おまけ。その後の、会議。
アイリスとギュンター側の、お話です。
一ケ月が、経とうとしていた。
そろそろ…だな。とアイリスは思った。
オーガスタスに尋ねたが、南領地ノンアクタルから決闘はいつするのかと言う問い合わせも無く、金の件で決闘を付けると言う話はあれきり、絶ち消えたと聞いた。
しかしアーシュラスが忘れる筈も無い。が、ドッセルスキが将軍の座を追われ、アーシュラスを頼ったらしいが、賄賂を送らない限りは要請には応えられないと、冷たい野獣からの返答を受け取ったらしいから、さすがのアーシュラスもドッセルスキと繋がりがあった事が公で口に登るのは、時期がまずい。と、大人しくしていたのかもしれない。
が、一ケ月が、立っている。
つまりそろそろあの野獣が、次の会議で暴言と暴挙を吐くのを、覚悟しなくてはいけない。
オーガスタスが誰か代役をと叫んだ、意味が解りすぎる程解った。
ぞっこんのローランデに色目使われ、ギュンターは日頃気に入らないと言っていたアーシュラスに、報復の機会を狙い澄ましていたし、父親が大好きな息子のマリーエルも絶対!あれで納まる筈も、無いだろう。
オーガスタスが逃げ出したくなる気持ちが、痛い程解ったが引き受けると、言ってしまった。
だが救いは自分は一回きりだ、と言う点だ。
つまり、今後そのやり方を貫く必要も無く、その一回は好きにやっていいと言う事だ。
アイリスはともかく、どうすればこの、混乱が納まるのか、じっくりと考えた。
会議の会場へ足を運ぶ途中で、ギュンターは彼を見つけた。
「よぉ…」
憮然した表情で、前を歩くマリーエルの女顔に挨拶する。
彼は、振り向いた。
少年の頃からそれは母親似の、小顔の美少年だったが、大人になってもそれは変わらない。
だが、昔から中味は自分と同じ野獣、とふんだだけあって、髪は彼の愛しのローランデにそっくりだったが、その態度といい立ち姿といい、どこから見ても立派な野獣だった。
数歩先からも彼の、凄まじい気迫が常に漂い、マリーエルが居るな、と言う存在感を醸し出していた。
マリーエルはギュンターを、見た。
自分が幼少の頃青年盛りだった筈だ。
だがローランデと最近は蜜月を過ごしているせいか、全然、衰えを見せない。
相変わらずの美丈夫ぶりに、マリーエルは心の中でつい、ふん、と鼻を、鳴らした。
ローランデは俺の物だと、彼の前でたっぷり、その男ぶりを見せつけた時とちっとも変わらず、逞しくしなやかな体付も、教練一モテたと言うその美貌も、憎らしいくらいで、マリーエルはもの凄くしゃくに触ったが、今回の相手はアーシュラスだ。
「相変わらずだな」
マリーエルは皮肉な言葉を、投げかける。
ギュンターは彼が、苦み走った表情の理由を熟知していた。
長年行方を探していた母親の違う弟テレッセンの面倒を、マリーエルは一手に引き受け、教練でも彼を庇い通し、そしてその後距離を置こうと言って、テレッセンに振られたのだ。
ギュンターでも呆れるが、マリーエルの初恋はよりによって父親で、母親共々父親に惚れ込んでいた。
自分がかっさらった形で母子はローランデに失恋し、その後マリーエルは父親の面差しを受け継いだ、母親違いの義弟、テレッセンにその想いを移行させた。
テレッセンは母親を亡くし、彼しか頼る者は居なかったし、マリーエルもそれは彼を大切に、していたようだ。
その相手に、お互いの成長の為に離れようと告げられ、この、現在の苦み走った表情になっている。
テレッセンが一人前に成り、ローランデの妻がとうとう離婚を承諾して以来、ギュンターの方はローランデと、長年望んでいた同居を始めた矢先で、それがますます、マリーエルの苦い表情に拍車を掛けていた。
だがマリーエルは餓鬼の頃から半端じゃない“気"の持ち主で、子供らしい所はカケラも無く、最愛の父親の前では心配かけないように大人しく子供の振りをしてはいたが、つい、餓鬼だと言う事を忘れていつも対等の口をきいていた。
現在21に成ったと言うが、17の年に、アースルーリンド全領地から金品を奪い、各地方護衛連隊を嘲笑い、打ち破って盗みまくった大盗賊、ドードリンデを討ち取り、伝説を残した。
どの領地からもお尋ね者扱いされていた有名過ぎる大盗賊の首領を、たった17の、当時は連隊長ですら無い一介の騎士が打ち倒したとあって、その名はあっと言う間にアースルーリンド中に、轟いた。
地元民は皆、北領地[シェンダー・ラーデン]大公子息の素晴らしさに彼を英雄扱いし、全員が熱狂的な歓声を送った、だけあり、猛獣振りは格段だった。
18で地方護衛連隊長の地位に掛け登り、それ以来会議で顔を会わせるようになったが、テレッセンに別れを告げられた後で毎度、ギュンターをそれは忌々しげに、見る。
ギュンターは自分が勝者だと知っていたので、放って置いた。
その余裕がますます気に入らないようなのは、明白だったが。
失恋の八つ当たりに、いちいち付き合ってられるか。
と、言う迄も無く、ギュンターがローランデに受け容れられない長い期間、それでも愚痴一つ零さずローランデに尽くし続けて来たギュンターの姿を、幼いマリーエルは目の当たりにしていたのでさすがに、突っかかっては来なかった。
「(…俺に、『根性無し』と笑われると、思ったんだろうな)」
二人は、黙り込んで並んで、歩いた。
事情を知っているのか単に怖いのか、並ぶ二人を見て途端、皆が場所を開けて避ける。
ギュンターはその、隠す様子を見せない気迫を常に漂わせる、自分より頭一つ低い彼を見下ろし、つぶやいた。
「お前、ちゃんと抜いてるか?」
マリーエルが、表情を変えずギュンターを見つめる。
が、その青紫の瞳は、見つめられただけで寒気が震う程の眼力だった。
「…欲求不満とか、言いたいんじゃないよな?」
マリーエルは、嗤った。
ギュンターは思い切り、肩をすくめた。
「まあ、一番の男盛りに、恋人に振られちゃな」
マリーエルは思い切り気に、触ったようだったが、言った。
「アーシュラスの事を、それは想ってるからな!」
あんたも同様だろう?と振った。
「…あいつは俺が、決着を付ける」
ギュンターが言うなり、マリーエルは間髪入れず、凄まじい迫力で彼の胸ぐらを、掴み上げた。
周囲がその様子に、ぎょっと、する。
マリーエルにそんな鋭い気迫で胸ぐらを掴まれたら本当に、怖いのに、ギュンターは平気だった。
「…あいつは俺の目の前で!
ローランデを侮辱した!あんたの目の前じゃない!」
ギュンターはだが、言った。
「だから何だ!俺は心の底からムカついてるし、アーシュラスとはお前より、付き合いが長い!
どれだけ溜め込んでるか、お前には解らないだろうがな!!!」
マリーエルが殺気に近い迫力でギュンターを睨んだがギュンターは静かに、睨み返す。
どっちも性根が野獣だけあって凄まじい迫力で、会議前にこれではと、関係者が慌てて責任者を、呼びに行った。
アイリスは、あと数歩で会議場だと言うのにその廊下で睨み合う、ギュンターとマリーエルの姿を見つけた。
二人の怖さに誰も側に、寄れなかった。
アイリスは二人の横に付くと、つぶやいた。
「会議の準備をする者が、中に入れなくて困っている」
「…入ればいいだろう?」
ギュンターはまだマリーエルに胸ぐらを掴まれていたが、マリーエルを凄まじい瞳で睨み付けたまま、言い返した。
アイリスが腕を組んで思い切り、ため息を、吐いた。
俯いたまま、告げる。
「…いい加減大人げないとか、思わないんだな?
相手はローランデの息子だろう?
君には年長者の、思いやりとか余裕とかの持ち合わせは、無いのか?」
「…この、今にも喰い付きそうな野獣の坊やを君が何とかしてくれるんなら俺だって、殺気を引っ込めるが」
アイリスは思い切り、呆れた。
「…仲裁がいるのか?
