海兵隊武装偵察部隊
部屋に戻ったケンは、シャワーを浴びることにした。
遠慮という概念がもともと希薄なアメリカ人ではあるが、さすがに初めはシャワーやトイレ等、井口母娘との共有スペースを使うのはちょっと気が引けた。ここに世話になって二週間が経ち、ようやく気兼ねなく使えるようになってきた。
食事は、悦子が気を利かせてケンの部屋に運んでくれていたが、それでは手を煩わせてしまうと思い、しばらくすると三人で一緒に食べるようになった。幼い頃より家庭と言いものを知らず、軍の仲間が家族のような存在だったケンにとって、三人で食卓を囲むのはどことなく気恥ずかしかった。
だが自分が遠く故郷を離れ、ここ日本で家庭を持ったような錯覚を味わえる食事風景は嫌いではなかった。想像したことさえなかったが、こんな人生も悪くない。天ヶ浜での平穏な日々の中に安らぎを見出し、そこに安住したい欲望を感じる。
ケンは、そんな自分に気づくと、即座に甘えを打ち消すように自身に言い聞かせた。
俺は一体何を考えているんだ。決して彼女らと普通の生活を送れる類の人間ではないのに。早く金を準備して、あの場所に戻らねば・・・。
今日のケンは、思いがけず二人組と対決したあの夜を思い出したため、ここ数日忘れていた不安を感じていた。シャワーでさっぱり汗を流し、気分を変える必要がある。
井口家の浴室は、ステンレス製のバスタブとシャワーのある洗い場という日本の典型的なスタイルで、ケンにはちょっと狭かった。
熱い湯を張った湯船につかる習慣がないケンは、いつも井口母娘が入浴する前にシャワーだけ浴びさせてもらっている。悦子は「シャワーだけで疲れ取れる?お風呂気持ちいわよ」と、入浴を勧めてくれたがシャワーで充分だった。
かつて一度、海兵隊仲間と日本の温泉に入った経験からすると、入浴はむしろケンを疲労させた。あんなに熱い湯に体を沈めていては、とてもじゃないが寛げる気がしない。温泉好きな日本人の感覚は未だに謎だ。
だが、コックを捻りシャワーノズルから勢いよく噴き出す湯を顔面に受けながらケンは思った。亡霊のようにしつこく過去が付きまとう今日という日に限っては、敢えて熱い湯船に浸かることで、自分をぐったり疲れ果てさせるべきだったかも知れない。過去を思い出す余裕もない程にぐったりと。
熱いシャワーに打たれながら、ケンは兄リックのことを思い出していた。
四歳年上のリックは、ケンにとって常にスーパーヒーローだった。そんな兄が亡くなって二年程が経つ。
兄だけでなく兄弟同然の絆で結ばれた仲間たちが、ケンの人生から突如退場して以来、この二年間の日々はとてつもなく長く感じられた。そしてその長い日々の延長線上に、俺は今もいる。
リックとケンはアメリカ中西部の北、カナダに接するミネソタ州の田舎町で生まれた。
父親はろくに働きもせず、昼間から酒を飲んでは暴れるろくでなしで、ケンがまだ母親のお腹の中にいる時に家を出ていったきり、帰って来ることはなかった。
若い母は女手一つで、何とか二人の息子が一人前になるまで育て上げようと、苦しい家計をやりくりしながら貧しい生活に耐えたが、それも数年で限界を迎えた。
ある秋の日に、母は幼いリックとケンを町につれ出すと、有名ステーキハウスで豪華なランチを振舞った。こんなに美味しい食事は初めてだった。
幼い兄弟の嬉しい驚きはまだ続いた。ランチを食べ終えると母は、バスに乗って二人を遊園地に連れて行った。生まれて初めて乗るメリーゴーランドや観覧車を楽しみながら、リックもケンも夢見心地だった。
売店に立ち寄ると、母は二人におもちゃのピストルを買ってくれた。息子たちが、テレビの再放送で見た古い西部劇の主人公が、拳銃をくるくる回しながらホルスターに収める仕草に憧れているのを知っていたのだ。
陽も暮れてイルミネーションが点灯すると、闇に浮かぶ遊園地は現実離れした美しさに輝いた。ガンスピンの練習に夢中になる幼い息子たちを見つめる母の目は涙で濡れていた。
母はしゃがみ込むとリックの目を見て言った。
「リック、あなたはお兄ちゃんなんだから、ケンを助けてあげてね」
そして二人の息子を両腕に抱き、たっぷり一分以上抱擁すると「ここで待ってなさい」と言い残して人ごみの中に消えた。
リックとケンは閉園時間になるまで、その場でずっと待ち続けたが、母が戻って来ることはなかった。
オルブライト兄弟がミネソタの孤児院に入所したその時、リックは十一歳、ケンは七歳だった。
ケンは自身の境遇を理解するには幼過ぎたが、リックは健気にも、自分達を捨てた母親の無責任な言葉を守ると誓った。その時以来、リックは人前で涙を見せることは決してなかった。
