19 陥落
間もなくアイダラスが到着しようかという頃合になって、王ロドムスが執務机から正面に位置する出入り口の扉を眺めたまま、潜めた声を発した。
「ヴェリーネ殿。
ここから少し、例の姿を消す術を使っていただいて宜しいかな」
「……えぇ、構いませんが」
「うむ。其の方を前にして、アレが飲み込む言葉もあるやもしれんからな」
父王の説明を聞き、その理由に納得した肉人形は、沈黙のまま頷いて、自らの周囲に結界を張り巡らせる。
魔物の王を傷付けまいと時には自ら口を噤むことも、あの心優しき姫君であれば十分に考えられることだった。
程なくして、王女の訪れを扉の前に立つ兵の一人が告げる。
ロドムスが入室の許可を与えれば、楚々とした仕草でアイダラスが姿を現した。
部屋の半ばで足を止め、姫君は腰を低く落として、実の父である国王へ臣下としての礼を執る。
「ロドムス陛下。
仰せにより、第一王女がアイダラス、ただ今、罷り越しました」
王女は優雅かつ感情を読ませぬ微笑を浮かべている。
「あぁ、うむ。楽にせよ」
親子としてのプライベートな場であれば、大抵はこの時点で畏まった態度は不要であるとの宣言が飛ぶのだが、現状、そうはならなかった。
父の表情からそれを察していた姫君は、黙したまま姿勢を正し、王から放たれるであろう次の言葉を静かに待つ。
やがて、彼の唇が僅かに開かれ、ゆったりとした口調で、しかし、眼だけは厳しく細めながら、ひとつの確認作業が行われた。
「……まずは、アイダラスよ。
其方に問う。
ナギティアルーダに殉ずる覚悟あり、と先の日に申しておったが……それは、今も変わらぬか?」
改めて問われた事柄に不穏な未来を連想して、アイダラスは表面上の笑みを崩さぬままに内心で身構える。
この場に王女として立っている以上、彼女の返す言葉は決まりきっていた。
「はい。
我が身の一切は、懸命なる民が誠実に生を紡いだ証そのものであり、なればこそ、流れる血の一滴すらも祖国のために在るべしと心得ております」
「よろしい」
娘のそうした答えに、どこか満足げに頷く国王。
「では、更に問う。
現状、其の方が差し出されるに最も相応しい、ナギタに大いなる益を齎すであろう国家はどこだ?」
さすがに想定外の問いかけであったのか、もしくは、これが己の運命を左右するものとでも考えたのか、アイダラスの全身が明白に強張った。
僅かに唇を開きながらも、はっきりと声を出せずにいる娘へ、父から追い打ちのような解答が投げられる。
「分からぬか?
しからば、教えてやろう……其は、悍ましき魔物の国、マッデュバに他ならん」
「なっ!?」
自らの選択肢からとうの昔に消し去っていた名を挙げられ、今度こそ平静を保つことに失敗した姫君は、焦りも露わに、冷めきった瞳の父王へと詰め寄っていく。
「お待ちくださいっ。
そも、魔物とは危険な存在であり、異界へ通ずる道は早急に閉ざされるべきであると、陛下は常々そうおっしゃっておられたではございませんか。
なぜ、今更になって、掌を反す様な真似をなさるのです!」
星を統べる偉大な王であるヴェリーネの重荷になりたくない非力な人間の少女としては、例えナギティアルーダ王の出した何れより優れた結論であっても、おいそれと受け入れるわけにはいかなかった。
姫君の慌てる様と対照的に、国王らしく泰然たる態度のロドムスが、抑揚なき声でただ事実のみを述べる。
「あの王が所有する神にも等しき力に比ぶれば、たかだか人間の国家如き、例え並べ連ねたところで及ぶ価値などあるはずもなかろうよ」
「っだからと言って!