自力ではどうしようも、無いのか?」
ギュンターが、ぶすっとして、告げた。
「…アイリス。こいつは五歳の餓鬼の頃から、俺の恋敵なんだ」
アイリスが、呆れた。
「君は五歳の子供を恋敵に、していたのか?」
ギュンターは頷いた。
「もの凄く、手強い。ローランデにそれは、愛されているからな」
マリーエルがとうとう、口を開いた。
「…お前にくれてやるなんて本当に、馬鹿な事をしたぜ!」
ギュンターが、嗤った。
「お前が、餓鬼の頃のたわ事で無効だとか、言い出さない卑怯者で無くて、良かったぜ!
あの頃から野獣だったが今はきっちり、成獣だもんな!」
「…睨み合ってる、理由を聞いていいか?」
アイリスがそっと、聞いた。
「…俺がカタを付けると言ったのに、こいつがしゃしゃり出る」
ギュンターが言うとマリーエルも怒鳴った。
「…しゃしゃり出てきたのはお前だろう!
権利があるのは、俺だ!!!」
アイリスは、心の底からうんざりした。
「…君達がここで言い争ってると、ローランデに告げていいんだな?」
二人ともが瞬間、睨み合うのを止めてアイリスを、見た。
「…告げ口か?」
ギュンターが言うと、マリーエルも言った。
「それは無いだろう?餓鬼扱いされる」
「私がどんな人間か、君達は知らないとでも言う気か?」
アイリスが事態の決着を付ける為本気でローランデを呼ぶ気だと、二人は気づいて殺気を、解いた。
「入ってくれ。実は、君達に教えた時間は他者より、早い。
まさか二人が睨み合うとは思ってなかった。
私の予測が甘くて君達に、謝罪する」
ギュンターは、謝罪する、と言う言葉は明らかに皮肉だな。と軽く肩をすくめた。
君がそこ迄ローランデに関して、大人げなく激怒するとは思わなかった、と呆れたんだろう。
マリーエルもこの、多大な政治力を持つ軍の大物の言葉を、その通り受け取る程阿呆では無かった。
促されて会議場に、足を、踏み入れる。
周囲に円形に椅子が並べられ、中央が広く、議長席が設けてあった。
周囲の椅子の前には手摺りがあり、つまり怒った出席者が直ぐ剣を抜いて、中央に乱入出来ない仕組みだ。
あちこちに、場を隔てる手摺りが設けられて乱闘、しにくいようになっている。
…つまりここで行われているのは、いかに、危険な会議かと言う事を物語っていた。
アイリスは心から、オーガスタスの苦労を、思った。
二人をともかく、椅子に掛けさせ、自分は二人に、向かい合って座った。
「…解って無いようだが君達は、それぞれの地方護衛連隊の、長だ」
アイリスは二人を交互に見たが、お互い腕組みしてそっぽを向きあい、やっぱり解っている様子は、無い。
「今日は、多分決闘に、なる」
二人の瞳がきらりと嬉しげに光り、アイリスは心から、げんなりした。
「金と肌白。二人出す。
どっちがどっちか、なんだがどうせ、君達は肌白の方で決着を着けたいんだろう?
だがアーシュラスを思い切り殴らせてやるから、ギュンター。折れてくれ。君が金の方だ」
だがマリーエルが問うた。
「…殴る?決闘だろう?」
アイリスが、顔を上げた。
「会議場では、剣を抜かせない。
殴り合いの、決闘だ」
ギュンターとマリーエルが顔を、見合わせる。
アイリスは肩をすくめ、言葉を続ける。
「アーシュラスが前回の事を覚えて無くて(そんな事はまず、無いだろうが)言い出さなければ決闘は、無い。
後で君達が好きなだけ、やってくれ」
ギュンターはため息まじりにぼそりと言った。
「…随分投げやりだな。君の関心は会議だけか」
マリーエルも同意する。
「会議の席じゃなきゃ、乱闘してもいいんだな?」
アイリスは二人を、見た。
「だってそれ以外なら、ローランデを呼べばコトは済む。
ローランデの前じゃ君達は恥ずかしくて言い争えないだろうし、万が一アーシュラスが彼を目前に口説き出しても、ローランデが正式に決闘を申し出てアーシュラスに自分の考えの甘さを、思い知らせるだろう?」
「…………東領地ギルムダーゼンの野獣共がお前を凄く、嫌う理由が良く、解るぜ」
ギュンターがつぶやくと
「あんた、人の首根っこ掴んで喉を鳴らせと言う気なんだな?!最低のやり方だ!」
アイリスは誉め言葉を聞いたように、にっこりと笑った。
「野獣相手に、まっとうなやり方をする必要が、どこにあるんだ?」
「………………………」
二人がぶすったれて黙り込むと、アイリスの部下が彼らの武器、つまり長剣、短剣、その他を、お預かりしますと丁重に取り上げ、二人は離れた椅子に腕組みし、最悪に不機嫌なぶっちょう面で後の入場者を、待った。
東領地ギルムダーゼンのダーディアンは、それは入り口で、ぶつぶつ言った。
「剣を取り上げるってのは、裸に成れと同じ事だぞ?
俺に、恥をかかせるつもりか?!」
きかん気、駄々っ子のような、相変わらずの口のきき方に、ギュンターは思い切り、肩をすくめた。
だがやっぱり、アイリスが顔を見せる。
「…今日は私が代理議長で、帯刀は困るんです。
オーガスタスと違い私は、暴力沙汰に馴れていなくて」
ダーディアンは呆れてモノが、言えなかった。
「…お前が暴力沙汰に馴れていないんなら、三歳の子供は刺客だ」
アイリスはその言い回しにそれでも、にっこりと笑い言った。
「貴方のご子息は今でもどうやら、貴方の目を盗んで私の最愛の息子の側を、ウロついているらしい。
勿論、こちらも気をつけては居るが、万一賊と間違えて逮捕、拘留する事にも成り兼ねない」
ダーディアンは金髪とその見事な体躯を揺らし途端、怒鳴る。
「…グエン=ドルフはそんなヘマは、しない!」
だがアイリスはますますにっこりと、笑った。
「ご子息を随分、信頼しておいでのようだ。
だが、私の部下達もそう、思っている。
まさか東領地ギルムダーゼンの大公子息が捕まるなんて。と。万が一御子息を逮捕してもそうとは解らず、貴方の問い合わせを、待つ事になるかもしれません」
アイリスは自分の息子を餌に、寄ってくるダーディアンの息子グエン=ドルフを、手屑音引いて待ち構えて拉致監禁してやるぞと、脅したのだ。
「…………アイリス。それを続けるといつか、寝首を欠かれるぞ」
だがアイリスは全然気にもせず、笑顔のまま差し出された剣を、受け取った。
「短剣もです。刃物は全部」
ダーディアンはムカムカしたような表情で、胸、腰、そしてブーツの下から短剣を、じゃらりと差し出し、アイリスに手渡した。
「…これで、いいんだな?」
アイリスは頷いたものの、こんな脅しで彼が屈するとは思っていなかったようで、つい同情するようにささやいた。
「都には出向くなと、グエン=ドルフに釘を刺しても駄目なんですか?」
ダーディアンは、むすっと彼を、見た。
「息子は俺同様、それは目端がきいて、すばしっこい」
つまりどれだけ監視しても抜け出し、彼の手にも負えない、と言う事らしかった。
アイリスは俯いてつい、ため息を、付いた。
そしてアイリスの狙い通り、『光の王』の血を引く素晴らしい騎士、西領地[シャノスゲイン]護衛連隊長ウェラハスの後ろから、アーシュラスがその黒い肌の大きな体を威嚇するように押し出しながら、こちらに向かっているのを、見た。
アイリスはまず、長身で見事な体格をしたその銀に近い金髪を爽やかに肩の上で揺らし、澄んだ湖のような青い瞳の、この会議の中の唯一の良心、ウェラハスに事情を話す。
地方護衛連隊長の中でただ一人まっとうな人間の騎士ウェラハスは当然、快く彼に武器を差し出す。
そしてその後ろから来たアーシュラスに、アイリスは同様にするよう申し出たが、やっぱりの反応だった。
「…あいつは自分が武器だ!
武器を持ち入み禁止なら、あいつ自身を入場禁止にすべきだ!」
アイリスは、微笑んだ。
「つまり今回は、貴方が、欠席と言う事ですか?」
意見のあったアーシュラスは、引っ込む訳にはいかない。
「欠席はしない!武器も外さない!」
アイリスは彼を、とても気の毒そうに、見た。
「…出席者全員が刃物を持っていないのに、貴方だけは必要なんですか?
…つまり、そんなに彼らが怖いんですね?」
アーシュラスが怒りを通り越して、魔人のような顔に成った。
「…あいつらが怖いだと?!!!!