孤児院に入所した翌日、ケンは早速、同室の少年たちによるいじめの対象になった。下は五歳から上は一八歳まで四十人ほどの少年・少女が在籍するそこは、男女それぞれが年齢の近い子供達ごとにグループ分けされ、六~七人に一部屋が割り振られていた。
四歳違いのリックとケンは別々の部屋で寝起きしていた。その為、弟が新人いびりの対象になっていることにリックはしばらく気がつかなかった。
ある夜、消灯時間を過ぎてみんなが寝静まった頃、ケンが泣きながらリックの部屋にやって来た。訳を聞いたリックはケンに言った。
「いいかいケン。俺はお前をいじめている奴らより年上だし力も強い。そんな俺が仕返しをする訳にはいかない。たとえ弟のためでもね。だから自分でやるんだ、いいね。自分の力でやり返して思い知らせてやるのさ。大丈夫。お前はあんな奴らには負けないさ。俺の弟なんだから」
兄の言葉は期待していたものではなかったが、それでもケンはすっかり勇気と自信を取り戻した。
翌日、例によって嫌がらせが始まった時、ケンはいじめグループの中心となっている少年の顔面に思い切り頭突きを入れた。思わぬ反撃に、その少年も、周りではやし立てていた取り巻き連中も言葉を失い固まった。
その直後、鼻血の流れ出した顔を両手で押さえながらその場に跪いた少年は、失禁しながら泣きじゃくった。それを見た周りの子供たちは口々に臭い、汚い等と言いながら散り散りに逃げていった。
騒ぎを聞いて駆け付けた施設の責任者シスター・エリスは、罰として今夜はケンの夕食を抜きにすると宣言。夜になるまで物置の中で反省するようケンに言い渡した。
それを聞いたリックは、自分の出番が来たと思った。今こそ母の言葉を実行に移す時だ。
事の経緯を説明し、もしそれでもケンが悪いと言うのなら、代わりに自分の夕食を抜きにしてくれ、何時間でも何日間でも気が済むまで物置に入ってやる、とシスター・エリスに向かって毅然と言い放った。
僅か十一歳の少年が弟を守るために、大人を相手に断固とした決意を表明したことに内心舌を巻いたシスター・エリスは、リック・オルブライト少年の中に、生まれ持った強靭な精神力とリーダーとしての資質を見て取った。この少年はきっと素晴らしい人物に成長するに違いない。夕食抜きと物置での反省の罰は取り消しとなった。
シスター・エリスの予想通り、リックはその後、孤児院を出て行くまでの七年間を常にグループの中心にいる人気者として過ごした。リーダーシップを発揮して孤児たちをまとめ上げ、シスター・エリスの苦労を大いに軽減させる優等生だった。
その能力はボーイスカウトでもいかんなく発揮され、年上の少年少女たちを驚かせた。元来体は丈夫で体力もあったが、それでも日々鍛錬を怠ることなく自分を鍛え上げた。
そんなリックを、周りの少年達はいつしかマイティ(強い)のニックネームで呼ぶようになっていた。少女たちは、ほとんど例外なくリックに恋心を抱いた。ケンはそんなリックのことが誇らしかった。そして常に兄のまねをしようと努めた。マイティ・リックの背中を追い続ける日々だった。
十五歳になった頃、リックは早くも将来の進路を決めていた。十八歳になったらここを出て軍隊に入る。それも最強のアメリカ海兵隊だ。日頃のリックの言動を知る誰もが、きっと彼なら立派な軍人になるだろうと確信した。
孤児院を巣立つその日、シスター・エリスも少年たちも、大きなエールと共に彼を送り出した。孤児院に残されたケンは決して寂しくなかった。リックが海兵隊に行くのなら自分の人生も決まりだ。僕も十八歳になったら海兵隊に入る。
そう決心したケンは、その日がくるまでの四年間を、マイティ・リックのように心身を鍛えながら精いっぱいに生きた。
年に一、二回、リックは自分を育ててくれたこの孤児院に顔を出した。その度に精悍さを増し、軍人らしい逞しさを身にまとって変貌してゆく兄を見て、ケンは焦りを感じた。兄貴は自分よりも遥か先を走っている。このまま差が開いたら追い付けなくなってしまう。早くここを出て自分も海兵隊に入りたい。
そんなケンに対して、リックは諭すように言った。
「いいかケン。銃を撃つだけが海兵隊じゃないぞ。ここで学んだことは必ず軍隊で役に立つ。朝起きて自分のベッドを皺ひとつない状態に整える。そんな当たり前のことをしっかりとやれよ。お前が来るのを待ってるからな」
兄の言葉を励みに残りの日々を過ごしたケンは、十八歳になると約束通り兄の後を追って海兵隊に入隊した。その頃には、ケンにとってリックは憧れのヒーローであると同時に、負けたくないライバルのような存在になっていた。