これ以上、あの善意の御方に我らの都合を押し付けようなどとは、あまりにも厚顔な行いと……っ」
「アイダラス」
必死に主張を重ねようとする娘を、父王は温度を感じさせぬ呼びかけで遮った。
「個人としての情けや良識に飽かした軽々の発言であれば控えよ。
それとも、王たる私の断を覆すだけの優れた案が其方にはあると申すのか?」
瞬間、少女はグッと喉を詰まらせる。
彼女が平和な世で蝶よ花よと育てられた深窓の姫君であれば、それでもと、己の喉を震わせ続けることが出来たかもしれない。
だが、正しく王の一族として育ったアイダラスとしては、もはや黙らざるを得なかった。
今この時、近隣国家のどこに輿入れしたところで、ソレを脚掛けとして滅びかけのナギティアルーダが飲み込まれぬ保証はない。
対して、野心もなければ、人に甘く、それでいて比類なき幻想の力を有するヴェリーネという魔物を思えば、これ以上国家に都合の良い存在もない。
理解しているからこそ、自らの発言がただの感情論であり、有用性のあるものではないと、彼女はあっけなくも認めさせられてしまったのだ。
「………………いいえ、何も、ございません」
重なる両手を強く握り込み、悔しさそのまま顔面を歪めながら、アイダラスは震える唇から残酷な真実を絞り出す。
娘の反論を一太刀で封じたロドムスは、直後、少女が再び弁を振るう隙すら与えぬとばかりに、容赦なく下知を叩き付けた。
「ナギティアルーダ王国が第一王女アイダラスよ、其方に王命を下す。
異界の王ヴェリーネ・ディゴの慰み者となり、彼の者の力を我が王国のものとせよ」
己の心に背く無慈悲な命令に、もはや口を噤むことしか出来ぬ王女。
易々とやり込められてしまう未熟な自身に向けて、アイダラスは強く歯噛みした。
未だ青臭さの抜けきれぬ人間の女ごときが偉大なる魔物の王を愛したことからして、まず間違いだったのだとすら思った。
そんな後悔ばかりに打ちひしがれている娘へ、父王は慰めともつかぬ言を飛ばす。
「あの魔物に対する裏切り行為と思うておるなら、とんだ見当違いよ。
これは、すでに双方、了承済みの話であるのだからな」
「えっ」
唐突に知らされた想定外の事実に、姫君の時が僅か止まった。
ヴェリーネが、まさかいたいけな少女に無体を働くような男ではないことは、彼を愛し誰より近くで接してきたアイダラスが一番良く知っている。
だからこそ、父親から告げられたセリフの意味を、彼女は全く飲み込むことが出来なかった。
困惑に固まる娘に向けて、まるで独り言を呟くかのように、ロドムスが語る。
「のぅ、アイダラス。アレは実に使い勝手の良い魔物よな」
「……陛下?」
「そうだ、私は現王国王。ナギティアルーダを守護する者だ。
その大義を成すためなれば、例え、実の娘であろうと、悍ましき怪物であろうと、礎と用いるにやぶさかではない」
お前はとうの昔に知っているはずだと、彼の据えた目が敢えて黙した言葉の先を語る。
それにより、かつてに父から、血を分けた我が子を無情に切り捨てねばならぬ、もしもの未来の訪れについて寂しげに呟かれた記憶が、アイダラスの脳裏にまざまざと浮かび上がった。
とどのつまり、ロドムスとて苦渋の決断であった、ということだ。
愛情深い親としての彼を思い出して、少女は無性に悲しくなった。
王の立場で必要な判断であったと納得しながら、一方、父という立場では永遠に後悔し続けるのかと、そう考えれば、いかな姫君とてままならぬ現実を呪いたくもなる。
両者の間に漂う空気がひたすら重苦しく淀んでいく中、ふと、まさかの方角から一石が投じられた。
「ロドムス陛下、それではあまりに偽悪が過ぎます。
王女殿下の祖国への未練を削ぐためと推量致しますが、その方法では互いに深く傷が付くばかりでしょう」
「っヴェリーネ様!?」
なぜここに、と当たり前の疑問に目を見開く王女。
魔物の王は、まずは約束を破ってしまった事実を国王へ、また、姿を隠して様子を見守るなどという少々義に悖る行いについてアイダラスへ、平身低頭謝罪した。
妙に慌てる父娘に揃って許しを得れば、彼は己の巨体を跪く体勢に落ち着かせ、それから比較的穏やかな呪音を奏で始める。