俺の、どこをどう見たらそう思うんだ!!!」
大層大柄なオーガスタスと張る程の見事な体格のアーシュラスが叫ぶと、アイリスが彼の腰の剣を、じっ、と見つめる。
アーシュラスはそれに、気づく。
アイリスはため息混じりにつぶやいた。
「…だって他の男達は刃物を必要としない」
アーシュラスは顔を怒りに歪めて、怒ったように剣を鞘毎腰から抜き、アイリスの手に押しつける。
「…これも…これも必要ない!
俺は意気地無しじゃないからな!!!」
短剣の他に宝石のたくさん付いた髪飾り、胸飾り帯飾り迄差し出す。
が良く見るとその先は全部、鋭い、刃だった……………。
「どうぞ。入って頂いて、結構です」
アイリスはにっこり笑うが、アーシュラスが中へ消えると、眉を顰めて両手いっぱいの刃物を部下へと、渡した。
アーシュラスの後ろから三人の侍従が付いてきたが、アーシュラス同様、刃物を、横に付くアイリスの部下に差し出しては通り過ぎ様、ジロリ。とアイリスを睨んだ。
どう見ても三人共アーシュラス同様黒い肌をした、体のそれはでかい筋肉の塊の、侍従と言うより戦士だった。
アイリスが改めて中に入ったものの、雰囲気は最悪だった。
全員がアイリスに、殺気に近い視線を投げかける。
アイリスは心の中で思い切り、ため息を付いた。
が口を開く。
「先程も言いましたが、今回私がオーガスタスの、代理議長を務めます」
アーシュラスがふん!と鼻を鳴らす。
「奴は腹でも、壊したのか?」
アイリスは、笑った。
「オーガスタスの欠席に、興味がおありで?」
アーシュラスは憮然と告げた。
「ある訳無いだろう!」
ダーディアンが唸った。
「なら、聞くな!」
二人は睨み合う。アイリスはそれでも笑顔を崩さず言った。
「今日は私ですのでこの際、やり方を変えたいと思います。議題を設けず…」
が、アーシュラスが立ち上がった。
「前回の、カタはまだ、ついていない!
アイリス、お前オーガスタスからちゃんと、引き継いでるんだろうな?」
ばっくれるつもりかとアーシュラスは説き、アイリスは応じる。
「…決闘の、件ですね?」
アーシュラスは安堵したように頷く。
「…あの賄賂を送っていたのはドッセルスキの独断で、彼は逮捕された。
送り主が逮捕された以上、誰が貴方に金を送ると言うんです?
新たな近衛の者と、話し合いがついていると?」
アーシュラスは、唸った。
「ギデオンを呼べ!ドッセルスキを引継ぎ、ついでに体も差し出せと言ってやる!」
一同が、顔を下げきった。
あちこちからため息が、洩れる。
アイリスは冷静に告げた。
「ギデオン右将軍の、前将軍の引継事項の中に貴方への賄賂は、入っておりません」
アーシュラスは座ったまま、ダン!と鋭く足を踏み鳴らした。
だがアイリスは顔色も変えず、つぶやく。
「…賄賂はドッセルスキ前右将軍の懐で無く、近衛の金庫から出ている。
…これは、不正です。
ドッセルスキは直、この罪状でも逮捕、監禁され、裁判で事情を聞く事になる。
それを受け取った貴方にも裁判所からの召喚が、届くでしょう。
…私の、言っている事がお解りか?」
アーシュラスは鼻で、笑った。
「…つまり俺を罪人扱いすると言うんだな?」
アイリスは、だん!と机を叩き、言った。
「扱いじゃなく、罪人だ!」
ダーディアンも、ギュンターもマリーエルも、全うに言葉の通じない野獣アーシュラス相手に正攻法で喧嘩を売るアイリスを、ついまじまじと、呆れて見つめた。
アーシュラスは嗤った。
「俺を、逮捕、拘留すると言う事か?!」
アイリスは、艶やかに微笑むと、告げた。
「…貴方の領地には貴方の後釜を狙う継承者が、それはたくさん居る。
貴方が逮捕され、大公を廃されれば皆さん、大層喜ぶ事でしょうね?」
ダーディアンがつい、追随した。
「…俺も、喜ぶぞ」
ギュンターも同感だと言う顔をしたが、さすがに言葉には、しなかった。
当然、アーシュラスが憎しみを込めて激しく、アイリスを睨む。
「…俺を、脅しているようだな!」
アイリスは、ため息を付く。
「君があまりにも自分の今の現状を把握しないから、解るよう言った迄だ!
さて。だが私はオーガスタスの意見も、尊重しよう。
彼は君を納得させるのに、決闘だと、言ったそうだな?」
アーシュラスは、丁寧な言葉を取り払ったアイリスが、優雅さはそのまま、だが気迫を増すのを見た。
「そうだ!」
アーシュラスが乗ってきたのを確認し、アイリスは一つ頷き腕を組んだ。
「…その意思は尊重する。が、議長は、私だ。
決闘はこの場で、武器は拳で、どちらかが倒れる迄やってもらおう!」
だんっ…!
アーシュラスが、立ち上がった。
「…冗談だな?」
アイリスの、気迫が更に増す。
その濃紺の瞳はギラリと光る猛獣の青の瞳を見据えたまま、だが口元に微笑をたたえ、低く秘やかに、告げる。
「私は冗談を、言わない」
ウェラハスは猛獣を相手に少しも、気品と威厳を損なわないアイリスに、感嘆した。
「本気で、拳で決闘しろと?!」
アーシュラスが、それこそ激怒して怒鳴ったが、アイリスも微笑を消ないまま、凄まじい気迫で相手を静かに睨め付け、言い放つ。
「そう、言った筈だ」
アーシュラスは、沸騰寸前だった。
相手がオーガスタスならとっくに詰め寄っただろう。
だがアーシュラスはアイリスの腹づもりを、探った。
その瞳が、全うで真っ直ぐな瞳なんかじゃない事を彼も良く、知っていた。
つい、探るように怒鳴る。
「…誰と、話を付けている!
ドムングルか?シャーラーセンか!」
その二人はアーシュラスと大公の座を争った、母親違いの兄弟の名だった。
が、アイリスは微笑を消さないまま怒鳴り返した。
「明かす馬鹿が居るか?切り札を!」
その、優美にすら見える男の微笑を、アーシュラスは心の底から歯噛みして呪った。
ダーディアンもギュンターも、アイリスが背後で手を回し万全の準備で事に臨むやり方を、知ってはいたがこの公の場で、やはりとても優雅に、本人にだけはちゃんと解るような脅しを掛けている事に、呆れ返った。
マリーエルはつい、武器を、取り上げた上での遠慮の無い脅迫の、その海千の老獪なやり口に、腕組みしたまま、唸った。
アーシュラスはその、底なし沼のような恐怖を与える静かで優雅な男に、仕方無さそうに憮然と怒鳴った。
「拳だな?!」
アイリスは、艶然と、微笑った。
「…拳だ」
アーシュラスはそれでも、激しくアイリスを睨み付けながら、いつドッセルスキのように自分の足元を掬うかもしれない男を、睨み据えた。
事実、ドッセルスキは間違いなくこの男にして、やられたのだ。
アーシュラスが、怒りを腹に、それでも座ったのでアイリスは少し俯くと、告げた。
「金の件が、決着が付いてなかったな?」
アーシュラスに確認を、取る。
「肌白もだ」
アイリスは、頷いた。
「西領地[シャノスゲイン]のウェラハス連隊長がその件を、収めた筈だが?」
アーシュラスが喚いた。
「…あれは、違法だ!」
アイリスは、顔を、上げた。
「…いいだろう。君に前回の件で侮辱を受けたと、ローランデの息子マリーエルが名乗りを上げている。
そして、ギュンターもだ」
彼は二人を、見た。
「君と決闘したい男が二人居る以上、金、肌白の二件で決闘を認める。
但し、言った通り、拳でだ。
この条件を飲むか?」
アイリスが、じっと促すように…最もアーシュラスには脅すようにしか見えなかったが…彼を、見つめた。
「…俺が殴り倒したら、金も肌白も、言うがままだな?」
アイリスは見つめたまま言った。
「負けたら金はギュンターが、肌白はマリーエルが請け負う」
ギュンターは、アイリスの言い様に、肩をすくめた。
つまり、絶対負けるな。と言う事だ。
マリーエルも黙したままその瞳は気迫を、増す。
「立会人を、呼んだ。彼らの前で宣誓して貰おう。
決闘で決着を付ける以上、君は一切の報復を、関係者の誰にもしないと。
君の、誇りにかけて」
アイリスがそう言うと、アーシュラスが、それは嫌そうに、彼を、見た。
「勝負に誓うのは聞いた事があるが、誇りにかけて誓わせる気か?」
アイリスはしゃあしゃあと続ける。
「勿論、君が宣誓を破れば君の誇りは、地に、落ちる。
君も知っての通り、私は『神聖神殿隊』付き連隊で君の領地にも、度々訪れる。
君の領地で君の誇りが泥まみれだと領民が知り、そんな男を大公に据えたまま大人しく従うかは、君も知っての通りだ。
南領地ノンアクタルでは、誇りこそが“男"たる、証だそうだな。
…そして領民は、“女"には、従わない」
アーシュラスはその侮辱に、心から沸騰して怒鳴った。
「いい加減覚えろ!お前の言っている事は全て、脅しだ!」
が、アイリスも怒鳴り返した。
「覚えるのはそっちだ!
