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ステンドグラスの狼  作者: こにくら坊や
15/25

悦子

天ヶ浜奉納祭まで一週間となった土曜日の朝、「ゲルニカの木」のカウンター内には、コーヒーの生豆を焙煎する悦子の姿があった。

土日が定休日の「ゲルニカの木」では、土曜の午前中の焙煎作業は毎週の恒例である。

スペースの都合もあって、使用するのは一回で最大五百グラムしか焙煎できない小型ロースターだが、焙煎後一週間以内に使いきることをポリシーにしている悦子には、現実的にはこのサイズで充分だった。

何年この仕事をやっていても、客のオーダー傾向や豆の減り具合を読んで、効率よく補充していくのは難しい。次の焙煎日まで持たずに空になる豆もあれば、たっぷり余らせてしまう豆もある。悦子こだわりの自家焙煎豆なので、もちろん鮮度には気を配っており、二週間経っても余っている豆は、自分が飲むことにして店頭からは下げると決めていた。

カウンター内の木棚に並ぶガラス製ポットを見ながら、悦子はキリマンジャロとマンデリンの焙煎を行うことにした。

日曜日は、カルチャースクールで開催しているステンドグラス教室の講師として、電車で隣町まで出かけなければならない。そのため悦子がゆっくりと自分の時間を堪能できるのは土曜日だけだった。

悦子は、無人の店内で焙煎作業に没頭する一人の時間が大好きだった。

同じコーヒー豆を使っても火力や焙煎時間でいくらでも風味は変わってくる。焙煎してはカッピングを繰り返す試行錯誤の日々を送りながら、悦子自身が納得のゆく品質を、毎回ムラなく再現できるようになるのには、相当な時間がかかった。

失敗を繰り返して、使い物にならない豆を量産し、随分と無駄にしてしまった。一時は自家焙煎などやめて有名店の豆を仕入れることも考えた。

だが、徐々に色づくコーヒー豆と、店内にたっぷり満ちてくる香りの虜になった今となっては、苦労してでも自家焙煎の道を選んで正解だったと思っている。

焙煎作業のひと時が、悦子の人生における重要な部分を占めるようになっていた。

そんな大切な時間を、より心地よいものにするために悦子は音楽をかける。それも、普段は店の片隅でほとんど置き物と化しているレコードプレーヤーをわざわざ使うのだ。

営業時のBGM用には、レコードなんかとてもじゃないが面倒でかけてはいられない。A面が終わったら、いちいちひっくり返してB面に、などとやっていた日には客の相手などできはしない。

だがコーヒー豆の焙煎という、悦子にとっては一種、儀式にも似た作業に向かうにあたって、レコードをかけるのはムード演出としては重要だった。

それは、ただスピーカーから流れる音楽を聴くだけに留まらない。レコードを取り出す時に、ジャケットから漂う紙とインクの匂いを楽しむ時点で、すでにコーヒー焙煎の儀式は始まっているといっても過言ではなかった。

傍から見ればナンセンスかもしれない。だが、こんな自己流のこだわりがあってこそ「ゲルニカの木」の自家焙煎コーヒーは完成するのだ。

今日は、どのレコードを聴こうかしら。

ラックには、数はそれほど多くはないが厳選されたレコードコレクションが並んでいた。そんな中から悦子が取り出したのは映画『卒業』のサウンドトラック盤だった。

今やスタンダードナンバーとして知られるサイモンとガーファンクルの歌がふんだんに使われたこのレコードを聴くと、映画そのものだけでなく、公開当時の記憶や、あの時代の空気、そして匂いまでもが鮮明に蘇ってくる・・・。


時代は六十年代末。

海の向こう、アメリカにおけるベトナム反戦運動やフランスの五月革命など、反体制の機運は日本にもダイレクトに伝わってきていた。全国の大学では学生運動が盛んで、闘争の時代と呼ぶにふさわしい状況だった。

そんな中、確実に時代が動いているという感覚を肌で感じながらも、芸術家志望の悦子は、政治ではなく文化に影響を受けた。それらは世相を反映した時代の産物であり、音楽、映画、演劇、文学、アート等々、いずれも何らかのステートメントを表明するものが多かった。

『ゲルニカ』鑑賞を目的とした人生初の海外旅行で、大いに刺激を受けて帰国した悦子は、そんなムーブメントに首まで浸かりながら、若き自称芸術家の仲間たちと自由気ままなボヘミアン的生活を送った。喫茶店に何時間も居座って、芸術談義、政治談議に花を咲かせていた。

