぐに新たな王命がくだされた。
奴隷という身分は撤廃、身分関係なく騎士試験を受けられるように、と。
「なんって、ロマンチックなの〜!」
運命的でロマンチックな話が書かれている一月前の新聞を抱きしめメイリアはクルクルと回る。
腰まで伸びた髪は靡いて白く輝いていた。
そんな姿を見て、カウンター内にいるアンロは頬杖をつき大きなため息をはく。
「どこがロマンチックよ。 男と女だからそれっぽく書いてるだけで、そもそも自分を救ってくれた人の恩に報いたいのは普通でしょう」
恋愛に関する話は誰にでも分かりやすく浸透しやすい。だからそのような表現が多く使われていたのだろう。
その反面、王族と一国民の恋愛話なんて簡単に掲載できるはずがない。
本屋の娘である己の直感を信じ、アンロは眼鏡のズレを直しつつはっきりと言葉にする。
「だから少年は王女の騎士になったし娘を守ってもらった王様は身分の改正をした。これは高尚な主従の物語よ」
「そうなんだ……!」
自分にはなかった意見に衝撃を受けたメイリアは、素直に抱きしめていた新聞を見直す。
やがてひとつの考えが頭に浮かんだ。
(なら困っている人を私が助けたら、私もその人に助けてもらえるってことだよね)
夕方を知らせる壁掛け時計の音が鳴り、はっとしてあたりを見回すと窓から差し込む光もいつの間にかオレンジ色になっていた。
ここに三、四時間は居たことになる。
「もうこんな時間なのね。 アンロ、今日もありがとう。また来るね!」
「はいはい。またね!」
次の目的地が決まったメイリアは、軽い足取りで店から飛び出ていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、眼鏡越しにアンロは見続けた。
*
紺を基調とした薄暗く窓のない部屋にメイリアはいた。向かいに座った男は受けの良い笑顔を作り少女の品定めを行う。
目の上でばっさり切ってある前髪に、白く輝く金髪の良さを帳消しにするほど野暮ったい髪型。
下まつげだけを目立たせただけの化粧と似合っていないリボンとフリルの多くついた苔色のドレスを身に纏っている少女。
明らかにこの場所とは不釣り合いだが、重要なのは客から客へ広げられる店の評価なのだから鴨にすらならなそうだがそれでいいと割り切り、男は再び笑顔を作った。
「ようこそ、貴族の嗜みへ! 本日はどのようなご用件ですか?」
「あの、このビラを見て来ました」
メイリアは折りたたんでいた紙を広げてテーブルの上に乗せた。
そこには、"奴隷なんて古い古い!侍従を雇いませんか?当店最安でお受けいたします"のキャッチコピーが書かれている。
奴隷制度の改革について王命が下ってからすぐ街で配ったビラだった。
「ああ!素晴らしいお考えですね! 今はもう慈善事業の一環として利用されるお客様しか当店にはいらっしゃいません!」
大きな手振り身振りで話す男にホッとして、うんうんと頷く。
「ご契約の方から始めましょうか。ご希望の条件はございますか?」
直球の問いにメイリアの背筋がピンと伸びる。緊張を紛らわそうと短い息を何度も吐いてから意を決し口を開いた。
「…………絶対に裏切らない、そんな人はいますか?」
「うーん。そういった場合、傭兵を雇われる方が多いですのでそうですねぇ……」
「方法でもなんでもいいんです!お金ならあるので何かないですか!?」
金という言葉に男は目をギラリと光らす。
「そういった事でしたらお話が早い! 契約に"誓い"を魔法で盛り込むことが確実です。ただ売買のみにはなってしまいますが……」
「あっ売買で構いません!」
「あとは人選のみですね!では参りましょう、レディ!」
指をパチンと鳴らし立ち上がった男がにこやかに手を差し出すと、緊張のあまり小刻みに震えるメイリアの手のひらがそっと乗せられた。
男はそこでやっとメイリアが黒い手袋を付けていることに気が付いた。
高級そうな布を使っているのに、ドレスとの相性の悪さにまた苦笑いが出た。
男につれられ歩き回りながら、一人ひとりの素晴らしい特徴のあとに告げられる値の高さにメイリアは血の気が引いた。
(たっ高い!お金がいくらあっても足りないわ……!)
「……」
ドレス姿の女性を案内するような場でないが裏切らないという部分を重視するならばと、男は案内する階層を変えて奥深くへと降って行く。
静かな空間に石床を踏みしめる音が響いた。
「これからご紹介する者たちは、一癖ありますがお客様を間違いなく裏切ることなく仕えるでしょう」
(これはっ……!)
広がった光景を目にし、メイリアは咄嗟に胸の前で両手を握りしめる。
足元で揺れる蝋燭の明かりに照らされているのは、檻に入れられた大勢の人たちの姿だった。
石床に横たわりブツブツと呟く声や、何かを打ち付けるような不気味な音さえ聞こえてくる。