私は事実しか、口にしていない!」
二人の、睨み合いが、続いた。
アーシュラスは一番最初に報復の標的をお前にし、闇に紛れて襲撃し殺してやりるぞと睨み、アイリスはその報復の前にアーシュラスを捕らえ、彼の後釜に座りたい兄弟にその身を、売ってやる!と、凄んだ。
だが相変わらずアイリスの、底冷えする微笑は、消えたりはしなかったから、アーシュラスはつい、意思を挫かれたように瞳を、微かにそらした。
アーシュラスはには、解ったのだ。
アイリスを急襲する自分の部下は、アイリスにとっては自分の縄張りも同然のこの都には、数える程しか居ない。
だが自分の敵は、寝首をかく事の出来る膝元に、ごろごろ居ると。
アイリスはつぶやいた。
「覚えておけ。君の最大の敵は、君が思い描ける人物じゃない。
どれだけ頭の中にその無数の顔を思い描いたとしてもだ」
アーシュラスは憮然と、唸った。
「つまり、ドムングルでもシャーラーセンでも無いと、言う事か?!」
アイリスは、微笑んだ。
「勿論、君が私の言葉を、信じればの話だが」
皆がこのアイリスの見事な駆け引きに、相変わらず最高に嫌な相手だと、彼に賞賛を送った。
アーシュラスはますます、かっとしたが、嘘を言ったのか、真実かと詰め寄った所でこの肝の座った男が明かす筈も無く、アーシュラスは自分の真の敵が霧に包まれたように解らなくなって思い切り苛立ち、アイリスをただ、睨み据えた。
だがアイリスは止めの釘を、刺した。
「君がやり損なった時、次期大公の名を聞いて君は真実を知る。
…だが、そうならない為には、ドッセルスキがなぜ廃されたのかを良く、考えるんだな」
ギュンターも、ダーディアンも、やっぱりアイリスを敵に回すと最悪だなと思って顔を、下げきった。
つまりドッセルスキのように人非人な事を平気でするならいつでも廃してやるぞと、言ったのだ。
だが実績が有る以上、アイリスの脅しは有効だと、マリーエルは感じた。
事実、アーシュラスは大人しく、なった。以前よりは。
「立会人を、出せ」
アイリスは部下に振り向くと、頷いた。
二人の人物が、顔を出した。
そこに居る全員が驚いた。
その二人はローランデと、ギデオンだったからだ。
ギデオンはアイリスに散々、言い含められてはいたが最高にムカついていた。
隣の別室から中の様子をずっと、伺っていたので。
心の中で、金と体を、差し出せだと?と、その場を一気に華やかにする美女のような素晴らしい容貌を見せながら、凄まじい気を放ち、アーシュラスを睨みすえた。
ローランデは隣のギデオンの様子に、ため息を、付いてアイリスを見つめた。
アイリスは肩を、すくめる。
「誇りにかけて、誓うか」
アーシュラスが、二人に向かうが、その姿をしげしげと眺める。
ギデオンは、自分やダーディアン、ギュンターと同様の金髪だったが、見事に艶やかな波打つ黄金色で、その色白の小顔と、宝石のような青緑の煌めく瞳も相まって、それは目を引いた。
ローランデの、少し俯く風情は、その美しい曲線の白い頬に独特の色の栗毛がかかり、とても端正で、つい、腕に抱いて奪いたくなるような儚さが、あった。
にやつく顔でローランデを見つめる、アーシュラスのその思惑に感づいたギュンターの殺気が、咄嗟にアーシュラスの背に突き刺さった。
アイリスがそれに気づいて直ぐ、怒鳴るようにアーシュラスを促す。
「…誓いの言葉が聞こえないが、いつ君はそんな小声に、なったのかな?」
アーシュラスはアイリスを、途端に睨んだ。
「俺の誇りにかけて……!」
怒鳴りだし、その場の全員がほっとした時いきなりアーシュラスはアイリスに振り向いた。
「…俺が勝てば、こいつらは俺の物だな?」
アイリスはげんなりして言った。
「君が倒す予定のマリーエルに聞くんだな」
アーシュラスがマリーエルの方を振り返り、口を開こうとするのを見てアイリスがとうとう、腹の底から怒鳴った。
「決闘の、後だ!交渉は!
まだ勝負前に交渉出来る筈も無いだろう!」
アーシュラスは肩を、すくめる。
ギデオンはつい、初めて見る、真剣に怒鳴るアイリスの姿に、なる程。彼も苦労しているようだと、察した。
アーシュラスはそれは不満そうだったが、二人の前で、その言葉を口にした。
「…俺の誇りにかけて、決闘後の報復は行わない」
アイリスが唸った。
「決して、誰にも?」
「誰にもだ」
「…もし、誰かか襲撃され、君の気配がチラとでもしたら、私はその時、全力を尽くす。
これは誓いでは無い。決意だ。アーシュラス。
君が例えこの言葉を覚えていなくても、私が忘れる事は決して、無い」
皆がそのアイリスの覚悟に、心底ぞっと、した。
が、アーシュラスは嗤った。
「…いいだろう。俺の誇りを地に落とせるなら落として見ろ。俺はこの決闘には、負けない。
褒美を目の前に差し出すとは、お前もしゃれた事を、するな」
ギデオンは呆れ返ったが、ローランデは予想していたようだ。
彼は静かにそれを言葉にした。
「…アーシュラス。君は先日から私に一言も意見を言わせず私の身の行く末を勝手に決めているようだが…」
アーシュラスにとっては女同然のローランデが口を開いても、彼の自分の態度を改める気なんか無く、好色な視線はそのままだった。
が、そんな瞳付きで見られたりしたら、ギデオンならもうとっくに殴りかかっていただろうが、ローランデは、違った。
「もしどうしても私が欲しいなら、この会議の後剣を抜いて決闘だ。
そして、そこ迄して私が欲しいと言うのなら、こちらとしても光栄の至りだから、一切手を抜く事無く剣を振るうと約束する」
武人としての青く鋭い瞳で真っ直ぐ見つめられ、アーシュラスはその視線がそのまま剣だと、気づいた。
しかもその視線から察するに、噂通り、並の、使い手じゃ、ない。
ローランデは続けた。
「この決闘を受けないと言うのなら、今後一切私に、近寄るな。
これはこの場で口にした限り、この場を仕切るアイリスが立会人としての役割を果たす」
アーシュラスはローランデを、見た。
「…つまり決闘受けないでお前をかっさらったらアイリスが、しゃしゃり出ると言う事か?」
アイリスはつぶやいた。
「君の、報復行動だと判断する」
アーシュラスはまるで、前門の虎、後門の狼に囲まれたように、進退窮まった。
「…解った」
そう、言った。
ついダーディアンが側に居たギュンターにこっそりささやく。
「…解った。だぞ?あの、アーシュラスが!」
ギュンターはダーディアンを見ないまま言った。
「アイリスを敵に回すとお前もああなる」
だがダーディアンも言った。
「お前もな」
二人は顔を見合わせたが、思い切りため息を、付いて俯いた。
「…私も君には言いたい事がある」
ギデオンが、おもむろに、口を開いた。
アーシュラスは勿論、皆が右将軍に成り立てのまだ若く、しかし輝くような“気"を放つ彼を見つめた。
「何やら君は私に思惑があるようだが、今後の事もある。
私も腹に溜め込むのは嫌いだし、剣で思い切りお互いやり合い、その後はすっぱり水に流すというのは、どうだ?」
アーシュラスの好色そうな視線が素晴らしく美しいギデオンを見て、復活した。
「真剣でやりあうのか?」
だがギデオンは自分より頭一つ半はでかい、そのヨダレを垂らす黒い肌の大きな野獣に怯む様子も見せずにつぶやいた。
「それでもいいが。
アイリス。南領地ノンアクタルの大公候補は山程いるんだな?」
アーシュラスはその意味が解り、黒い肌に浮かぶような青の瞳をぎらつかせて、激怒した。
「…俺を殺せる程の腕だと過信しているようだな!」
ギデオンが、うんざりするように、言った。
「私はアイリスのような言い回しは苦手だ。
個人的な事のようだからはっきり言わせてもらうが、お前のその目付きも言動も、最悪に気分が悪い。
アイリスさえ許せば今直ぐにでも決闘して斬り殺してやりたいが、彼の顔もあるからそう言う訳にもいかない。
近衛の中では完全なうさ晴らしが出来ないが、決闘ならお前をぶった切っても誰も、文句を言わないんだろう?」
ダーディアンもギュンターもマリーエル迄もが、ギデオンの解りやすい言動に心から、ほっと胸を、撫で下ろした。
アーシュラスは当然、沸騰した。
「…決闘だ!」
ギデオンは、頷いた。
「頼みがある」
アーシュラスはついその言葉にまた、女に甘えられたようなでれついた視線を、向けた。
「何だ?」
猫が喉を鳴らしたような声音にギデオンはめげずに言った。
「その前に、ギュンターとマリーエルとやるんだろう?
