20 王女の嫁入り
現時点において、アッダシャグナブ王国兵が再びナギティアルーダに現れ、本格的な戦が始まるまで、最低でも月単位の時を要するだろうと見込まれている。
ロドムスは、周辺国家に救援を要請するにあたり、それを秘密裏には行わなかった。
アッダ王がいくら出撃を命じたところで、帰還したばかりの疲労と空腹に喘ぐばかりの軍を、ろくな休養や準備もなしにすぐさま運用することは現実的に不可能だ。
まして、先のごとく不意打ちを狙うでもなく、相手がすでに警戒を露わにしている状況では尚更だろう。
とはいえ、どのような無理を押し通すか分からぬのがアッダの王であり、ナギタに多国籍軍が成る前にと、自国兵の消耗具合を顧みず速攻を仕掛けてくる可能性もゼロではなかった。
「ところで、東方の宗教国家よりアブーヤなる民族衣装を取り寄せてみたのだ。
魔物の本能対策として、どこまで役立つかは未知数だが、全身をこの様にすっかり覆ってしまえば、人である事実も些少は誤魔化せよう?」
「お父様!
ナギタの民が苦しみに喘いでいる時分に、何を呑気に輸入品など求めていらっしゃるのですか!?」
「ええと、姉様、これも父上の親心というもので……」
「ゼフォンス。貴方も次期王としての自覚をお持ちなさい。
ただでさえ物入りな、それも国の未来をかけた大きな戦を前に、その様な個人的事由にかまけ多額の関税を支払おうなどと、心よりナギタを愛し過酷な運命すら共にしようと尽くす我が国民に顔向け出来るものではありません」
アイダラスの輿入れは、そんな緊迫状態のさ中、慎ましやかに行われる予定となっている。
通常の国家間の婚姻とは異なり、結納の金品も不要とされ、王女はほとんど身ひとつで魔物の世界へと旅立つのだ。
ただし、ホールまでの道中は、他国に対する誤魔化しや見栄の問題もあり、煌びやかな嫁入り行列を演出しなければならない。
また、そうした背景には、後ろ手に刃を握る不穏な国家を炙り出そうという目論見もあった。
相手が魔物である事実こそ秘されているが、遥か遠くに栄える大国マッデュバという存在については、むしろ、積極的に宣伝している。
広く情報を流すことで、ナギティアルーダにあまり力をつけられては困る者や、姫君を手に入れ侵略の足掛かりにせんと画策する者などを釣り上げようとしているのだ。
そこから弱みを押さえられれば、常に互いを監視し合っている小国家群であるからして、集中攻撃を恐れ、該当国は以後、表からも裏からもナギタには手を出し辛くなるだろう。
ヴェリーネという最強の駒がある限り、餌役となる王女に万が一の危険もない。
祖国の行く末も気がかりな部分ではあるが、こうして大勢が決した以上、いかなアイダラスとて、無駄な足掻きに貴重な時を捨てるよりは、未来に向けて腹も括ろうというものだった。
彼女自身に手を出せる事柄は少ないが、ナギティアルーダ王国第一王女としての最後の仕事であると、強い意気込みを抱き、入念な下準備に取り組んでいる。
合間には、いずれ父に代わり王と成るであろう弟へ、姫君としての立場で得た多くの知識や人脈を引き継がせようと、細やかに心を砕いていた。
一方、魔物の王だが、彼は此度得る花嫁の受け入れ態勢を整えるため、一時帰国を果たしている。
人間を迎えるということで、極一部の者への限定的な告知と相なったが、当然ながら、報を受けた魔物たちの反応は驚き一色に染まっていた。
彼らの見目は元より千差万別で、人間のように美醜に多大な拘りを持つ者はなく、その点に関して、ヴェリーネが不当な誹りに晒される恐れはない。
とはいえ、弱肉強食の価値観が根強い種族として、容易く死に至る貧弱な異種族を、それもまさか星一番の強者である王が伴侶と選ぶなどというのは、彼を純粋に敬愛する民よりの立場として、中々に飲み込み辛い事実であったようだった。
