恩師
自衛隊時代の恩師、栗岩との再会を決心した妹尾は、さっそく自衛隊に問い合わせの電話を入れた。
栗岩が今も陸上自衛隊に勤務していることを突き止めると、その連絡先を入手した。現在は朝霞駐屯地の業務隊厚生課の課長として、隊員の福利厚生を担当しているという。
緊張感から手のひらがうっすら汗ばむのを感じながら、妹尾は勇気を出して厚生課に電話を入れた。電話口の女性が栗岩に取り次いでいる間も、緊張は高まり続けた。
やがて受話器から声が聞こえてきた。
「もしもし、栗岩です」
その声からは、さすがに過ぎ去った歳月が感じられた。妹尾が記憶している声よりもずっと老いた印象だった。だが、なぜか妹尾の耳には心地よく響いた。大きく包み込んでくれるような安心感に、妹尾は電話をかけて良かったと思った。
「覚えておいででしょうか?自分は妹尾と申しまして昔、お世話に・・・」
十数年ぶりの突然の電話にも関わらず、栗岩は戸惑うこともなく答えた。
「妹尾君だろ?もちろん覚えてるよ!どう、元気にしてるの?」
「はい、ご無沙汰して申し訳ありませんでした」
「いやいや。君のことだからきっと忙しくしてるんだろう?フランスはどうだったかね、外人部隊には入隊したの?」
「ええ、まぁ、色々ありまして・・・今は除隊しておりますが」
妹尾は口ごもった。それを察した栗岩は、気にする風でもなく話題を変えた。
「そうか、ご苦労さんだったね。それより、どう?久しぶりに会わないかね。酒でも飲みながら話そうじゃない」
妹尾は、誘っても断られるのではないかと内心ビクビクしていたので、栗岩から切り出してくれたのはありがたかった。
「はい、よろこんで!ただ、ちょっと大きな仕事が控えておりまして。急ではありますが、できれば、その仕事が始まる前にお会いできると嬉しいのですが」
「やっぱり忙しいんだね。良いことだ、うん。僕の方は暇人だから。いつでも都合つくよ」
そう言ってくれてはいるが、さすがにさっそく明日というのもちょっと急すぎるだろう。
「では、明後日の土曜日などいかがでしょう。夕方に、そちらの近くで」
「よし、そうしよう!いやぁ楽しみだな。今日は電話してくれてありがとうね」
栗岩との約束の日の午前中、妹尾の部屋の電話が鳴った。私立探偵岡野からの報告で、ケン・オルブライトの居場所を確定したという。捜索依頼から四日間でターゲットの現在地だけでなく、その職場や宿泊先の情報まで掴んでいるのには、さすがに妹尾も感心した。
「やっぱり天ヶ浜?」
「ええ、そうでした。奴さん、あの町に住み着くつもりなんすかねぇ、まじめに仕事してますわ」
「へぇ・・・」
「町はずれの造船所で働いてます。あと美人の彼女ができたみたい」
「彼女?」
「そ、彼女。全くアメリカ人ときたら、なんであんなに手が早いんすかね。さっそくカワイ子ちゃんと一緒に暮らしてるんだから」
「ホテル住まいとかじゃないのか」
「ええ、喫茶店の上に住んでますよ。その彼女の家みたいですわ。ちょっと覗いたんすけど、これまた美人のママさんがいましてね」
「ママさん・・・美人の?」
「そ、美人の。『ゲルニカの木』っていうお店っす」
妹尾は、情報を漏らさず書き留めると受話器を置いた。
さすが岡野。必要以上といっていい情報量を、申し分のないスピードで集めて報告してきた。いよいよ仕事に取り掛かる時だ。明日にはさっそく天ヶ浜に向かうとしよう。そしてその前に、今夜は栗岩と十数年ぶりの再会だ。
今回の仕事が何か特別なものなのか、それともこれまでと変わらない掃除の一つなのか。それは終わってみるまで分からない。だが第六感のようなものが、今回は今までとは違うと知らせてくる。果たしてどう違うのか、失敗に終わるとでも言いたいのか。
そんなはずはない。自分は必ず成功させる。そして、これを最後に掃除屋稼業から足を洗うにしても、結局辞められずに続けるにしても、それは自分自身が決めることだ。その後の人生を左右するであろう岐路を前に、これまでもいつだって自分で決断を下してきたのだから。
だが、栗岩に会いたい、そして話しをしたいという今の切実な気持ちは、もしかしたら、栗岩から答えが欲しいという期待の現れかもしれない。
「もう辞めにしなさい。掃除屋なんていってるけど、君がやってることはれっきとした殺人だ。大丈夫、これまでの殺しはきれいさっぱり忘れて、新たな人生をスタートすればいいじゃないか」