まあ、そっちに代理を三人も抱えてるようだが、出来れば私が君と剣を、交えたい」
アーシュラスは自分が指名されたのが嬉しいようだったが、皆はギデオンが、後釜が居るならさっさとアーシュラスをぶっ殺したいんだなと、感じた。
だがギュンターが、唸った。
「俺はきっちりアーシュラスに腹を立ててる。
俺からあいつを取り上げる気か?!」
マリーエルも間髪入れずに怒鳴った。
「よりによってこいつは俺が負けたら…!
と言いその上、親父を差し出すかと問うたんだぞ!
この、俺にだ!」
アイリスは、誰がアーシュラスを叩きのめすかで仲間割れが始まるのを感じ、すかさず口を挟んだ。
「君達は忘れているようだが…」
口を開くと、ギデオン、ギュンター、マリーエルの視線が一斉にアイリスに、集まる。
「…選ぶ権利は彼にある。
彼だって男にこんなにモテた事が無いんだから、考えさせてやってくれ」
アーシュラスは、唸った。
「ギュンターは…金だな…。マリーエルは……。
だがローランデは直に決闘だと、言うし」
ギデオンが即座に言った。
「勿論、マリーエルが勝てば私とローランデの決闘は必要無いだろう?」
ローランデが肩をすくめた。
「私はそれとは別件だ。公の場で侮辱されたし、決着をつけたい」
ギデオンが途端、年長者のローランデの意見に眉を顰めた。
「…そういう我が儘を言っていいんなら、俺だってあいつを、ぶっ殺したい」
アーシュラスはもう、かんかんだった。
怒りすぎて消耗し、決闘は無理なんじゃないかと思う程。
だがアイリスが一石を投じた。
「別に悩まなくとも、アーシュラス。君が全員を引き受けてくれて、一向に構わない」
アーシュラスがジロリと睨む。
手練れで知られる四人も相手に命が持つ筈も無く、とっとと死んでくれと、聞こえたからだ。
しかも、大層軽やかな、笑顔で。
ダーディアンがつぶやいた。
「前から思い続けてきたが、あいつの笑顔ってほんっとに、ぞっとするな」
ギュンターも腕を組み直してつぶやいた。
「心から楽しそうに、死ねと言う」
ウェラハスもつぶやいた。
「まあ、彼が相手を心理的に追いつめているのは、認める」
だがギュンターはウェラハスのその言動に、つい眉をひそめてつぶやいた。
「上手いやり方を覚えた、とか言って次回野獣相手に同じ手を、あんた迄使い出すんじゃ、ないよな?」
ウェラハスは彼らを、見た。
「だが、有効なのは確かだ」
ギュンターもダーディアンも、やれやれとそっぽを向いた。
三人の護衛連隊の中で一番年若いマリーエルは、腕を組んだままアーシュラスを促すように唸る。
アーシュラスはだが、悩みまくり、唸りまくった。
アイリスが仕方なく忠言する。
「ローランデとギデオンの決闘は、マリーエルと戦った後に決めろ」
アーシュラスは頷いた。
いきなり上着を脱いで、ギュンターを真っ直ぐ見つめる。
「………」
ギュンターは見つめられて嬉しそうに上着を脱ぎ捨て直ぐ、中央に躍り出る。
「余程あいつを殴りたかったんだな」
ギュンターの様子を目に、ダーディアンがぼそり。言う。
「お前の妻にアーシュラスが言い寄ったらどうする?」
マリーエルが聞くと途端、ダーディアンが頷いた。
「…今のギュンターの気持ちが、痛い程解る」
マリーエルも、頷いた。
アーシュラスはその、とても嬉しそうな金髪の美丈夫に、あっという間に拳を右、左へと繰り出す。
それは当たらなかったが、空を切り裂く音が轟き、もし喰らったらと、ぞっとするものだった。
周囲に居た者達は一斉に二人に場を開け、見物に回る。
ギデオンが腕組みし、感想を述べた。
「…あれなら剣で無くとも大丈夫だな」
ローランデは横の、やる気まんまんの、美女のような右将軍を呆れたように見た。
アーシュラスが繰り出し続けるがギュンターはまだ、拳を脇に畳んだまま、アーシュラスの拳を間一髪で避け続けた。
ダーディアンが唸る。
「あんなに見切りがいいのか?ギュンターの奴」
だがウェラハスも言う。
「アーシュラスの体力はだが、無限に近い」
マリーエルがぼそり、と意見を口にする。
「ギュンターは相手を疲れさす事なんて、考えてない」
ウェラハスとダーディアンがつい、揃ってマリーエルを見つめた。
マリーエルの視線はじっと、ギュンターを見つめ続けていた。
長身のギュンターより更に、アーシュラスの方が背が高い。
肩幅も、胸幅も、そして背筋迄も、その肌黒のしなやかな野獣のような男はギュンターより勝っていた。
拳はだがまだ、空を切り続けるにも関わらず、アーシュラスは獣のように鋭い眼光でギュンターを見続け、そのぞっとする拳を、仕留める為に振り続ける。
ギュンターはだが、まだ気迫を内に止めてその拳を、避け続けてた。
ギデオンは感心する。
避けていると言うのに、ギュンターの立ち位置が殆ど、変わらない。
上体を拳に合わせて振り続け、避ける。
左右、両側から繰り出されるそれなのに。
「…あんなに体が、柔らかいのか?」
ギデオンが聞くと、アイリスがつぶやいた。
「…彼は剣より喧嘩の方が得意なんだ」
ギデオンが、思わずそう言う、アイリスの取り澄ました横顔を見た。
アーシュラスの殺気が増し、ギュンターを微かにその拳が、掠るようになる。
ギュンターの逃げる方向に拳を振り出すが、ギュンターはそれさえも首を振って外し、途端、拳を振り入れる。
がっ!避けた方向に、拳がスライドし、アーシュラスの顎を掠る。
アーシュラスの口に僅かに血が滲み、彼の瞳が更に鋭くなった。
が次に腹へ飛び込んで来るギュンターの拳を、後ろに飛び退いて避けた所にギュンターの、もう片手の拳が、顔の真横から降って来る。
アーシュラスが避ける事を予想し、ギュンターは拳を腹に入れた後、一歩踏み込んで既に決め手の拳を放ってた。
が、それは咄嗟に後ろに引いたアーシュラスの額を掠め、掠り傷は作ったものの、アーシュラスに深くは入らない。
ギュンターはちっ!と舌打ちする。
アーシュラスはだが足を踏み込み体勢を戻すとまた、剛腕を振るう。
ギュンターの腹にそれが、入った。
どんっ!
