1 魔物十色
薄暗く淀んだ別世界。
そこでは意外にも、アイダラスの住まう地より何倍も高度に発達した文明が展開されていた。
王女が目を覚ましたのは、妙に明るい檻の中だ。
鈍い緑の光の格子で内と外とを隔てられた場所に、今回の襲撃で攫われた人間たちが纏めて詰め込まれていた。
三方向を囲む乳白色の壁はどうやって作られたのか、継ぎ目もなく、手触りは滑らかだ。
恐怖から光を越えようとした者は、駆ける勢いのまま熱線に体を焼き切られ肉塊となり、監視として立つ三体の魔物に拾われ、その腹に収まった。
十にも満たぬ人間の集団は、怯えも露わに格子から最も離れた壁に張り付き身を寄せ合う。
以前に攫われた者たちが同じ建物内にいるのかは不明だった。
彼女の国の罪人が収容される牢のように連なる形のものではなく、長い通路の突き当りを利用して造られたような、たった一つきりの檻だったからだ。
壁がよほど厚いのか、自身らの発する音以外がここまで届いて来ることもない。
さて、アイダラスが覚醒してから体感として数時間が経った頃、いかにも成金趣味といった装いのイボガエルにも似た黒色の魔物が現れる。
生理的嫌悪感を抱かずにはおれぬ見目のその魔物は、いやらしく瞼を細めて牢内を物色した。
監視役たちは、言語を解さずとも察せる程に、闖入者に媚びへつらっている。
成金の魔物は二重といわず三重と段をつくる肉々しい顎を短い指でさすり、ねっとりと眼球を動かしていった。
おそらく連れ去る者を選別しているのだと看破した男女数人が、王女の前に身を寄せその存在を覆い隠す。
彼らは信じていた。
民に希望をもたらす存在としてのアイダラスを。
ゆえに、人々の未来のために彼女を生かそうと、守ろうとした。
当人は、それを正しく理解しながら、こんな状況で非力な小娘に何が出来るものかと、背の群れの裏で薄い唇を噛む。
だからといって、止めろとは、彼女は言えなかった。
深い恐怖と屈辱に、王女は両拳を握り、小さく身を震わせる。
やがて、イボガエルは、一人の女性を指さした。
あちこちで息を飲む音がする。
指示を受け、監視役の内一体が、光の格子の一部を消して、中から無理やり嫌がる該当者を引っ立てた。
どこから取り出したのか、檻の出入り口で待機していたもう一体の同僚が、素早く彼女に黒く艶やかな首輪を嵌める。
そのまま首輪の中央から引き出した鎖を、恭しく背後へ差し出した。
イボガエルが女の身柄を受け取ろうと、舌なめずりしながら腕を伸ばす。
そして、今にも脂ぎった指先が鎖に触れようとした、その瞬間。
大きな爆発音が轟き、同時に激しい振動が牢を襲った。
直後、揃いの鎧を装備した魔物の集団が通路の奥から駆け込んで来る。
その事実に激しく慌てるイボガエルと監視役の三体。
奇声を発しながら遮二無二抵抗してみせるも、数に圧され、彼らは土下座のような形で地面に取り押さえられてしまう。
それから間もなく、ある魔物が鎧の壁を割って姿を現すと、刹那、あたかも時が凍りついたかのように全ての者の動きが止まった。
その魔物は、アイダラスが今まで目にしたどんな存在よりも悍ましい姿をしており、アンバランスな厚みの巨体から滲む粘り気の強い威圧感は空気を闇色に染めていくような気さえした。
無理にでも例えるならば、人間の体の内側と外側とを丸ごとひっくり返して作った、グロテスクな肉人形といったところだろうか。
全身の腐り爛れた筋肉らしき鈍い赤色のスジを、骨と内臓を混ぜ合わせたような穴だらけの殻が覆っている。
抉れる瞼からは橙の眼球が覗き、その上部、側頭から零れ出る脳にも似た何かは異様に発色の良い桃色で、それがまた吐き気を催させた。
醜悪な化け物はその見目に相応しい世界を呪うような禍々しくも低くしゃがれた声で、拘束された四体の魔物へと向かい何事かを語りかける。
ソレが剥き出しの口を動かす度に、内側に垣間見える汚らしい黄緑の粘液がニチャニチャと音を立てていた。
人々は息をすることさえ忘れ、ただ絶望していた。
監視役たちは青褪め項垂れる一方だ。
怪物の話は分からずとも、その内容が彼らを追い詰めるものであることは、アイダラスにも理解できた。
しかし、そこで予想外の出来事が起こる。
化け物の声を遮るようにして、唐突に成金の魔物が唸り、激しく暴れ出したのだ。
