再会
東京から自分を追って来た二人組を返り討ちにし、そのまま深夜の天ヶ浜をほとんど無意識に彷徨い歩いたケン・オルブライト。
海岸沿いの道路に出る頃には、ケンは自分がなぜこの地を目指してきたのかを、はっきりと理解していた。
数年前、まだ海兵隊員として希望と自信に満ち溢れた日々を送る俺が、休暇を取って訪ねたこの町。この現実の町に、唯一残された幻のような喫茶店「ゲルニカの木」。そしてあの母娘。娘の名前は確か舞子だったか。
あの休暇の日々に歩いて回ったこの辺りの地理を、記憶はしていなくとも体が覚えていたのだろうか。日付も変わりすっかり夜も更けた頃、ケンは見覚えのある店の前に立っていた。窓のステンドグラスもあの頃から変わっていない。入り口にかかるこの木の看板は、確かオークを使っているとか。
ここが俺の目的地に間違いない。だが、なぜだ?
自分自身に問いかけながら、入り口のステップに腰を下ろしたケンを、強烈な疲労と睡魔が襲った。海風から身を守るため革ジャケットを耳の上まで引き上げると、丸めた体を柱に預けた。
今朝、東京を逃げ出したのが遥か昔に感じる。厄介な一日を反芻する間もなく、ケンは深い眠りに落ちた。
早朝。ベッドからもぞもぞと抜け出した舞子は、寒さに身震いしながらジャージを肩に引っ掛けて、新聞を取りに薄暗い店に降りた。毎日のルーティンなのでほとんど無意識に体が動く。
眠い目をこすりながら、入り口のドアを開けた舞子は、うずくまる人影を見て思わず短い悲鳴を上げると、慌ててドアを閉めた。
酔っ払い?心臓がバクバクするのを感じながら、どうすべきかを考えた。母を呼ぼうか、それとも警察が良いか・・・でもただの酔っ払いだったら警察に申し訳ないかな。いや、警官だって国民の税金から給料を貰ってるんだから遠慮は無用だよね。
色々と考えながら、とりあえず店にあったホウキを手に取った。これで突いてみよう。いざとなったら武器にもなるし。
勇気を振り絞ってそっとドアを開けた舞子は、ホウキの柄でうずくまる男をつつきながら声をかけた。
「すみません、ちょっと・・・あの、起きて下さい。風邪ひきますよ。こんな所で寝られると困るんですけど」
無反応の男をもう少し強くホウキで押してみる。すると男はゆっくりと顔を上げて、眠たそうにしながら舞子の方に振り返った。
男の顔を見た舞子は、再び悲鳴を上げそうになった。だが今度の悲鳴は恐怖からではなかった。驚きと、その後からゆっくり広がる喜びの感情からくるものだった。
「ケンさん・・・だよね」
「Oh、舞。久しぶりね。元気でしてましたか?」
この日からケンは、井口母娘の計らいで「ゲルニカの木」の三階にある空き部屋に居候することになった。
「ケンさん!」
舞子が後ろから大きな声で呼ぶのを聞いて、はっと我に返った。
「どこまで走るの?家、通り過ぎてるよ」
振り返ると、国道から「ゲルニカの木」のある小さな通りに続く坂道を通り越していた。
「Oops、ソーリー」
苦笑いしながら踵を返すケン。
元々、帰り道にあれこれと会話をする二人ではない。それにしても今日のケンは、いつもより自分の世界に没頭している感じがした。舞子は、そんな普段とちょっと違うケンを敏感に感じ取っていたが、わざわざその理由を訊ねるようなまねはしなかった。何となく聞いてはいけない気がしていた。
半月ほど前のあの朝の、ケンとの数年ぶりの再会を、舞子は思いがけず手にしたプレゼントみたいなものだと思っていた。
舞子が東京での二年間に渡る生活に終止符を打ち、天ヶ浜に戻ってきたのが今年の春だった。母の喫茶店を手伝いながら今一度、今後の人生設計をじっくり描く、というのはあくまで建前であることは、舞子自身が一番よく知っていた。
彼女にとって、天ヶ浜に帰ってきてからの半年間は、何事もなくただ時間が流れ去った、それだけの日々だった。将来に対する明確なビジョンを持てずに、具体的な行動を起こす力も出ない。様々な決定事項を先送りにするモラトリアムな日々。決して居心地が悪いわけでもないし、食うや食わずの生活を送る者からしたら、良いご身分だと嫌みのひとつも言いたくなるかも知れない。
しかし舞子の心は常に、一生に一度しかない若い時代、今この瞬間を無駄に浪費しているという感覚に追われており、気分が休まる呑気な日々では決してなかった。
そんな、真綿で首を絞められるようなぬるい毎日に突然、張り合いと希望を与えてくれたのがケンとの再会だった。
以来、およそ二週間。彼女の生活は目まぐるしく変化し、ここ最近感じたことのない充実感を味わっていた。その理由は舞子自身にもよく分からなかった。いつまで続くのかも分からないケンのいるこの生活に、一体自分は何を期待しているのだろうか。
それでも舞子は、そんな毎日を楽しんでいた。そしてこの時間を継続させるためには、ケンにあまり立ち入った事情を聞くべきじゃない、そんな風に思い始めてもいた。
舞子自身が、女子高生だったあの頃から大きく変わったのと同様に、いや、多分それより遥かに大きくケンは変わったのだ。舞子は日を追うごとにそんな感覚を強めていた。
無邪気なほど自信にあふれる海兵隊員だった、あの日のケンはもういない。今、わたしの目の前にいるのは、実際に経過した空白の年月以上の日々を心に刻んだ男なのだ。
一見陽気にしていても、今のケンは心のどこかに不安を抱いており、緊張を解いて完全にリラックスすることはないように見えた。そしてケンの心の中には、例えどんなに親しくなっても踏み入ることの許されない領域があるような気がした。だから舞子も、母の悦子も詳しいことは一切聞かなかった。
ケンが仕事を探しに天ヶ浜にやってきたと言ったので、何も尋ねることなく、造船所の仕事を探してきてあげたのだった。
天ヶ浜での生活が、いつかケンの心を氷解させるのではないか。ケンも、そして自分も再びあの頃を取り戻せるのではないか。舞子はそんな希望を密かに抱いていた。
ケンと舞子が「ゲルニカの木」に帰ってくる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
店からは温かみのある明かりが漏れていた。ステンドグラスの窓は輝く絵画のように美しかった。例えちっぽけでも、暗い道を行く人たちを勇気づけるような眩しさだ。
周囲の暗闇から浮かび上がる店を見て、舞子もケンもちょっと幸せな気分になった。こうして帰ってくる場所があるのは素晴らしいことだ。