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恋花

ギャンビット

作者: 第六感

高島はチャイムを鳴らしていた。時刻は夜半をかなり過ぎている。先輩の家を訪ねるには遅すぎる時間だったが、果たして、浦波はその戸を開いた。

酔いが回った様子の高島を見て、驚いた様子を見せたものの浦波は彼を招き入れた。一刻も早く扉を閉めたかったのだ。この木造平屋の下宿では季節を問わず空調がフル稼働なのだから。こういった事情はすぐ隣に住む高島にはもう了解されたものだった。扉の先で追い返されることはないと、すっかりわかって訪ねている。

「ほら、水」

「ありがとうございます」

図々しいことは先刻承知だが、それに構っていられない感情があった。世界が寂しくて人が恋しくて、居ても立っても居られない心持が高島を突き動かしていた。

「座っていいよ」

「ありがとうございます」

浦波の部屋は高島の部屋よりも広いはずだ。しかし、整頓されているとはいえ本が多くむしろ狭く見える。座る場所に困るほどではないが。

机の上には判例百選と会社法の教科書とパソコンが開かれたまま乗っていた。

「遅くにすみません」

「あー、大丈夫。大丈夫。明日の授業の確認をしていたから」

「…お邪魔でしたよね、申し訳ないです」

「いやいや、もうレポート提出も終わってるから、本当にただ確認してて、だから大丈夫」

パタパタと机の上のものを閉じて押しやってしまった。

パタン、パラパラ、パタン。トントン、ポン。

浦波は焦った気持ちを落ち着けるようにゆっくり片づけを進めた。悩み事を聞き出すべきなのか、ただ側にいてやるだけでよいのか、あるいは解決方法を提案することが必要なのか。考えはまとまることがなく、机の上ばかりがきれいになっていった。

一方の高島はグラスに反射する光を丹念に眺めていた。飲み進めるにつれて水面が移動し反射の様子が変わっていくのを見ていた。酔いはしても不覚に陥ってはいない。底まで落ちきるほど頭をおかしくできないことが悔やまれた。人間は堕ちぬくためには弱すぎる。愚かさゆえに堕ちきることができない。

ところが、酔いに落ちきってないことが一つこの場を助けた。浦波はチェス盤をもってきて高島にこう誘った。

「チェスする?」


チェスを含むボードゲームは「ゲーム」と呼べるもので高島が手を出す数少ない遊戯であった。この時以前にも浦波と高島は将棋盤チェス盤を囲んだことがあったので、考えをまとめることにも時間を過ごすことにも双方にとって優れた良い提案だった。

 この時以外であれば、最善の提案であった。

ある遊戯の上達には集中してそれに臨む時間が必要である。高島のチェスにもその時間が与えられていた。コロナ禍の昨今、家にこもって恋人とチェスばかりに興じていたのである。

チェスの手番の中に思い出が入り込んでしまっている。彼女はクイーンズギャンビットで始めるのが好きだった。

 そして今、白のポーンをd4へ動かす。鏡写しに黒のポーンがd5に。c4に白のポーンを置いて取られる。クイーンズギャンビットそのものである。

 わざと取られることで展開を有利にしつつ、駒の回収が可能なので人気の定石。彼女はそういって自慢げに指していた。でも回収できなかったりして。

「恋人とはうちでよくチェスしてました」

浦波が顔を上げた。何かを言おうとして、黙って次の一手を打った。これを刈り取る。

「あっ」

浦波は再度顔を上げた。彼は左下の唇をかんでいた。これは困った時の彼の癖だった。かなり序盤のことでまだ追い詰められているわけでもないのに。確かに浦波は困っていた。

黒ビジョップの射線上で白のクイーンがナイトをテイクしてしまっていた。大きな失敗である。高島はクイーンという最大の戦力を取られた。

「仕切り直す?」

「いえ、終わりまでさせてください」

戦力差が開くとゲームにならないが、浦波は付き合ってくれた。時間をかけて慎重に、駒交換に徹する時間が続く。

考えることがあると、余計なことが浮かばなくて、助かる。


 互いにキャスリングした。守りを固める定石通りの行為である。ただし高島はクイーンサイドで、浦波はキングサイドでキャスリングした。これは勝敗に大きく関わる重要な選択だった。

窓の外には月明かりに照らされた草が茂っている。あたりは一面開けていて、高島はよく恋人と遊んでいた。わらべのようにふざけていた。何かすることがあるわけでもないけれどただ他愛もない時間がかけがえのない喜びだった。

最後の大駒であるルーク交換が済んだときには時刻は未明・早朝に近づいていた。

ある朝、徹夜で各自のレポートを片付けて二人で朝ごはんを食べたことを思い出す。真っ暗なモノレールの下で待ち合わせた。遠く、ぽつりと見えた彼女の姿が、次第に大きくなって。二人手を振り合う。愛おしく可愛らしい彼女だけが見渡す限りの夜の中を近づいてきた。高島にはその姿が無性に嬉しくて、まるで世界にはたった二人しかいないかのように思われた。


すっかり盤面は片付いてしまっている。キャスリングから移動していない白キングの前にクイーンがチェックを受けた。焦ってポーンを二歩進めさせ受ける。

アンパサンが起きた。

現在スルーチェックをかけられた状態で一手。高島はキングを逃がすしかなく、浦波がナイトを取らずに8ランクに進めればクイーンが二つになる。

 その次にはもう手がなかった。

「これで次のゲームが始められる」


二人で盤面を並べなおすと高島はキングの前のポーンを二歩、前進させたのだった。

以上


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