11 帰還
そして、ついにその時は来た。
どこまでも闇色の不気味なホールを前に恐れ慄く者もあったが、ほとんどの民はただ純粋に煉獄からの脱出が叶うとあって歓喜に沸いていた。
「始めるぞ。
各々、人間を連れ生命エネルギーを練成しろ」
「皆も、事前に取り決めた方の元へ集まってください」
ヴェリーネの命令と同時に、アイダラスも人々に魔物の傍へ向かうよう指示を出す。
期待と不安が綯交ぜになったような面持ちで、彼らはゆっくりとそれぞれ所定の位置へ移動していった。
完全に準備が整うまでを見届けた後、姫君も王のすぐ隣へと立ち控える。
いよいよナギタへ通ずるホールへ注目が集まる中で、側近クォザンがその中から姿を現した。
どういうことかと驚いて、王女は咄嗟に肉人形を見上げる。
その意図を汲み取って、彼は少女へ視線だけを合わせて、おもむろに説明を始めた。
「事前に点検は重ねましたが、正規に発生固定させたものではありませんし、本当に使用に支障がないか、到着座標が変わってはいないか、そして……貴方の星や国がすでに滅んではいないか、直前の今、彼に確かめさせておりました」
三つめの理由については、アイダラスにだけ届く小声で語られた。
未熟な彼女は全く想像もしていなかったが、確かに、帰るその場所がすでに失われている可能性は無ではないのだろうと、今更ながらゾッと背筋を凍らせる。
だが、それはすぐに杞憂に終わった。
クォザンの報告によれば、むしろ、ナギタは復興の最中にあるらしい。
ホッと胸を撫で下ろす王女。
ここの人間たちを受け入れるのに何の問題もないだろうと、そう部下から見識を述べられた王は、間もなく帰還作戦の開始を宣言する。
「では、アイダラス様。
御身、失礼いたします」
「は、はい」
地に片膝をつき、緩やかに両腕を伸ばす肉人形。
姫君は緊張で声を震わせている。
帰郷に対してのソレではなく、愛しい男性に自ら抱き上げられにいくという行為が、彼女を妙に恥じらわせていた。
赤くなろうとする頬を必死に制御して、魔物の王の太く醜い腕の中に収まる。
導くべき民の前で、曲がりなりにも王女であるアイダラスが、私心を露呈させるわけにはいかない。
突入こそ真っ先に行うヴェリーネだが、有事の際に即時対応できるよう、ホール内を移動中は殿を務める予定となっていた。
側近であるクォザンは、第一陣が引き返して来るまで、神殿に見張り役として残されている。
張り詰める空気の中、隊列を組んだ魔物とそれに抱えられた人間の集団が、暗黒へと吸い込まれていった。
そうして、三度に渡って行われた運搬作業は、意外な程にすんなりと終わりを迎える。
闇の出口は果てしない砂漠の海に繋がっていた。
人の姿や建物は未だ目にすることは出来なかったが、ナギタの民は久方ぶりの故郷の風景に、揃って瞳を潤ませている。
アイダラスもまた、懐かしき祖国の風を受けて、目頭を熱くさせた。
やがて、背後に立っていたヴェリーネの手を取って、彼女は繰り返し何度も感謝の言葉を口にする。
それを受けて、王はどこか複雑そうに首を横に振った。
「アイダラス様、礼など不要です。
元はといえば、全て星王である私の管理不行き届きが招いたこと。
我々、魔物の起こした悲劇です。
責められこそすれ……ありがたがられることなど、何も……」
「それでも、ヴェリーネ様。
貴方がいたから、今、私たちはここにいる。
貴方がいたから、悲劇は終息したのです。
そして、きっと、ヴェリーネ様が王であったからこそ、ナギティアルーダは今日まで存続していられたのだと、私はそう思います」
ホールの乱立が避けられない出来事であったとして、魔物たちの頂く王が本能のままに生きる者であれば、人間という種を発見したマッデュバの民が、それを狩るのに何の遠慮も働かせはしなかっただろう。
