真南風 ⑨
その昔、大島の王府に白蛇が献上されたことがあった。
やはりこの島からである。
しかしその蛇は島の男が気に入ってそばにいたため、男から無理やり白蛇を取り上げようとした人間は、その関係者も含めて病に冒され、高熱を出して生死をさまよったという。
白蛇は神の一族が姿を変えたものであり、当時の王は白蛇に気に入られた男に褒美を与えた。
王の周囲には病にかかるものは出なかったが、それ以降、離れ島から持ち出されるものには島の巫女たちの許可がいるようになった。
そのとき病から助かったもの達が口にした言葉は、今も王府とその都周辺の街では事あるごとに囁かれ、代々の王は若い役人たちに厳しく言って聞かせるよう上長たちを戒めている。
『金があるからといって何をしてもいいと思うな。権力があるからといって何をしてもいいと思うな』
役人の腐敗が噂されてはいたが、まさか教えるべき事さえ教えずに、自らが何より貴い、何をしても良い身分なのだと奢っているものがいるとまでは考えていなかった。
部下を殴り飛ばした上級役人は、それでも怒りがおさまらず、ぐい、とその襟首を引っつかんでもう一撃、拳を振り下ろす。
何度も何度も殴りつけ、相手が気を失ったところでようやく気をおさめた。
「島長役、大丈夫かね」
島の大巫女に話しかけられて、上級役人はまだ目元に残る研を見られまいと目を閉じた。
「恥ずかしい事です、これは今日にも王府へ返しましょう」
島の巫女たちは上級役人のその言葉に誰も異を唱えなかった。
大巫女がマハエの両の手を取って、拝むように額に当てた。
集落の巫女たちもマハエの前に身を低くする。
周りの誰もがその様子に驚いた。
上級役人も、この器量がいいとも思えない貧しい農民の妻が、なぜこの騒ぎの元となり、そして巫女たちに敬われているのか理解できなかった。
そして、そういえば先ほどこの家の嫁を魔物だと、美しいと、下級役人が言っていたと巫女が話していたことを思い出した。
どういう事なのか訊いてみようかと考え、続いて『自分で解らぬのなら口を出すな』といつも巫女たちに叱られる事も思い出した。
この大勢の中で子供のように叱られるのは勘弁したい。
全く、どこであっても巫女とは扱いにくいものである。
「真南風様、これからどうなされるか」
「この先騒がしくなりましょう」
「海岸の神域に移られますか」
巫女たちの言葉に、マハエは小さく笑みを浮かべて首を振った。
「帰るわ、母の元へ」
ああ、と巫女たちの中からため息がもれる。
ゆらり、とマハエの姿が揺れて、天の衣もかくやという着物を着た、黒髪の長い巻き毛の美しい女が現れた。
その場のものはみな、息を呑んだり、小さな悲鳴をあげたり、とにかく吃驚したような様子を見せる。
マハエはアタラを振り向いた。アタラと、家の奥から出てきていたトウンジとその腕に抱かれた生まれたばかりの赤子を。
集落のものはみな初めて2人目の赤ん坊を見た。
それはとても美しい赤子で、みなどこからか芳しい香りをかいだような、そんな錯覚を覚えた。
いや、錯覚ではないのかもしれない。
事実、その香りは幻のように消えてはいかず、まだ彼らを淡く包んでいる。
「一緒に行きましょう」
マハエに言われ、アタラはトウンジと赤ん坊を抱き上げた。
するとトウンジははっきりした言葉で話した。
「俺は赤ん坊と残るよ。妹はきっと、海では泣いてばかりだ」
ふふっ、とマハエが笑う。
「そうね。大きくなるまでこの子は陸を恋しがりそう」
「うん、だから一緒に残る」
「そうしなさい、優しい子。でもアタラは残していけないわ」
トウンジはうん、とうなずいた。
父はここでやっていくには神の血が強すぎる。
それは年々強まって、もう抑えきれないほどだ。
マハエと出会わなければここまでにはなっていなかっただろうが、いつかは人より早く天に召されていたはずだ。
だからこれは仕方がないことだと、幼いながらにトウンジは理解していた。
「俺は……お前と、この子たちと、家族で一緒にいたいよ」
守れなかった、何もできなかった。
アタラの声にはそんな後悔がある。
マハエは微笑みを浮かべた。
「気にしないで、この子たちは大丈夫。わたしとあなたの子だもの」
守るも守らないも、そんな必要はないのだ。
それはこの島では人の仕事ではない。
人はただ懸命に生きればいい。
正しさも罪も関係なく、神は気に入ればそこに力を貸す。そんなものだ。
「わたしがこの子の後見となりましょう」
上級役人の言葉に、マハエは少し考えて、そして言った。
「好きにするといいわ、この子もお前も。ただし、成人のさいに新しい名を付けるのはこの島の巫女以外は認めない」
「承りました」
マハエは赤ん坊をアタラから預かり、その背を撫でる。
「名前をつけてあげなければねえ。今夜は神域を借りましょう。そこで親子で過ごしましょう」
マハエは大巫女に先導されてアタラと子供たちとともに海岸へ向かった。
そこにある神域へと。




