3.
いや、よく考えると、アザゼルの理屈はおかしかった。何で仕事帰りスーツの耕治と普通の服のヴィラニカが居酒屋にいっただけで、さっき見せられたいかがわしい画像のような関係と誤解されることになるのだろうか。いや、なるわけがない。
しかし勢いで着替えてきてしまった以上、もうこの服はヴァルディエルに返すことはできなくなってしまった。彼は『やる』と言ったのだから、返却するのはその厚意を無にしてしまうことだ。いい気持ちはしないだろう。
それにしても、明らかに体格や身長が違うヴィラニカと耕治にぴったりの服があったのは不思議だ。ヴァルディエルによると、他の家族が着るかもしれないからとサイズは気にせずにもらったりするらしいが。
「こ、耕治さん」
心なしか掠れた声で呼ばれて、耕治は考え事を中断した。居酒屋の前でタクシーを降りてから、ヴィラニカはずっと顔を強ばらせている。
「どうしました?」
「いえ……その、人が多くて」
耕治は、ぐるりと周囲を見回した。国の肝いり政策のおかげか、いつもより確かに人出が多い気はする。既にできあがっている集団もいるのは、本当に昼間で退社してそこから飲んでいたためだろうか。そういう人々がたくさんいれば、多少経済は回るかもしれない。
「人混み苦手ですか?」
「……というより、間近で初めて見ました。こんなにたくさんの人は」
とうとうヴィラニカは、耕治の背に隠れてぴったりとくっついてきた。何だかふるふるしている気がする。
もしかしてこれは。
「人見知りとか?」
言ってから、それはないだろうと自分で打ち消した。ヴィラニカは毎日大勢の人間と接しているし、彼らに指示を飛ばしたりもする。臆した様子など見せたことはない。いつも堂々たるものだった。
「まあ、ここに立ってるのも疲れるから、入りましょうか?」
「はい……」
騒がしい往来より店内の方が落ち着くかもしれないと、耕治はヴィラニカを促して見せに入る。
居酒屋特有の景気のいい挨拶にまたもやヴィラニカはびくびくしていたが、ともあれ無事に席に通される。個室ではないが簡単な仕切りが設けられたテーブル席で、ブラインドで通路側を遮蔽することもできるようになっていた。
「賑やかですね」
テーブルについてようやく落ち着きを取り戻したヴィラニカが、ほっと息をついた。
「こちらの世界の方は、このような場所で食事をするのが一般的なのですか?」
「まー、食事というより酒ですね。飲み会……職場の人間で集まって飲んだりとか。安いから一人暮らしの俺みたいなのは普通の飯にも利用しますけど」
説明しながらようやく、ヴィラニカの緊張の理由に思い当たった。異世界の、やんごとない身分の彼が、こんな超庶民的な空間にいきなり放り込まれて戸惑わないわけがなかったのだ。
「ということは、メニューもわからないか……」
写真が一緒に載っているのが何よりだ。耕治はメニューを開いて、ヴィラニカの前に置いてやる。
「いろいろありますね」
目をきらきらさせて、皇子様は熱心にメニューを覗き込んでいる。楽しそうな様子に、耕治は何となく和んだ。
いつもてきぱきと仕事をしているのに、今は子供のように無邪気だ。
「耕治さん、これはどのような料理ですか?」
と、ヴィラニカの細い指が示したのは、焼き鳥だった。定番中の定番である。
「鶏肉を串に刺して炭で焼いたものです。味は、塩胡椒とタレと……」
どっちがいいか、と訊くよりも、最初から両方注文した方がよさそうだった。めっさ期待の眼差しで見られていたから。
他にも適当に何品か注文し、酒はビールにした。ジョッキと料理が運ばれてきて、改めて乾杯となる。
「苦い……でも、何て深みのある丁寧な味……」
ビールを一口飲んだヴィラニカは、グルメマンガみたいなことを言い出した。
「そっちにも酒くらいあるでしょうに」
「ありますが、こんなに美味ではありません。ワインが一般的に出されますが、渋いばかりで」
美味しい酒は輸入しなければ手に入らないため、皇族といえど普段口にすることはできないのだという。ザークレイデスは気候条件が厳しく、酒の原料となる作物も碌に獲れないのだそうだ。
「この世界はすごいです。先日いただいたクリームも、このお酒も」
やたら上品に焼き鳥を啄みながら、しみじみとヴィラニカは呟いた。
「いつか我が国でも、あの水準のものを生産できるようになりたいものです。国土を衰えさせていた元凶も消えたことですし……」
「元凶?」
「はい。魔王です」
魔王。
魔とラを入れ替えてはいけない。
そういえば、最近ちらっとそんな単語を聞いたような気がする。あれは確か。
「そのことについて、誰かから聞いていますか?」
「ええ、ヴァルディエルから少し」
彼は、言っていた。ヴィラニカの父親が魔王だったと。
詳しく聞かなかった。知らなくてもいいと思ったから。
「魔王が大地から力を奪っていたせいで、我が国は土壌がよくならなかった。天候も悪く、農作物を育てることができなかった。でも今は、それが解消された」
他の席からの喧噪が、唐突に飛び込んできた。傍若無人ながなり声に圧されて、俯いたヴィラニカの肩がいっそう縮こまったように見えた。
「今日は、ありがとうございました」
やがて顔を上げたヴィラニカは、屈託なく微笑んでいた。いつも通りに。
「おかげで気持ちが休まりました。とても楽しかったです。これでまた、明日から元気にがんばれます」
耕治は思わず口を開きかけたが、結局無言で会釈しただけだった。