中でも、特に顕著な反応を示したのは、大方の予想通り、星王の側近クォザンである。
長年独り身であったキングベルが、ようやくにも妻を娶る心境に到ったかと思えば、その相手が取るに足りぬ羽虫以下の人間、それも、王を軽んじ侮辱の言葉を吐いた件の娘であるというのだから、彼もまぁ穏やかではいられない。
しかし、やはり多くの魔物からすれば突出した実力を持つ星王は絶対の存在であり、ヴェリーネが自らの意志でそれを決定したのならば、各々大小不満はあれど、クォザン含め、敢えて彼に抗おうとまで考える輩は現れなかった。
そうした中には、強さに限らず、ここまで積み上げてきた彼自身の人徳によるものもあっただろう。
地位に驕らず清廉であり続けたヴェリーネが、今更、黒い思惑や何らかの利のみを求めて情もなく妃を得ようとするはずがないと、誰もが当たり前に理解しているのだ。
であれば、祝福も出来ずに何が臣下かと、声をかけられた者は皆、唯一の例外事項として、人間の少女という極めつけの弱者に対する蔑みの感情を、苦悩の末に深く身の内に沈めてみせたのだった。
以降、彼らは、周囲に気取られぬよう最大限の注意を払いつつ、異種族の繊細にすぎる生態に合わせた城内環境を整えるべく、先ごろの経験を活かして尽力し始める。
そして、迎えた嫁入り当日。
王女の輿入れ道中を影より護衛すべく、再びナギティアルーダを訪れていたヴェリーネであるが、間もなくの出立を前にして、内密に執務室へ呼び出され、神妙な面持ちで椅子に腰かけている父王の正面に、恭しく跪いていた。
「…………娘を頼む」
無言の時をいくばくか越えて、ようやくロドムスが呟き程の小さな声を絞り出せば、肉人形は表情の動かぬ醜い顔面をおもむろに上下させる。
「この身に代えましても」
完全弱肉強食主義かつ他国の存在せぬマッデュバならではの軽率な星王の返答に、ナギタ王は苦笑いを浮かべた。
比較するにも烏滸がましい程の圧倒的上位者の立場にありながら、ヴェリーネという男は常、いっそ卑屈な程に腰が低い。
頂点に立つ孤独ゆえか、無差別に弱者を甘やかしたがる悪癖があるようだと、ロドムスはそう認識している。
それに乗じている身としては、良識もあるだけに据わりも悪い、といったところだろうか。
だが、だからこそ、国の危機に頼る相手として、これ以上に信頼の置ける者もないと、王は考えていた。
多くの国民の言祝ぎを受けながら、齢十六の少女は魔物の世界へと一人嫁いで行く。
クッションをふんだんに重ねた神輿にゆったりと座して、アイダラスは王都の外まで道なりに続く見物人たちへ向けて、微笑みと共に手を振り続けた。
ホールへの道すがら、都で二度、砂漠で一度、計三度ほど実行されかけた王女への襲撃は、ヴェリーネの暗躍により、誰にも悟らせぬ迅速さで全て未然の内に防がれている。
人にあらざる魔の力で捕らえられた賊は、事前の打ち合わせ通り、主に宙に放り投げるような形で宮殿の中庭へと集められていった。
そこから先は、人間の仕事となる。
待機していた兵士たちが順次現れる彼らを拘束し、場を移して首謀者を吐かせるための尋問にかけるのだ。
悪意には容赦なき怪物であったが、反対に、憧れの姫君の嫁入りとあって、手作りの草笛を渡そうと無謀にも飛び出してきたような、いじらしき女児には、むしろ、大人に潰されぬよう、転げてしまわぬよう、仮にも護衛と侍る者にあるまじき手助けなどをコッソリとしてやる始末だった。
もちろん、慈愛の王女が幼き者のそうした純真なる想いを無下にするわけもなく、彼女は感謝の言葉と共に拙い餞別の品を受け取ってから、慌てて我が子を追ってきた母親へと小さな背に手を添えて引き渡した。