「…!」
ギデオンがつい、乗り出す。
続いて今度は右胸に、殆ど弾くように拳が入る。
「…入り始めたな」
ダーディアンが唸る。
更にもう一発、顎を掠め、ギュンターは首を振ってそれを受け、唇に血を滲ませた。
アーシュラスの瞳がそれを見つめ、ニヤリと笑う。
更に一発。腹に。そして、左脇に。
ギュンターが、少し体をふらつかせ、ダーディアンがますます唸った。
「…ヤバいんじゃ、ないか?」
だがマリーエルの視線は静かだった。
その後のギュンターは、アーシュラスの拳を受け続ける。
ギデオンが、当たるその拳に揺れるギュンターの体に合わせて体を浮かせ、つい判定者のアイリスを見る。
だがアイリスはまるで動じる様子が無い。
じっと、行方を見守るように落ち着いて見えた。
継いでギデオンはローランデを、見る。
彼はその端正な表情を、少し歪めて見守っていた。
また、ギュンターが腹に受けると、ローランデが叫ぼうとし、アイリスが咄嗟に彼に振り向く。
アイリスに目で制され、だがローランデは異を唱えるようにアイリスを見据える。
だがアイリスは微笑った。
「…たまには、いいだろう?
あいつがどれだけ君が好きか、示したって」
ローランデは怒鳴るように叫ぶ。
「教練の時も私のせいで、四カ所も刺されて血まみれで失神したんだぞ!」
アイリスは肩をすくめる。
「…ならまだ、余裕だな」
ローランデはアイリスを、睨んだ。
が、次の拳がギュンターの腹に、入った時だった。
ギュンターは身を屈め、アーシュラスも同様だったがアーシュラスに次の動きが、無い。
ギュンターの拳がアーシュラスの腹に、突き刺さっていた。
だが静止は一瞬。
ギュンターの斬るような拳が再びアーシュラスの腹に入り、がつん!と音を立てる。
マリーエルがようやく、顔を上げた。
そして次にギュンターの鋭い拳がアーシュラスの胸を突くと、アーシュラスは受けはしたものの心臓を直撃するその一打を、一瞬体を逸らし衝撃を逃がす。
アーシュラスの瞳はそれは鋭く射るようにギュンターに注がれ、ギュンターはあれだけアーシュラスの拳を受けながらも、口の端に血を滲ませたまま、嗤った。
ギュンターの拳が弧を描く。
アーシュラスは相手の嗤いを見ながら避けたが、動きを読み切ったギュンターの拳は、アーシュラスのこめかみを掠める。
アーシュラスがよろめき、足を支える。
ギュンターが一瞬、アイリスを、見る。
アイリスの、止める様子が見受けられず、ギュンターは視線をアーシュラスに戻す。
アーシュラスはだが、馬鹿にするなと豪腕振った。
相変わらず空をびっ!と切り裂き、その威力に衰えは無かったが明らかに視線は彷徨い、平衡感覚を無くしているのが解った。
ギュンターは止めないアイリスに、良いんだな?と無言で拳を構えると、今まで喰らったお返しを始めた。
だが………。
腹の一カ所に集中し、ギュンターの拳が次々入る。
アーシュラスはずしんと体が重くなっていくのが解った。
五発目で、それでもアーシュラスは立っていたが、目は完全に、光を無くしていた。
「ギュンター。殺したいか?」
アイリスが声を掛け、ギュンターが顔を上げる。
唇に血を滲ませ、アーシュラスの重い拳を散々受けて彼自身もひどく、憔悴してはいたが、腕組みして自分を見守るマリーエルに顔を振り、つぶやく。
「…後が、居るしな」
アイリスは頷くと、アーシュラスの侍従達に、手を貸すよう頷いた。
彼らは、アーシュラスに駆け寄った。
ギュンターが、それでもフラついて、戻って来る。
通り過ぎ様アイリスが尋ねた。
「まともに喰らったのは何発だ?」
「三発程はかなり、ヤバかったな」
「…まっとうに入ったのは?」
ギュンターが顔を上げ、その紫の瞳でアイリスを睨んだ。
「…あいつのがまっとうに入ったら、それで終わってる!」
アイリスは、やっぱり?と肩を、すくめた。
ギデオンが見ていると、ギュンターは微笑を浮かべてローランデに寄り来る。
ギデオンの隣に居たローランデは、色白の顔を青冷めさせ、眉を寄せ、掠れた声で叫ぶ。
「…どうして、そんなに馬鹿なんだ!
そこ迄して……。
倒さなくても、いいだろう?!」
ローランデに倒れかかるように前に立つと、それでもギュンターは、彼を見つめ、笑った。
「笑い事じゃ、ない…」
ローランデの青の瞳が潤み、ギュンターは少し、咳き込む。
ローランデは慌てて彼の肩を支える。
「………どうせまた、暫くは動けないんだろう?」
「お前に関わるといつも、ぎりぎり迄自分を出さないと、勝てない」
「勝たなくても…!」
ギュンターが、顔を上げて異論を唱える。
「…じゃなきゃ、お前は手の上に、落ちてこないじゃないか…」
ローランデはもう、泣いていた。
「そのやり方を諦める気は、無いのか?
だって…お前なら誰でも望むままだろう?」
ギュンターがムキになる。
「望むままじゃないから、こう、成っている!」
ギデオンがつい、ぷっと吹き出し、ギュンターの視線を感じ、ふいと顔を、そらした。
アイリスが頷き、彼の部下がローランデに手を貸し、ギュンターは両側から支えられて会議場を後にした。
ギデオンがその背を見送り、アイリスに視線を戻す。
「…わざと、受けたのか?」
アイリスは、大きなため息を吐きながら頷く。
「息の根を、止められない程度に受けて相手の油断を誘った」
アイリスの濃紺の瞳は、微笑っていた。
ギデオンは彼がどれだけギュンターの事を信じているのか、解った気がした。
ダーディアンはそっとマリーエルに尋ねる。
「知ってたのか?」
「…あいつが大馬鹿だって事は餓鬼の頃から、痛い程知ってるぜ!」
そう、吐き捨てるように言い放つ。
「…まあ…あれで親父をほだして落とされちゃ、息子としては苦々しい限りだ」
ダーディアンに言われ、マリーエルは思い切り、同意して頷いた。
ウェラハスの、ため息が洩れ、二人が振り向く。
「…一途だな」
ダーディアンがすかさず口開く。
「…気持ち悪いがな!」
マリーエルも怒鳴った。
「全く、その通りだ!」
アイリスが寄る気配に、アーシュラスが顔を、上げる。
「決闘は…!終いか!
俺が、負けたとかほざかないな?!すぐあいつを、呼び戻せ…!」
汗で乱れた金髪が黒い肌の額に降り、アイリスは彼を見つめ、ささやく。
「君は、解ってない。あのまま止めなければギュンターは君の臓腑を、破っていた」
アーシュラスは、随分労るようなアイリスを見上げ、それでも怒鳴る。
「…俺が、死んでいたと?!」
アイリスは頷く。
「あれで相手の急所に詳しい上に、どう叩けば倒れるかも知り尽くしている。
剣で戦うより危険な相手だ」
アーシュラスは体を起こそうとし、ギュンターの殴った腹の一カ所に痛みを感じ、顔を歪めた。
「内出血、しているかもしれない。医者を呼ぼう」
アーシュラスはだが、アイリスの腕を掴む。
「…これ位は、平気だ」
アイリスはそれでも静かに尋ねる。
「本当に?」
アーシュラスは頷く。
「自分の体だし、これくらいひどく痛めた体験は幾度もある」
アイリスは、頷いて告げた。
「マリーエル相手には、代理を立てろ」
アーシュラスは、アイリスの腕をきつく、掴んだ。
顔が、痛みと怒りに歪んでいた。
とても、悔しいようだ。が、アイリスは尚も言う。
「解ってるんだろう?
