真南風 ④
人魚の名は真南風といった。
人魚なのに海の名前ではないのか、と聞いたら笑われた。
屈託のないマハエの笑い声が、自分達以外誰もいない海に響くのが好きで、アタラは以前よりもよく海に出るようになった。
家族は1人で海に出るアタラを心配したが、集落の巫女が『心配しすぎるな』と言ってくれたおかげで、アタラは気兼ねなく舟を出すことができた。
アタラは陸で人と話すよりもマハエといるほうがずっと気楽で、それはやはりマハエが海のものなのだからだろうと考えていた。
島の男たちは15になればそろそろ嫁を持つ頃合いだと言われるようになる。
親しい娘がいないものでも、親戚や友人の姉妹などを紹介されたり、浜遊びに誘われたりして気がつけば相手が決まっているものだが、アタラはその全てを断り続けていた。
去年はこうまで頑なではなかったのに、と近しい者は不思議がっている。
しかしアタラにしてみれば、日月のように輝いて美しいあの人魚以上に、自分を惹きつけるものなど何もない。
そもそも家族以外、周りの人間を避けて暮らしていた。
無理に嫁取りなどしても上手く行かないだろう事は、アタラが誰より分かっていた。
あるとき、マハエが夜に浜で会おうと言い出した。満月の日のことだ。
アタラはマハエと会えるのならと嬉しさばかりでうなずいた。
月が大きな、美しい夜だった。
アタラが浜へ1人でやってくると、明るい月の光を弾いて波が輝く中から、マハエが姿を現した。
マハエは波打ち際で立ち上がった。
黒い髪が濡れて光り、その体を隠すように覆っている。
白い肌を海水が伝う。
砂の上で2本の足で立ち、マハエは笑った。
アタラが慌てて着ていたものを脱いでマハエに渡すと、マハエはアタラの家に行こうと言った。
そして2人はその夜、夫婦となった。
その後、アタラはマハエを家族や集落のものに引き合わせたが、不思議なことに誰の目にもマハエは大人しい、器量のあまり良くない女として映るらしい。
不美人というほどではないが、わざわざ声をかけようというほどでもない。
周りのその反応に、アタラは安心した。
マハエは美しい。
人よりも神に近く、存在そのものが輝くように美しい。
そんなマハエを妻とできた事は嬉しかったが、集落の他のものがどう考えるかは恐ろしかった。
誰かに奪われるのではないか、妬まれてマハエが酷い目にあうのではないか。
そんな心配が消えてなくなった。
集落の人間からすれば、たまに魚を多く釣るが、なんの面白みもない相手程度に思われていたアタラが、どこの誰とも知れない娘を嫁にもらったところで誰も損はしなかった。
女たちはアタラよりももっといい若者が大勢いると思っていたし、男たちも自分が目をつけている娘やよほどの美人でもなければどうでもよかった。
集落の若者のうちから外れかけているような男が、どこからかあまり器量の良くない娘をもらってきた。
そう思われて、アタラとマハエは家族以外のものとは関わりを望まれる事もなく、ただ放って置かれていた。