希望のゲルニカ
マウンテンバイクに手早く施錠すると、舞子はステップを軽やかに駆け上がって店のドアを開けた。
「ただいまー」
「ただいまぁ」
舞子の後に続けて、ケンもオウムのように繰り返したが、英語訛りのアクセントは如何ともし難い。
店内のCDプレーヤーからはレトロな雰囲気のシャンソンが流れていた。骨董級の蓄音機で聴いた方が、遥かにムードが出るような曲である。
舞子が地元に戻って以来、「ゲルニカの木」は営業時間を延長し、夕方からは簡単なおつまみやアルコール類も提供するようになっていた。それでも女店主の意向が反映されたBGMの趣味は一切ぶれることなく、シャンソンの他にジャズやソウルといったブラックミュージック、クラシック音楽が、あくまでBGMの域を超えない控えめなボリュームで流れている。
悦子の気分によっては、ビートルズやローリング・ストーンズ、ボブ・ディランなど古めのロックがかかることもある。稀にかかる邦楽があくまでインストゥルメンタルに限定されているのは、店のムード演出に気を使う彼女のこだわりだ。
同様に、夕方から飲み屋になるからといってカラオケ装置など絶対に置かないのも、さらにコーヒー豆を守るために禁煙が徹底されているのも、悦子には当然のことだった。
「ゲルニカの木」の営業形態が二部制に変わっても、店内の佇まいはケンが海兵隊員時代に初めて訪れた時からほとんど変わっていない。
大きく変わった点といえば、かつて壁に掛かっていたピカソの『ゲルニカ』の複製が外されていることくらいだった。今、その位置に飾られているのは、色とりどりのガラスを駆使して『ゲルニカ』を再現した素晴らしい芸術作品で、作者は井口舞子だった。彼女が女子美術大学の卒業制作として作ったものである。
それは悦子が母親としてではなく、一芸術家の立場から見ても称賛に値する出来であり、それまで店の壁に鎮座していた『ゲルニカ』の複製が、その場を明け渡すのは当然の成り行きだった。
ケンが、数年振りに「ゲルニカの木」に足を踏み入れた半月前。店内が薄暗いにもかかわらず真っ先に目を奪われたのも、このステンドグラスの『ゲルニカ』だった。モノトーンの『ゲルニカ』を、独自の解釈でカラーライズ化し、それを色ガラスで仕上げている。舞子の色彩感覚は素晴らしく『ゲルニカ』という芸術に別の魅力を与えていた。そして、自身のセンスを具体化する舞子の卓越した技術は、まさに母譲りだった。
『ゲルニカ』に色付けしたら面白いのでは?そんな、舞子の至って単純なアイディアからスタートしたこの作品は、徐々に形を成してゆく中で、燃え上がるような生命力を獲得していった。無差別爆撃の悲劇を描く『ゲルニカ』が、絶望の淵から一歩踏み出す。そんな歴史的瞬間に立ち会っているような錯覚を覚えた舞子は、制作しながら興奮を止められなかった。タイトルは導き出されるように自然に決まった。『希望のゲルニカ』。
夕方以降、作品と壁との数センチのスペースに取り付けられたバックライトによって照らし出される『希望のゲルニカ』は、その存在感をより強烈にアピールし始める。
店内には客がいた。近所に住む相沢という中年男で、店がアルコールの提供を始めて以来の常連だった。今日も悦子とのおしゃべりを楽しみながら、バーボンをロックでちびちびやっていた。
「おかえり。ケンさん、お疲れさま」
「はい、お疲れさまぁ」
「今日はコーヒーは?」
ケンはすっかり悦子の淹れるコーヒーのファンになっていた。こうして仕事を終えて帰宅した時に、店の片隅の指定席でコーヒーを飲みながらくつろぐのが、ここ数日の恒例だった。
今では二種類あるブレンドに始まって、ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ、ハワイのコナ等々、店にある自家焙煎のコーヒー豆を順番に楽しんでいた。軍人時代はコーヒーなどろくに飲んだことも無かったので、豆の個性を把握できるまでにはまだ程遠いが、それでも徐々にこの黒い液体を好きになり始めていた。そして、ちゃんと一杯数百円の代金を払ってコーヒーを注文していた。
最初は、悦子も「お金なんていいわよ」と言っていたが、ケンは代金を払うことに固執した。何かを無料で手に入れるのは確かに有難いことではある。だが一方で、その対象の本当の価値を見失わせる危険性もある。そして、何かを得る時は対価を払うのは当然のことである。むしろそれを払わないと真に堪能することはできない。
そんなケンの思考回路が発揮されるのは、もちろんコーヒーの場合だけではなかった。「ゲルニカの木」の上は井口家の自宅になっているが、三階の空き部屋にケンが居候することになった時も悦子は言った
「どっちみち空き部屋だし、お金の節約になるでしょ?食費だけ払ってくれたらそれで良いのよ」
だが、ケンの性格が親切に甘えることを許さなかった。頑固に家賃も払うと言って聞かないのだ。
「今、お金ないけどね。仕事みつける。働いて払うでお願いです」
「分ったわ。じゃあ一日三食分の食費込みで家賃一ヵ月・・・三万円でどう?」
