3 無自覚の発露
それから、毎日のように二人は互いの疑問についてぶつけ合った。
ヴェリーネは人間の生態についてや、魔物がナギタで犯した凶行についてを主に、アイダラスは長年攫われ続けた人間の安否や、現在保護を受けている者たちの今後の動向について、さらに魔物の世界の法や文化までをもその対象とした。
そうした中で王女が真っ先に得た情報によれば、今、生きて保護されている人間の数は、つい先日アイダラスと共にあった者を合わせても、およそ五十程度であるらしい。
状況は忙しなく、日々小さな変動はあるが、大きく数が増えることも、減ることもないそうだ。
対して、八年の内にナギタ国から攫われたのは、実に二千人以上と推測されていた。
あまりにも低い生存率に、少女は眩暈を禁じ得ない。
また、現在保護されているのは、そのほとんどが囚われて一年以内の者だという。
何故か。
ナギタに現れる魔物たちが人間を売買する利益がどれほどのものか知っていながら破壊や殺戮を主として活動していたように、知性の高い反面、彼らの精神の奥底には抗いようのない暴力的な本能が渦巻いている。
圧倒的な弱者である人間は、そんな性の格好の餌食と映るのだ。
魔物同士では抑え込まれていた衝動が、人間を前にした途端、狩猟本能により反射的に獲物に襲い掛かる野生動物のように、凶悪な腕を振るうことを堪えられなくなるのである。
中には、長い歴史の内に本能が少しずつ薄まり、すっかり失ってしまった者もいたが、逆に、抑制という行為がそれを濃厚にしてしまう者もあった。
そして、衝動のまま人間を殺めた魔物は、一様にして他に変えがたい恍惚を得、その味を占めた者は何度でも同じ快感を求めるようになる。
いうなれば、人は存在そのものが魔物にとって強力な麻薬にも等しかった。
とりわけ、事の首謀者は狡猾で、一度に連れ帰る獲物の数を極限まで抑えることで、発覚を防ぎやすくすると共に、値段のつり上げや取引相手の厳選などを行っていた。
卑劣な犯罪行為が露見したのは、長年の油断から欲をかいた手下が、設定された上限の料金を大幅に超えた額を密かに客に要求し始めたことによる。
何事も肥大化が過ぎれば綻びも出やすくなるもので、半ば中毒状態に陥っていた一部顧客の粗雑な資金集めにより、不自然な市場の動きが生み出され、不審に思った王政府が内偵を進める流れとなった。
使用目的と実際に救出が開始されてよりの期間を思えば、今これだけの人間が生きているのは、むしろ奇跡に近いといえる。
しかし、多くの犠牲者が出た事実に変わりはない。
慈愛の姫君はナギティアルーダの民の死を深く嘆き、心から冥福を祈った。
更に聞けば、ナギタに通ずる道については現時点において発見できておらず、帰還の目途はほぼ立っていない状況なのだという。
座標さえ分かればとヴェリーネが零す場面もあったが、比較的未開の地に生きるアイダラスに理解可能な概念ではなかった。
連日繰り返されるやり取りに、少しずつ互いの間に信頼と理解が重ねられ、時に他愛の無い雑談すら混ざり始める。
そんな中、アイダラスは保護を受けた者たちへの面会を願い出た。
本能の関係上、彼女も施設にいる人間たちも、徒に魔物の目に触れないようにと、ほぼ軟禁状態にある。
だからといって、唯一の情報源であるヴェリーネの語る内容を疑い、確かめてやろうなどと思ったわけではない。
王女は、人々の絶望を払拭したかった。
彼に救われ命の危機が去ったにも関わらず、時に短絡的な結末を迎えてしまう者が現れるのだという。
未だ帰国の叶わぬ現状とはいえ、全てを諦め捨て鉢になるには確実に時期尚早である。
ただ、それは魔物と言葉を交わし真実を知る王女だからこそ出せる結論であって、連れられるまま訳も分からず施設に収容された人間に通用する理屈ではない。