そうなれば、ナギタ一つといわず、周辺国までとっくに彼らの凶行に飲み込まれていたはずだ。
だからこそ、アイダラスは心から本気でヴェリーネに恩義を感じている。
しかし、彼女から向けられる情を、罪の意識に苛まれる当人は飲み込み切れぬようで、ゆっくりと顔を逸らして沈黙した。
たっぷり一分も経った頃、彼は虚空を見つめる眼球の分厚い瞼を細めて、ひとつ呟きを落とす。
「……この砂漠はかなり遠くまで続いているようだ。
不快でなければ、我々で人里近くまで送らせていただきますが」
王の提案に、姫君は改めて周辺に首を回してから頷いた。
「そうですね、お願いしてもよろしいでしょうか。
最後まで頼り切りで恐縮ですが、何の備えもなく砂漠を渡るのは危険が過ぎますから」
「畏まりました」
そうと決まれば、二人の行動は迅速だ。
ヴェリーネは魔物へ指示を、アイダラスは人間へ説得を施して、早々に輸送体制を整えていく。
出発を前にして再び顔を突き合せれば、少女が妙に慌てた様子で肉人形へ潜めた声を飛ばしてきた。
「あの、今更ながら、現在地が分からなくて、向かうべき方角が……。
一応、国内の地図は頭に入っているのですけれど」
「あぁ、それでしたら」
彼女と逆に落ち着いた態度を崩さぬ魔物の王は、華奢な身体をヒョイと抱え、空高く舞い上がる。
「っきゃ」
「上空からご覧になれば、場所の見当がつくのではないかと。
いかがでしょう」
「……え、あっ、は、はい」
ありえぬ程の高所から見下ろす初めての景色に、姫君は内心の怯えを隠しながら視界を巡らせた。
が、無意識に己を支える腕を両手で強く掴んでしまっているので、心情は実際ダダ漏れである。
彼が王女を伴い飛翔するのは施設襲撃の際にもあったが、あの時は速度も段違いで、彼女は道中ろくに目を開けることさえ適わなかった。
到着後は、人間を狙う魔物の群れに意識が集中しており、それ以外のことについては、あまり記憶に残っていない。
とはいえ、無理とも言えず、何とか彼方までを一望して、幾ばくもなく、アイダラスは自身の使命を全うした。
そして、詰めていた息を吐き、砂漠へ戻してもらおうと王の顔を見上げて……どこか虚ろなその人に、王女は首を傾げる。
「ヴェリーネ様?」
が、肉人形はピクリとも動かない。
彼は、世界の美しさに心を囚われていた。
遥か遠くに垣間見える大地の緑も、しなやかで愛嬌のある生物たちも、透き通るような青々しい空も、太陽の光を受けて黄金に輝く砂の海も、全ては瘴気溢るる魔の惑星には存在しないものだった。
さわやかな風が爛れた肌を撫でつける。
淀みのない空気の軽さが清清しい。
感極まる思考の狭間で、ヴェリーネは、ふと、愛しい娘の穢れなき魂の根源を知った気がした。
「ヴェリーネ様」
瞬間、何度目かになる姫君からの呼びかけが飛んで、ようやく我に返る魔物の王。
反応があったことに安堵したのか、少女は薄っすらと小さな唇に笑みを浮かべている。
どこまでも澄み渡る星に相応しき、儚くも可憐な花。
ヴェリーネの胸に無限の愛しさが湧き上がる。
だが、彼は即座に己の感情に蓋をして、努めて事務的に舌を蠢かせた。
「申し訳ない。見慣れぬ景観に、いささか放心しておりました。
それで、首尾はいかがでしたか」
「あ、はい。
ここから東南東の……あちらの方角へ向かっていただければ、我が国の王都が、ある、はずです」
王女は、自身の結論に確信が持てず、語尾を濁している。
未だ幼き文明の国であるからして、地図とはいっても現代の精密さとは正反対の、人の記憶に頼る大雑把で正確性に欠けるものが主流だった。