「アイダラス様。
陛下は、国のことは任せて、自らの幸福を求めよと、そうおっしゃっておられるのです」
「え……?」
その内容を受けて、思わず彼女が父ロドムスへ視線を向ければ、彼は僅かに眼球を揺らし、珍しくも内心の動揺を露わにした。
驚くままに再びヴェリーネへ意識を戻すと、続けて、更なる家族の真実を知らされる。
「本来であれば、伝えるに憚られますが……実は、父君からも、そして、弟君からも、王女殿下をマッデュバへ連れ帰るよう、熱心に説かれておりまして」
「えぇっ」
アイダラスは咄嗟に羞恥からくる動揺の声を漏らした。
「その様なご迷惑な振る舞いを父とゼフォンスが?」
口元に手を添えて、過保護な男たちのやらかしに、彼女は薄っすらと頬を染めている。
戸惑いから、しきりに瞬きを繰り返す王女へ、魔物の王は厳つい手のひらを左右に振り、同時に牙を開いて緑の粘液をグチュリと鳴らした。
「アイダラス様の幸福を願ってのことに、まさか迷惑などと思うはずもございません。
……あぁ、いえ、包み隠さず申し上げれば、当初は確かに、浅ましき想いを捨てきれぬ矮小の身に酷な話をと、痛む心もありました。
ですが、交渉を重ねられる内、改めて、王国の現状に則り解を求め直す機会なのではと考えるようになりまして……果てに、全ては貴方のご決断次第と前置きをした上で……」
「私を連れ帰ることに同意なさったのですね」
眉を八の字にした姫君がヴェリーネのセリフを先取れば、彼はゆっくりと厚い瞼を下げ、所在なさげに項垂れてしまう。
「殿下の御意思も伺わず、放縦なる振る舞いに及びましたこと、誠に申し訳なく」
分かりやすく落ち込んでいる様子の魔物へ、王女は慈母のごとき笑みを作って、硬い頬にそっと華奢な手を添えた。
「いいえ、いいえ、許しを求める必要はありません。
ヴェリーネ様は、あくまで進むべき未来の選択肢を一つ、増やされたに過ぎないのでしょう?
どうか、安心なさって。
貴方はいつだって、私の心を誰より慮ってくださっています」
「アイダラス様」
跪き首を垂れてなお己より高くある怪物の橙の眼球を、アイダラスは優しく見つめている。
数秒、互いの視線を熱く交わらせていた二人だったが、その内に、ふと、少女の目が冷たく細められた。
「……そう、こちらの意思を蔑ろにしたとおっしゃるのなら、むしろ、それは私に黙ってその様な話を持ち掛けた我が父と弟の方ではございませんか」
「ぅぬぅ」
娘から急な怒りを差し向けられて、さしものロドムスも思わぬ唸り声を上げてしまう。
ヴェリーネの投石効果により、すでに、彼らは一国の王と姫ではなく、一組の親と子としての立場に変わっていた。
肉人形から離れ、正面から対峙してくる王女へ、ナギタ王が苦々しく口を開く。
「……最適解に相違はなかろう。
現状において其方の存在は国家の弱みとなりかねず、なれば近隣諸国と異なり友好を疑う余地のないヴェリーネ殿に託してしまうのが、互いに恋情を向けている者同士であり、ナギティアルーダとしても心強い切り札を一枚得ることが出来ると……」
「ですから、なぜ当人である私に黙して先走るような姑息な真似をなさったのかと問うているのですが?」
魔物の王に対するものと正反対に、父へのアイダラスの言及はいかにも手厳しい。
ロドムスは、娘の冷淡な態度を前にして、少年さながら不貞腐れたように唇を突き出し、こう答えた。
「…………渋るだろう」
想像以上の稚拙な理由に、より一層、姫君の瞳の温度が下降する。
と、同時に、彼女は彼のセリフに頷き、肯定してみせた。
「そうですね。ナギタはともかく、ヴェリーネ様には一切益のないお話ですから」
「ソレだ。其方がそうまで頑なであるから、私は先にヴェリーネ殿を説得してだな」
「彼がどこまでも慈悲深き御方であるからと、情に縋って我が意を得ようなどと、甘えるのも大概になさいませ!」
呆れが限界を突破した娘の口から、ついに叱責が飛んだ。
もはや、どちらが親で、どちらが子なのか、ほとほと分からぬ有様である。
「ぐっ……国と娘のためだ、何が悪い!