抑止しようとする鎧たちを意外な剛力で次々なぎ払い、彼らの肉壁を開いてイボガエルは人質を取る。
その対象となったのは、唯一檻から出されていた女性だ。
魔物は彼女の首に鋭く伸ばした己の爪を軽く食い込ませると、おそらく脅し文句であろうセリフを悲鳴にも似た声で喚きだした。
それによって、武装者たちの動きが止まる。
覿面な効果に口元だけで笑いながら、成金はすり足で少しずつ出口へと向かっていった。
女は恐怖が過ぎて、まともに呼吸することさえ適わない様子だ。
じりじりと時間が流れている。
首肉からゆっくりと流れる人間の赤い血が鎖骨を通り胸先に到達しようとした時、悍ましき怪物が僅かに身じろいだ。
大仰に驚いたイボガエルが歩みを止め、牽制の言葉を発そうとして……瞬間、彼の首から上が、まるで膨らみすぎた風船のように四方八方ハジけて消える。
あまりにも突然だった。
耳に痛いほどの静寂が場を包む。
誰もが思考停止を余儀なくされた。
黒のような青のような緑のような粘りのある血液が人質となった女を染め上げている。
パニックに陥った彼女はヒステリックに叫び散らして、直後、気を失った。
反射的に動いたらしい近場の鎧が、倒れきる寸前に腕を差し入れ細い体を受け止める。
すると、すぐに怪物から指示らしき呪詛が飛び、そのまま女は静かに床へ寝かされた。
同時に、檻の監視役をしていた三体の魔物たちが、上半身を半透明な光の輪に拘束される。
そして、鎧の一団にグルリと取り囲まれた状態で、彼らは通路の先へと連行されていった。
イボガエルの死体も、いつの間にやら回収されている。
そんな魔物たちと入れ替わりのように、大小様々な陶器の玉を組み合わせ作られた人形のような、白く背の低い魔物が姿を現した。
陶器人形は、真っすぐに意識のない人間の元へと向かい、躊躇なく身体に触れていく。
魔物の無遠慮な行為に檻の中から怒鳴り声を上げる者もあったが、ことアイダラスに限っては、無言を貫いていた。
それが病弱な弟を持つ姉として度々目にした光景に……医師の診察の動きに酷似していたからだ。
一連の流れや、鎧たちの態度からして、同業同士の諍いであるとは彼女は考えていない。
どちらかといえば、公的な組織による捕り物であると判断していた。
現代風に例えるなら、ヤクザ間の抗争ではなく、警察の捕縛劇といったところだろうか。
不安要素があるとすれば、世にも恐ろしい見目をした、この場で最も立場の強そうな件の化け物の存在であろう。
アレだけは、姫君の目にどう色を付けたところで、善性の生き物には思えなかった。
注視すればするほど、自らの結論が希望的観測に過ぎないのではないかという胸騒ぎが強まり、アイダラスは唇を噛む。
彼女が再び意識を現場に戻せば、作業の最後に女の首の傷に何かを塗り込めた陶器人形が、素早く立ち上がり踵を返すところだった。
白の魔物は怪物へ短く言葉を投げてから、その背後に回り、静かに控える姿勢をみせる。
未だ十数体残る鎧たちは、それぞれ等間隔に通路の両端を陣取っていた。
牢に囚われた人間と、グロテスクな化け物が、自然と正面に向かい合う。
しばしの沈黙。
これから我が身に何が起ころうとしているのか、人々は疑心と共に怪物を見上げていた。
やがて、魔物は僅かに眼球を揺らし、汚らわしい音と共に溶け落ちそうな口腔を開く。
「貴方がたの今後について、話がしたい。
誰か……代表となる者を選び出して欲しい」
異形が自身らの言語を真似たとあって、人々の動揺は凄まじかった。
だからか、先ほどまで隠し守ろうとしていた事実すら忘れ、皆は一斉に身を捩り、アイダラスに視線を集中させる。
王女……ただそれだけの肩書きが今、十五の少女の身に重く圧し掛かっていた。
民に縋られれば、そうあれと育てられたアイダラスに、その手を払う自由はない。
即座に姫君の仮面を被り、彼女は優雅に檻の前方へと歩み出た。
「私が伺います」
凛と背筋を伸ばし立つ少女へ、しかし、怪物は身じろぎして応える。
「……貴方は……まだ幼いのでは」
華奢な身体を侮ったのか、問いかける響きはいかにも困惑気味であった。
対して、アイダラスは挑むような目つきで魔物を見据え、内心の怯えを深くに隠して声を張る。