そんな、都合の良すぎる言葉をかけてくれる栗岩の姿を、繰り返し想像している。だが現実には、殺しを生業としている今の自分をさらけ出して相談するなどということはあり得ない。それは妹尾自身がよく理解していた。それでも、ケン・オルブライトを始末すべく北の町に向かう前に、どうしても栗岩に会っておきたかった。
唐島興行からの依頼は、ターゲットの殺害と、その死体を写真に撮ること。
岡野の情報によると、ターゲットが潜伏する天ヶ浜では、来週末には地元の祭りが開催されるらしい。それは妹尾にとって好都合だった。祭りの取材で町を訪れたフリーのカメラマン。決まりだ。これで海辺の田舎町によそ者が現れても、別段怪しまれる心配もないだろう。
妹尾はちらりと腕時計を見た。待ち合わせまでにはまだ数時間ある。万一、栗岩と会って気持ちがぶれるようなことのないよう、さっさと仕事の準備を済ませてしまおう。
妹尾は、小型防湿庫から出してきたマニュアルフォーカスの一眼レフカメラに手際よくフィルムを装填すると、撮影道具一式と一緒にクッションの効いたバッグにしまい込んだ。外から見れば完全にカメラバッグだが、実は二重底になっており、拳銃はそこに隠す。準備は万端だ。
指定された割烹料理屋「銀なまず」は路地裏の目立ちにくい場所にあったが、栗岩が目印と言っていた、軒先にある木彫りのナマズのお陰ですぐに分かった。
約束の時間より三十分も早く着いた妹尾は、入り口が見えるベンチに腰を下ろして栗岩を待った。初めての場所には早めに着いておきたいのは、仕事でなくても同じだった。
しばらくすると初老の男が通りの向こうから歩いてきた。あれが栗岩だろうか。電話の声以上に、年老いて小さくなってしまった印象に妹尾が戸惑っていると、男は声をかけてきた。
「妹尾くーん、久しぶり!いやぁ、君は変わらないねぇ、すぐに分かったよ」
「どうも、ご無沙汰しております」
栗岩は、深々と頭を下げる妹尾の肩に手をかけて促した。
「さぁさぁ、堅苦しい挨拶は抜きだ。早く入って一杯やろうよ、ここはねナマズの刺身が美味いんだ。私のお気に入りのお店なの」
こじんまりとした店内は、週末ということもあって結構な賑わいをみせていた。場所柄、ほとんどが常連客なのだろう。
「栗岩さん、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
恰幅のよい女将が、甲高い声で二人を出迎えた。
「やぁママ、今回は急ですまなかったね。なにせ大事なゲストだもんでさ」
「あら。だったらますます腕によりをかけますから。ナマズ料理、楽しんで下さいな」
女将は奥の個室に二人を案内した。
「じゃぁねぇ。先ずはビール。瓶ビール二本お願いね」
「はい、承知しました」
ビールが出てくるまでのわずかな時間に、栗岩はナマズに関する講釈を披露した。
「妹尾君、吉川ってナマズ料理で有名なところでね。私もこっちの駐屯地に転勤になってからは、休日になるとよく食べに行ってたの。電車に二十分くらい揺られてさ」
「よほどお好きなんですね、ナマズ」
「うん、だって食べたら分るけどもさ、美味いんだよ、これが。でね、数年前にここができたおかげで、吉川まで行かなくても近場で食べられるようになってさ。もう嬉しくてね」
「ウナギ屋はたくさんありますけど、ナマズ料理ってあまり聞かないですね」
「でしょ?輸送が難しいから。振動に弱くてすぐに死んじゃうんだって。あと共食いもするからね。だから基本的には養殖だろうと天然だろうと、産地でしか食べられないんだよ」
「お待たせしました。」
よく冷えたビールが運ばれてきた。
「栗岩さん、またナマズの宣伝してくれてるのね。うちの宣伝大使。感謝するわ」
ナマズ料理のフルコースに舌鼓を打ちながら酒を楽しむ宴は、妹尾の自衛官時代の話、特に第1空挺団での苦労話に終始した。栗岩は、あえて妹尾に外人部隊でのことは聞かなかった。
恐らく妹尾は、一般人なら生涯を通じて、先ず経験することのないであろう過酷な修羅場を経てきているに違いない。今も若々しさを残してはいるが、いい意味で上昇志向の塊だった自衛官時代の妹尾が発散していた前向きなエネルギーは、どこからも感じられない。