当然、彼女の知識と地形は一致せず、また、王の娘という立場からして、都の外を旅したような経験もなく、そうなると、むしろ、この条件下で当たりを付けられただけ上等な部類といえた。
それに、示した先には実際に宮殿があるのだから、中々に有能な姫君であろう。
束の間の空中遊泳は終了し、魔物たちの協力の末、人間約六十名が広大な砂漠を有り得ぬ速度で運搬されていく。
彼らの世界で組み立て式魔走機と呼ばれ重用されている乗り物は、例えは汚いが、和式便所のような形状をしており、スイッチひとつで地面からおよそ三十センチメールの高さを浮いて、操作レバーを倒す方向に合わせて宙を滑るように走行する。
魔走機自体のサイズにもよるが、不要時は片腕に抱えられる程度の小ささにまで折り畳め、どこにでも持ち運べる利便性が受けて、広くマッデュバに普及していた。
ただし、エンジン出力の弱さから、基本的には自転車程度の扱いとなっている。
まぁ、弱いといっても、スポーツカー並みのスピードが出るのだが。
もちろん、搭乗者側の快適さは保証されており、外の景色を見る以外では、動いていることさえ感じさせない。
そんな珍妙な箱たちに別れ乗って、人々が王都付近まで到着したのは、出発から僅か三十分後のことだった。
主な移動手段が徒歩かラクダかというナギタの民にとっては、全く考えられぬ事実である。
「我らはここまでと致します。
アイダラス様。どうぞ、お達者で」
魔走機から下車した人間たちは、もはや魔物などに目もくれず、我先にと懐かしの都へ向かい駆けていった。
だが、アイダラスはそんな周囲を尻目に、踵を返し立ち去ろうとするヴェリーネの背に制止の声を投げかける。
「お待ちになって、ヴェリーネ様!」
魔物の王は、その言葉を受けて、再び彼女の元へ体を戻した。
「お願いです、私を宮殿まで連れて行って下さい」
あまりに唐突な少女からの要求に、目を見開き固まるヴェリーネ。
やがて、彼は困惑を隠さぬ声色で姫君に問うた。
「……一体、何故。
それが、どのような事態を招くか、分からぬ貴方ではありますまい」
「無論、承知の上です。
例え、最悪の結末に陥ろうとも、後悔はありません……どうか」
アイダラスは胸の前で両手を組み、強い眼差しで魔物の王を見つめている。
喜び勇んで都へ走り去った者たちが、あちらでの出来事を広めたとして、もしも、仇と通じた人類の敵と認識され憂き目に遭ったとしたら。
そんな、脳に張り付く悲惨な未来を回避するために、また、それが防げぬなら彼らと共に、いや、誰より先に、誰より多くの石に打たれるために、彼女は最も醜く愛しい魔物の同行を求めたのだ。
もちろん、恋する乙女らしく、純粋にもう少し彼と共にありたいと願う心もない訳ではない。
少女の極めて真剣な瞳に、肉人形は渋々といった体ではあるが、承諾のため喉を震わせた。
「……貴方に本心より望まれれば、それを断るという道は私にはない。
ただ、兵をこの場に待機させる訳にも参りません。
全員の帰還を見届けて、あちらのクォザンに声をかけてから、ということで、随分お待たせするかと思いますが」
「もちろん、構いません。
ヴェリーネ様のお戻りを、いつまででもお待ちしております」
色よい回答に、自然と微笑みを浮かべる姫君。
それを受けて、ヴェリーネは無言で踵を返し、魔物を引き連れ去って行った。
彼女の言葉の真意を理解しつつ、彼は己の心にある迷いのために、何も応えることが出来なかったのだ。
人間という足手まといさえいなければ、移動にかかる時間は更に短縮される。
肉人形が一体きりで再び姿を現したのは、三十分と少々が過ぎた頃合いだった。
当然ながら、すでに姫君以外の人間は影も形もない。
「っヴェリーネ様……良かった」
約束を破る男ではないと知っていても、やはり不安だったのだろう。