間もなく彼方の大国へと去りゆく姫君は、その場に居合わせた全ての人々の胸に、心温まる美しくも優しき情景を深く刻み付けたのである。
やがて、黄金の砂漠を越えてホールへとたどり着いたアイダラスは、数名の見届け役と最低限の近衛を残して、神輿行列を形成していた兵や侍女らを帰還させた。
そうした人々の影が砂山の先へと消えた頃合いに、ようやく纏っていたシールドを解除して星王ヴェリーネが姿を現す。
到着後即座にといかなかったのは、此度の真実について知るのが、宮殿に勤めている中でもごく一部の上位の立場に就く者だけであったからだ。
結納の品としてその場に残されていた宝石や織布らについても、出現と同時、魔物の王の手により、一瞬にしてロドムスの元へと送り返されている。
王女の存在を厳重に秘さねばならぬときて、疑惑の元となりかねぬ持ち込み物は可能な限り少ない方が良いだろうと判断されたためだ。
また、面目だけを理由として、マッデュバでは無価値とされるこうした品々を放出することも憚られた。
悍ましき肉人形を目にした見届け役たちから怯えの声や後ずさりの足音が上がる中、少女は一人、安堵の笑みを浮かべる。
そして、彼女は自らが纏う婚礼衣装の裾を軽く持ち上げ、夫となる彼の元へ歩み寄っていった。
「ヴェリーネ様」
薄く長いヴェールをシャラシャラとさざめかせつつ接近してくる姫君に合わせるように、怪物がその場に跪く。
布の重みに難儀する様子を受けて補助のためか差し出された歪な巨手に、王女は小枝のような指先を触れさせた。
「……良いものでしょうか」
「え?」
途端、呟くように落とされた唐突な呪音に、アイダラスが小首を傾げる。
次いで、真っすぐな瞳で己を見上げてくる少女へ、魔物の王は数秒の逡巡の後、ためらいがちに口を開いた。
「今後、人である貴方には、魔物の私に予測のつかぬ、多くの苦難が待ち構えていることでしょう。
それを理解していながら、私は……こうして最愛の女性を伴侶と迎える幸福を、ただ噛みしめようとしてしまうのです……」
自分本位の感情に罪の意識を抱いているらしいヴェリーネは、伏し目がちにそう告げる。
素直すぎる彼の言葉に、アイダラスは目尻を薄っすらと朱色に染め、同時に厳つい指を両手で包み込んだ。
「ヴェリーネ様、良いのです。
私は、貴方のそのお気持ちを嬉しく思います」
もちろん、非力な人間である彼女が、魔物の世界での生活に不安を感じぬはずもない。
故にこそ、夫となる男性より与えられるひたむきな愛情と、そんな彼に対する絶対の信頼が、何よりの勇気付けとなるのだ。
「私も……一度は諦めなければならなかった貴方と一生を共にできる幸運を、今はただ悦びたい」
甘やかな声色を耳に、魔物の王は、この場に立つ誰よりも濃く憂いを有する身であろうにと、健気が過ぎる花嫁に改めて自らの心を強く掴み込まれたような気がした。
肉体の内側より無限に湧き溢れる、苦しいほどの愛しさに、彼の口から自然と熱が放出される。
「……愛しています」
今度こそ、はっきりと姫君の頬が薔薇色に染まった。
「私、も……お慕いしております、ヴェリーネ様」
歓喜に潤む瞳が、怪物の橙の眼球を覗き込む。
肉人形は、少女の華奢な両手を下から掬うように持ち上げ包み、額のぶつかりそうな至近距離で見つめ合ったまま、口内の粘液をグジュリと鳴らした。
「誓わせてください、アイダラス様。
寿命を除く全ての脅威に、けして貴方を曝させはしないと」
すると、姫君は喜色に瞼を細めて、彼女にして珍しい、一種わがままとも取れる願望を紡いだ。
「……でしたら、傍にいてください、ずっと」
「傍に?」
「はい。
ヴェリーネ様の愛さえあれば、この身はどこまでも強く在れる。
誰も、何も、けして私を傷付けられはしません」
「っ……アイ、ダラス、様」
