13 心の所在
帰国を果たした翌日。
アイダラスは朝も早くから起き出して、不在の半年で変化したであろう国内外の情勢把握に努めていた。
周囲の者は、せめて昨日の今日ぐらいはと休養を勧めたが、彼女はのらりくらりとそれを躱して、忙しなく宮殿内を動き回る。
王族としての責務を果たそうとしているようで、どちらかといえば、事あるごとにヴェリーネを思い浮かべようとする自身からの逃避を図るため、という理由が強かった。
だが、そんな努力も虚しく、ほんの僅かな隙にも、彼の世界は姫君の脳裏に鮮やかに甦ってくる。
もはや道は分かたれたのだと、そう考えれば考える程、むしろ、醜き魔物の王に対する慕情は募っていった。
精力的に活動していたかと思えば、ふとした拍子に立ち止まり、色なき瞳で虚空を眺める。
そんなことを日に幾度と繰り返す王女を、宮殿の皆はただただ案じていた。
何が彼女の傷となっているか分からぬ以上、不用意に慰めを口にするのも憚られる。
魔物の国で余程辛い目にあったのだろうと、我が事のように嘆く者の数は、けして少なくなかった。
複雑かつ微妙な空気が宮殿内に広がる中、そのまま一週間ほどが過ぎ去った頃。
ついに痺れを切らした弟王子より、アイダラスは知らぬ間に目を逸らしていたらしい現実を正面から突きつけられる。
「ゼフォンス?」
「……姉様、お気付きですか。
魔物の世界からお戻りになった時分よりの、ご自身の変化を」
「え?」
「何かに駆られるように、ろくな休息も取らず、動き詰めの日々。
それだけならばまだしも、唐突に心ここにあらずといった様子でどこでも立ち尽くしておしまいになる。
貴方を慕う皆が、その姿に心を痛め、気も漫ろとなっております。
正直に申し上げて、姉様が魔物の世界でどれほど恐ろしい目にあったのか、床に籠ってばかりの私なぞには想像もつきません。
ですが、悩みなどというものは、やはり、独り抱え込むばかりでは、解決するどころか溜まる一方でありましょう。
よろしければ、気心知れる何方かにでも、話をされてみてはいかがかと。
あぁ、もちろん、その相手は私でも構いませんが」
睨むにも似た真剣な顔で姉を見つめる少年へ、彼女は申し訳なさげに眉尻を下げて、謝罪の言葉を口にした。
「……心配させてしまったのね、ごめんなさい。
でも、大丈夫。きっと、気が抜けてしまっただけなのよ。
皆を無事に帰さないとって、あちらではずっと肩肘を張っていたから」
「本当ですか?」
王女の説明に、弟王子はじっとりとした疑いの目を向けている。
それに苦笑いを返して、アイダラスは更に語りを続けた。
「確かに、全く恐ろしい思いをしなかったと言えば、嘘になります」
「やはり」
「けれど、そんなのは攫われて少しの間だけのことよ?
魔物にだって、私たち人間と同じように、心があるの。
国を襲ったような悪い方もあれば、こうして、我らをお救いくださった善い方もいる。
だから、ゼフォンス。
弟である貴方には、一概に彼らを悪しき存在と決めつけるようなことは、あまりして欲しくないの」
そう言って、儚く微笑む姉を、ゼフォンスは理解できなかった。
醜悪な魔物の姿しか、ただただ享楽のために人を狩る化け物の姿しか、彼は知らないのだ。
「そんなっ……姉様は魔物が憎くはないのですか!?
ナギタを滅茶苦茶にしたアイツらを、どうして庇う様なことなんか!
今更、アイツらがどんな善行を積んだところで、私は一生許さないし、忘れてなどやらない!
出来ることなら、この手で魔物という魔物を全て、殺し尽くしてやりたいぐらいだというのに!」
激高する弟へ、姫君は悲しげな色を瞳に浮かべて、静かに喉を震わせる。
「ゼフォンス……私だって、国を襲った魔物は憎いわ。
けれど、それなら、貴方は一握りの犯罪者を根拠に、この世に生きる全ての人間を裁くの?
違うでしょう?