それは仕事柄、多くの人間を見てきた栗岩には一目瞭然だった。そして、それが単に加齢からではなく、体験に起因するものだということも分かった。
「いやぁ、私もあとちょっとで定年退職なんだけどさ。長い自衛官人生で最大の失敗はね、妹尾君、きみみたいな優秀な男を自衛隊に引き留めておけなかったことなんだよね」
冗談とも本気ともつかない口調だった。
「まぁ、でもね。今も忙しくしてるみたいで嬉しいよ・・・えっと、今は何の仕事してるんだっけ?」
口では、君は変わらないと言いつつも、何か大切なものを失くし、脱け殻となってしまったかのような妹尾の変貌ぶりが気がかりな栗岩は、それとなくたずねてみた。
「今は・・・警備関係の仕事をしております」
「ほっほぉ、それはいいね。君にはぴったりだ。自衛隊での経験をちゃんと活かしてるじゃない。立派なもんだ」
自衛隊での経験か・・・まぁ、確かに活かしていると言えるかもしれない。しかし警備関係とは我ながら笑えない冗談だな。大嘘にも程がある。自分の仕事は備え、守ることではなく襲い、命を奪うことなのに。
栗岩に褒められるほど、現実との落差から、妹尾は自虐的にならずにはいられなかった。レンジャー課程修了時に駆けつけてくれた栗岩は、あの時、実の父親のように喜んでくれた。そんな栗岩を騙すのは、冷血漢の殺し屋でもさすがに心苦しい。
さらに追い打ちをかけるように、主任教官のあの時の言葉が脳裏にまざまざと蘇った。「レンジャー徽章を輝かせるのも、曇らせるのも君たち次第」。ここ数年の間、俺はレンジャー徽章を、そしてあの頃の自分を裏切り続けてきた。
あれほど輝いていたからこそ、今では見るのも辛い徽章は、仕事道具を保管している金庫の奥にしまい込んだままになっている。栄光の時代の象徴など、とっとと廃棄すべきなのだ。大好きだった祖母と遊んだ屋上遊園地の甘い思い出さえ、あえて破壊して人間的な心を捨て去っているのだから。良心などこの仕事に於いては害でしかない。
それでもレンジャー徽章を捨てられずにいるのは、掃除屋稼業から足を洗って再びまっとうな人生に舵を切りたいという思いがあるからだろう。自己への挑戦や自己肯定など最早どうだっていい。ひっそりと堅気の生活を送ることさえできればそれで十分だ。
「ところで、徳子さんは元気にしてますか」
徳子と別れて以来、今の今まで、彼女のことなど思い出したこともなかった妹尾だが、なぜか気がついたら口に出していた。
「徳子?ああ、元気にやってるよ。今じゃ三人の子供のお母さんだよ」
栗岩の言葉に、激しく動揺し頭に血が上るのを感じた。
「ほぉ、それはそれは・・・」
「上の子が来年中学進学で、次が今、小学二年生。一番下が今年から幼稚園。三人とも女の子で、まぁこの先色々心配だよ」
栗岩の言葉や表情からは、孫娘たちの成長を見守る喜びが溢れ出ていた。
「徳子さん、きっといいお母さん振りを発揮してるんでしょうね?」
妹尾は、辛うじて平静を装いながら思った。自分は何を動揺している。まさか、徳子とよりを戻せば、己の人生もまたあの頃に戻るのではないか、生まれ変わって幸せな生活を送れるのではないか、などと自分勝手に考えていたのか。
無意識とはいえ、徳子のことをそんな風に、都合のいい存在とし見ていた自分が情けなかった。彼女にとって自分は、人生における通過点の一つに過ぎないのだ。自分にとっての徳子がそうなのだから、当たり前ではないか。徳子はすでに立派に自身の人生を歩んでいる。こちらが知る由もない生活を送っている。妹尾は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「旦那も真面目ないい男でさ。普通の会社員。まぁ、妹尾君からしてみたら、つまらん男に見えるだろうけど、徳子にはああいうタイプがお似合いだ」
「・・・いえ、平凡な人生を歩む覚悟というのは、それはそれで立派かと」
顔も名前も知らない徳子の夫に、微かな嫉妬心を覚えている自分を認めたくなくて、なんとか絞り出した精いっぱいの言葉だった。
「そう思う?」
「はい・・・」
「まぁ、私もね、定年したらのんびりしようと思ってるんだけど、なんだかんだ孫の相手で忙しくなるかもなぁ。下の子なんか幼稚園に入ったばっかりだからさ」