だから、少しでも希望を与えるために、自身の得た情報を共有するために、彼女はナギタの民に会いたがった。
また、魔物相手には口に出来ぬ不満を引き出して、僅かでも気を晴らしてやりたかった。
場合によっては、即刻改善を要求することもヴェリーネ相手ならば可能だろうと考えていた。
そして、アイダラスは彼女自身が信じた魔物を、彼らにも信じてもらいたかった。
「このままヴェリーネ様のような親切な魔物の方々を、意味もなく恐れ続けさせるわけには参りませんでしょう?」
少女の意思は固く、また、彼女の助言により保護施設に暮らす人間の衰弱率、死亡率が覿面に下がってきている実績もあり、この提案は即座に受け入れられた。
ただし、移動の際には綿密な作戦を組む必要があるとして、王女の願いが叶うには三日の時を要することとなる。
さて、厳重な警戒態勢の中、足を踏み入れた辺境の保護施設内。
そこでは、アイダラスの顔を知っている者も少なくなかった。
ある日の王の命により、ナギタに残存する国民のほぼ全てが城下に身を寄せている。
いと尊き身でありながら、平民への配給を己の手で懸命に行う王女は、それこそ注目の的であった。
祖国の姫の登場を素直に喜ぶ者、偽物ではないかと疑う者、彼女が攫われていた事実を悲しむ者など、反応は多々あったが、皆の表情には一様に不安と焦燥が見え隠れしていた。
アイダラスは人々の気を落ち着かせようと、ナギタに広く、そして古くから伝わる歌を紡ぐ。
まるで鈴が鳴るようにとても優しく、それはそれは美しい声だった。
誰しもが口を噤み、うっとりと聞き惚れる。
妙なる調べを奏でる王女に、人々は神々しさすら感じていた。
胸の内に痛々しく刻まれた傷を包み癒す、柔らかく暖かな光の洪水に、自ずと浄化の涙が溢れてくる。
聖なる母の愛に抱かれているような途方もない安堵と郷愁が、全ての者の心に宿っていた。
少女の歌声は施設中に響き渡り、扉の外に待機していたヴェリーネも、警備についていた魔物も、正体不明の感情に戸惑いながら、揃って床に水滴を落としていく。
ひとつの奇跡がそこにあった。
やがて、ついに音は止み、慈愛の姫君は、その余韻の消える前にと人々に向かい口を開く。
「皆、希望を失ってはいけません。
確かに、魔物は恐ろしい。怯えるのは仕方のないことです。
けれど、私はある御方に、魔物にも我ら同様に心があることを教えられました。
人間にも心優しき者と悪しき者がいるように、彼らの中にもまた、善と悪が存在するのです。
祖国を襲った魔物が、我ら人間に惨たらしい仕打ちを繰り返してきた魔物が、その全てではありません。
彼ら善なる魔物は、私共の身の安全の保証と、再び生きてナギタの地へと至るための、手助けを約束してくださいました。
ここは、そんな彼らが私たちを悪しき者から守るための保護施設。
つまり、待ち続ければ、未来を諦めなければ、我らは必ず祖国の土を踏むことが出来るのです。
ですから、我がナギティアルーダ王国の賢明なる民よ。
私の言葉を、そして、彼ら善き魔物の言葉を……どうか、信じて下さい」
そう語り終わると、王女は一度ゆっくりと目を瞑ってから、次いで、凛とした微笑みを浮かべてみせた。
自らの民を心より信頼すると共に、絶対に彼らを裏切らないと、そう暗に告げているような表情だ。
皆、沈黙を保ったまま、少女をただ見つめている。
この場には当然、魔物に家族を無残に殺された者や、心身共に嬲らてきれた者ばかりが収められている。
だが、アイダラスの存在は、そんな人間たちの憎悪も、恐怖も、絶望も、全てを霞ませた。
「あ、……アイダラス様、万……歳」
集団に埋もれる誰かが小声で呟く。
すると、堰を切ったかのように歓声があがり、皆口々に彼女と祖国ナギティアルーダを讃えた。
「アイダラス様、万歳! ナギティアルーダ、万歳!」
「正直、魔物はまだ怖ぇが、姫様の言うことなら俺ぁ信じますっ」