ケン・オルブライトが十八歳で海兵隊に入隊した時、四年早く海兵隊員になっていた兄リックは海兵隊の中でも、数々の紛争地に真っ先に投入され、輝かしい実績を残す精鋭中の精鋭、武装偵察部隊の隊員になっていた。
第二次世界大戦時に前身となる部隊が創設され、朝鮮戦争の経験を基に一九五七年に正式発足したフォース・リーコンは、その後もベトナム戦争、パナマ侵攻、湾岸戦争など、米軍が関わるあらゆる戦いに尖兵として投入されてきた。
戦争の初期段階で敵地深くに長期間潜入し、その後上陸する本部隊のために情報収集を行うフォース・リーコンは、長距離偵察を得意とする斥候部隊である。一方で戦闘能力に於いても抜きん出た実力を有し、いざとなれば圧倒的な打撃力で敵を討ち、戦闘機、爆撃機による空爆や艦砲射撃の使用権さえも有する。
当然ながら隊員個々人の練度、士気は共にずば抜けて高く、偵察・監視任務をはじめ、射撃、格闘、空挺降下、爆発物取り扱いに長けたスーパーソルジャーである。近頃では市街地戦におけるCQB(近接戦闘)の訓練にも力を注いでおり、家屋など狭い空間での索敵及び戦闘にも対応。部隊の能力はますます万能化している。
陸・海・空軍及び海兵隊のアメリカ四軍中、当時、唯一特殊部隊を保有しないのが海兵隊だった。だが実質的にはフォース・リーコンこそが特殊部隊の役割を果たし、公式、非公式を問わず多くの特殊作戦を実行している。
それを裏付けるように、9・11同時多発テロ以降、アフガン、イラク戦争における特殊部隊の必要性が急増する情勢の中、海兵隊内に正式に特殊部隊MARSOC(後にマリーン・レイダースと改称)が創設されるのだが、その創設に携わった隊員のほとんどがフォース・リーコンのベテラン隊員だった。
フォース・リーコンの隊員になるには七段階に分かれた訓練課程をパスしなければならない。過酷さと難易度は全米軍においても随一と言われるその訓練は、長距離走、腕立て伏せ、懸垂、腹筋、遠泳などフィジカル能力を試される第一段階から、偵察、スキューバダイビング、極地サバイバル訓練、通信、破壊工作、空挺降下、敵地潜入・脱出、医療技術、人質救出と言った具合に、専門性と難度を上げながら進み、最終段階では実戦における作戦行動に参加し、候補生の能力が試される。
リック・オルブライトは今、このエリート部隊の隊員として日々、厳しい訓練と危険な実戦に携わっていた。
さすが俺の兄貴、マイティ・リックだ。俺も負けてはいられない。そんな思いを胸にケンは、新兵としてブートキャンプで基礎訓練に汗を流した。
新兵訓練の日々の中、ケンは兄のかつての言葉を噛みしめていた。孤児院で過ごした日々から学んだ事柄や身に着けた習慣は、軍隊に於ける共同生活の様々な場面で、ことごとく役に立った。おかげで軍人としての規律を叩き込まれる日々が全く苦ではなかった。
周りを見れば、なぜ軍隊に来たのだろうと首を傾げざるを得ない連中がゴロゴロいる。共同生活が苦手で周りと歩調を合わせられない者、行動がいちいちがさつな者。だらしなく身の回りの整理整頓ができない者。基礎体力が全く足りていない者等々。
ケンは訓練の一から十までを、乾いたスポンジのように吸収しながら、兄の助言と孤児院での日々に感謝した。同時に、こう言っては悪いが、こんなレベルの連中といつまでも一緒にはいられない、やはり兄貴の後を追って自分もフォース・リーコンを目指そう。そんな意識が早くもケンの中に芽生え始めていた。
海兵隊員になって二年後、ケンは第三海兵師団歩兵連隊の一隊員として沖縄の米軍基地へ配属となった。
アメリカ中西部の北に位置し、カナダと接する極寒の地ミネソタ州の孤児院で育ったケンにとって、真冬でも温かい沖縄の気候は驚きだった。
日本とアメリカが適度に混在した沖縄特有の文化を楽しみ、気がつけばこの極東の島国のことが、そこに住む人々、歴史や文化も含めて好きになっていた。
ケンは日本人の友人を作ると積極的に日本語での会話に挑戦し、楽しみながら日本語を学んだ。その甲斐あって彼の日本語はメキメキと上達し、それに呼応するかのように日本のことがますます好きになっていった。
自衛隊との合同訓練の後、初めて「ゲルニカの木」を訪れたのもこの頃である。
沖縄の基地に駐留する米軍兵の中には、日本という国に複雑な感情を持っている者も多かった。