そう言って笑う栗岩は、本当に幸せなおじいちゃんの顔になっていた。
妹尾は、さっきまで美味しく感じていたナマズ料理の味が分からなくなってしまった。心地よいほろ酔い気分からも完全に醒めていた。
気がつけば、時計の針は二十二時を回っていた。三時間以上も話していたことになる。
「さて、君も忙しいだろうから。今夜はこの辺でお開きにしようか」
栗岩が宴の終了を告げた。妹尾は少しがっかりした。それは懐かしい再会の終了からくる気持ちというよりも、期待を裏切られた気分によるものだった。栗岩に会えば何かが変わるのではないかという勝手な思いが希望的観測でしかないことは、初めから分かっていたのに。
「はい・・・栗岩さん、今日は会って頂いてありがとうございました」
「いやいや、私の方こそお礼を言わなくちゃ。連絡をくれてありがとうね。嬉しかったよ」
会計を済ませながら、栗岩が言った。
「さて、ちょっと駅まで歩こうか」
「でも栗岩さん、遠回りになるのでは?」
「なに、酔い醒ましにはちょうどいい散歩さ。酒の臭いさせて帰るとね、孫たちが寄ってこないのよ。臭い臭いって」
二人は「銀なまず」を後にした。
北の町の名も知らぬ駅で、ケン・オルブライト襲撃に失敗した夜から半月ほどが経っていた。
大けがを負わされた挙句、逃げ帰ってきた新井と堀田のコンビは、鳴海にみっちり絞られて、自分たちの演じた失態に落胆したが、ようやく傷も癒え、新たな仕事を振られて少しほっとした。
俺たちはまだ花山一家から見捨てられてはいないようだ。ならば今度こそ、しっかり役目を果たし十分使えるってことを証明しよう。汚名返上のチャンス到来だ、と二人は意気込んでいた。
新たな仕事というのは、ヘロインの取引だった。ケン・オルブライトから騙し取った五百グラムのヘロイン、末端価格にして7千万円分のブツを別の組にまるまる買い取らせるのだ。
元はといえば唐島興行のもので、棚ぼた式に舞い込んできたヘロインである。強引な手段で強奪しているだけに、今後厄介ごとの火種にならないとも限らない。早々に現金に変えて、自分たちの足跡を消しておきたい花山一家としては、不本意ながら桜田組にまとめて買い取ってもらうことに決定した。
かつては縄張りを巡って抗争を繰り広げたこともある桜田組だが、現在は花山一家の組長、花山譲二が苦労して締結にこぎつけた協定により休戦状態にあった。目下、日の出の勢いでシマを拡張している花山一家ではあるが、無駄な戦争による疲弊を避けるべく、桜田組のシマだけは侵すべからずの方針が徹底されており、両者は少なくとも表面的には友好関係にあった。
桜田組との交渉は鳴海が担当し、一括買い上げ、現金での支払いを条件に四千五百万で手を打った。花山譲二も「ここで欲かいても仕方ないだろ、もともと無かったもんなんだから。それでいけ」と、迅速な取引に前向きだった。
桜田組が指定した取引現場は、放棄され長らく使われていない倉庫群の中の一つだった。そこが桜田組のシマのど真ん中にあるのがどうにも気に入らなかった鳴海は、万が一に備えて現場から数百メートルほど離れた位置に車で待機することにした。新井と堀田がブツを引き渡して現金を受け取ったら、まっすぐ鳴海の待つ場所まで戻り、そこから車で花山一家のシマに帰る算段だった。
新井と堀田は極度に緊張していた。その原因は、取引を成功させて自分たちの価値を認めて欲しい、そんな思いからくる必要以上の気負いだけではなかった。花山一家が桜田組と抗争を繰り広げていた当時、まだ若手だった二人にとって、人生で初めてヤクザの世界における命の値段の安さを実感させられた相手、それが桜田組だった。
それゆえに、なめられてはいけないと虚勢を張って取引に臨んだ二人だったが、吐き気をともなうほどの緊張は隠しようもなかった。
そんな新井と堀田の気持ちはいい意味で裏切られた。取引はいたってシンプルで、ものの数分もかからず無事に終えることができた。桜田組の連中も、過去のことは水に流し、あくまでビジネスと割り切っているのが二人にはとってもありがたかった。
こっそりとトカレフを隠し持ってくるまでもなかった。頭をひねって銃の隠し場所を考えたのが馬鹿馬鹿しく思えた。安堵に包まれた新井は、倉庫を後にするや否や、堀田に軽口を叩いた。
「余裕だったな。これで兄貴の信頼も取り戻せるだろ」