悦子の提示した金額が破格の好条件なのは分かった。ケンはすぐに仕事を見つけて支払おうと心に決めて、有難く申し出を受け入れた。
こうして井口母娘とケン・オルブライトの共同生活は始まった。母娘二人の生活スタイルが染みついていた舞子にとっても、自分の人生への珍客の再登場、しかも一つ屋根の下での共同生活は予測不可能だったが、新たな生活のスタートに心が躍る自分を否定はできなかった。
「今日はどの豆にする?」
悦子は、返事をしないケンを促した。
ちょっと考えてからケンは答えた。
「疲れたので。今日は無しね」
「あら。そう・・・」
意外な返事に悦子はちょっと戸惑った。だが、今日のケンがいつもと違った様子であることに気づいていた舞子には、それは意外ではなかった。悦子がケンに気を利かせるつもりで余計なことを言い出す前に、舞子はケンに言った。
「じゃ、シャワー浴びちゃったら?私、店ちょっと手伝うから」
「そうね、夕飯の用意ができたら声かけるわね。汗を流してゆっくり休んで」
悦子が後を継いだ。
ケンは頷くと奥に消えていった。
「ねぇ、ママ。彼、造船所で働いてるんだっけ?」
三人のやり取りを聞いていた相沢が、オーク材のカウンターに空になったグラスを置いて言った。
「そうなの。一週間前から。日本語もできるし、うまく馴染んでくれるんじゃないかしら」
相沢は声のトーンを落とした。
「ほぉ・・・でも、いつまでも、ここに住まわすわけにもいかないんじゃないの?うら若き乙女に間違えがあったら大変だもん。でしょ?」
女性二人と、基本的には赤の他人である男が一人。相沢は、三人の共同生活に対して抱く、スケベな好奇心を露わにした視線を舞子に投げかけた。
全く、もぉ・・・エロおやじめ。舞子は内心で毒づいた。
舞子は学生の頃から、飲み屋の酔漢にありがちな猥談が嫌いだった。男に悪気はなく、女性と打ち解けるためのコミュニケーションのつもりでも、その手の話が女性を不愉快にさせることはままある。とりわけ田舎の小さな共同体でしか生活したことのない中年男は、その辺の線引きが下手なことが多く、相沢はその典型だろう。
「ゲルニカの木」を手伝うようになって、少しずつこうした話題や客への対応に慣れつつある舞子だったが、まだ適当にあしらう術は持っていない。憮然としながら舞子は答えた。
「なんで?全然問題ないですけど」
「あ・・・そう。そうね。問題ないよね。めんごめんご。えーっと水割り・・・じゃなくてロックお代わり」
舞子の言葉に露骨な棘を感じた相沢は、しどろもどろになった。基本的に悪い男ではないのである。二人のやり取りを見ていた悦子が口を挟んだ。
「それより相沢さん、さっきの話の続きは?」
「え・・・ああ、例の人工衛星のこと?」
「人口衛星?」
そう言いながら、舞子はバーボンのお代わりをわざと乱暴に置いた。
「もぉ、許してよぉ~、舞子ちゃん」
きまり悪そうに言う赤ら顔の相沢に、舞子も表情を和らげた。それを見てホッとした相沢は、話題を変える好機とばかりに話の先を続けた。
「人工衛星が落ちるんだって、天ヶ浜の近くの海に」
「何それ」
「知らない?今日もテレビでやってたよ。お母さんも知らなかったけど、ここの家はテレビが無いのかな~」
「のんびりテレビ見ながら、優雅なセカンドライフを送れる方とは違いますので」
悦子が笑いながら言った。
「優雅なもんかい。早期退職で貰った退職金切り崩してさぁ、ここに来るのが唯一の楽しみな寂しい男だよ」
「無駄話はその辺でよろしい。で、人工衛星がどうしたって?」
話の先を促す舞子。
「ああ、それね。何でもロシアの人工衛星が隕石にぶつかって壊れたんだってさ。で、予報ではもう十日もすれば日本海に落ちるんだって。それがここの海の沖合辺りらしいのよ」
ロシアが打ち上げた軍事偵察衛星ミカエルが、一週間ほど前に隕石群と接触、破損したことは日本のニュースや新聞でも大きく報じられた。太陽電池パネルの一部を失いイオンエンジンの出力が低下したミカエルは、徐々に高度を下げながら現在も地球を周回しており、専門家の予測では十月の後半に日本海沖で大気圏に突入すると言う。衛星は大気圏突入時の衝撃で粉々になり消滅するため、墜落による被害はない見込みとされていた。
日頃ほとんどテレビなど見ず、世間の出来事にあまり関心のない舞子は、さして興味を示さない様子で答えた。
「へぇ・・・」
「へぇって舞子ちゃん。もっと驚かないの?人工衛星が落ちて来るなんてそうそう無いことだよ。ちょっとしたイベントだよ、これ」
衛星が近くの海に落ちることの何がそんなに楽しいのだろう。舞子は、興奮気味に語る相沢を見て思った。
「うん・・・落ちて来る十日後っていったら、ちょうどお祭りの頃だなって」
「そうなんだよね。人口衛星も落ちてくるし、今年の祭りは益々賑やかだな、こりゃ。実行委員の一人としちゃ嬉しいよ。ねぇママ」
「相沢さん、実行委員なの?」
「そうだよ。こういうのは大抵、退職した暇人がやらされるんだよ。めんどくさいよねー」
口ではそう言っているが、すっかり真っ赤に出来上がった相沢は嬉しそうだった。祭りが楽しみで仕方ないのだろう。