魔物だって、私たちを獲物と弄ぶアレらが全てではないのよ。
ねぇ、ゼフォンス。
王族として、民を導く者として、憎しみで視界を狭めてしまうのは、けして良いことではないはずよ」
王女のソレが正論であることを、王子も頭では理解していた。
だが、彼とて齢十二の少年で、精神の許容量には限界がある。
身の内のやるせない感情を持て余して、ゼフォンスは己の拳を強く握った。
姉姫が案ずるように弟の名を呼ぶも反応はなく、やがて、彼は無言のまま彼女に背を向け、足早にその場を去ってしまった。
一方、ヴェリーネは魔物の世界で相も変わらず政務に励んでいた。
通常業務に加え、以前よりなお積極的に人間の捜索を行っては、先の経験より人語を学んだ兵にその保護を任せる。
亡骸で見つかった者については、状態の良いものは固定化の術をかけ、あまり原型をとどめていないようなものは、縫合や復元作業を指示して、可能な限り、人と見られる程度まではと処置を施していた。
集まったソレらは、後日、ナギティアルーダ国内の所定の場へ秘密裏に運ばれ、王の派遣した私兵へと引き渡される。
死者に関して、血縁の者を探すだけの労力は今のナギタにはないということで、急遽作られた専用の公共墓地へ、手厚く葬られる手筈となっていた。
屍と化していようが人間は人間であり、全ては極一部の魔物の手によってのみ行われている。
誰より多忙であるはずの王自ら作業に従事する場面もよく見られ、本来不要な労働を強いられているとはいえ、部下たちからの不満は上がらなかった。
ただし、違う意味で不満を持つ魔物はいた。
クォザンである。
ようやくキングベルを煩わせる忌々しい存在がいなくなったと清清しく思っていたところに、この取り決めだ。
しかも、彼にとって神にも等しい王が、無礼極まりない驕り高ぶった小娘なぞに利用された挙句、人間如きの王にひたすら下手に出て交わされたという約束である。
銀の魔物にとって、人間という種は、星王ヴェリーネの慈悲深さに寄生する愚昧な下等生物でしかない。
妄信者が彼らに更なる憎悪を募らせるには十分過ぎた。
そして、忠実なる部下クォザンだからこそ気付けた、主の不調。
別段、ミスをするわけでもなければ、政務の効率が落ちた訳でもない。
だが、彼の見立てる限り、ソレは人間たちを帰した日から、ずっと続いているようだった。
当然、ヴェリーネが抱える苦悩の真の理由など、彼以外をひたすら侮るばかりのクォザンが知れるはずもなく、ただただ異種族に対する嫌悪の感情を己が身の内に溜め増やしていく。
星王本人は、そんな部下の様子を看破しながら、敢えて無言を貫いていた。
全ては時が解決するはずだと考えていたからだ。
いかに人間憎しと憤ったところで、クォザンは集めた彼らに短慮に手を出すような、私情を抑えられぬ魔物ではない。
大体からして、アイダラスのように彼の目の前で王に対する侮辱と取れる発言を繰り返せるだけの太い心の持ち主などいるはずもなければ、案ずるだけ杞憂というものだろう。
ヴェリーネは部下の特性を良く知っていたし、引き渡しも一段落ついて、いよいよホールを閉じてしまえば、それで何もかも決着の付く話なのだ。
だが、そんな考え以上の事実として一つ。
魔物の王には、余分な事柄に割くだけの精神的ゆとりがなかった。
それもそのはず、愛する姫君が帰国してからというもの、目を閉じれば彼女の姿が浮かんでは消え浮かんでは消え、ヴェリーネはもう何日もろくに眠ることも出来ず、心身ともに疲れ切っていた。
人間の世界に帰してしまえば、さすがに諦めもつくはずだと、過去の彼は頑なにそう信じていたのだ。
しかし、浅はかな己の予想は裏切られ、華奢なその身を求めて、硬い胸の内の狂おしさ恋しさは増すばかり。
これまでに培ってきた感情のコントロール法も、たった一人の娘の前には、何の意味も成しはしない。
未だホールで互いの国が繋がっている現状も、彼の心を酷く裂いた。
ゆえに、魔物の王は、何より優先して人間の保護、亡骸の回収作業に力を入れる。