「まあね・・・でも、ここはあっちのシマのど真ん中だろ。兄貴と合流するまでは気を抜けないよ」
四千五百万円分の現金が入ったバッグを抱えた堀田は、まだビクビクしていた。
その時、遠くからパトカーのサイレンが聞えてきた。こちらに近づいてくるような気がする。
桜田組の出方を心配するあまり、警察のことまでは気が回っていなかった自分たちを呪いたい気分になった。こんな時間に廃屋の倉庫付近を大の男が二人でうろついていたら、職務質問には格好の対象だ。大金の入ったバッグの言訳など考えるだけ無駄である。一発でアウト、署までご同行に決まってる。
またしても俺たちは失敗してしまうのか。しかも大失敗だ。ここでやらかしてしまったら二度と組には戻れない。ただでは済まされないことは誰よりもよく理解していた。新井は堀田に向かって叫んだ。
「兄貴の車まで走るぞ!」
それを聞いた堀田は、バッグを胸に抱えると弾かれたように走り出した。その後ろを走る新井の手は、無意識のうちに隠し持っていたトカレフに伸びていた。
小野公一、二十三歳。大学四年生。趣味は写真撮影と天体観測。
公一にとって、ロシアの軍事偵察衛星ミカエルの大気圏突入の知らせは、ここ数ヵ月で最も心がときめく出来事だった。一生のうちにそうそう体験できるものではない。そう考えれば、三ヵ月分のバイト代をはたいて200ミリの望遠レンズを新調したのも、当然の投資だった。
気象庁の予想では、ミカエルは九日後の早朝に北緯四十度辺りの日本海沖に墜落するという。素晴らしい天体ショーの予感に今から興奮が収まらない公一は、今夜も川べりに建つ古びたアパートの屋上に出ると、自慢の望遠レンズと高感度フィルムによる撮影の練習に余念がなかった。
大気圏突入時にバラバラになって日本海に降り注ぐ衛星というのは、一体どんな風に見えるのだろう。肉眼でも確認できるのか。それとも望遠レンズ越しでないと見えないのだろうか。落下する人口衛星のイメージとして、公一は流星群を想像していた。だが、あいにくこれまで流星群の撮影に成功したことはない。流れ星を相手に撮影の練習など、したくてもそんなチャンスに恵まれることは先ずないのだ。
廃墟の倉庫群を川の対岸に臨み、川沿いの街灯くらいしか明かりがない一角とはいえ、その向こうでは町明かりが空をぼんやり照らしている。夜空の星々も大して見えないこんな環境とあっては、月を撮影するのが関の山だった。だがここ数日、月ばかり撮っていたので、さすがに公一も撮影に飽きてしまった。
そんな公一の心にムラムラと欲望が湧き上がってきた。この望遠レンズがあれば、川の向こう岸の出来事も丸見えである。かすかな後ろめたさを感じながらも、公一はレンズ越しの観察という誘惑に抗うことはできなかった。
「銀なまず」を後にした栗岩と妹尾の二人は、狭い路地裏を抜けて川沿いの歩道に出た。右手には廃倉庫が立ち並び、明かりといえば等間隔で立つ街灯くらいで人影はない。最寄り駅までは街中を歩くよりも近道になるし、川の流れる音を聞きながら夜の散歩と思えば悪くないロケーションである。
「いやぁ、気持ちいいね」
「そうですね」
「ナマズ、美味しかったでしょ?」
「はい、珍しいものをご馳走になりました」
「ナマズって一見愛嬌あるけど、餌はカエルや小魚だし、共食いもするし。結構恐い魚なんだよね」
再び栗岩のナマズ談義が始まったが、妹尾の耳にはほとんど入ってきていなかった。妹尾の中では、栗岩に今の自分の状況を打ち明けたい欲求と、それは不可能であると告げる理性がせめぎ合っていた。
「恐い魚なんだけども、振動を与えると死んじゃうくらいセンシティブなんだよなぁ。それでさぁ、夜行性だから昼間はずっと暗がりに隠れてるの」
「ほほぉ」
生返事で答えた妹尾だったが、栗岩が続けて発した言葉に思わず我に返った。
「お天とうさまを堂々と拝めないような悪さでもしたのかね?」
「え・・・」
「ほら、昔はナマズが地震の原因だって信じられてたって言うじゃない」
「はぁ」
「地震で人間を困らせてたのが後ろめたくて、昼間は隠れているのかもなってね」
妹尾は何と答えて良いか分からずに戸惑った。
「いや、冗談だけどね」
優しい口調で栗岩は続けた。
「妹尾君さぁ、今何か悩んでる?」