「あぁ、ありがたや、ありがたや」
「アイダラス姫こそ、我らの希望の星だ!」
「どうかお導きを!」
「アイダラス王女殿下、万歳! 王国、万歳!」
どこまでも興奮し盛り上がるナギタの民たち。
アイダラスはその様子にいたく感激し、頬を紅潮させ、笑みを深めて、何度も何度も礼を述べた。
しばらくして、少しずつ熱狂の落ち着いていった頃、王女はその場に集う者の話を一人ずつ順に、丁寧に尋ねて回る。
そうして、全てが終わる頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
自らの仕事を成し遂げた少女を部屋に送り届けたヴェリーネは、さすがに疲れた様子の彼女に、軽く労いの言葉を投げかける。
「……お疲れ様です。
私が至らないばかりに、貴方一人に多大な負担をおかけして、大変申し訳なく思っております。
しかし、これで、我々も人間に対し、必要以上に臆病にならずに済む。
アイダラス様には、感謝してもしきれません」
妙に慇懃な態度の肉人形に対し、アイダラスは静かに首を横に振った。
「……いいえ。
これは、私がヴェリーネ様にお願いを、ワガママを言って……全て人間側の都合で、やらせていただいたこと。
だからこそ、付き合わせてしまったヴェリーネ様方々には、ご迷惑をおかけしたと……」
「っ迷惑などと」
王女の言い分に、ヴェリーネは無表情ながら焦ったような口ぶりで即答した。
「いつまでも魔物を恐れる人間ばかりではないということを、貴方には教えられました。
こちらが如何に力を注ごうが、心を砕こうが、話を聞いては、受け入れてはいただけない……それだけで、全ての意味は失われてしまう。
無力感と虚しさに、どれほど臍を噛んできたか分かりません。
だからこそ、貴方という存在が我らに齎した光は計り知れない。
それを、そのように簡単に否定なさるのは、どうかお止め下さい」
思いもよらぬ台詞群に、アイダラスは目を白黒させ、僅かに唇を開いたまま黙り込んだ。
そんな彼女を視界に入れ、我を忘れていた自身に気付き、ヴェリーネは深く頭を下げる。
「申し訳ありません。
アイダラス様のお立場も考えず、主観を押し付けるような真似を……っ」
縦にも横にも巨大な体を小さく縮み込ませる姿を見て、アイダラスは眉を八の字にし、軽く息を吐き出した。
「ヴェリーネ様、顔をお上げになって。
こちらこそ、貴方がたの好意や立場を考えぬ、浅慮な失言を致しました。
真に謝罪すべきは、むしろ、私の方です」
「っそんな、とんでもない」
想定外の流れに驚き、ヴェリーネは反射的に曲げていた腰を元に戻す。
それから、二人は我が我がと互いに幾度と頭を振り合っていた。
内に、段々と愉快さが込み上げてきて、どちらからともなく無邪気な笑みが零れ出す。
いや、実際は、魔物の中でも特に悍ましき怪物然としたヴェリーネの笑みは醜悪そのものであって、到底、そのようなぬるい表現の似合う光景には映りようもないのだが、少なくとも、この場にいる二人はそう認識していた。
態度が紳士的だから、理知的だからと、早々肉人形に慣れてしまった姫君が異常なのだ。
やがて、互いの息が落ち着いた頃合で、ふと、アイダラスが俯き加減に呟いた。
「……こんな風に笑ったのは、何年ぶりでしょう」
そう告げて間もなく、彼女は大きな瞳から雫を一粒二粒と落とし始める。
これには、王女自身も大いに戸惑い、取り出したハンカチーフで必死に拭っていたが、止めようとすればするほど、真逆に効果が働いた。
ヴェリーネは、これまでになく慌てふためいて、両の腕を意味もなく空中にさ迷わせている。
「どうなさったのですか、アイダラス様。
どこか、お体の具合でも?」
問われた少女は、黙って首を横に振った。
それを受け、数秒黙考した末、この状況で魔物の己が居座っては落ち着くまいと、一先ず退室を試みるヴェリーネ。