今、激しく動き回ったら、本当に臓腑が破れるぞ」
アーシュラスは、はっ!と息を吐き出し、アイリスの腕を放すと腹にその手を、当てた。
「手当てはこちらでする」
侍従の一人がそう言う。
アイリスは地方毎にある、独特の治療法を、知っていたので頷いた。
が、暫くして侍従の一人が、ゆらりとその長身を揺らし、柵を避け、中央に姿を、現した。
アイリスが瞬間、顔を揺らす。
ドーディン…。
アイリスは瞬間、心配げにマリーエルを見た。
が、怖じる様子無く彼も、上着を投げ捨て、中央に寄る。
ダーディアンは胸にマリーエルの上着を降らされ、顔を歪めてそれを受け止めた。
アーシュラスの懐刀。刺客。
…そしてアーシュラスを、大公に押し上げた人物だった。
アーシュラスと同様、鋭い顔つきをしたその男は、肌の色の黒さも手伝って、ぞっとする雰囲気を醸し出していた。
アイリスは、マリーエルを見つめた。
もしかするとアーシュラスより手に負えない相手かもしれない。
が、マリーエルは気にする様子は無い。
相手が前に立つと、あまりにもマリーエルを有名にした、立ってるだけで相手を威嚇する。と言われた、凄まじい“気"が、噴出し、その場を凍り付かせた。
ギデオンがつい、伝説を作った使い手で、かつて剣の講師だった男を見た。
ギデオンが教練の講師をしていた時彼は一度だって、あれ程の“気"を、見せた事が無かった。
ひよっこ相手には無理だろうと侮られていたと知り、ギデオンは喰い入るようにマリーエルを見つめる。
アーシュラスとは逆だった。
相手の出方を待ったのはドーディンで、先にかかっていったのはマリーエルの方。
だが、拳を直ぐに振るう訳で無く、足を使って間合いを詰める。
相手が引くと、逃げる方向にすかさず拳を振り入れる。
ドーディンはそれでも、二発を避けた。
ダーディアンがその戦法に、唸った。
「…あれは、嫌だな。凄く、気が散る」
ウェラハスは観察し、つぶやいた。
「マリーエルは、伺ってるな」
ダーディアンが尋ねる。
「何をだ?」
「自分の“気"で、相手の動きをどれ程縛れるかを」
ダーディアンは頷く。
「…初めて見たが、目に、見えるようだぜ」
その場が、寒くなるような“気"だった。
だが当の本人、マリーエルは灼熱のように見える。
冷たい、焔。
ギデオンはそれでもかつての師の戦いぶりに、夢中になった。
ドーディンはそれでも、冷静だった。
凄まじい“気"を放つ相手を強敵と捕らえ、まるで野獣が相手の隙を伺うように、勝つ好機を探る。
マリーエルの“気"は増すばかりで、アイリスはドーディンを見つめ続けた。
ドーディンはチラ、と手当てを受ける主、アーシュラスに視線を投げる。
彼としては、白旗を上げたい事だろう。
ギュンター同様マリーエルは、刺し違え無ければ触れる事すら危ぶまれる相手だと、解ったようだった。
だがドーディンは自分の能力を主に、示し続けて信頼を得てきた男だ。
だがその主、アーシュラスは医者に促され退出する。
ドーディンは主の、任せると言う視線を受け、主が部屋を、出て行くのを感じた。
顔をマリーエルに戻す。
自分から見たら、小柄とも言える相手だったが、その“気"の凄まじさが彼を何倍も大きく見せる。
そしてその野獣は隙が微塵も無く、ぞっとするような“気"で喰らうように拳を、振り上げる。
その拳は大抵、予測を裏切った。
ドーディンの、顔が歪む。
どうやって戦っていいかすら、解らないようだった。
が…アイリスはまだ、ドーディンを見つめ続けた。
ドーディンが気持ちを入れ替える。
途端マリーエルの頬を、ドーディンの拳が掠る。
縛られた動きが解けたような素早い動作で、マリーエルは咄嗟避け、掠るその実力を知った。
がマリーエルが表情を変える事は無かった。
再び拳を繰り出し、ドーディンはまたマリーエルの予測を裏切って、腹を掠める拳を突き出す。
マリーエルにも、ドーディンのやり方が解ったようだ。
ドーディンは一切物を考えず、ただカンだけで拳を振っていた。
「…あれも、凄く嫌だな…」
ウェラハスがつぶやき、思わずダーディアンが彼に振り向く。
ウェラハスは言葉を続ける。
「カンだけで動く気だ。
気配の、欠片すら無い。
肩が動いても、次にどこに来るのか予想すら付かない」
ダーディアンが、頷く。
「俺は好きだ。カンでやるのは」
ウェラハスはそう言うその嬉しそうな野獣を見、俯いた。
「…そうだろうな」
マリーエルもどうやら、相手に合わせて切り替えたようだった。
振ってくる拳を、入る瞬間避け、全身を感覚にしたように俊敏にそれを、避け始める。
ギデオンが見つめていると、彼らは剣を拳に変えたような戦いをしていた。
右、避けて振り入れ、咄嗟にまた避ける。
息を飲む程の攻防でどちらも拳を入れ続け、避け続けた。
がっ!腕でマリーエルの拳を受け、もう片手をマリーエルの腹に入れる。
マリーエルは避け、戻した拳で相手の脇腹を狙い、間髪入れずに避けた相手の、顎を狙う。
ドーディンは首を遅う拳を避け、振り上げた拳をマリーエルの頭に振り入れ、マリーエルが頭を避けて屈む間に脇腹を狙う。
がっ!マリーエルの肘がその拳を、止めそして………。
早い拳が次々相手に繰り出されていくが、まだ一発もどちらも、喰らう様子を見せない。
まるで早さを競うようで、一瞬でも判断を謝ったら即座に相手の、拳の餌食になる。
ドーディンは老練だ。
が、マリーエルは俊敏だった。
ギデオンが、言葉を洩らす。
「こんなのは見た事が無いから、つい息をするのを忘れる」
アイリスの手がそっと、背に、触れた。
「…酸欠で、倒れるぞ」
そんなに柔じゃない…と言いかけて、ギデオンはアイリスの手が、とても暖かいのに気づいた。
まるで癒す力を持っているかのように、彼に触れられると優しくて、安心する。
アイリスが大きいのはその存在感だけで無く、器もそうなのか…。
ギデオンは改めて、思った。
あれ程平気で相手を脅す癖に、ちゃんと血が通っている。
どころか、相手を包み込むような大きさがあった。
大物と言われるのはただ腕が立ち、立ち回りが上手いだけじゃ務まらないのか。
ギデオンは思い知り、つい俯いた。
が、二人の攻防は激しさを増す。
ドーディンの振りが威嚇するように大きくなる。
リーチの長い彼の腕は相手に脅威を与えたろうが、マリーエルは動じる様子が無い。相変わらず、最小とも言える振りで間髪入れずに攻め続ける。
ドーディンの、顔が歪む。
ウェラハスは見たが一瞬、隙を付いてマリーエルがその鋭い“気"を、ドーディンに放ってた。
まるでもう一つの拳のように、ドーディンはまともに彼の瞳に見入られ、一瞬体の動きが鈍る。
マリーエルは拳を入れたが、ドーディンはそれでも、腕でその拳を堰き止めた。
マリーエルの顔が、止められて引き締まるのをアイリスは見る。
全うに拳が、入る筈だ。今までの相手なら。
マリーエルはまた拳を振ったが、ドーディンはその“気"に対抗するように、振り出すマリーエルの拳の上から、肘を押し入れた。
がっ…!
マリーエルも間髪入れずに引っ込めたが、それでも喰らう。
マリーエルは体を振りながら拳を入れるが、ドーディンはその拳を、やはり腕で、止めた。
「…どっちの腕も、痣だらけだな」
ダーディアンのつぶやきに、ウェラハスもため息を付いた。
止めの一撃を、どちらも狙い澄ましていた。
いつ、その時が来るかと緊迫が続き、見ている方が耐えられない程だった。
がっ!がっ!
お互いが、腕で、肘で、互いの拳を留め、ついにマリーエルは、さっと引いて足で蹴り上げた。
ドーディンはふいをつかれ、避けきれずにその足先が彼の腹を掠める。
あっという間に間を詰めると、マリーエルの拳がドーディンの顔に炸裂した!
がマリーエルは瞬間、身を、引く。
腹にドーディンの拳の入る、寸前だった。
二人は、一瞬、間を開け睨み合う。
マリーエルはそれでも果敢に間を詰める。
恐れの微塵も無い相手の態度に、ドーディンは一瞬引くが直ぐ、襲撃に備えた。
マリーエルの拳が空を切り、それが合図のようにまた、激しい攻防が始まる。
ドーディンは、良く耐えた。
が、マリーエルは拳と共に間髪入れずに“殺気"を放つ。
そしてその“気"は、鋭くなる一方だった。
マリーエルは真剣に、怒っていた。
相手が、アーシュラスで無い事に。
そしてギュンターが自分の前で男を見せつけ、最愛の父親を、さらった事に。
ついに何度目かで、マリーエルが相手を確実に仕留める寒々しく射るような“殺気"を放ち、相手を凍り付かせた瞬間、彼は思い切り拳を、振り切った。
宙を切り裂くだろうと思ったが手応えがあり、マリーエルはそのまま夢中で拳を、振り続けた。
「マリーエル!」
アイリスが、叫ぶ。
マリーエルに聞こえている様子は無く、咄嗟アイリスが彼に駆け寄る。
ダーディアンがそれを見、腰を浮かせて唸る。
「飛び込む気か…?!」
アイリスが後ろに立った瞬間、マリーエルはその気配に振り向き様拳を繰り出す。
アイリスは瞬間手の平でそれを受け止め、直ぐ後ろに引く彼の、腕を咄嗟に掴み、強引に引いて叫ぶ。
「…もう、止めろ!」
ダーディアンの、ため息が聞こえた。
「…よく、入るぜ。戦ってるあいつの間合いに」
マリーエルは、呆けたようにアイリスを見つめる。
その濃紺の瞳は、彼をそれでも労るように見、ささやく。
「君の、勝ちだ」
マリーエルは一息吐くと、直前迄戦っていた相手を、振り向き見つめた。
腹を抱え込み、俯いていた。
マリーエルは素っ気なくつぶやく。
「…まだ、やれるだろう?あれなら」
アイリスは解っていない彼の、腕をもう一度強く引いて注意を自分に向ける。
マリーエルがアイリスを、見る。
「君はこの所、敵しか相手にしていないだろう?