俺たちはこの弱小国の子守りをするために母国を離れ、こんな辺境まで来てやっていると言うのに、ここの住人ときたら基地に対する抗議ばかりじゃないか。第二次世界大戦に負け、武器を持たずに戦争を放棄することにした日本から俺たち米軍がいなくなったら、あっという間に北朝鮮や中国に侵略されるだろう。デモに参加している連中はこのことを分かっていない。そんな風に感情を露骨に出す隊員もいる。
だが実際、米軍兵による日本人強姦事件は起きているし、航空機の発着による騒音問題や民間の敷地への不時着、墜落事故、実弾演習の危険性など問題が山積なのも事実である。さらに3500憶円もの日本国民の血税が沖縄の米軍基地のために使われている。
基地を巡る問題は単純ではない。こうしたことは政治家に任せておけば良い。いや、良いかどうかはともかく、俺たち一兵卒があれこれ考えたところで何かが変わるわけではない。こうした問題を改善するために政治家がいるのだ。
一方で俺たちは戦うために存在する。だから日々、訓練に明け暮れ己の技量を高めることに集中すればいい。ケンは自分自身にそう言い聞かせることによって、周囲の雑音に惑わされることも、進路がぶれることもなく、ひたすら兵士として高みを目指すことに専念できた。
ケンの目の前にそびえる巨大な山、フォース・リーコン選抜訓練課程。
必ずパスしてみせると心に誓ったケンは、数ヵ月に及ぶ課程に臨む直前、第一武装偵察中隊の隊員としてカリフォルニアのキャンプ・ペンドルトンに駐留する兄リックに国際電話をかけた。やっとつかまえた兄に、選抜訓練課程に挑戦するにあたってのアドバイスを乞うた。
沈思黙考の末、リックが弟に伝えた極意は次の通りだった。
「二つある。一つ目は、けっして無理だと思わないこと。人間ってのは不思議なもんで、無理だと考え始めると、本来できることもできなくなる」
「なるほど」
「もちろん選抜課程の体力訓練は、地獄って言葉さえ生ぬるく感じるくらいきついぞ。だが俺の見立てでは、お前の体力は基準をクリアしていると思う。忘れちゃいけないのは、その体力をフルに発揮できるかどうかは、お前の精神力にかかってるってことだ」
黙って聞くケンに、リックは続けた。
「そして二つ目だが、これはさらに具体的な、コツみたいなものなんだがな。先のことは一切考えるなよ。一分先のことさえな。とにかく目の前のことだけに集中するんだ。そしてそれを一つ一つクリアして行く。その結果として、お前はフォース・リーコンの隊員に成るだろう」
リックは付け加えた。
「無事にパスして一員になったら、一度休暇を取ってこっちに顔を出せ。祝ってやるから。大丈夫。お前なら絶対にパスできるさ。俺の弟なんだからな」
やはり兄貴は違うな、さすがマイティだ。ケンにとってリックのアドバイスは何より心強かった。そして屈強な海兵隊員が次々と音を上げ、挑戦したことさえ後悔しながら脱落してゆく壮絶極まりない訓練を乗り越え、晴れて沖縄のキャンプ・バトラーを拠点とするフォース・リーコン、第五武装偵察中隊の一員となった。その時ケンは二十二歳。海兵隊に入隊して四年の歳月が過ぎていた。これはケン・オルブライトの人生におけるハイライトと言って間違いなかった。
約束通りカリフォルニアで兄と再会し、少々荒っぽいが気のいい兄のチームメイト達に囲まれて祝ってもらった。連中とは初対面にも関わらず、握手ではなくお互いの拳を軽くぶつけ合ってあいさつを交わした。フォース・リーコンの一員になったケンに対する敬意の表れである。
その時に飲んだビールの味は、かつて飲んだどれよりも美味かった。そして今後飲むどのビールも、この味を超えることはないだろう。
その後も選抜課程同様に過酷な訓練と、決して失敗の許されない実戦の日々が待っていた。疲労と苦痛、そして充実感。この繰り返しの毎日が、ケンに生きていることを実感させた。ケンは兵士として、ひたすら己の身心を磨き上げた。
ケンの所属する第五武装偵察中隊は、アメリカが国外に司令部を置く唯一の海外遠征軍、第三海兵遠征軍に属しており、日本国内の各米軍基地の他、ローテーションによりアメリカ本土の基地を訪れる機会も頻繁だった。
そんな状況の中で、カリフォルニアにいるリックと顔を合わせることも何度かあったが、その度にケンは、兄がチームメイトや上官からいかに信頼されているかを目の当たりにするのだった。
二十代半ばで上級曹長の地位にある事実がそれを裏付けていた。孤児院から入隊した兵卒ゆえに、階級というヒエラルキーでは先が見えているが、もし恵まれた環境に育ち士官学校に入学していれば、きっと優秀な成績で卒業し、生来のリーダーシップを発揮して立派な指揮官になっただろう。
ライバルになれると思ったが、やはり兄貴はいつだって俺の遥か先を走っている。
