真南風 ②
アタラが振り向くと、舟べりにつかまって海から上半身をのぞかせている女がいた。
それはとても美しい女で、巻き毛の長い黒髪は月光を映す夜の海の波のようで、大きな瞳は何もかもを見透かすようなのに、どこかアタラを揶揄うようにきらめいている。
濡れた白い腕がまぶしくて、アタラは女から顔をそむけた。
「ねえ、言ってあげなさいよ、お礼。そのまま行かせちゃうの?」
言われて、アタラは女をはっきりと視界に収めないようにしながら聞き返す。
「お礼って、誰にだ。何のことだ」
すると女はさらに不機嫌な様子で眉を顰めた。
「彼女によ」
そして小さくなっていくエイを指す。
「彼女はわざわざあなたを守りにここへ来たのよ。なのにお礼も言わずにあちこち引っ張り回してはいさようなら? ほんと人間ってこれだから!」
怒っている表情すら美しい。
アタラは返事もできずにいつのまにか彼女に見入っていた。
「ねえ聞いてるの?」
苛々と彼女はアタラに詰め寄った。
「あ、ああ」
生返事をするアタラに、女は冷たい視線を送る。
その後ろで何か大きなものの鰭がぱしゃん、と水面を打った。
視界の中にちらりと入ったそれに、最初は気にもかけなかったアタラは違和感を覚える。
その違和感が何か分からず、アタラは女の美しさに混乱したままその跳ねた飛沫の元を追う。
そして目を疑った。
───ぱしゃん、ぱしゃん、と海面を打つ大きな尾鰭。
跳ねる飛沫は日を受けて輝く。
その尾はどこか艶かしい曲線を描きながら、女の体へと続いていた。
人魚。
神々や精霊とともに人とは相容れない不可思議な存在。
それが今アタラの目の前にいて、アタラに話しかけている。
おどおどと、アタラは言葉を失って次に何をするべきか何もかもを見失った。
人魚、それは人の前には現れることがない生き物だ。
人よりも神や龍に近い。
海の不思議、この世の不思議。深海から生まれる泡から生まれ、この世の毒を孕んで女の形をとり、いつか神界へと招かれゆく。
人魚は体を腕の力で持ち上げ、舟に乗り込んできた。
「ちょっと」
薄桃の鱗と真珠で隠された胸が、それでもそのほとんどをあらわにしていてアタラは顔を伏せる。
アタラは今年で14。
人と隔たりを持つアタラの性格が災いして、親しくする娘もいない。
友人も恋人も、妻になる約束をした相手もいないアタラには、人魚の美しい顔立ちと白い肌は目の毒であった。
「聞いてるの? お礼はどうしたのよ」
「お、お礼ってだからなんなんだよ、何のことだよ」
「わからないの?」
「あ、ああ」
すると人魚はため息をついた。
「仕方ないわね、人間って本当に……」
そしてずい、と近づいてくる。
「説明してあげるからよく聞きなさい」
「う、うん」
「あなたの一族には先祖からの神の血が流れているの。特にあなたはその血が強い。今この辺りには魔物になりかけたサメがいて、あなたを食べようとずっと狙っている。普段はあなたの祖神があなたを守っているけれど、今の時期はたまたま守りが薄くなってしまった。だから代わりに彼女、あのエイがあなたを守っていたのよ」
言いながら、もうすでに見えなくなってしまった、エイが去って行った方向を指す。
「あなたの舟がサメに見つからないように、見つかっても近づけないように。なのにあなたときたら……!」
「ご、ごめん」
「もういいわ。今日はもう帰りなさい」
「わかった」
「いえ、ちょっと待って」
人魚は帰ろうとするアタラを止めると、待たせたまま海へ飛び込み潜って行く。
しばらくすると透明な海の中から人魚が浮上してくる黒い髪がゆらめく様が見えた。
人魚は飛沫をきらめかせながら海面に頭を出す。
「待たせたわね」
と笑った、その暖かなまっすぐな笑顔がアタラの心臓を大きく鳴らした。
「はい、これ」
人魚は舟の中に、どうやったのかたくさんの魚と海老を放り込む。
それはまだ生きて舟の上でびちびちと跳ねて騒いだ。
「人間はこういうものが必要なんでしょう? あげるわ、持って行きなさい」
「その、あの……ありがとう……」
「いいのよ。でもしばらくは海へは出ないほうがいいわ。今年は暖かくて珊瑚の産卵が早い。普通の産卵の時期にはあなたの祖も戻ってくる。そしたらまたここへいらっしゃい。あのなりかけもその頃にはここへ近寄れなくなっているから」
「普通の産卵の時期、というとあとひと月くらいか?」
「そうね、そのくらい」
「わかった」
アタラが真剣な様子でうなずくと、人魚は満足したような笑みを浮かべた。
「では、またね」
すい、と舟から離れるとアタラに向けて手を振る。
「もうあいつはいないから平気よ。でも浜までは気をつけて!」
そしてばしゃん、と海の中へ深く深く潜っていった。
夢だったのだろうか、と思うほど、見たこともないほど美しい女の姿をしていた。そして美しい肌を。
顔を真っ赤にして、アタラはぶんぶんと首を振るともう一度櫂を取った。
今日はもう十分だ。
日の高いうちに家へ帰ろう。
櫂をこぐアタラの頭からは、人魚の美しい上半身が離れなかった。