プロローグ
ここ、ナギティアルーダ王国、通称ナギタに魔物が顕現し始めたのは、今から八年は前のことだ。
彼らは少なくとも独自の言語を操るだけの高い知能と、それに反する凶暴性を持ち合わせていた。
当然、友好的とはとても言えぬ態度で、いつもどこからともなく現れては、無差別に破壊や拐かし行為を繰り返している。
襲撃は、多ければ月に三度、現れるのはいつも五体以下と小規模だ。
だが、それでも一体につき百を超える虐殺が行われていた。
また、土地のほとんどを砂漠が占めるナギタの中で、数少ない水源の元に育てられた作物も滅茶苦茶に荒らされ、更に、彼らの目が自らに向くことを恐れた近隣諸国との国交もことごとく途絶えたため、間接的な被害として、飢え死にする者が続出した。
年々、民草は他国へと流れ、現在の王国の人口は、かつての六分の一以下と激減している。
魔物が出現した当初は、正義の名のもとに数多の兵や民が立ち上がったものだが、結末、その九割以上が儚くも散っていった。
残された人々は、もはや、ただ怯えて暮らすのみである。
そんなナギタの現状を、国王ロドムスは憂いていた。
彼は、魔物に対抗できる術を何一つ持ち合わせぬ自身の無力さを嘆く。
すでに、宮殿の食料保管庫も底を尽きかけている。
国家滅亡は、とうの昔に秒読みの段階に入っていた。
むしろ、ここまで存続できたことが奇跡に等しい。
しかし、ロドムスの苦悩はそれだけにとどまらない。
彼には二人の子供がいた。
姉のアイダラス王女は十五歳、美しく聡明で、慈愛の心に満ちた理想的な姫君であった。
弟のゼフォンス王子は十二歳、少しばかり病弱ながらも、強い正義の意志と、深い愛国心を持っていた。
魔物さえいなければ、どちらが後を継いだとて、ナギティアルーダ王国の繁栄は磐石のものとなったであろう二人である。
さればこそ、親として王として、姉弟をこのまま祖国と共に朽ちさせるなど、到底受け入れられるものではなかった。
だが、現実はひたすら無情。
何のメリットも得られないと分かっていて、消えゆくナギタの王族を受け入れる奇特な国家など在りはしない。
むしろ、その血が後々に仇となって返ってくる可能性もあるのだから、賢明な判断ともいえる。
悲劇的運命を静かに受け入れている早熟な子らを思うと、ロドムスはひどく辛い気持ちになった。
そんな、ある日。
王の第一子であるアイダラスが、未だ忠義を尽くす数人の従者と共に、王都に住まう民草らに一杯の薄粥をふるまっていた時のこと。
対象は特に選別していなかったが、開始した場所柄か、主に各地方から王の庇護を求めて都入りした難民が集まっている。
しかし、その場所に、無粋にも招かれざる者が乱入した。
唐突に、空から魔物たちが降り立って、暴虐の限りを尽くし始めたのだ。
内一体に目を付けられた麗しき姫君は、彼女を慕う者たちの奮闘むなしく、あっさりと醜い手に捕らわれてしまった。
乱暴に担がれながら、アイダラス王女は無残に殺されゆく従者や民、大きく崩れゆく王都を視界に映す。
恐怖と絶望の感情に精神を激しく翻弄され、彼女は自らの防衛本能に逆らえず意識を闇に逃避させた。
その後、好き勝手に破壊活動を堪能した魔物たちは、姫君を含む数名の生きた人間を抱えて、忽然と王国から姿を消す。
アイダラスが消息不明となり、国王と弟王子、兵や侍女、貴族に平民、ナギティアルーダに住まう全ての者が嘆き悲しんだ。
天性の優しさと明るさで、彼女は今、この国にあって、人々に笑顔を、光をもたらす唯一の存在だったのだ。
それから約一月が経過した頃、皆はある異変に気が付く。
王女を失ったその日より、魔物の出現がピタリと止まっていた。
嵐の前の静けさだと語る者もあれば、姫君が奇跡を起こしたのだと信ずる者もあった。
様々な議論や噂が飛び交う中で、唐突にもたらされた安穏な日々に誰しもが溺れた。
時が経つに連れ、他国へ逃れていた民が戻ってきたり、行商人が行き交うようになったりと、少しずつではあるがナギティアルーダの再生がなされていく。
そうして、最後の強襲から約半年。
誰もが恐れ、また誰もが望んでいたことが起こった。
有り得ない光景を天高くに見た人の群れに動揺が広がる。
歓喜、疑心、憎悪、混乱、あらゆる感情が地に渦巻いた。
今までとは比べ物にならぬほど恐ろしく醜悪な見目をした魔物と、その腕に抱かれたアイダラス王女の姿が彼らの目に飛び込んできたのだ。
敬愛する姫君が生きて戻ったことを喜ぶべきか、悍ましい魔物が再び出現したことを嘆くべきか、この不可思議な光景をどう受け止めれば良いのか、誰にも判断できなかった。
ただ、どよめきだけが広がっていった。
そんな地上の混乱には目もくれず、悠々と空を横切る魔物と王女は、一直線に宮殿へと消えていく。
現実を受け止めきれぬ民たちは、彼らを追うことも逃げることもせず、唖然とその場に立ち尽くしていた。