今、この歳になって振り返れば、青臭い理想論やポーズだけのニヒリズムに思わず苦笑してしまうが、それでもあの頃のことは全面的に肯定したい気持ちでいる。

例え結果的には見当はずれだったとしても、何か大きなことが起こるのではないかという期待感に満ちた毎日。それがあの時代だった。

舞子の父となる男と出会ったのもその頃だった。

悦子と同い歳のその男は、映像作家を自称しており、酒を飲んでは映画についていつも熱く語っていた。スタン・ブラッケージ、ジョナス・メカスといった実験映画作家や、ゴダール、トリュフォーらヌーヴェルヴァーグの一派に心酔しており、口を開けば映画の商業主義からの解放を謳っていた。

そんな男にいつしか魅かれ、二人だけで会うようになった。男はすぐさま悦子のアパートに転がり込んできて、二人の同棲生活が始まった。

どこで知ったのかは今もって謎だが、やがて同棲は悦子の両親の知るところとなった。田舎の裕福な地主で、海外渡航をはじめ大学卒業後も金銭的な援助をしてくれていた父だったが、これ以降、ぱったりと仕送りもなくなった。

ちょうどそんな頃に、二人で映画館に観にいったのが『卒業』だった。

きっとシリアスは悲劇なんじゃないかしら、という悦子の予想をいい意味で裏切る映画だった。ダスティン・ホフマン演じる優等生ベンが、目標を失い、自堕落な生活のなかで人妻との情事に耽る姿は全く共感できなかったが、時代の空気を捉えたみずみずしい映像と、サイモンとガーファンクルの歌の素晴らしさもあって、さわやかな感動を覚えた。

そしてラストの、主人公が教会から花嫁を奪って逃げるシーンに衝撃を受けた。結婚式場から逃げ出してバスに飛び乗った二人は、初めこそ見事に成功した花嫁掠奪劇に笑っているが、やがて不確かな未来に思いを馳せて不安な表情を浮かべる。まさに行き先不明な同棲生活を始めた、今の自分たち二人を映しているかのようなラストシーンだった。

悦子は、観終えたばかりの映画を反芻し余韻にひたりながら、明かりのついた映画館の座席にしばらく身を沈めたままでいた。

そんな悦子の手を引いて「行こうか」といった同棲相手の優しい顔。思えば、その日が、彼と過ごした平穏な日々の最後の一日であり、あれが最後に見た笑顔だった気がする。

実家からの仕送りが止まり、貯金も底をついて、二人の生活は徐々に困窮するようになった。

悦子も、材料費や専用の工具などに金のかかるステンドグラス制作を続けることが困難になってきた。せっかく自分が求める表現手段に出会ったというのに、金銭を理由に諦めなければならないのか。そう思うとやるせない気持ちでいっぱいになった。

そんな状況にあっても男は働くでもなく、かといって映像作家を名乗るわりには何かを撮るわけでもなく、毎日ただぶらぶらしていた。彼の八ミリカメラは部屋の片隅に放り投げられたままだった。

そのうち二人は、顔を合わせれば口論をするようになった。

男は、今や映画に対する理想を熱弁することもなく、酔っぱらいながら同世代が撮る映画を罵倒したり、世の中に対する恨み辛みを吐き続けるだけの存在になり果てた。

もともと悪口を言うのも聞くのも嫌いな悦子は、ある時男に言った。

「そこまで言うなら、もっとすごい映画、あなたが自分で撮ればいいじゃない」

「まあな。その気になりゃいつでも撮ってやるよ」

「いつ、その気になるわけ」

自身の創作活動もままならず、うっぷんを溜め込んでいた悦子の言葉には、あからさまなとげがあった。

「なんなんだよ、お前。その言い方は」

「あなたこそ何なのよ。どうせ映画なんか撮る気もないくせして」

「はぁ?」

「恐いんでしょ」

「何、わけ分かんねぇ・・・」

「いっつもこき下ろしてる連中の映画さえ、自分には撮れやしないって分かってるから。自分で撮ったら、そんな現実を受け入れなくちゃいけないって分かってるから。だから恐いんでしょ」

容赦のない男の平手が、悦子の頬を打った。

生まれて初めて手を上げられた悦子は一瞬怯んだが、ますますむきになって続けた。

「この際だから言うけどね。作品を世に出して、それが酷評だろうと何だろうと、どんな評価だって真正面から受けとめる覚悟がない、そんな意気地なしにアーティストを名乗る資格なんてないわよ。ぶれない信念だって、ほかの人からあれこれ批評される中で磨かれるんだから。賞なんか取らなくたって、誰からもほめられなくたって、けなされたっていいじゃん。あなたが信じてる映画、撮ってみなさいよ」

