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ステンドグラスの狼  作者: こにくら坊や
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襲撃

日が傾き、辺りは暗くなり始めていた。

海沿いの国道に五十メートル程の間隔で設置されている街路灯は、潮風ですっかり錆びついており、弱々しい光で路側帯を照らしている。

時折、走り去って行く車も、すでにヘッドライトを点灯させている。

ケン・オルブライトは、一定のペースを守りながら走っていた。リュックサックを背負って、軽めのジョギングといった感じだ。

路側帯に散らばる細かな石や砂利が、踏みしだかれてリズミカルに音を立てる。規則正しく吐き出される息が、白く現れてはすぐに消える。

その横を、マウンテンバイクで並走する舞子がいる。

ゆっくりした速度で自転車を走らせるのはけっこう難しいものだ。初めの頃は、左右にフラフラ揺れてスピードも一定しなかった。ケンを追い越しては待ち、追い抜かれてはまた追いかけと言った調子で、四キロ先の家に帰りつく頃にはくたくただった。

でも、仕事を終えたケンを迎えに来て、一緒に帰るようになってもう一週間だ。すっかり要領を掴んだ舞子は、バランスを崩す前にサドルから腰を浮かせて体勢を整え直し、上手い具合に並走できるようになっていた

二人の間にこれといった会話はない。それでも舞子は、この新たな日課が楽しかった。

最初は、この辺りの地理に不案内なケンが道に迷わないよう、無事に帰宅させるという理由があった。だが造船所から舞子の家までは、基本的に海沿いの道路一本だ。大の大人が迷うことは先ずない。

それでも迎えに行くのを止めないのは、舞子が三十分程度のこの時間を大切に思っていたからだ。そんな彼女の気持ちを察してか、舞子の母も何も言わずに二人を見守っていた。

マウンテンバイクを器用に操りながら、舞子は時折、ちらりとケンの表情をうかがった。あからさまに顔を見るのは照れ臭いので、視界の端にこっそり盗み見るような感じだ。舞子の視線に気づいたケンが、にっこり微笑み返してくることもある。そんな時はバツが悪くて、つい目を逸らしてしまう。

でも、今日のケンは、ずっとうつむき加減で走っている。どこか暗い感じで、隣を走る舞子が存在しないかのように、自分の世界に没頭している。


造船所で働き始めてから一週間。ケンは、行き帰りのランニングを欠かしたことがない。例え一日の重労働を終えて疲労が蓄積されていても、この程度の距離とジョギング並みにゆっくりとしたペースは、彼にとって全く問題ではない。身体のコンディションを維持するのに丁度良い感じだ。

何しろ海兵隊時代は訓練に次ぐ訓練で、朝から晩までとにかく走っていた。もちろん基地の中のランニングだけではない。

海水でずぶ濡れのまま、潮風に吹かれて砂に足を取られながら海岸を走るのは普通のことだった。

重量が二十キロ以上ある、大きなリュックサックを肩に喰い込ませながら、軍用ブーツで道なき道を走るのも特別なことではなかった。

そんな過酷なランニングを含め、軍隊の厳しい訓練に明け暮れる日々が、ケンにとっての日常だった。

あれから半月が経つのか・・・昨日の出来事のように感じる時もあれば、遠い昔のように感じることもある。ケンは、隣に舞子がいるのを忘れて、あの日のことを思い出しながら走っていた。

それは、その場の思いつきとも言える無計画なものだった。自暴自棄になっていたケンが、深い考えも無しにとった行動だった。

失意のうちに軍を除隊し、やがて唐島興行の一員となって間もなくのこと。かつて共に戦火を潜り抜けた親友の、突然の訃報がケンの耳に届いた。除隊直後から徐々に荒れていったケンの生活に対する、とどめの一撃だった。

その知らせは、ケンを衝動的に突き動かした。組のヘロインをバッグに詰め込んで、沖縄から東京へと向かった。さらに東京から逃亡せざるを得なくなって、電車に飛び乗ったケンが、この地に辿り着いた日―


―半月近く前。

その日、ケンに行く当ては無かった。だが彼の微かな記憶か、あるいは本能がそうさせたのだろうか。気がつくとケンは、日本海沿いの北の町へ向かっていた。かつて若き海兵隊員だった頃に訪れたことのある、天ヶ浜という小さな町に。