思いがけない栗岩の言葉を聞いて、妹尾の中に全てをぶちまけたい衝動が込み上げてきた。だが辛うじて理性がそれを押さえつけた。
「栗岩さん。自分、仕事があるって言ったじゃないですか」
「うん」
「その仕事が無事に終わったら、また会って頂けますか」
やっとの思いで絞り出した言葉だった。
今回の依頼を最後に掃除屋は廃業する。そして堂々と日の当たる表舞台で、地に足を付けて生きる自分を見て欲しい。栗岩と再会を誓うことは、妹尾にとってそんな決断を意味した。
「もちろんさ、いつでも連絡ちょうだいよ。私は暇にしてるからさ」
「ありがとございます」
「今度の仕事ってのは、きっと大変な仕事なんだろうね。君を見てると何となく分るよ」
「そう・・・ですね。大きな区切りになりそうです」
「そうか、成功を祈ってるからね。まぁ、妹尾君なら大丈夫だよ」
しばらく沈黙したまま二人は歩き続けた。
遠くからパトカーのサイレンが聞えてきた。
「おやおや、事故かな?事件かな」
栗岩が言った次の瞬間、右手の狭い路地の暗闇から二人の男が慌てて飛び出してきた。
バッグを抱えた方の男が勢い余って栗岩に激突し、もんどり打って倒れ込んだ。
それを見たもう一人の男が怒鳴った。
「ばか野郎!遊んでる場合か。急げ」
新井に怒鳴りつけられてよろよろ立ち上がった堀田は、よほど気が動転しているらしく、バッグをその場に落としたまま逃げ去ろうとした。
それを見た栗岩は、親切心から声をかけた。
「ちょっと、そこのあなた。待ちなさいよ!バッグ!」
新井と堀田が路地から飛び出してきた瞬間から、妹尾の研ぎすまされた本能が、野生の勘ともいえる鋭さで不穏な空気を嗅ぎ取り危険を察知していた。もし酒を飲んでいなかったら、この悲劇はあるいは回避できたかもしれないし、それでも無理だったかもしれない。いずれにせよ、妹尾は脳内から分泌されたアドレナリンの影響で、目の前の出来事をスローモーションのようにじっくりと眺めることができた。
栗岩の声に反応したのは、転んでバッグを落とした男ではなく、それを怒鳴りつけた男の方だった。
その男は、栗岩の言葉を聞くやいなや、振り返って右手を前方に突き出した。
男の立つ場所が街頭の真下だったおかげで、その手に拳銃が握られているのがよく見えた。
本来の妹尾なら、ここですかさず行動に移ったはずだが、この時は金縛りにでもあったかのように動けずに、ただ見守ることしかできなかった。
男の手に握られたトカレフの銃口が一瞬、白く光った。
弾き出された薬莢が弧を描いて地面に落ちて行くのさえ見えた気がした。
振り向くと、右目に銃弾の直撃を受けた栗岩が立っていた。
左目は、優しささえ感じさせる眼差しのままだったが、次の瞬間には白目へと反転した。
それに合わせて栗岩の体は、膝から力が抜けるように地面にゆっくりと崩れ落ちていった。
栗岩が倒れた音が、驚くほど大きく妹尾の耳に響いてきた。
それが合図になったかのように、妹尾の体にようやくスイッチが入った。
新井までの距離を一瞬で詰めると、次を撃たせないようにトカレフをスライドごと握り込んだ。
発砲直後の銃はまだ熱かったが一切気にしなかった。
新井の目は、この数秒間で起きた事態を把握しきれていないように、人を射殺しておきながらもどこか虚ろだった。
妹尾は握ったトカレフを全力で外側に捻り、新井の指の骨を折ると同時に強引に取り上げた。
短く鋭い悲鳴を上げる新井をしり目に、振り返った妹尾は、茫然と立ち尽くしている堀田に向けて二発撃った。
体を反転させながら、地面に倒れ込む前に堀田は絶命していた。
再び向き直った妹尾は、さらなる苦痛を与えるために新井の膝がしらを撃ち抜いた。イギリス軍と抗争を繰り広げた武装組織IRA(アイルランド共和軍)が得意とした処刑スタイルをもって最大限の苦痛を与えた。プロフェッショナルらしからぬ無意味な行動ではあるが、栗岩を殺した男には、それが一瞬であろうと気が狂うような激痛を味わわせてから殺したかった。
喉の奥から絞り出す怒号に近い悲鳴を上げた次の瞬間、眉間を撃ち抜かれて新井も死んだ。
街頭に照らされて妹尾は立ち尽くしていた。
足元には三体の射殺体が転がっている。
こんな状況にあっても、妹尾の頭脳は高速で回転し、一体何をするのがベストなのか、その答えを弾き出そうとしている。