悦子は、自分でも気づかぬうちに涙を流していた。

男は無言のまま、乱暴に開けたドアを閉めもせずに部屋を出て行った。

なんでこんな男に一時でも本気で恋をしたのだろう。はじめから私のお金と体が目当てだったのかも知れない。

そんな風に思うようになった頃、悦子は自分が妊娠しているのに気づいた。こんな状況で子供なんてと絶望的になった。子育てをする自分がどうしてもイメージできなかった。

これで子供を産んだら、きっと創作活動ともお別れね。

そう考えると辛すぎて、誰にも言わずに堕胎手術を受けようかとも考えた。

でも、もし妊娠したことを告げたら、悦子の貯金を食いつぶすだけだった彼も、真面目に働くようになるかもしれない。

映像作家の夢を諦めろと言いたいわけではない。悦子自身、ステンドグラス作家を諦めたわけではない。ただ、お互い創作活動からはいったん手を引いて、長い人生におけるほんの数年間を育児のために差し出そう。子供が成長して、手がかからなくなったら、また始めればいいのだから。

そんなかすかな希望にすがって男に妊娠したことを告げた。

翌朝、目を覚ますと悦子のアパートから男の姿が消えていた。八ミリカメラも一緒に無くなっているのを見て、男が逃げ出したのを確信した。

逃げた男のことは、悦子にとってはどうでもよかった。恋心など、とうの昔に醒めており、口論の絶えない毎日にうんざりしていたので、正直ほっとしたところもある。あんな男にわずかでも期待した自分が情けないだけだった。

問題は妊娠という事実の方である。今さら実家の親を頼ることはできない。かといって一人で産んで育てるのも不可能だった。あれだけ期待感に満ちていた悦子の将来は、今や暗い影にすっぽりと覆われていた。

でも、お腹の中に宿った命には何の責任もない。それなのに、その命と引き換えに自分の人生を諦めなければいけないなどと、私は勝手に落胆している。そんな気持ちを抱くこと自体、思い上がりも甚だしいのではないか。

そう思うと、悦子の中に親としての責任感が芽生え、勇気が湧いてきた。私の中に宿った新たな命。必ずこの世界に迎えてあげよう。そして立派に育ててみせる。つまらないプライドなどさっさと捨てて親に相談すべきだ。

そう決意すると、悦子はすぐに実家に電話をかけた。

両親からの厳しい言葉は覚悟していた。しかし意外にも、電話口の母は悦子の行動を一切責めることなく、全てを話し終えた悦子に対して「大変だったね。いつでも帰っておいで」と優しい言葉をかけてくれた。

電話をかける前は、何があっても絶対に泣かないと誓っていたのに、母と話し終えるや否や、安堵感と感謝の気持ちから、堪えていたものが溢れ出した。涙が止まらなかった。

後で聞けば、実は母以上に悦子を心配していたのは父だったという。だが、悦子に何も言わずに仕送りを打ち切った手前、ばつが悪くて言葉をかけられなかったそうだ。いかにも古い男という感じである。

この時、あらためて親の存在のありがたみが身に染みた。そして悦子は、もしわが子が、同じように困り果てて頼ってきた時には、例え理由はどうであれ、最大限の理解と愛情をもって受け止めてあげようと思った。