寂れたカプセルホテルの一室。最低限の荷物をバッグに詰め込むと、ケンは始発の電車が動き出すのを待って、密かに東京を出た。

極力目立たずにいるために、そして状況に臨機応変に対応するためにも、走る密室となる新幹線や特急は使わなかった。在来線を乗り継いで、一日のほとんどを電車の中か、乗換駅のホームで過ごすことになった。

これが気ままな一人旅ならばそれも良かったが、もちろんそうではなかった。好ましくない二人組が、一定の距離を置きながらケンを尾行していた。昨夜、ケンからヘロインを奪い取ったヤクザである。

東京を出た時から、一見して人相の悪いこの追跡者の存在には気づいていた。やはり簡単に見逃してくれるはずはなかった。俺も、早まって迂闊なまねをしたものだ。だが今さら後悔しても遅い。

二人組は、距離を置いてはいるものの、隠れて尾行しているわけではなかった。むしろ、自分たちの存在をケンに知らしめるかのように、大胆に行動していた。お前は逃げられないと言うメッセージのようだった。

ケンは、複雑な日本の鉄道網に手こずりながらも、駅のトイレや電車の乗り換えを利用して、何度か奴らを撒こうと試みた。被っていたベースボールキャップを取ったり、サングラスをかけたり、上着の革ジャケットを脱いで印象を変えようとしてもみたが、上手くいかなかった。

背の高い白人男性となれば嫌でも目立ってしまう。しばらくして二人組を撒くことが無理だと悟ったケンは覚悟を決めた。できることなら厄介ごとは避けたい。だが、すでにトラブルに首を突っ込んでいるのが現実だ。仕方ない、向こうがそのつもりなら、いつでもやる準備はある。

心に芽生えつつある不安に飲み込まれまいとして、ケンは静かに呼吸を整えつつ、体から余分な緊張を解いた。

気が付けば、車窓からは夕暮れの日本海が見えていた。波がテトラポットにぶつかって白く砕けていた。

そんな景色を眺めながら、ケンは腹をくくった。この電車で目的の駅に降り立ったら、その時が勝負だ。


夜も十時を過ぎた頃、ケンと二人組を乗せた下り電車は、とある小さな駅に停車するため速度を落とし始めていた。そこがケンの目的地だった。

革ジャンの内側に隠したケンの右手は、ベルトで腰に留めてあるシース(鞘)に収まったナイフの感触を確かめている。大切な宝物のようにいつも携行しているそれは、鎌状のカーブを描く形が特徴的な、カランビットと呼ばれる格闘用ナイフだった。人差し指はすでにハンドルの柄尻にあるフィンガーリングに通されており、その時が来るのを待っている。

まる一日、十七時間も電車に乗ってきて、ケンの体はすっかりこわばっていたが、どんな条件下でも最大限の能力を発揮出できるよう訓練を積んできている。コディションを整えて、万全の態勢で臨むスポーツとは訳が違う。いつ何時、どこにいても必要とあらばやる。実戦はいつだってそういうものだ。

そんな、当たり前のことさえ分かっていない人間が軍隊にもいる。連中にとって、戦場は理不尽極まりない場所に違いないが、文句を言っているうちに命を落とすことになる。死にたくなければやるしかない。

やがて電車は静かに停車した。

この時間帯ともなると乗客はほとんどおらず、電車の扉が開いてもここで降りる者はなかった。

扉が再び閉まる直前に、ケンは電車を降りた。

隣の車両にいる件の二人組も、慌ててホームに飛び降りてきた。

やはりやるしかなさそうだ。

ひと気のないホームに立つ男たち。ケンとの距離は十メートルもない。

奇襲が、例えコンマ何秒かでも敵の思考を撹乱し、動きを鈍らせるのをよく知るケンは、電車が発車すると同時に行動に移っていた。

真っすぐに、二人の方に向かってずんずんと歩くケンの左手にはバッグが、そして右手には逆手に握られたナイフがあった。

一切の迷いなく確信を持って前進するケンの心は、その大胆さとは裏腹に静かに落ち着いていた。だから二人組が呆気にとられて固まっている様子も、手に取るように分かった。素人相手の路上の喧嘩ならいざ知らず、一瞬の判断で生死が決まる本当の戦闘を、この二人は知らない。