拳銃を川に投げ捨てた妹尾は、この場をできるだけ早く立ち去ることに決めた。
ほとんど無意識に、足元に落ちているバッグを掴むと走り出した。
見通しのいい川沿いの歩道を行くのはまずい。
妹尾はすかさず路地に飛び込むと、廃墟の倉庫が立ち並ぶ暗闇に姿を消した。
アイドリング状態の車の中でタバコを吸いながら、二人の舎弟が無事に戻るのを待っていた鳴海は、パトカーのサイレンが近づいてきて胸騒ぎを覚えた。まさか桜田組に裏切られたか。
パトカーはそのまま通り過ぎ、サイレンは遠ざかっていった。
鳴海は胸を撫でおろしながら、やけに神経質になっている自分に苦笑した。だが、そんな鳴海の耳に、今度は銃声が聞こえてきた。発砲音は不規則に五回続けて鳴った。いや、アイドリング状態の車中で銃声など聞こえるものか。俺の気のせいに違いない。今夜はナーバスになり過ぎているから、ありもしない幻聴が聞えるのだ。
そう言い聞かせつつも、鳴海の本能はトラブルが発生したことはまず間違いないと告げていた。
タバコをもみ消した鳴海は、深呼吸で心を落ち着かせると、ゆっくりしたスピードで慎重に車を出した。
やがて橋に差し掛かったところで、ハザードランプをつけて再び停車させた。川の方に目をやった途端、鳴海の心拍数が急上昇した。百数十メートルほど先、街灯の下に人が倒れているのが確かに見える。二人・・・いや三人?
さらに人影が闇の中に飛び込んで消えるのが、一瞬見えた気がした。何となく見覚えのある背格好のようだが、それが誰なのかは思い出せない。
ハンドルを握る手に汗が滲んできた。一体、何が起こったのか。だが今、それを考えても仕方がない。確かなのは、新井と堀田の二人は、任された仕事を無事に終えることができなかったということだけだ。動揺してまともな運転ができなくなる前に、この場を去らねばならない。
たった今、目にした光景をなんとか頭から締め出すよう努力しながら、鳴海は車を出した。気がつかなかったが無理な車線の割り込みでもしたのだろうか、クラクションを派手に鳴らされてしまった。
小野公一は、望遠レンズ越しの光景に夢中でシャッターを切りながらも、妙な冷静さを保っていた。
一瞬のうちに三人が殺され、その一部始終を目撃してしまったにもかかわらず、それがあまりにも現実離れしていたため、逆に衝撃や恐怖といった感情が湧き起こらなかったのだ。
街灯の下で起きた殺人は、まるでスポットライトに照らし出され、暗闇に浮かび上がる舞台劇を見ているようだった。
最初の一人が撃たれて倒れるのを見た公一は、すかさず撮影を始めた。フィルムの残量を気にしながらもひたすらシャッターを切り続けた。
二人目と三人目を撃った男は、しばらくその場に突っ立っていたので顔までしっかりと撮れているはずだ。それどころか、レンズ越しに目が合った気さえして、盗撮がばれたかと肝を冷やした。
でも、こんな殺戮が身近に起こることなど本当にあり得るのだろうか。公一は、これが映画かテレビドラマの撮影なのではないかと疑い始めた。だが撮影クルーの姿はどこにもない。二人を殺してバッグを持ち去った男も戻ってこない。やっぱり本物の殺人事件が起こったのだ。
そう確信した公一は最早、川沿いの歩道に横たわる三体の射殺体を見ていなかった。代わりに、撮影した写真の取り扱いを考え始めていた。新聞社に持ち込むか、週刊誌に売り込むか・・・その前にやっぱり警察に通報すべきだよな。しかしこんな夜分に、月を撮影していたらたまたま殺人現場を撮ってしまいましたなどと説明したところで、果たして信じてもらえるだろうか。厄介ごとに巻き込まれるのはご免だ。
とにかく一刻も早く現像しなければならない。でも写真店に持ち込んだら、特ダネを横取りされてしまう恐れがある。早速、明日にでも大学の写真部の友人にお願いして、暗室を使わせてもらおう。そう考える公一の頭からは、ロシアの人工衛星のことなど、きれいさっぱり消え失せていた。
妹尾は、慎重にルートを選びながら一つ先の駅まで歩くと、そこから終電に乗って部屋に戻ってきた。
栗岩が死んだ。
通り魔に殺されたのだ。
その事実を受け止めたくない。
寝て起きたら悪い夢でした、それで終わって欲しいと必死で願った。
だが、これまで幾多の修羅場を潜り抜けてきた妹尾の冷静な判断力は、悲劇がまぎれもない現実であることを突き付けてくる。
