真夜中の逃避行
終電が遅くまであるのは便利な反面、ときとして厄介な暗闇とかかわる羽目になるから、諸刃の剣とも呼べるのかもしれません。
行きつけの喫茶店「アマゾン」へ入ると、二人は階段を上がったところにある、南向きのボックス席へ座を占め、注文した品が届くまでのんびりと、マガジンラックからとってきた旅行雑誌・観光雑誌をぱらぱらとめくりながら、窓越しに伝わる、初夏の陽気を肌で感じ取っていた。
ゆかりから「七条大橋の魔女」の噂を聞かされた摩子の喜びようと言ったら、新しい玩具を与えられた子供のそれと全く変わりがなかった。
「そんな面白い話どうして黙ってたのさあ! これはさっそく、実証するしかありませんよ、ゆかりさん……!」
「実証って、まさか、本気にしてるんじゃないでしょうね」
「まさか! でも、これはこれで話のタネになりそうじゃん。そう思わない?」
「いーえ、全然……」
冷ややかな目で摩子を一瞥すると、ゆかりはウィンナコーヒーのカップをソーサーへ戻し、ワッフルをぱくついた。そんなゆかりをよそに、摩子はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出し、なにかを調べている様子だった。
「ゆかり、三日後に待ち伏せをするから、一緒に来てくれる?」
長年の付き合いから「今夜さっそく行こうよ!」という返事が返ってくると思っていたゆかりは、思いもよらぬ摩子の提案にいささか面食らっていた。
「三日後って、またずいぶんと中途半端なのね」
「そう思うでしょ? ホラ、これ見てよ」
そういって摩子が見せたのは、天文関係の情報サイトの「今月の月齢」というページで、五月のカレンダーに合わせて月の満ち欠けがわかりやすく記してあった。
「これを見ると、三日後がちょうど満月になってるんだ。んで、満月の晩は……」
「満月の晩にはお化けでも出るっていうの?」
「そういうことでございます」
自信満々に語る摩子の姿に、ゆかりは滑稽な印象を受けた。が、このまま放置して副級長のように怪我でもされては困る、と思ったのか、ゆかりは三日後の晩に一緒に行動することを約束し、その日は解散となった。
そして三日後、午前二時が来る前にあえなく退散することとなった摩子は、隣から痛々しく突き刺さるゆかりの冷たいまなざしに耐えながら、京阪電車の七条駅で、出町柳行きの列車が来るのを待ち続けた。二人はいつも、学校から自宅までをバスで行き来しているのだが、橋からバス停までゆっくり歩いているうちに、運悪く最終便を逃がしてしまったため、手っ取り早く鉄路を使うことにしたのだ。
「出町柳から相国寺の境内を抜けていけば、あまり遠回りしないで帰れるみたいよ」
ゆかりが言い終わらぬうちに、暗闇から出町柳行きの特急列車が入ってきた。ドアが開くと、二人は間髪入れずに空いているクロスシートへと座を占め、列車の出るのを待った。
やがて、発車を告げるチャイムが鳴り、列車はゆっくりと加速しながら七条を離れていった。車内のこもった空気と、シート下から伝わる心地よい振動音に、いつしか二人は眠りに落ちてしまった。
出町柳駅で駅員に揺り起こされると、二人は眠い目をこすりながら階段を登り、地上へとあがった。ゆかりが袖をまくって腕時計を見ると、十二時まであと幾ばくもない頃合いだった。
「十二時前……。いつもなら、もうベッドの中ね」
「あたしも、この時間帯ならもう寝てるなあ。で、ゆかり、どっち行くの?」
「川端通から橋を渡って、桝形の商店街を抜けていけば相国寺。ほら、行くわよ」
アスファルトを踏み鳴らしながら歩くゆかりの後ろについて、摩子は二つのまぶたをこすりながら、ゆっくりと歩み始めた。
川端通から河原町通へかかる橋を渡り、桝形の商店街のアーケード下をくぐろうとした時、ゆかりはふと、自分たちとは別種類の足音がするのに気付いた。
自分たちが履いている学校指定の革靴のそれとはまるで違う、ハイヒールの足音である。
――会社帰りのOLさんかな……。
頭の隅でそんなことを考えているうちに、ゆかりと摩子の二人はアーケードを抜け、相国寺の境内のそばまで近づいた。その間も、ゆかり達の足音にくっついて、ハイヒールの音がカツン、カツンと後を追いかけてくる。やがて、薄暗がりに相国寺の瓦屋根が見えだしたころ、ゆかりは何の気なしに後ろへ目をやり、ハッと息をのんだ。
