花手水の娘
花手水に浮かぶのは、仏桑華、イッペー、寒緋桜。
島の平和と豊穣を願い、巫女たちが神に祈りと共に捧げる花手水。
その花を三日に一度、摘んで浮かべるのがアルシャの仕事だった。
泥だらけの汚れた子ども。
集落でアルシャはそう呼ばれている。
アルシャには父親がいない。
母が言うには、とても美しくて逞しい人だったそうだ。
だが、集落の誰もアルシャの父を知る者はいなかった。
若く美しかった母が集落の外の不届き者に騙されたのだろうと、誰もがそう言って影で嗤ったが、母は気になどしていなかったし、アルシャに信じるようにと繰り返した。
アルシャの母は優しく美しい人で、アルシャはいい匂いのする母が好きだった。
父については、見も知らぬ相手のこと。アルシャにはよくわからなかった。
毎年うりずんの風が吹く季節になると、アルシャの母の美しさはいや増した。
元から美しい人であったし、年を取ることを忘れたかのような若々しい容貌であったが、その美貌に磨きがかかったように肌は色艶を増し、なんともいえぬ色香が漂った。
母は若い頃その美しさから島の若巫女に選ばれたが、すぐにアルシャを身篭り、巫女の位から下ろされた。
相手の男が誰かわからないため、神の子ではないかと言う者もあったそうだが、強い後ろ立てなどなかった母は散々に貶められ、家で隠されるようにして子どもを産んだ。
幸いにも母の父と兄、アルシャの祖父と伯父が母の妊娠を許し、婚外子を産むことを受け入れてくれていた。
屋敷の庭に小さな離れを建てて母を住まわせ、出産の準備を整えた。
祖父と伯父は体が大きく力も強かったが、あまり自身を主張しない性質の人たちで、集落では少しばかり軽んじられていた。
しかしそんな彼らが誰の言うことにも耳をかさず母の出産を認めたため、周囲も渋々受け入れた。
本来なら婚外子などあり得ないことであるが、守り手である家内の男衆がいいと言うのであれば他のものは口を出せない。
アルシャの母を村八分にして娼婦として扱いたかった男たちは歯噛みしたようだが、その目論見はついに実を結ぶことはなかった。
堕ろせという声ももちろんあったと聞く。
だが三月三日の浜くだりで何事もなかったため、巫女たちは邪な者ではないとして出産を認めた。
その子どもがアルシャだったが、集落の者たちに嫌悪されているにも関わらず、なぜか巫女たちはアルシャが物心ついた頃には花手水の管理を任せるようになった。
三日に一度のことではあるが、集落を、島々を守る大事な儀式の手伝いをしているとして、このことでアルシャとアルシャの母は最低限無事に生活できるようになった。
巫女たちは出産経験のあるなしに関わらず、集落内の40歳以上の女たちの中から選ばれる。
40歳といえば、孫がいる年齢だ。
彼女たちは概ねアルシャに親切で、孫たちと同じように可愛がってくれた。
そんな彼女たちでさえ、アルシャの母には距離を置いていた。
特に若夏に入って彼女の美しさが増し始めると、アルシャからさえ距離を置いた。
もしかしたら怖かったのかもしれない。
アルシャにとってもこの時期の母の美しさは恐ろしく感じられた。どこか人ではない生き物のようで、近寄りがたく、そして触れ難かった。
それが自分の母であるということが悲しく、恐ろしい。
あれはなんなのだろう。そして自分はなんなのだろう、と思う。
祖父や伯父の一家が守ってくれなければ、母も自分もとっくの昔に酷い目にあって死んでいただろう。
まだ幼いアルシャにもそのくらいはわかっている。
祖父たちの目が、そして巫女たちの目が光っていなければ、いとこや親戚でさえ油断ならなかった。
実際、暴力を振るわれたことは一度や二度ではないし、影でこそこそ言われるのも日常茶飯事なら、都合の良いようにこき使われるのも日常だった。
そして要求されるのだ。感謝を。
生かしてもらってありがたいと思え、受け入れてもらってありがたいと思え、もっと差し出してもっと頭を垂れろ、跪け、と。
はっきりと口にはしないが、周囲のほとんどの人間がそう考えていることをアルシャは知っていた。
笑っている母が理解できなかった。
母の美しさが理解できなかった。
娼婦と蔑まれる美しい母。
事実ではないことで影で噂される母。
それら全てを許して静かに生きる母。
母のようにはなりたくなかった。
だからアルシャは髪と肌を泥で汚して集落の中をうろついた。
誰もアルシャに近づかないように。誰もアルシャを気に留めず、蔑んだままでいるように。
早朝というにもまだ早い、誰も起きてこない夜が明けるよりもずっと早い薄暗い中、アルシャは家の前の浜で身を清め、花を摘みに行く。
かごいっぱいに花を集め、それを集落のはずれにある神域の海岸に届けると、また髪と肌を汚す。
汚れた服に着替え、集落の手伝いに行く。