自信に満ちたケンの動きは、滑らかでありながら激烈だった。

我に返って、懐から何かを取り出そうとする一人目の男。

今や、そのすぐ手前に迫ったケンは、相手を牽制すべく顔面目がけてバッグを投げつけた。

男が反射的に顔をかばおうとした一瞬、すかさず半身に体を翻すケン。

ほぼ同時に、素早いサイドステップを踏んで男の膝頭に全力の蹴りを叩き込んだ。

苦痛に表情をゆがめながら、バランスを崩して倒れかかる男の顔面はがら空き状態だ。

その無防備な顔に、間髪入れず固いブーツで蹴りを打つ。

折れた前歯が小石のように散らばった。

そのまま流れるように動きを止めず、すぐ後ろで茫然と立ち尽くす二人目の男の股間を、ケンのブーツが蹴り上げる。

食いしばった歯の隙間から、シーっと空気を漏らしながら前かがみに崩れる男。

その左耳の下に、ナイフを握って固く締めた右の拳骨を打ち込んだ。

相手のダメージを確認する前にすかさず振り向いて、一人目の男の反撃に備えてナイフを構えるケン。

男は血まみれの口を押えながらケンを見上げているだけだ。その目は涙で濡れており、ショックを隠し切れない。

再び二人目の方を振り返ったケンだが、こちらも股間を抑えながら込み上げる吐き気を堪えるのに必死だ。

その横を、彼らが乗って来た下り電車が走り去って行った。

まずか十秒程の出来事だった。

ホームを再び静けさが包んだ。

わざわざとどめを刺して、事を荒立てたる必要はない。

襲撃に失敗して無様な姿を晒す二人組が、激痛に呻きながら、それでも悲鳴だけは上げまいと意地をみせているのも、問題を大きくしたくない一心からだろう。きっと次の上り電車で逃げ帰るはずだ。

そう判断したケンは、右手に握ったナイフをシースに戻すと、傍らに転がるバッグを手に取って、ホーム端から線路に降りた。

柵を乗り越えて駅の外に出た時、知らぬ間に心拍数が上昇しているのに気が付いた。

ケンは深呼吸を繰り返した。ひんやりした夜気をたっぷり吸いこみながら、平常心を取り戻そうと努めた。

ホームで痛めつけられた二人を、駅員が発見するのが先か、それとも上り電車に乗ってシマに帰るのが先か。いずれにせよ、ケンにとっては一刻も早く、駅の周辺から離れるのが賢明だ。


こんな田舎町では、駅周辺といっても夜更けに人影はない。

駅前の古い商店街もとっくにシャッターが下りている。そのうちの半分は昼になってもシャッターを上げることはない。

アーケードの街灯は、寒々しい光を歩道に落とし、その一つが切れかかって点滅している。それがケンの目に映る唯一動きのある存在だった。

昭和四十年代から変わらずに在り続ける電化製品の看板。地元スーパーのシャッターに描かれたマスコットキャラクターは、塗装が剥がれたまま無邪気な笑みを投げかけている。

ゆっくりと死に向かう寂れた街。その侘しさが、異邦人であるケンを少しだけ心細くさせる。だが、世間と隔絶し時が止まったかのようなこの場所は、身を隠したいケンには好都合だ。

緊張を強いられて興奮状態にある心と、無駄に力んだ体。それらを素早く開放する術を心得ているケンは、無人の商店街を抜ける頃には、すっかり落ち着きを取り戻していた。

肉体は疲労困憊だが、夜が明ける前にできるだけ動いた方が良い。どこか、身を隠せる場所を探さなくてはならない。

奴らはまた追って来るだろうか。いや、ヘロインは連中の手にある。ならば今さら俺を殺して何の意味があるというのか。

だが、あの二人組は実際、俺に対する殺意を持っていた。やはり油断できない。

そんな思考の堂々巡りを続けながら、ほとんど無意識に歩き続けたケンは、ふと潮の香りに気づき、吹き付ける風の冷たさに思わず身震いした。

その海風はケンに、なぜ自分がこの北の町、天ヶ浜を目指して来たのかを思い出させた。

「ゲルニカの木」という言葉と共に。

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