ソレを完遂させ、彼の地への道を塞いで手の届かぬ状態まで持っていけば、少しは女々しい未練も大人しくなるだろうと、どうかそうであってくれと強く願いながら。
同様の活動は、アイダラスとの邂逅以前より、しきりに行われてきたことだ。
よって、一度集めた人間を纏めて送り返した今、新たに発見されるナギタの民の数は、生者死者共にそう多くはなかった。
そんな事実もあってか、三ヶ月時点での引き渡し場面において、再度、両王での会談時間が設けられた際、次回を最後としてホールを閉ざしてしまおう、という結論が早くも導き出されてしまう。
これ以上、捜索を続けさせたところで、早々成果が上がるとも思えず、また、ロドムス側の本音として、僅かな民を迎えるために、本来復興に回すべき兵力やその時間を割くのが惜しい、という現実的な判断があった。
娘可愛さに一度は了承の意を示してはみたが、国王として、リスクやデメリットばかりが目立つ取り決めをいつまでも大事に抱えている理由はない。
彼の主張を、ヴェリーネも一切否定しなかった。
ただでさえ人手の足りぬ中、情に流され非効率な助勢を繰り返せば、それこそ国家再生の妨げとなりかねない。
また、いつ悪しき魔物が現れるかも分からぬ状況では、落ち着いて建て直しに励むことも出来ぬだろうと、肉人形はどこか古めかしい玩具のように、ひたすら首を上下に動かしていた。
かくして、姫君の全く与り知らぬ間に、彼ら二人の真の別離の日が確定する。
後に、父親から事の顛末を聞かされたアイダラスは、その衝撃の大きさに、急激な頭痛や目まい、心臓の痛みを覚えながらも、王女としての矜持だけでその場に踏みとどまっていた。
彼女が自らの嘆きに沈み込めたのは、私室へ戻り、完全に人払いを済ませてからだ。
それも、部屋の外へ声が漏れぬよう、寝台に顔を伏せて、という徹底ぶりで。
もし、独り泣き濡れる彼女の姿を見る者があれば、あまりの痛ましさに、思わず何もかもを差し出していたかもしれない。
対して、ヴェリーネは救える者を逃さぬように、間もなく失われる縁から目を逸らすように、より一層の力を入れて最後の人間捜索作業に当たっていた。
さながら堕ちる星のごとく月日は瞬く間に流れて、ついに愛し合う男女に決別の時が訪れる。
「何ですって、アイダラス殿下が……っ?」
無事に人間の受け渡しを済ませ、兵を率いて帰還するのみとなった段階で、挨拶に顔を寄せたロドムスが、そういえばと娘の不調を口にした。
最後ということで、世話になった魔物たちに改めて謝意を示したいとして、アイダラスもこの場に同行する予定であったらしい。
が、今朝になり急に具合を悪くして、床に臥せているという。
始めは周囲の反対を押し切り準備を進めていたようだが、無理が祟ったのか、出立直前に倒れてしまったのだそうだ。
あちらでのことを娘は余程恩義に感じているようなので、魔物の王に至っては詮無き話とは思うが敢えて伝えさせて貰ったと、ロドムス王は締めくくっていた。
「まさか、そんな……そんなことが……」
ヴェリーネが愛しい少女を頑なに手放そうとしていたのは、魔物の世界に囲ってしまうより、その方が確実に彼女の幸福に繋がるはずと信じているからだ。
だが、もしも、故郷へ帰したせいで、彼女の尊い命が失われてしまったとしたら。
彼らの国であれば当たり前に治る病も、未熟な文明の中にあっては、回復が困難な場合もあるだろう。
どうにも悪い方向にばかり想像が働き、肉人形はみるみる冷静さを失っていく。
肩を沈めて顔面を両手で覆い、その隙間からブツブツと瘴気をまき散らす彼の姿に、人間も魔物も揃って驚き、戸惑った。
「一体、なぜ、どうして、あの方がその様な目に遭わねばならぬと……」
当人はそんな周囲の様子にも気付かず、一人ブツブツと呪音を垂れ流し続けている。
常のように側近クォザンさえ居れば、あるいは王を一喝し正気を取り戻させることも出来たのかもしれないが、残念ながら、今この場に彼の代わりとなり得る者は、一人として存在しなかった。
やがて、困惑に眉尻を下げながらも、ナギティアルーダ国王ロドムスが、悍ましき肉人形へと果敢にも言葉を差し入れる。
「あー……ヴェリーネ殿?