ゆかりと摩子の後ろにいたのは、OLとは似ても似つかぬ、奇妙な風体の人物であった。つばの広い、真っ黒な帽子を目深に被り、闇夜と区別のつかないようなインバネス姿、かろうじてハイヒールを履いた足で女性らしいことがわかる以外は、表情も何も伺えない。
まるで童話に出てくる魔女のような格好の女が、ヒールを鳴らしながら歩いてくるのである。ゆかりはその光景を見て、襟足から背中に冷や汗が伝うのを感じたが、摩子を怖がらせまいと、声を上げるでもなく、そのまま歩き続けた。
背後にハイヒールの音を聞きながら、墨汁を垂らしたような暗がりの続く相国寺を抜け、同志社の赤レンガに囲まれた烏丸上立売の交差点へ出た途端、
「摩子ッ、走って!」
ゆかりは摩子の腕をつかみ、対岸のチカチカと瞬く青信号めがけて走り出した。烏丸通を渡り切らぬうちに信号が赤に変わり、横断歩道の手前に控えていたタクシーやトラックが一斉に動き出す。その喧騒にまみれて、ハイヒールの音はかき消えてしまった。
「ちょ、ちょっとゆかりっ、どうしたのさっ」
上立売通りが新町通りと交差する少し手前で、摩子がゆかりに声をかけた。
「摩子、あなた気付いてなかったの。ずっとくっついて来てたハイヒールの女!」
「は、ハイヒール? そういえば、なんか足音がするなあ、とは思ったけど……」
「出町柳のあたりから、ずっと変なのがついて来てたのよ。まるで――」
そこまで言いかけたゆかりの口は、再び聞こえてきた、速足のハイヒールの音に閉ざされてしまった。音の方角へ目をやると、室町通のあたりからあの奇妙な風体の女が前のめりになってこちらへ走ってくる。そして、さきほどは違い、なにやら杖のようなものを持っているではないか――。
「――ゆかりっ」
「――摩子っ」
あまりの恐怖に、二人の足は街路樹のようにアスファルトの上に根を張ってしまった。
と、その時であった。
「――おまわりさんっ、こっちこっちっ」
「巡査はん、はよう来ておくれやす……!」
見覚えのない二人の男の声がゆかりと摩子の耳に飛び込んできたのは、ハイヒールの女との距離が十数メートルほどに近づいたときであった。声の方向へ目をやると、女が走ってきた室町通の薄暗がりに、何やら黄色いっぽいものを持った男が二人、背後を気にしながらこちらへ近づいてくるではないか。
「おーい……」
先陣を切って走ってくる、紺色のジャージ姿の男の声に、それまで真っ暗だった上立売の家々が明かりをつけ始める。それに焦ったのか、ゆかり達と男二人に挟まれる形となったハイヒールの女は、握りしめていた杖のようなものをインバネスの中へ引っ込めると、衣棚通を北へ向かって走り出してしまった。
「――ちくしょうっ、逃がしたか……」
女の後ろ姿がけし粒ほどになってしまった頃に、声の主である男二人がゆかり達の元へとたどり着いた。最初にやってきたのは、紺色のジャージを着た、身の丈一六五センチほどのほっそりとした青年で、手に持った黄色い洗面器と濡れた襟足から察するに、どうやら銭湯帰りのようであった。
「きみたち、怪我はない?」
ジャージ姿の青年が尋ねると、ゆかりはそれまで溜めこんでいた恐怖が堰を切ってあふれ出し、嗚咽交じりに怖かったア、と叫んだ。それにつられて摩子も、目じりにうっすらと濡れたものをにじませた。泣きわめく女子高生二人の処置にジャージ姿の青年が慌てていると、
「――佐原くぅん、無事かあ……」
アスファルトをからころと鳴らして、下駄の音が近づいてきた。ジャージの青年・佐原が振り向くと、そこには一八〇センチ前後の背丈の、青い着流しに渋茶色の羽織姿の、同じように洗面器を持ったぼさぼさ頭の青年が、ゆったりとした雰囲気をまとってこちらへ近づいて来た。
「鴨さん、まいったよ。女子高生二人が、ワアワア泣いてる」
「そのまま泣かせとき、泣けばすっきりするよって……。それより、早いとこ警察に電話、電話……」
切れ長の目をじろりとゆかり達に向けると、鴨さん、と呼ばれた着流しの青年は若干剃り残しのあるあごをさすりながら、二人の泣きわめく様子をじっと静観しているのだった。
次回へ続く。