店内にはアルバム『卒業』の中から「スカボロー・フェア」が静かに流れていた。

今日のコーヒー豆は、普段よりちょっぴりほろ苦い仕上がりになりそうね。

そんな風に思いながら、悦子は焙煎の準備を始めた。

いざ焙煎を開始すると、作業に没頭して周りが見えなくなるため、いきなり「ママさん」と声をかけれた悦子は、びっくりして飛び上がった。

「やだ、驚いた。何?どうしたの」

悦子を驚かせてしまったことを、いかにもすまなそうにしながら、ケンがもじもじして立っていた。

「これ、えーっと・・・レント。お金持ってきたですね。三万」

「あ、家賃」

「はい、それ」

「お給料、週払いなのね。どう、造船所の仕事には慣れたかしら?」

「はい。少しだけ。お金、入りましたね。ごちそうさまでした」

 少しだけ慣れたのか、少しだけお金が入ったのか分からないし、ごちそうさまでした、とは一体?そんなちょっと頓珍漢なケンの日本語を、悦子は微笑ましく思った。

「はい。分かりました。では、頂戴します。ケンさん、座って。ひと段落したからコーヒー淹れてあげる。サービスよ」

「ありがとう。嬉しいね」

「どのコーヒーがいい?キリマンジャロとマンデリンは煎りたてでまだ飲めないけど」

「えー、ブレンド?」

「分ったわ、モカが飲みたいのね」

モカを飲みたい気分だった悦子は、笑いながらごり押しした。ケンもつられて思わず吹き出した。

カウンター席に腰を下ろしたケンは、悦子が丁寧にペーパードリップで淹れるのを眺めた。

ミルで挽かれて細かい粒子となった豆は、そっと湯を注がれてハンバーグのように膨れ上がった。

数十秒蒸らす間に、悦子はとっくに終わっていた『卒業』のレコードを再びかけた。

一曲目の「サウンド・オブ・サイレンス」に耳を傾けながら、ケンは思わず見惚れてしまった。

無駄のない手際でコーヒーを淹れる悦子の姿は美しかった。こうしたタイプの女性は、俺の人生に登場したことがなかったな。人生をしっかりと歩んできた人間だけが醸し出す芯の強さを感じる。自分の母親といってもいい年齢だろうが、凛とした美しさはむしろ加齢とともに磨かれてきた美のような気がする。異性というよりも魅力的な人間として憧れを抱いてしまう。

そんな風に考えていると、サーバーに落ちるコーヒーから目を離さずに作業を続けながら、悦子が言った。

「私の顔に何かついてるかしら?」

しどろもどろになりながら視線を逸らすと、ケンは慌てて話題を変えた。

「このミュージック、いいねぇ」

「映画音楽よ、知ってる?『卒業』っていう古い映画・・・はい、お待たせいたしました」

二つのカップに注ぎ分けられたコーヒーが、オーク製のカウンターに置かれた。

そこに舞子が入ってきた。

「なになに?二人で、こっそりコーヒーなんてズルいんですけど」

「何がこっそりよ、土曜だからっていつまでも寝てるあなたがいけないのよ。ケンさんと二人っきりでいいムードだったのに、邪魔しないでくれるかしら」

笑いながら言う悦子に、舞子も対抗して応えた。

「いいえ、きっちりお邪魔させて頂きます。自分で淹れるからいいもん」

棚からモカの瓶を手に取ると、計量スプーンできっちり二杯分の豆をミルに投入した。

「ちょっとちょっと。一人分にしては贅沢な豆の使い方じゃない」

「せこいこと言わない。濃い方が好きなんだもん」

 舞子はコーヒー豆を挽き始めた。

そんな母子のやり取りを見ながら、悦子の淹れてくれたコーヒーを口に運ぶケン。口内に広がる優しい苦みと、内側から鼻腔を刺激する香りに、心地よい幸せを味わった。

「ゲルニカの木」という魔法のような空間と、土曜日の午前中という夢のような時間。このひと時が、ケンにとってはいかに縁遠く、それゆえ貴重であるか。一秒たりともおろそかにせず味わい尽くしたい。そして一秒でも長く続いて欲しい。そう願わずにはいられなかった。