そんな彼女に任される仕事は家畜の世話やごみ・糞尿の処理くらいのものだ。
だがいじめられたり、体を触られたりするよりはずっとましだった。
祖父たちも何かあるよりはと何も言わない。以前アルシャを拐っていこうとしたよその島の男は巫女たちに見咎められて袋叩きにされていたが、また運よく助かるとは限らないのだ。
そしてまた、うりずんの季節がやってきた。
アルシャは12になっていた。
心地よい暖かい南風の吹くこの時期は、花もさまざまなものが咲く。
アルシャは今日は、月桃と矢筈葛、ブーゲンビリアを摘んできた。
神域へ向かおうと、潮風を避けるための仏桑華の垣根に囲まれた畑の前を通っていた時、砂浜に母の姿があるのに気がついた。
珍しいことだ、と少しばかり驚いた。
この時期、母は夜になると家の前の浜べで過ごす。
そして夜が明けるずっと前、まだ暗い夜中のうちに帰ってきてアルシャの隣で眠るのだ。
かすかに感じる潮の香りが、母がずっと浜にいたことを物語っていて、アルシャは母が戻ってきてくれたことにほっとしながら母にしがみついてまた眠りにつく。
母の肌はとても良い匂いがして、アルシャはいつも幸せな心地になるのだが、潮の香りのする母は、なぜかアルシャの不安を掻き立てた。
だから、こんな時間まで浜にいることを不思議に思った。起きて隣にいなかったことは初めてではなかったから、厠に行ったか、水でも飲みに行ったかと気にしていなかった。ふと、声をかけようかと思いやめた。
日が昇り始めている。
遠い水平線の向こう、海の彼方から今日の光が生まれていた。静かに力強く差し込んでくるその光に、集落の人間が起きてくるのもそろそろだとアルシャは足を早めて神域へと向かう。母と話すよりも、誰にも姿を見られないことのほうが大事だった。
途中振り返ってちらりと見た、母の美しい笑顔がやけに心に残った。
そしてそれきり、アルシャの母は姿を消した。
いつかいなくなる人だと、心のどこかでわかっていた気がする。
いつもいなくなる準備を心の中でしていた。
けれど実際にいなくなってしまうと、力が抜けてしまったようになって、アルシャはもう何もしたくなくなった。
巫女たちが変わるがわる屋敷の離れにあるアルシャの家に泊まりにやってきては食事や風呂などの世話をしてくれたが、アルシャは黙ってされるがままになっていた。
食べるものには困らなかったし、働かなくても誰も何も言わなかった。
母が妊娠したぐらいから、祖父と伯父の舟は漁に出れば常に大漁で、嵐に遭うこともなければサメや大型のエイに遭うこともなくなったそうだ。
海に出れば豊漁、家族がもつ小さな畑も豊作。
祖父と伯父の集落での発言権は、ほとんど口をきかないにも関わらず、この十数年で増していた。
だから、母親がいなくなってアルシャが離れに引きこもって出てこなくなっても、周囲は陰口を叩くだけで何もできなかった。
そんなある日、母がいなくなって10日ほどたった昼。
アルシャは朝から体がだるくて気持ちが落ち込んでいた。
お腹が痛くて吐き気がして、体が熱っぽく、うずくまって寝転がり涙を流していると、祖母が見つけて母屋に連れて帰った。
この日、アルシャに初潮がきた。
そしてその日からしばらく、アルシャは母屋で祖母と一緒に寝るようになった。
祖母はアルシャを抱きしめて、歌を歌ったり、母の子供の頃の話を聞かせたりしてくれた。そして泣きそうな顔でまたアルシャを抱きしめる。アルシャはくすぐったくて、口数少なに祖母に抱きしめられていた。
初めての月のものが終わってすぐ、アルシャは神域にある小さな建物に移ることになった。
そこでアルシャは巫女たちから最低限の教えを受けた。
島を守る方法。
島に豊穣をもたらす方法。
神域に住まい、神に祈る役目。
アルシャの母が受け継ぐはずだったその役目。
嫌ならやめてもいいよ、と頭を撫でながら言われて、アルシャは引き受けることにした。
祖父や祖母、伯父とその妻、そして巫女たちが好きだったから。
神域には巫女たち以外は入れないと聞いて、ならいいかと思ったのだ。
なぜ生まれてきたのかなどわからない。
ここにいる意味があるのかもわからない。
殺したいとまでは思わないが、死んでくれたらいいのにと思う相手は星の数ほどいる。
けれど、もう少しここで何かを探してみようと思った。
母が、あれほど蔑まれても許したこの地に何があるのか知りたいと思った。
そしてアルシャはこの日、島を守る神女となった。
神域で、アルシャは夜になると夢を見る。
そこは海の底なのか、それとも神々が住まう楽土なのか。
母と、見も知らぬ父、そしてアルシャとアルシャの後に生まれたたくさんの弟妹たちが笑いあって暮らす夢。
海のそばの神域で、今夜もアルシャは夢を見ている。
二度と目覚めなければいいと思う、幸せな夢を。
ー了ー