やがてケンは、そんな兄と一緒に訓練に励み、本物の戦闘に参加したいという思いを強めていった。
リックにも相談し、カリフォルニアの第一海兵遠征軍所属、第一武装偵察中隊への転属希望を申し出ると、それは無事に受理された。こちらの基地の人事担当が「リックの弟なら間違いないだろう」と思って、融通を効かせてくれたのかどうかは知らないが、とにかくこれからは兄貴のチームメイトだ。益々張り切るケンに、リックは言った。
「くれぐれも足を引っ張るなよ」
優しく笑うその顔は、上級曹長としてのそれではなく、弟の決断を心から喜ぶ血を分けた兄のものだった。
ケンは、第一武装偵察中隊に転属となった直後、非公式ながら中隊に代々伝わる部隊章のタトゥーを左腕に入れることにした。それは短剣がドクロを上下左右に貫いた意匠で、十字架の中央にドクロが置かれているように見えた。
この部隊章を自分の肉体に刻むことで、隊員たちに迎え入れられて、本当のチームメイトになると言われており、結束力を高める意味もあって、多くの隊員が左腕に彫っている。
それは、その後他の部隊へ配置換えとなったり、除隊して別の人生を歩むことになったとしても、かつて栄光の第一武装偵察中隊員であったことを証明するものであり、彼ら兵士にとっては、その後の人生に於いても誇りとなる帰属意識の象徴だった。
それを聞いたケンは、タトゥーを入れるのに一瞬たりと躊躇わなかった。
リックと同じ部隊、同じチームの一員になってしばらく経ったある時、忘れられない出来事があった。
その夜、非番だったケンは基地を出てバーで酒を飲んでいた。ほろ酔いでカウンターの女の子との他愛ない会話を楽しんだりして良い気分だったが、それも柄の悪い三人組の酔漢が店に入って来るまでのことだった。
この三人組は大声を出しながら他の客をからかったり、女性に執拗に絡んだりしていた。
いよいよ悪行も度を超えて目に余るようになった時、店のバーテンダーが退店するよう申し出た。連中の返事は強烈な右ストレートだった。顔面をまとも殴られ呻くマスターと、短い悲鳴を上げて口を押える女性。店内の客が一斉に沈黙し、場違いなBGMだけが陽気に流れ続けた。
三人組が入店した時から、不愉快な気分とともにその行動を目で追っていたケンは、咄嗟に口を出した。
「酒が不味くなるだろ、生ゴミどもが」
三人組は一瞬驚いて目を丸くしたが、すぐに一人が口笛を鳴らしてはやし立てると、別の一人が続けた。
「なんだとぉ、ヒーロー気取りか?あんちゃん」
どうやら売った喧嘩を買う気らしい。そうこなくては。
アルコールも手伝って、ケンは映画みたいなセリフを口にしていた。
「よし、表に出ろ。まとめて相手になってやる」
日頃の訓練で習得した海兵隊流の近接格闘術がものをいった。自分から仕掛けず、向かってきた相手を捌いてバランスを崩し地面に倒す。仮に本物の戦闘ならば、すかさず銃を抜いてとどめを刺すところだが、もちろん人殺しになる気はないので、顔面を蹴り上げて戦意喪失に追い込んだ。
実際のところ、例え軍隊流格闘術を駆使しようとも、複数の相手が同時に掛かって来たら勝ち目はない。一対一の格闘が一対二となり、しかも異なる方向から同時に攻撃を仕掛けられたら格段に不利になるのは、例えばバッターに対し二人のピッチャーが同時に、しかも前後からボールを投げてくる状況を想像すれば分かるだろう。
この酔漢三人組が同時に向かって来たら、ケンがやられていた可能性の方が大きい。だが幸い連中は素人だった。素人に限ってルール無用の喧嘩に勝手にルールを持ち込んだ挙句、自分を縛る愚行を犯す。そこに木の棒が転がっていたら、それを掴んで振り回せば良いものを、なぜか正々堂々と拳で立ち向かってくるのだ。しかも行儀よく一人ずつ順番にである。
これではケンに勝てるはずがない。そんな訳で、三人組対ケンの戦いは一分とかからずに一方的な展開でケリがついた。
店から飛び出して来たバーテンが礼を述べつつ「今日のお代は結構、後はこちらで処理しておくから面倒になる前に」とケンを帰した。
基地への帰路、すっかり酔いは醒めていたが、ケンはちょっとしたヒーロー気分を満喫していた。自分の活躍に酔っていた。こっちはフォース・リーコンだ、お前らみたいな屑が勝てる相手じゃない。
数日後、リックが声をかけてきた。
「ケン、後でスパーリングをやろう。ジムに来い」
「お、チャンピオン直々の手ほどき?」
ケンは軽口で応えた。
様々なマシーンの並ぶトレーニングルームでは、隊員たちが空き時間を見つけては体を鍛えるのに余念がなかった。