「歳の差カップルのお二人は、何のお話をしてたのかしら?」

冗談めかしつつも、実際舞子は二人が何を話していたのか、ちょっと気になった。

「今かかってる音楽のことよ」

「そう、サウンドトラック」

「観てないかしら、『卒業』。グラジュエート。有名な映画だけど・・・ケンさんにはちょっと古いかな」

「あー、知らないです。でもムービーソングで好きなのあるよ」

「え、何?どんな歌?」

ケンが音楽に興味を持っているなどというのは聞いたことがなかったし、そういうタイプにも見えなかったので、舞子は興味津々で食いついた。

「『スーサイド・イズ・ペインレス』(自殺は苦しくない)」

「知らなーい、母さんは?」

悦子も首を横に振った。

ケンは何とか日本語で説明した。

「戦争の映画『マッシュ』。コメディ。知ってる?」

母娘は揃って首を横に振る。

悦子も舞子も知らないあの映画を、果たしてどう説明したものかと、ケンは頭を抱えそうになった。

―「芸達者な俳優たちが繰り広げるブラックな笑いと、それとは相反するリアルな負傷兵のオペ描写。ドタバタコメディ調に中に、見事に描かれている戦場の狂騒」―

例え相手が同じアメリカ人でも、見たことのない人間に『マッシュ』の魅力を伝えるのは難しい。まして日本人の母娘には無理だろう。

半ば諦めながらも、ケンは自分の知っている日本語でなんとか伝えよと試みた。

「古いコメディね。面白い。ナンセンス」

「へぇ、戦争映画なのにコメディなんだね。面白い」

戦争映画といえば、派手なアクションかシリアスで暗いドラマかといった印象しか持ち合わせていない舞子は意外そうだった。

「そう。でもほんとの戦争も、時にはコメディ。バカ騒ぎやってます」

「え、そうなの?楽しそうだね」

無邪気な舞子の言葉に、ゆっくりと首を振ったケンは、努めて穏やかに言った。

「楽しくないよ。でも、戦争は普通じゃない。普通じゃないから、わたしも普通じゃなくなる。バランスね・・・分かる?」

ケンは、伝えたいことを上手く日本語にできない自分がもどかしくて仕方なかった。

ケンの真意を測りかねている舞子をみて、悦子が口を挟んだ。

「きっと、騒いで息抜きしながらバランスを取ってるのね。命がけの修羅場でまともな精神状態を保つためにはガス抜きが必要なんでしょう」

「イエス!」

ケンは、代弁してくれた悦子に向って大きく頷いた。

なんと、悦子はちゃんと理解しているようだ!ケンは悦子の洞察力に感心せずにはいられなかった。

「そのスーサイド何とかって曲が『マッシュ』って戦争映画の曲なの?」

「そう。映画はバカバカしい。コメディ。でもちょっとリアルもあるね。マリーンでも人気の映画。みんな好きだった。『スーサイド・イズ・ペインレス』はいい曲」

ケンは曲を口ずさみ始めた。

コメディ映画の主題曲とは思えない切なげなメロディに、舞子はコーヒーを淹れるのも忘れて聞き入った。

「へぇ、いい曲じゃん」

「そう、チームのみんなも好きだった。みんな一緒に歌った」

実際に、フォース・リーコンの仲間たちと酒を飲みながらよく歌ったもんだ。無骨な野郎どもによるハーモニー皆無の合唱だったが、みんなで一緒に歌うのが気持ちよかった。ケン達のチームが歌っていると、やがて周りで飲んでいた他の連中も徐々に加わって、最後は酒場全体を包む大合唱になることもしょっちゅうだった。

「生きるべきか死ぬべきかをなぜ問うのか。するもしないも俺の心次第。あんたも好きにするがいい」という歌詞が、戦場に生きる兵士たちの心に不思議とフィットして、海兵隊員の間でも長く歌い継がれていた。

ケンも舞子も、悦子もそれぞれが幸福を感じていた。三者に共通しているのは、この素敵なひと時が心地よくて、できればずっとこうしていたいという思い。そして、そんな思いとは裏腹に、やがて必ずや失われ二度と戻らない時間でもあるという、暗く確かな予感だった。

悦子は思った。だったら可能な限り、一分一秒でも長く、こうしてコーヒーを楽しみながら他愛ないおしゃべりを続けよう。自分はともかくとして、ケンと舞子のためにも、少しでも長く。

「ケンさん、今日のコーヒーは美味しいですか?」

「はい、おいしいですよ」

「そ、良かった。うちのコーヒー豆ってね、ちょっと他所と違うのよ」

悦子の言葉を、舞子が継いだ。

「フェアトレードって知ってる?」

「あー、分からないね」

「わたしもね、母さんに教えてもらって知ったんだけどね」

「そう。コーヒー豆って結構お値段するんだけど、実際、現地の生産者にはほとんど利益が還元されてないの」

ケンが理解できているかどうか不安だったので、悦子はもう一度言い直した。

「コーヒー豆を作っている人たちがいるでしょう?」

「いますよぉ」

「その人たちにとってはね、今の状況はアンフェアなの」

「よくないねぇ」

「でしょ。だから彼らがちゃんとした生活を送れるようにね、適正な金額を払って生産者から直接買うの」

「テキセイ?」

「高く買ってあげるってこと。それがフェアトレード」

舞子が付け加えた。

ケンは、完全に理解したように何度も頷いた。

「頑張っている人は、相応の報酬を受けるべきだから。生産者の生活が楽になれば、がんばってもっと良いコーヒー豆を作ろうって思うでしょ。だから美味しいコーヒーを飲むためにもフェアトレードって大切なのよ」