とうとう感極まったヴェリーネが、衝動のままに伴侶をその胸にかき抱けば、少女のか細い腕が腐肉色の首元に回される。
そうして、二人が互いの愛を確かめ合う様を、少し離れた場から、見届け役の者たちが至極複雑な表情を浮かべつつ眺めていた。
さて、いよいよ二人がマッデュバの地へと降り立てば、ホールの先で待機していた兵たちの間に騒めきが広がっていく。
事前に周知されていたとはいえ、実際に人間を腕に抱き連れ帰った王に、魔物たちは改めて驚き戸惑っているようだった。
唯一別の感情を露わにしている者といえば、クォザンぐらいだろうか。
彼は、アイダラスを視界に入れた途端、ふつふつと腹から湧く苛立ちに刃ぎしりを禁じえなかった。
大きく否と叫び出しそうな衝動を抑えて、銀の魔物はキングベルの信者筆頭として、己が弱者と蔑む異種族の前に跪き、頭を垂れる。
「……此度のご成婚、まずはお慶び申し上げます。
貴殿を王の妃と迎えるにあたり、我が忠誠を捧げます」
血涙を流したいほどには自らの心に反するセリフだったが、クォザンはその事実をけして表には出さなかった。
とはいえ、前回あれだけ反目しあった相手が語るには、あまりにも白々しい内容であろう。
当然、彼の裏の感情を察したアイダラスは、顔に僅かな苦笑を浮かべ、続けて、こう告げた。
「嘘をつくのがお上手ですわね、クォザン様。
どうぞ、ご安心召されませ。
王が築き上げた信頼は、あくまで王一人のものにございましょう?
それを労もせず己がものと振るおうなどと、恥を知らぬ真似は致しませんわ。
妃としてではなく、私個人の能力を認め、改めて、クォザン様が忠誠を捧げても良いと思われたのならば、その時にこそ、同じ言葉を聞かせてくださいませ」
彼女の宣言を受けて、クォザンはチラと星王を見やる。
その視線に気付いたヴェリーネは、無言で彼に頷きを返してやった。
それを確認してから、刃の魔物は意識を正面に戻し、か弱き乙女へ凄むような低音で問いかける。
「……二言はありませんね?」
「えぇ、もちろん」
彼に即答するアイダラスは、余裕の垣間見える笑みを浮かべていた。
夫から濃厚な愛情を補給したばかりで、気力が漲っているのかもしれない。
対して、星王の狂信者はいかにもな嘲笑に顔面を歪め、恭順の姿勢を崩して立ち上がる。
「良いでしょう。
この私が人間如きを認める未来が果たしてあるものか、お手並み拝見といきましょう」
銀の魔物は、敬愛する王の御前である事実に怯まず、明らかな見下しの態度で妃へ言い放った。
けれど、少女は、彼のその傍若無人な振る舞いを当然と受け入れ、口角を上げる。
「それでこそ、王の腹心クォザン様ですわ。
こちらも認めさせがいがあるというもの」
直後、視線を交わしたまま、互いに妙な含みのある笑い声を響かせ始めるアイダラスとクォザン。
この時、周囲を囲む兵たちが、少女に驚嘆の眼差しを向けていたなど、当人たる彼女は知る由もなかった。
王に次ぐ強者である刃の魔物の圧に押し負けず相対してみせた姫君は、図らずも、弱き種と侮るばかりであった多くの者の心に、「これならば」という容認の感情を抱かせたのである。
さて、それから未来。
秘されし異種族の王妃について、彼女は魔物の弱肉強食思想によるところの物理的な力は皆無に等しかったが、ことキングベルの打ち出す政策に対する働きかけは誰より的確であり、また、時に彼らにない発想で様々な既存業務の能率を上げるなど、公私共に星王をよく支えたと伝えられている。
晩年には、王妃の姿を知らぬ者も、その正体を正確に知る者も、多くが彼女を名実共に偉大なるキングベルに相応しき伴侶であると認め、自ら膝を折っていった。
ヴェリーネの治世におけるアイダラスの在り方は、凝り固まった彼らの意識に多様な価値観の種を植え付け、没後も王の活動を大いに助けたと言われている。