中央にはリングが設置されており、ボクシングは正式な訓練種目ではないものの、闘争心の育成や体力の増強など、様々な面から奨励されていた。
大雑把に階級分けされたトーナメント大会が毎年開かれており、今年はリックがミドル級のチャンピオンの座に就いていた。これまでも何度かリックとスパーリングをやったことがあったが、その実力差は歴然としており、ケンはボクシングでリックを負かそうなどとは一度たりとも思わなかった。
リングの上でグローブを合わせながら、リックが言った。
「さっさと上がってこい。揉んでやる」
「はいはい、了解。チャンピオン殿」
この時点で、ケンはまだリックの眼が笑っていないことに気付いていなかった。ロープを跨いでリングに入るとグローブを構えた。
次の瞬間、リックの強烈な右フックが側頭部を打ち抜き、ケンはリングに這いつくばった。
「お、おい、ちょっと待ってくれ兄貴。もうちょっと手加減てもんを」
そう言いながら立ち上がったケン目がけて、すかさずリックの連打が炸裂する。
上下左右に打ち分ける強烈なパンチに堪えながら、根性で何とか立ち続けるケンだったが、それも十秒と持たなかった。
明らかに異常な雰囲気を察知した周りの隊員たちも、トレーニングの手を休めて成り行きを見守った。
よろめきながらコーナーまで戻ったケンは、肩で息をしながらリックを睨んだ。
何だって言うんだよ、一体全体。
ケンの心中が聞えたかのように、リックは言った。
「話がある。すぐに俺の部屋まで来い」
グローブを外してリングを降りたリックは、タオルを肩にかけると、さっさとトレーニングルームを後にした。
まだジンジン痛む体を引きずりながら、ケンは兄の部屋のドアをノックした。
「入れ」
血のつながった兄ではなく、海兵隊の同じチームに所属する先輩としての声の響きだった。
入り口に突っ立っていると、リックが言った。
「そこに腰かけろ」
過去、二十数年に渡って兄弟喧嘩はほとんどした記憶がない。明らかに何かに怒っている目の前のリックは、これまで見たことのない兄の姿だった。
「痛むか?」
「当たり前だぜ、リック。一体あれは何のまねだ」
着席するのを拒否し立ったまま吐き捨てるケンに、しばらく黙っていたリックが答えた。
「酒場での騒ぎのことを聞いた」
あの件と、この仕打ちに一体何の関係があるというのか。
「ああ、あれな。世の為、人の為。ゴミ掃除をしてやったよ」
「馬鹿野郎!」
兄の本気の怒声に、ケンは思わず体ごと飛び上がった。
ふっと息を吐くと、リックは静かな落ち着いた口調で続けた。
「いいか、ケン。俺たちが日々の辛い訓練で習得した技術は、民間人に使うもんじゃない。国の為、戦争で敵を相手に使うもんだ。分かるか?」
ケンはあの夜、基地に帰ってから、バーでの出来事をリックに報告し自慢しようとさえ考えていた。実際はしなかったのだが、きっと自分の勇敢な行動を、リックは褒めてくれると考えていた。
だが今、兄はあの時とった俺の行動を咎めている。到底納得できないケンは言い返した。
「あいつらは周りに十分過ぎる程迷惑をかけていた。おまけにバーテンを殴ったんだぜ。そんな連中を黙って見てろと?」
「黙って見てろとは言わない。だがお前が暴力を持って対処することではない。早めに警察を呼んで解決すべきだったと思う」
「警察なんか呼ぶまでもない。実際、俺一人で解決してやったぜ。バーテンも感謝してたしな。お陰で飲み代もチャラになった」
「お前は分かってないんだな」
「何を!」
尊敬する兄に対して、ケンがここまで横柄な態度で口答えしたことはかつてなかった。
「俺たちに高い技術、戦闘の技術を習得させるために、この国は莫大な防衛費を割いている。その金は国民の税金だ」
「それがどうした」
「国民は、酔っ払いを痛めつけてお前に良い気分を味わわせる為に金を払ってるわけじゃない。俺たち兵士がこの国を守ってくれると信じ、期待しているからこそ金を払い、そのお陰で俺たちは飯も食えるし仕事も得ている」
「・・・・・・」
「国に仕え、国民に仕える尊い仕事だ。彼らの期待を裏切るようなことは、今後絶対にしてくれるなよ」
しばし無言の状態が続いた。ケンが何も言わないのは、言い返す言葉を探していたからではなく、リックの言葉に衝撃を受けたからだった。俺たちが日々、厳しい訓練に明け暮れ技量を上げ、時に命を懸けて戦場に赴くのは国のため、国民のためであるということ。国民の期待に応える存在たれ、などとは考えたこともなかった。