アイダラスは僅かに目尻を湿らせながら、王の足元へと駆け寄った。
対して、彼は常のように無表情で少女を見下ろしている。
「それで、宮殿までは、どのようにして?」
「父の元に直行したいので、可能ならば、空から向かいたいと」
「仰せの通りに」
必要な挙動を思い薄っすらと頬を染めつつ姫君が願い出れば、すぐにヴェリーネから了承の頷きが返った。
身を屈める魔物の腕が動くより先に、彼女は歪な首を目掛けて縋りつく。
想定外の接触に、一瞬、肉人形はそのまま王女を抱きしめてしまいそうになるが、直前で正気を取り戻し、慌てて両手の行く先を修正した。
ゆっくり、ゆっくりと、厳つい魔物と華奢な少女が宙に浮いていく。
敢えて、防壁となる光を発さずに、ヴェリーネは遊覧飛行さながら、風を浴びつつ天を舞い進んだ。
抱えられるアイダラスもそれを咎めず、自身の額を目前の肉に摺り寄せる。
沈黙の道中、ふと、魔物の王が囁くような小声で語り出した。
「……アイダラス様。
私の手は、多くの血で穢れきっています」
「え?」
「王となるために前王を殺し、王であるが故に幾人もの同胞をこの手で殺めました。
アイダラス様と出会った時でさえ、私は人間を助けることを暴力的な方法で行った。
生命の尊さを説く反面、力で彼らを支配する……とんだ偽善者です。
私はしょせん、私が罰してきた者たちと同じ、罪人でしかない。
その私が、誰かを愛するなど、ましてや、愛されるなど……本来、許されることではありません。
だが、貴方は、私のような男には、化け物には過ぎた想いを、拒絶もせず、受け入れてくださった。
貴方との全ては、幸福な夢として胸の奥深くに刻み、生涯、忘れることはないでしょう。
ありがとう。
アイダラス様……貴方は、醜き怪物のことなど、記憶に留置く必要はありません。
この美しき世界で、どうか幸せに生きて下さい」
愛しい肉人形の、別れの際の懇願を、王女は無言で受け止めた。
これから復興していこうとするナギティアルーダの現状において、他国への政略結婚は免れず、姫君が彼と同じように永久の愛を口にすることは難しい。
また、唯一を定めたまま嫁ぐことは、相手国に対しても、ヴェリーネに対しても、不誠実になるのではないかと、アイダラスは考えている。
だから、心に溢れる想いを全て、今この時に捧げてしまうように、彼女は折れそうに細い腕で彼の太い胸に強くしがみ付いた。
魔物の王は、少女の身体を抱き返そうとする自身の衝動を抑え、ただ、目的地のみを見据えて飛翔する。
これ以上、この健気な娘に己の何を残すこともするまいと、肉人形は懸命に耐え忍んでいた。
間もなく、二人は王都の上空へと辿り着く。
アイダラスは、順調に再興が進んでいるらしい眼下の様子に、自然と破顔していた。
逆に、偶然にも彼らを発見してしまった住人たちは、大いに困惑し、どよめきばかりを漏らしている。
ヴェリーネは、見目 悍ましい魔物の中でも一際グロテスクな肉体を持ち、また、その巨体には常に汚らわしくも重圧な黒の瘴気が纏わりついており、腹の底から響く声禍々しく、更には己が身ひとつで天変地異を再現できてしまう程に強大な力を有する男だ。
例え、卓越なる聖人君子であろうと、一目で彼の本質を善と看破する者はいないだろう。
そして、それ以上に、魔物に襲われ続けたナギタの民が、当該種に対し無条件に恐れを抱くのは、無理もない話だった。
「ヴェリーネ様、あそこです。
あちらの、三階のテラスへお願いします」
王女の未来を案ずる肉人形と裏腹に、姫君は至極冷静に行き先を示している。
徐々に下降するヴェリーネとアイダラスの姿に気付いた宮殿兵や使用人が大げさに騒ぎ立てていたが、二人はそれを意に介さず、するりと目当ての場所へと足を着けた。