そう心配には及ばぬ。
侍医の話では、単純に疲労だろうということで、娘の命に別状はない」
「しかしっ!」
「ヒぃッ」
かけられたセリフに対し、魔物の王は勢いよく醜い顔面を晒した。
瞬間、未だ彼の見目に不慣れな人間の王は、思わず喉から悲鳴の欠片を零れさせる。
が、そうして怯える男を前に、多少なりと正気を取り戻したのか、ヴェリーネは声の量を小さく落としてから、ロドムスへ問いを投げかけた。
「突然倒れるなど、何か、危険な病の兆候かもしれない。
その者の下した診断は、本当に正しいのですか?」
「仮にも王族付きの医師が無能ではやっておれんだろう。
こちらとしては、信用してもらうしかない」
ナギタ王としても、娘のアイダラスから、彼の国の発展ぶりは聞き及んでいる。
そんな世界の住民が、知識も経験も遥かに劣っているであろう人間の出した結論を疑うのは無理もない話だ。
だが、そうと知りながら、ロドムスは彼の追及を躱し突き放すような回答を返す。
「そもそもだ……何故、そうまで貴公が娘を気にかける。
其方ら魔物にとって、我ら人間など、いかにも取るに足らぬ存在であろうに」
不思議だったのだ。
ヴェリーネのソレは、異種族の娘へ向ける態度として、あまりに過剰。
だからこそ、ナギタ王は、王女の不調には裏が、魔物側の巧妙な仕込みがあり、何らかの罠に嵌められようとしているのではないかと疑った。
しかし……。
「っ取るに足らぬなど、有り得ません。
確かに、表面的な意味での力は、我々の方が勝っているかもしれない。
ですが、所詮はそれだけです。
私は、人間と言う種族の見事なまでの誇り高さ、深き慈愛の精神を、アイダラス殿下から教えられました。
身に宿る魂に価値があると言うのなら、我々魔物のソレより彼女の、人間の方が遥かに高いと、私はそう確信しております。
自らの生き様でもってソレを示したアイダラス殿下を、私は心より尊敬しているのです。
そんな殿下が倒れられたとあって、なぜ平静でいられましょうか」
拳を握り、怒涛のように少女への称賛を口にする肉人形へ、ロドムスは二度、瞼を瞬かせる。
やがて、彼は妙に視線を泳がせ、唇の端をしきりに上下させつつ、ぎこちなく相槌を打ってみせた。
「……う、うむ。
アイダラスは、我が子ながら非常に出来た良き姫であるからな。
今は亡き王妃に酷似した美しき見目ばかりを褒めちぎる輩は多いが、真のアレの魅力は、その強くも穢れなき在り方にあると、私も常々思っている。
なるほど、魔物であるヴェリーネ殿には、それがよくよく分かっていると。
うむ、なるほど、うむ」
自慢の愛娘への賛辞を受け、親バカの顔がこれでもかと表に出てきてしまっているナギタ王。
女のくせに小賢しいと、陰で彼女の性質を厭う者もいる中で、魔物であるヴェリーネからのこの評価は、父として相当に感じ入るものがあったようだ。
整えられた口髭を指で幾度もなぞりながら、彼は続けて語り出す。
「んんっ、まぁ、貴公ら魔物諸君とは、本日より一切の関係が断たれる訳にあるからして……。
それほどまでに我が娘の身を案じておるのであれば、ヴェリーネ殿お一人でという条件にはなろうが、最後に軽くアレを見舞うぐらいは、と思わぬでもないが……どうかね?」
ロドムスのとち狂った提案に、両王の背後に控えていた互いの兵たちは大きくどよめいた。
この場にクォザンがいれば、星王への甚だしい侮辱だとして襲い掛かるぐらいはしたかもしれない。
一国の王としては甚だ軽率な発言だが、目の前の魔物に害意はないと判断した上で、塞いでばかりの娘の気がこれで少しでも晴れればという、一人の父親としての心遣いでもあった。
まだハッキリとした思考として捉えているわけではないが、ナギタ国王として得てきた多くの経験により、彼は薄っすらと二人の関係性に勘付きかけている。
部下たちの胡乱げな声が耳に届いていながらも、ヴェリーネは渡りに船とばかりにその申し出を受け入れた。
本来の、星王としての彼からすれば、まったく冷静さを欠いた行動である。
例の側近程ではないにしろ、強き者こそ正義という価値観に染まりがちな直属兵の諸兄らが、弱き人間をこうまで執拗に構うキングベルに当惑を覚えぬはずはない。
また、本気で少女を諦めようと考えているのなら、己のみならず、相手に未練を残させぬためにも、断って然るべきであった。
だが、たったひとつの愛という感情が、彼を何もかもから盲目にする。
ナギタ側においては、外務大臣に相当する壮年の男がロドムスとかなり揉めていたようであったが、両国のトップが乗り気である現状、この馬鹿げた提案が覆されることは、ついになかった。