「この身が未だ成人年齢に達さぬ未熟なものであることは否定致しません。
当然、若すぎるがゆえの懸念もありましょう。
けれど、私は初代ナギタ王の血を引く正統なる王女、生まれながらに民の命を背負いし者。
代表を名乗るならば、この中の誰より私が相応しいと、確信をもって告げさせていただきます」
その姿に固い覚悟を垣間見た怪物は、数秒の逡巡の後、頷いた。
「…………では、こちらへ」
「はい」
示されるがまま、王女は檻を出て、化け物のすぐ正面へと静かに移動する。
アイダラスの堂々たる態度に、人々は自然と胸に希望を抱いていた。
生きるための、帰還のための、未来に続くための希望だ。
僅か十五の華奢な少女であっても、彼女は確かに王族であり導きの星であった。
「まずは場所を移しましょう。
交渉役の貴方は私と共に王城へ、他の方はここに並ぶ彼らが専用の保護施設へお連れします」
「え」
「そんなっ、姫様!」
唯一の頼りの綱から引き離されるとあって、牢内が一気に騒然とする。
不安に揺れる民草の反応を受け、アイダラスは目を細めて、怪物へ疑念の声を向けた。
「まさか……私にとっては彼らを、彼らにとっては私を、人質に取ろうというのですか」
すると、しばし何事か考えるように沈黙した魔物は、やがて、真っすぐに王女を見据えこう告げる。
「そう受け取っていただいても構いません。
それで大人しく従ってさえ下さるならば」
「なっ……!?」
おざなりなセリフに、アイダラスは絶句した。
決死の自身に対して、あまりにも誠実さに欠ける態度ではないかと、彼女は不快に眉を顰める。
そんな変化に何を思ったのか、追って、怪物が顔に似合わぬ弁を吐いた。
「心身共に摩耗しているであろう方々を、一刻も早く治療、もしくは休息に向かわせるための措置です。
皆様の安全は保証します。
ありもせぬ絶望に怯え、これ以上、無駄に命を散らすことはない」
化け物の動かぬ橙の眼球は感情の色を映さない。
本音であれば含まれるであろう人間に対する憂いも、己の手を煩わせる異種への憤りも、何ひとつ。
外見とかけ離れすぎる口上を、アイダラスは白々しく受け止めた。
今更になって甘言を重ねたところで、祖国での長きに渡る凶行の事実が、彼らの本性を証明している。
「……その慈悲深きお言葉の真偽はとにかく、卑劣なやり方で我々の行動を制限したところで、交渉が難航するだけとご忠告申し上げておきます」
背負う命の手前か、必要以上に気丈な振る舞いを見せる彼女へ、怪物の淡々とした答えが返る。
「結構なことです。
意思を交わす機会すらも永遠に失われてしまうより、余程良い」
それを反抗者への物騒な脅しと解釈した王女は、強く歯を食いしばり、黙り込んだ。
どういった理屈かは分からないが、成金の魔物を惨たらしく殺してみせたのは、おそらく目の前のこの怪物だろうと、彼女は半ば確信していた。
だとすれば、守るべき者を背に負う王女が出せる結論は一つしかない。
アイダラスは意を決して体ごと牢へ振り返り、人々に語り掛ける。
「皆、この御方の言う通りに致しましょう」
「えぇっ!?」
「信じるんですか、こんな化け物の言うことなんかを!」
「姫!」
「……今はそうするより他に道はありません。
大丈夫。無事に皆揃ってナギタへ帰還できるよう、私が必ず交渉して参ります。
それまでどうか、くれぐれも短慮を起こさず……命を大切に過ごしてください」
詭弁だ。
虚偽はないが、真実も語られてはいない。
確かに言葉通りとなれば結末として最善であろうが、彼女自身、そんな奇跡のようなことが可能だとは信じていなかった。
ただ、逃げれば、逆らえば、今この場で全員揃って処分されるかもしれないと、それを防ぐために王女は必死だった。
そして、意外にも反論は出ず、視線だけが彼女に集中する。
たった一人、少女は魔物と対峙するのだ。
当然、心の内はさぞ不安であろうし、恐ろしくもあろう。
それでもなお、人々のため微笑んでみせるアイダラスを前にして、誰も次の声を上げられなかった。
姫君への果てしない敬愛と、無力な己らへの口惜しさに、皆の目が潤んでいく。
血統を誇るだけの小柄で非力な少女に、大人たちがこぞって依存する、その一種異様な光景を、怪物はただ黙って眺めていた。