これは最悪の出来事だが、栗岩は何万分の一の確率の不運にたまたま見舞われたのだ。
その死は決して自分のせいではない。
とは言え、自分が栗岩を誘わなければ、悲劇は起こり得なかったのも確かだ。
自分は直接、さらには間接的にさえ突然の死をもたらす存在なのか。
死神だな、まるで。
妹尾は、己を責めずにはいられなかった。
次に妹尾が考えたのは徳子のことだった。
引退したら孫の世話を何より楽しみにしていた君のお父さんは、目を撃ち抜かれて殺されてしまったよ。
栗岩は、妹尾と会うことを誰かに喋っていただろうか。
徳子が知っていたら、父の死を自分と結びつけるのは理の当然だ。
微かな希望を託した自分の未来は今夜、完全に失われた。
妹尾は絶望的な気分に襲われた。
だが妹尾の強靭な精神力が、ゆっくりと悲嘆に暮れることを許さなかった。早くも回復に向けて動き始めるや、次にとるべき行動と、そのための準備を妹尾に促してきた。
あの暗い、川沿いの歩道に人影はなかった。
今頃は射殺体が発見されて現場は大騒ぎだろうが、目撃者はいないはずだ。
ならば、なおのこと当初の予定通りに行動すべきである。
明日の朝、早くにここを立ち天ヶ浜に向かう。
そしてケン・オルブライトを殺す。
その死体を写真に撮って、沖縄の唐島興行に持ち帰る。
だが、この部屋にはもう戻って来られないだろう。
そう考えた妹尾は、必要なものをかき集めて、荷造りを始めようとしたがすぐにやめた。余計な武器や弾薬など、持ち歩いたところでどうしようもない。足がつく可能性のあるものは処分して、その他は全てここに残して行くのが一番だ。予定通り、二重底のカメラバッグに隠したP7M8一丁だけを持って長年の住処を去ることに決めた。
妹尾は、部屋にある関係資料をガスコンロで燃やしながら夜が明けるのを待った。そもそも仕事の性質上、依頼者につながるようなものは初めから存在しないか、あってもその都度処分しているので、時間はほとんどかからなかった。
ふと、殺人現場から持ち帰ったバッグのことを思い出した。二人組の片割れが落としたものだ。男にそれを伝えようと声をかけて栗岩は撃たれた。親切心が仇となって起きた悲劇。
バッグを開けた妹尾は息を飲んだ。中には札束がつまっていたからだ。数えたところ百万円の札束が四十五束あった。
四千五百万円分のキャッシュを目の前にして、妹尾は考えてみた。唐島興行から引き受けた仕事もやめて、このまま誰も知らない土地に行くというのはどうだろう?これだけの現金があれば、それも可能ではないか。
だが、妹尾の心に一瞬灯った希望の光はあっさりと消えた。トカレフを持ち歩くような連中が関係している金なのだ。危険で汚い金に違いない。それを持ち逃げして安らかな生活を送れるほど、世の中甘くない。
例えそうであっても金は金だ。いずれ役に立つ時がくるかも知れない。予想外のトラブルを背負いこんでしまった今となっては、その可能性は非常に高いと認めざるを得ない。持ってゆく荷物が一つ増えたところで問題ないだろう。
緻密を極める妹尾にしては、大胆で楽天的な判断だった。今回の掃除は、やはりこれまでと何かが違う。そんな気がしてならない。
外は薄っすらと明るくなり始めていた。そろそろ始発の電車が動き始める頃だ。
妹尾は、ガス栓を閉めて電気のブレーカーを落とした。銃火器が保管されている金庫のカギは、途中でどこかに捨てるとしよう。
バッグを担ぎ部屋を出る時に、振り返って全体を見渡した。ここともお別れだ。二度と帰って来ることはない。
これ以上、持っていくべきものは本当にないかと、最後にもう一度考えてみた。ふと金庫の奥にしまわれているレンジャー徽章のことを思い出した。掃除屋の自分が持つべきものではない。このまま置いて行こう。
そう思ってはみたものの、どうしても決心がつかない。あの日、死ぬ思いで最終想定任務をやり遂げ、基地に帰還した時のことがまざまざと蘇ってきた。妹尾を迎えてくれた栗岩の顔が脳裏をよぎる。
この期に及んでまだ過去にしがみつく往生際の悪さに、やれやれと頭を振りながら金庫を開けると、レンジャー徽章を取り出した。まじまじと眺めるようなことはせずに、現金の詰まったバッグに無造作に放り込んで、妹尾は部屋を後にした。