真南風 ①
今年は年明けから暖かい日が続いている。
サニツが過ぎてしばらく、アタラが朝起きて家の外へ出ると、潮の強い匂いが鼻をついた。
珊瑚が卵を産んだな、と思い、アタラは海へ出る事に決めた。
珊瑚の産卵があったあとは、卵を食べに魚が騒ぐ。
アタラは鼻がよく、珊瑚の産卵の匂いを嗅ぐのが得意だった。
浜へ出ると、まだ波打ち際に卵が寄せてはいない。きっと少し沖のほうのどこかの珊瑚なのだろう。
風の具合からするとヒカリ干瀬の辺りだろうか。
アタラは親から畑を分けてもらって暮らしている。
普段はそちらを見ていることが多いが、今日のような大漁が予感される日は舟を出すこともあった。
兄に畑を頼むと、アタラは浜へ下りて舟へ向かう。
アタラは海が好きだ。
陸で人に囲まれているより、1人で海へ出て釣り糸を垂らし、海の上でゆっくり過ごすほうがずっと好きだった。
今日は暖かく天気が良い。
風も穏やかで波も静かだ。
小さなアタラの舟はゆっくりと沖のヒカリ干瀬へ向けて進んでいった。
ヒカリ干瀬は周囲2、3キロほどの小さな干瀬だ。もう少し行くと百合花干瀬があり、ヒカリ干瀬はその中に含まれている。
潮の匂いのきつさにアタラは顔をしかめながら釣りを始める。
餌を仕掛けた針を落とすと、すぐに『こつん』と手ごたえがあって、アタラは針が底についたのがわかり首をひねる。
干瀬の周囲は浅いところもあれば深いところもある。
だがこの辺りはここまで浅くはないはずだった。
不思議に思い舟から顔を出して海をのぞく。そしてぎょっとなって舟の中で尻もちをついた。
舟の下におそろしく大きなエイがいた。
それはこれまでに見たこともないほど大きなエイだ。
気まぐれに羽ばたきを見せれば、アタラの小さな舟などひっくり返ってしまう。
この辺りにはサメも多く、年に何度か漁師が襲われてケガをしたり、そのまま食われて亡くなったりもする。
アタラはゆっくりと、おそるおそる、舟を静かに動かしてその場を離れた。
時間をかけてエイのいた場所から離れ、ここまでくれば大丈夫だろうと、アタラはほっとひと息ついてもう一度釣り糸を垂らす。
『こつん』。ふたたび底に当たる。アタラは青くなった。舟の下を見る。
やはり、エイがいた。
アタラは頭を抱えた。
それでも震えながら静かに、ゆっくりと舟をこぐ。
頼む、頼む。動かないでくれ。ついてこないでくれ。
そしてまたしばらくして舟の下をのぞいた。やはりまだいる。
エイは、何が気に入ったのかアタラの舟から離れなかった。
日は昇っていき、じりじりと肌を焦がす。
この時期には考えられないほどの暑さで、アタラもじっとりと汗をかいていたが、暑さよりも恐怖で汗が流れる。
アタラはゆっくりと舟をこいだ。
とにかくこの場を離れなければ。
そればかりで気が急く。
エイは結局、太陽が天頂近くに昇るまでアタラの舟から離れなかった。
ゆったりと泳ぎながら去っていくその姿を見たときは本当にほっとして力が抜けたようになったほどだ。
だがアタラにのんびりしている暇はない。
何か畏敬の念を抱かせるほどのエイの美しい動きを、いつまでも見送っていたい思いに駆られながら、もう今日は浜へ戻ろうと櫂を手にした。
そのとき。
「お礼も言わないの? 本当にこれだから人間って」
島の短い冬の、透き通る夜の空のような、あるいは明け方の山の空気のような、美しい凛とした声が響いた。