こんな言葉がリック以外の人間の口から出たとしたら、きれい事はやめてくれと鼻で笑ったかも知れない。だがリックは、正にその言葉を体現する男なのだ。素直に受け止めるしかない。
「・・・分った、約束するよ、兄貴」
すっかり消沈したケンは、うつむいたまま回れ右をした。
肩越しに兄の声が聞えてきた。
「さっきは無茶して悪かったな。お前なら俺のパンチなんかへいちゃらだと思ってな」
その声の響きからは、先程までの会話にあった厳しい口調は消えていた。いつものリックの声だった。
振り返りこそしなかったが、ケンは心の底からほっとすると、頷いて部屋を出た。
その後の軍隊生活に於いて、ケンは度々この時のことを思い出しては考えるのだった。この件が無ければ、自分は未だにいきがった勘違い野郎だったに違いない。兄は、厳しい態度を持って俺の間違いを正してくれた。あのハンマーで殴られたようなパンチの重みは、そのまま俺が背負っている海兵隊員という看板の重みなのだ。やはりこの男にはどうしたって叶わない。
「それにしても、あのパンチは・・・殺人的だな」
リックの部屋を出ると、痛む体を引きずりながらケンは独り言をつぶやいた。
「よう、大将!派手にやられたな」
そんなケンに、陽気な調子で声をかけてきた男がいた。フォース・リーコンの同じチームに所属するロバート(ボブ)・ワナメイカー一等軍曹だった。
叩き上げのベテラン海兵で歳はケンよりも一回り上。テキサス生まれのテキサス育ち。どんな苦境の中にあってもジョークを忘れないタフガイで、その陽気な性格からチームのムードメーカー的役割を担っている。少々強引で荒っぽいところもあるが、決して敵に回したくない男であり、つまり味方ならばこれ程頼りになる男もいない。
鼻の下にたくわえた髭の手入れに余念がない洒落者で、昨年若いブロンド美人ケイトを女房にしてからは愛妻自慢が甚だしく、一緒に酒でも飲もうものなら小一時間は自慢話に付き合う覚悟が必要である。
「ボブか。見てたのか?」
「ああ、見てたさ。リックの奴も、ありゃちょっと大人げなかったなぁ」
「いや、兄貴は正しいことをしたよ。悪いのは俺だ」
「例の酒場での件だろ?」
「あんたも知ってたのか」
「ああ。チームの全員が知ってるよ。まぁお前の兄貴な、奴は特別だぜ。俺も海兵隊に二十年以上いるが、あんな聖人君子みたいな優等生は見たことないぜ」
無言でいるケンを見て、ロバートは続けた。
「俺がお前の兄貴なら、よくやった!それでこそわが弟だって褒めてやったね。リックはちょっと真面目過ぎるな。海兵ってのはなぁ、やんちゃ坊主で丁度いい位なんだぜ」
ケンは、ロバートが兄を批判している訳ではないことを充分承知していた。ロバートは、リックがいかに優れた兵士であり、類まれなリーダーの素質を持っているかを誰よりも理解している。だからこそリックの女房役を引き受け、戦場では常に副官として彼をサポートし続けているのだ。
今は、落ち込んでいるケンを励ましたい一心で、こんなことを言っているのである。
「どうだい、坊や。この後ちょっと付き合えよ」
「えぇ?ケイトの自慢話はもうたっぷり聞いたよ」
「馬鹿野郎、今日はそんなんじゃねぇよ」
そう言いながらケンの右肩に軽くパンチを打ち込むと、ロバートは強引に肩を組んで渋るケンを引きずって行った。
下士官クラブが経営するバー「センチネル」は、閉店時間まで後一時間程とあって、客の姿はまばらだった。
隅のテーブルに陣取ったケンとロバートは、ビールを注文した。
「今日は俺がおごるからガンガン飲めや」
「悪いね。遠慮なく頂くとするよ」
「よし、未来の偉大なる戦士に!」
「俺のこと?」
「お前の他に誰がいるよ?」
「乾杯!」
二人は喉を鳴らしながら一気に飲み干すと、すかさず二杯目をオーダーした。
「で、今日は何だって俺を誘ってくれたんだい?」
「兄貴に叱られて、湿気たツラしてやがったからな」
「いやぁ、チャンピオンのパンチはマジで効いたよ。明日の訓練に響きそうだ」
「まあな。実は俺も昔はちょっとボクシングかじっててさ。リックとスパーリングやったこともあるんだ」
「へぇ、初耳」
「ああ。あん時ぁ、リックもボクシングを始めてまだ三ヵ月って言ってたから、軽く揉んでやるつもりで付き合ったんだがな。三分後にリングの上で伸びてたのは俺の方」
ロバートは大声で笑ってから、話を続けた。
「でもよぉ、ボクシングなんて腕だけで闘う競技だろ。所詮はスポーツさ。パンチがどんなに上手くなったって、何でもありの実戦じゃ使えないぜ」
「まぁね。だから俺たち海兵隊も近接戦闘術の訓練してるんだろ?」