感心したようにケンは再び頷いた。

なるほど、ただ味が美味いだけのコーヒー豆ではだめなのか。「ゲルニカの木」の豆は、相応の対価を払って買われた、いわば選ばれしコーヒー豆ということか。

それは軍隊も一緒だなと、ケンは自分の身の上にこじつけて考えてみた。

特殊部隊やリーコンのような精鋭を育てるには金がかかる。何せ射撃訓練ひとつとってみても、通常部隊の兵士の何百倍もの弾薬を消費するのだ。最新の武器や装備だって特殊部隊から導入される。つまりは本物のためには、相応の対価が必要というわけだ。

「このコーヒービーン、わたしと同じ」

ケンの唐突な発言に、舞子は「は?」という顔をしたが、悦子は優しく微笑みながら頷いた。

「そうよ。ケンさんと一緒。ずっと頑張ってきたんでしょ。だから相応の報酬を受けなさい。あなたにはその権利があるはずよ」

悦子の言葉も、ケンに負けず劣らず唐突だったので、舞子は益々混乱し「え?」と眉をひそめた。

だがそんな悦子の言葉が、ケンの心には響いてきた。

俺は確かに頑張ってきた。精鋭になるべく全力で訓練に取り組んだ。そして、戦地に送り出されれば、国家のために命を張って戦った。それは今も確信を持って言い切れる。

だが、失敗に終わったあの作戦以来、自分を責めるようになった。あの場で死んでいても不思議はなかったのに、今ものうのうと生きている自分が腹立たしかった。

仲間たちを失った喪失感と、自分だけが生き残ってしまった罪悪感に苛まれたあげく、俺は再びかの地に降り立とうと考えている。そのためにまとまった額の現金を欲している。

そんな俺に対して、目の前のこの尊敬すべき女性は「あなたは報酬を受ける権利がある」と言ってくれた。だが、それは何の報酬だろう。

「報酬?」

「そう。報酬よ。もし誰もケンさんにくれなかったら、自分があげてね」

「自分があげる・・・お金ないねぇ」

「お金とは限らないわ。自分を大切にするとか、優しくするとか、許してあげるとか・・・そんなご褒美だって報酬なんじゃないかしら」

悦子の言葉を聞いたケンは、頑なに閉ざしていた心が、ゆっくりと氷解するような心地よさを感じた。

そうなのか?俺は、自分を許してもいいのか。そうすべきなのだろうか・・・

だが同時に、飛び去るヘリの上から朦朧とした意識で見た光景が蘇った。

炸裂した誘導爆弾により地獄の業火に包まれたジャングル。その熱波で肺が焼かれ、呼吸ができなくなったあの瞬間。今も自分を呪縛し続ける生々しい記憶が、決してケンを許そうとしない。少なくとも倒れていった兄や仲間たちを母国に連れ帰るまでは、平穏な日々など望むべきではない。

二人のやり取りに面食らった舞子だが、やがて何となく理解した。

わたしが、侵してはいけないと常に気をつけているケンさんとの一線を、母は軽々と飛び越えたのではないか。無理やり侵すような乱暴なやり方ではなく、そっと触れるような優しさで。さすが母さんだな。私にはそんなまねは無理だわ。

悦子に感心しながらも、かすかに嫉妬らしき感情を覚える自分を認めたくなくて、舞子は無理やりそれを打ち消した。

レコードは、季節の移り変わりと、男女関係の移ろいを対比させた歌詞が秀逸な曲「四月になれば彼女は」に差し掛かっている。

ケンの中では二つの感情がぶつかり合っていたが、やがて、今はこの平穏な時間を心行くまで堪能しようと決めた。ここ日本で、悦子と舞子がいて、肉体労働に従事しながらつつましく暮らす日々。これこそがケンに与えられた報酬なのかもしれない。望んだところでいつかは失われるものならば、わざわざ自分から捨てる必要はないだろう。

ケンは、少し冷めて、程よい酸味の出てきたコーヒーを口の中で転がした。ヘロインを持ち逃げしたあげくヤクザに狙われたことも、ほとんど忘れかけていた。

「疲れたらいつでもここに戻ってらっしゃい。その時は美味しいコーヒー、淹れてあげるわ」

悦子の言葉は、まるでケンがどこか遠くに旅立つかのような印象を与えた。ケンも舞子も、悦子さえも自覚していなかったが、旅立ちの日、別れの時は必ず訪れるのだという確信めいた予感を、ここにいる全員が心の奥に秘めていた。

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