魔物の王とて、愛する者を手に入れることが出来る!
誰も損をせぬ取引ではないか!」
「なぁっ、ぁ、愛……っ!?」
開き直る王の大人げない吠えに、初心な姫君の顔面がボッと赤く染まった。
「アイダラス様」
「ひゃハイッ」
実に絶妙なタイミングでヴェリーネの呼びがかかり、王女は大仰に肩を跳ねさせて、悲鳴と返事とを一緒くたにしたような高い声を上げた。
肉人形は、動揺を露わにする彼女に構わず、常の通り怨嗟を煮詰めたような呪詛を静かに吐き出し始める。
「ロドムス陛下のおっしゃる通りです」
「え?」
「説得に頷いたのは、全て私一人のエゴによるもの。
この異形の身で、人である貴方を求めるならば、必然、無用な苦労を負わせてしまうと、そう理解していながら、それでも諦めきれず、こうして容易く言の葉を曲げる卑怯を、醜態を晒している。
星を統べる王でありながら、貴方という女性を愛し、利己的な欲に目を眩ませる私を、アイダラス様は軽蔑なさるでしょうか」
「ヴェ……リーネ……様っ」
心臓付近の服布を両手で掴んで、アイダラスは強く収縮する胸の痛みに喘いだ。
どうしても欲しかったのだと、苦悩の感情と共に告げられて、姫君は彼への想いを深めずにはいられなかった。
そのくせ、優しくも理性的なこの魔物は、同族のように力ずくで彼女を攫おうなど考えもせずに、断られれば、嫌われたのなら、哀しみと共にただ去ろうと、いじらしいことを考えているのだ。
まぁ、醜い怪物にその身を乞われて、恐怖に慄くどころか、好感度を大きく上げる女性など、彼女ぐらいのものであろうが。
そんな稀有なる王女は、肉人形のすぐ眼前に歩み寄り、潤む瞳で彼を見上げる。
「わ、私も、同じ気持ち、です。
人間の身でヴェリーネ様の傍に侍ろうなど、ただ貴方の重荷と、星王の弱みとなりかねないと、そう知っていながら、それでも共に在りたいと願う心を止められない。
ヴェリーネ様……貴方は、そんな私を軽蔑なさいますか?」
「っまさか!」
逆に問い返せば、間髪入れず否定の言葉を吐き出すヴェリーネに、アイダラスも自然と微笑みを浮かべていた。
「えぇ、私も、貴方を軽蔑するなど有り得ない…………愛しています」
「っアイダラス様」
彼にだけ聞こえるような声量でそっと囁かれ、感極まるままに少女を抱き込もうとする己の手を、魔物の王はともすれば傷を負うほどに強く握り込むことで何とか律して、至近距離に立つ姫君と再び熱く見つめ合う。
完全に二人きりの世界を作り上げている彼らだったが、そこに、不意打ちのように大きく手を打つ音が響き、間を置かず、父王ロドムスが何やら自身に非常に都合のよい事柄を早口で捲し立ててきた。
「ヨォシ、では話は決まったなっ!
ヴェリーネ殿、我が娘をくれぐれも頼んだぞ!
いやぁ、仲睦まじい夫婦となりそうではないか、良きかな良きかな!
おぉい、大臣、大臣! アイダラスの輿入れが決まったぞ!」
「……は?」
「っえ?」
否と唱える時の猶予などくれてやるものかと、これまでにない速度で執務室を飛び出していく国王を、思考の追いつかぬヴェリーネとアイダラスは、ただただ呆気に取られた表情で見送ることしか出来なかった。