「あれも、まぁ護身術って言うか制圧術みたいなもんだよな。向かってきた敵を取り押さえるみたいな・・・でな、ケン。最近俺はすげぇ格闘術に出会ったんだ。ナイフ格闘術」
「ナイフ?特殊部隊の連中がやってるあれか?」
「ああ、だが俺の師匠はもっと凄いぜ。ありゃ神業だね。目にもとまらぬスピードでな、こう」
そう言いながらロバートが腕を振り回したので、危うくビールのジョッキを倒すところだった。
「どうだい、坊や。今度の休みに道場に連れてってやるからよぉ、お前も一緒にやろうぜ」
「う~ん、ナイフ術ねぇ」
煮え切らないケンに、ロバートは発破をかけた。
「四の五の言ってないでやれよ!きっと役に立つぜ。但しリックには内緒な」
「なんで」
「馬鹿野郎。奴さんがナイフ始めた日には、俺なんかあっという間に追い抜かれちまうよ」
「ボクシングの時みたいに?」
顔を見合わせて二人は笑った。
ようやく気分が晴れたことにケンは気付いた。仲間というのは何てありがたい存在なのだろう。俺も、彼らからそんな風に思って貰えるような男になろう。そうケンは誓った。
次の非番の日、ケンはロバートに連れられて、ロサンゼルスのダウンタウンにある小さな建物の薄暗い階段を上がっていた。
「マジでこんな場所で習えるのかい?こんな誰も知らないような所でさ」
「馬鹿だね、お前さんは。大々的に宣伝して皆が習い始めたら価値がないだろうが。これはな、秘術なんだぜ。そんじょそこらで習えるインチキと一緒にすんなよな」
薄いベニア製の粗末なドアを開けると、そこには小柄なアジア人が佇むように立っていた。この人物がナイフ術のマスターなのだろうか?とてもそうは見えないが・・・。
ぼんやり立ち尽くすケンをしり目に、ロバートが言った。
「先生、活きのいい若いの連れてきましたよ。たっぷりしごいてやって下さいね」
そのアジア人は穏やかな笑顔で軽く頷いた。
「ケン、こちらトゥワンコ先生だ。ナイフ術の・・・いわゆる達人だぜ」
ダウンタウンの寂れたビルにある小さな道場で、ひっそりと伝授されている格闘術と、その達人であるトゥワンコ師の動きは、ケンにとってまさに衝撃的だった。ボブが神業と絶賛するのも頷ける。
流れるような一連の動きはナイフだけを使って相手を倒す技術ではなかった。むしろ徒手による近接格闘術の中に、ナイフ・アタックの技術が効率よく組み込まれている感じがした。
一撃で相手を倒すのではなく、人体の急所に細かく攻撃を入れ続け、結果致命傷とする技術であった。東南アジアに伝わる伝統的格闘技シラットを基礎としつつ、トゥワンコ師が戦場の白兵戦を想定し改良の末に編み出した独自のナイフ格闘術である。
そして特徴的なのが、この格闘術で使用されるナイフの形状だった。東南アジアでは古くから使用されてきたカランビットと呼ばれるそのナイフは、鎌状にカーブしたブレードを持ち、切るだけではなく引っ掛けて引き裂くといった、相手により大きなダメージを与える使い方ができる。又、ボディアーマーやプロテクターに保護されていない、むき出しの関節部などを狙うのにも適している。
さらにグリップの反対側はリング状になっており、そこに指を入れることでナイフが滑るのを防ぐだけでなく、順手から逆手、あるいはその逆へのスイッチが迅速かつ容易にできる。マスター級の人物が操るカランビットの動きは、常人の目ではほとんど捉えられない程になる。
トゥワンコ師が指導する技は、実戦を想定した殺人テクニックであるが故に、道場は一般には門戸を開放していない。生徒は軍や警察、法執行官、民間軍事企業のオペレーターなどの関係者のみ。紹介による会員制で生徒の数は限られており、お互いの職業を聞かないことが暗黙のルールとなっていた。実際、その素性を答えることのできない特殊部隊員も在籍している。
道場に集まる者は皆、命を張る仕事に従事しているため、技術習得への情熱と真剣さは本物だった。ケンも暇を見つけては道場に通い、夢中でナイフ格闘術の習得に励んだ。それは、ケンをこの場に導いたロバートが呆れるほどの熱心さだった。
「ケンさん、大丈夫~?そろそろ晩ご飯の用意できるけど」
浴室のドア越しに舞子の声を聞いて、ケンは我に返った。
一体どの位シャワーを浴びながら考え事に没頭していたのだろう。これは厄介な症状だ。今夜はとてもじゃないが、簡単には眠れそうにない。
コックを捻りシャワーを停めた。
「ハイハイ、今出る。心配なしねぇ」
ケンは、何でもないことをアピールするために努めて陽気に返事をしながら、左手で頭髪を後ろに撫でつけて水気を切った。盛り上がったニの腕に彫られたタトゥーの上を、水滴が流れていった。