1.
いつも通りヴィラニカの部屋に書類を持って行ったら、シディアが大事な皇子様の手を必死の形相でさすっていた。
「どうした?」
「……これくらいでいいのか?」
尋ねたのは耕治なのに、逆に質問される。礼儀がないっていない。しかし別にどうでもよかったので、耕治はシディアの手元……と言うよりもヴィラニカの手を覗き込んだ。
つやっつやだった。
「先日いただいたクリームを、シディアが塗ってくれて」
乾ききって荒れていたのが、数日でつるつるのしっとり感を溢れさせている。舶来の高級化粧品と成分が一緒という噂は本当だったのだろうか。青い缶の庶民的化粧品半端ない。
「あんまり塗ると、べたべたして仕事どころじゃなくなるだろ」
とりあえず、見たまま怒ってやった。シディアは憮然とヴィラニカから離れ、ヴィラニカは苦笑して自分の手を見下ろした。
「これは洗い流してもいいのでしょうか?」
「さあ。このまま仕事したら書類がぬるぬるになるのは確実でしょうが」
ものには限度というものがある。
結局ヴィラニカは手を洗いに行き、耕治は書類だけを置いてそのまま仕事部屋に戻った。
他の伯爵だの侯爵だのはだいぶましになったが、あのシディアだけはいつまでもヴィラニカにべったりだ。仕事に支障が出なければ別にいいのだが。
「三時か……」
だいたいの目鼻をつけて何気なく時計を見る。今日はヴィヅ企画事務所に顔を出したとき、アザゼルに渡されたものがあった。居酒屋のクーポン券だ。
政府が出したわけのわからない提案により、月末の金曜日は午後三時で会社の仕事を終えて街で消費しようという意味不明な動きが出ている。早く会社が終わろうが先立つものがなければ無意味なのだ。ない袖は振れない。ない金は出ない。
しかしアザゼルが全国チェーンの居酒屋クーポンをわざわざくれたのは、そういう風潮に便乗するためではないようだった。
『上司に上手な息抜きのしかたを教えるのも、部下にとって悪いことではないはずだ』
恐らくヴァルディエル経由で、何か聞いたのだろう。まったく気配り上手なマネージャーだ。
給料日は先週だったので、現金の持ち合わせはある。口座にも入っている。居酒屋だから元々そんなに高くないし、クーポンを利用すればもちろんさらにお得になる。
だが、しかし。
「耕治さん、失礼します」
ノックのあとに、ヴィラニカが入ってくる。少しあわてた様子で。
「すみません、今アザゼルに聞いたのですが、今日は向こうの世界では早く仕事を終わらせなければならない日だそうですね」
耕治は、真剣にリアクションに悩んだ。
どこからどう突っ込めばいいだろう。
「今日はもうだいたい重要な書類は片付きましたし、どうぞお帰りになってください。あとは私達でいつも通り処理しますから」
いつも通り。ヴィラニカの場合は、夜中までずっと仕事三昧の意味だ。
耕治は、天井を見上げた。何となく。
今日はお国の肝いりで合法的に会社が早く終わる日。クーポン券もある。金も、一応ある。
何というコンボだ。
耕治は、深く溜息をついた。
「一人で早く切り上げるのも、気が引けるんで」
ヴィラニカを見ずに、耕治は言った。
「重要なのが終わってるなら、いっそ今日はこっちも早く仕事を終わらせて、みんな家に帰してあげればいいんじゃないですか?」
どうせずっと徹夜が当たり前だったんだし、と続ける。
「疲れを取って、改めてまた仕切り直した方が、能率は上がります」
「……そうですね」
ヴィラニカは、少し考えてから頷いた。
「休むのも仕事のうち、でしたね」
「はい」
行動の早いヴィラニカは、さっさと廊下に待機していた誰かに何事か話しかけに行く。伝達を頼んだのだろう。
耕治も財布を覗き込み、覚悟を決めた。
「ええと、皇子様」
声をかけてから、彼を呼ぶのが初めてだと気づいた。
妙に、喉に痰が絡む。
「はい」
「その……」
飲みに行きますか。
なぜか、それだけの言葉がなかなか口から出なかった。