対して、王女は無言で彼の太く歪な腕を掴み、引き止めた。
存外硬く乾いた感触だと、アイダラスは頭の隅でどこか他人事のように思う。
ヴェリーネは訳の分からぬまま、反転しかけていた体を戻し、再びアイダラスと正面から向かい合った。
膝を落として、彼が小さな顔を静かに覗き込むと、少女はそっと濡れそぼる目元を晒してくる。
「ごめ……なさっ、自分でも……分からな……って……」
しゃくりあげながらも、そこまで伝えて、申し訳なさそうに俯く王女。
一方で、白く華奢な指は腕から外されることなく、ヴェリーネは、ただ黙って彼女を見ているしか出来なかった。
十分程が経ち、ようやく落ち着きを取り戻したアイダラスは、数回深呼吸をしてから、掴んでいた手をゆっくりと離していく。
そして、控えめに一歩後退し、気恥ずかしさからか僅かに視線を泳がせ、細い指同士を絡めながら、彼女は目の前のヴェリーネに謝意を示した。
「……あの、申し訳ありません、とんだ醜態を。
おそらく、ナギタが襲われ始めた頃から、誰にも心配をかけまいと誓い、心の奥底に沈めてきた不安や恐怖が、ここに来て表に、溢れてしまったのでは、ないかと……。
弱い自分など見せるわけにはと、ずっとそう思っていたはずなのに、本当に、なぜ、私はヴェリーネ様を……。
でも、あぁ、そう……私は、いつだって恐れていました。
私という小さな存在は、国を襲う魔物という脅威を前に、常に押し潰されそうだった。
攫われた後も、気が気でなかったし、今日、皆を説得する時も、本当は逃げ出したかったぐらいで。
私のような卑小な人間が、民を導こうなど、思い上がりも甚だしいと、責める自分もいて。
国のため、家族のためと無理やり笑顔を作って、自身のために、ただ笑うことなど、もうできないのではないかって、ずっと、怖くて……」
「アイダラス様ッ」
ヴェリーネは思わず話を遮っていた。
徐々に我を忘れ悲痛な面持ちに変化していくアイダラスを、見ていられなくなったのだ。
「っあ、ご、ごめんなさい。
私……私、何を言って……っ」
己の口から出た言葉に、王女自身、驚きを隠せないようだった。
ヴェリーネはおもむろに跪き、少女と視線を等しくしてから、穏やかに語りかける。
「大丈夫、貴方はよく頑張っている。
民を導く者として、たった独り苦しみに耐えてこられた事実は、立派だと褒められこそすれ、責められるものでは、けしてありません。
ですから、どうか、もうご自分を追い込みなさるな。
どうしても辛ければ、これから先は私に全て吐き出してしまえばよろしい。
いかな醜態を晒そうが、いずれは道を違える私相手であれば、必然、問題にはなり得ませんから」
彼の慰めに、アイダラスは泣き笑いの表情で囁いた。
「……優しすぎます、ヴェリーネ様」
言いつつ、彼女は小さな両手の指を怪物の右腕に添え、僅かに引き寄せたソレに静かに己の額を凭れさせる。
反射で行った先程と違い、今度は自らの意思で、少女は魔物と直の肌を触れ合わせた。
恐怖も、嫌悪感も、何もなかった。
王女としても、年頃の娘としても、少々はしたない行為だが、何故か今、彼女はこうしなければならない気持ちに駆られていた。
そんなアイダラスを、ヴェリーネはただただ無言で、されるがままに受け入れる。
動かぬ表情は、彼の感情を何ひとつ映しはしなかった。
やがて、王女が平静を取り戻したのを確認してから、ヴェリーネは常のようにソツなく部屋を後にする。
だが、その帰り道、誰もいない通路でピタリと歩みを止めた彼は、俯きがちに片手で顔面を覆い隠し、独り呟いた。
「……一体、どういうことだ。
何なのだ、これは。
私は…………どうなってしまった?」
喉の底から絞り出すような声色には、どこか愕然とした響きが含まれている。
仄暗く、深刻な瘴気が、立ち竦むヴェリーネを包んでいた。