決着はどうやって着けている?」
そう問われ、マリーエルはようやく、アイリスの言わんとする所が解った。
掴まれた腕を振り払い、俯くと言った。
「必ず相手を殺してる」
アイリスは頷く。
そしてドーディンの横に立つと様子を、伺う。
足が、震えていた。
明らかに信じられない程のきつい、殺気に当てられたんだと解った。
「大丈夫か?」
アイリスは自分でも間抜けな問いを発しているとは、思った。
が、ドーディンは体の震えを、腕で抱き止め、頷く。
ギデオンが自分を見つめてるのに気づき、マリーエルはつい
「よぉ。仔ライオン」
と声を、掛けた。
ギデオンは何か言おうとして、言葉が無い事に気づいた。
マリーエルも思い出し、つぶやく。
「ああ…もう、右将軍だったな」
ギデオンは顔を上げて告げる。
「それはどうだっていい」
マリーエルは自分を見つめ続けるかつての教え子に、疑問の視線を向ける。
「何だ?」
ギデオンはそれは、躊躇した。
「…つまり、腕が痣だらけだろう?」
マリーエルは思い切り、ため息を付く。
「多分な」
「やっぱり、強いな」
ギデオンがあまりに素直にそう言うので、ついマリーエルは素っ気無く告げる。
「勝てると、思ってなかったがな」
ギデオンが呆れたように、顔を上げた。
「相手を仕留める気で、戦ってたんだろう?」
マリーエルは肩をすくめた。
「いや?
…ギュンターの事を思い出した途端、猛烈に腹が立ち、気づいたら拳が、入ってた」
アイリスは戻って来て、それを聞き、呻く。
「…ギュンターだと思って、殴ったんだな?」
マリーエルはぶっきら棒に告げた。
「そうかもな」
アイリスは、頷く。
「ドーディンは、自分が受ける筈じゃない殺気を受けて訳も解らず敗北した。
とても同情出来る状態だと思う」
マリーエルが、アイリスを見上げる。
「同情?」
アイリスは肩を、すくめた。
「だってギュンターなら、君の視線の理由は解った筈だ。
ドーディンに解らなくて固まっても、無理は無い」
マリーエルは思い切り、憤慨した。
「この決闘は無効だと、言い出すなよ!」
アイリスはまた肩をすくめる。
「君が勝ったのは、こっちに都合がいいからな」
マリーエルはそれを聞いて、調子のいいアイリスに思い切り呆れ、肩をすくめて見せた。
アイリスが室内に入り、アーシュラスは寝台から体を起こす。
南領地ノンアクタルの医者が彼を止めたが、アーシュラスは手でそれを振り払う。
「ドーディンは、負けた」
アーシュラスは怒鳴った。
「ならローランデの決闘を俺が、受けてやる」
アイリスは一つ、ため息を付く。
「君はただ、遊びたいだけだろう?
命を掛けてもローランデが欲しいのか?」
アーシュラスは憮然とつぶやく。
「ローランデは問題じゃない。誇りの、問題だ」
これを聞いたらまた、ギュンターが殺気立つなと思ったが、アイリスは言い諭した。
「…なあ……。
誰が見てもギュンターと君がやって、彼が勝つとは思わなかった。
だがギュンターは君に勝った。
どうしてだか解らないだろうが、彼は自分の身を削っても君に、思い知らせたかった」
「何を?」
「ローランデは戯れにその名を口にする程軽々しい相手ではないと」
「…つまり、ギュンターはローランデの誇りの為に身を、削ったと言う訳か?」
アーシュラスはギュンターを殴った拳の感触を、思い出してつぶやいた。
「…そうだ」
「なぜ、他人の為に、そこ迄する?
そんな馬鹿な男には見えないが」
「本気で惚れてるから、馬鹿になれるんだ」
アイリスが言うと、アーシュラスは呆けた。
「…男相手に、本気で惚れたのか?あの男が?
………冗談だろう?」
「アーシュラス。いい加減、覚えてくれ。
私は…」
「…冗談を言わないんだったな。
……………つまり………。
つまり本当に、それ程迄に、ローランデに、惚れてると、言うのか?
あの、ギュンターが?」
アーシュラスのその呆れた様子に、アイリスはとうとう、ため息混じりにつぶやいた。
「笑っていいぞ」
アーシュラスはそれは愉快そうに笑おうとし、いきなりぞっとして、固まった。
自分ではありえない理由で、自分の拳をあれだけ受けて迄殺そうとした心理が全く理解出来ず、かなり怖かったらしい。
「………つまりそれで、俺を殺そうとしたのか?」
アイリスは肩を、すくめた。
「君の領地ではどうかは知らないが、こっちではこういう事が、たまにあるんだ」
「嘘を付け!ギュンターが間違いなくイカれてる!」
アイリスは、頷いた。
「それは私も……そうは思うね。
人を真剣に愛するとどうやら、人は平気で狂人になれるらしい」
「つまり俺の相手は狂人か」
アイリスは苦笑した。
「ローランデ本人も勿論手強いが、彼に惚れ込んでるギュンターも、父親大事のマリーエルも手に負えない。
ローランデは鬼門だと、肝に命じて置くのをお勧めする。
だが…君は私の意見等聞いたりはしないんだろう?」
アイリスが素っ気無くそう言い、アーシュラスが問うた。
「お前から見ても、ギュンターもマリーエルも異常か?」
アイリスは肩を、すくめた。
「完全に、常軌を逸してる」
アーシュラスはぶつぶつ言った。
「お前から見てもか………」
アイリスが戸口でそっと振り返ると、アーシュラスはまだ、ぶつぶつ言ってた。
彼に恋心が、解ってるとは思わなかったが、ローランデに関してギュンターがいかに危険かは身を持って理解したようだ。
アイリスは部屋を出ると、心からのため息を吐き出し、オーガスタスの苦労を思いやった。
会議場に戻ると、そのオーガスタスが、居た。
机の上に掛け、ウェラハスとダーディアン。そしてマリーエル、ギデオンと話し込んでいる。
アイリスの姿を見て
「ヨォ!」
と声を掛ける。
向かいに掛けたダーディアンがぼやいた。
「これで終いか?」
アイリスは肩を、すくめる。
「楽しかったろう?」
ダーディアンは、認めた。
「まぁな」
オーガスタスは、呆れきった。
「…つまり、不満のある奴を集めて、勝手にやらせたんだろう」
アイリスは思い切り、ため息を付いた。
「不満は爆発させないと溜まるだろう?
今後の君の苦労を、減らそうと思ったんだ」
珍しく疲れたアイリスの様子につい、オーガスタスはかつての下級生のその肩を、ぽん!と叩いて労った。
「ギュンターがまた、やったな?」
アイリスが彼の横に掛け、その大らかな男を見つめる。
マリーエルも尋ねる表情でオーガスタスを見た。
アイリスがかつての上級生に、そっと尋ねる。
「君は詳しく知ってるのか?
ギュンターが教練の頃、血だらけだった件だが」
オーガスタスは、頷く。
「ギュンターと対抗意識を燃やしていたグーデンが、ローランデにちょっかい掛けて…。
あの馬鹿、ローランデを庇って、大人しく切られた上に傷口に塩を塗り込まれて…」
ダーディアンが、ぼそりと意見を述べる。
「……えげつないな。まあ、俺達もたまにやるが」
ギデオンは一級上だったグエン=ドルフの父親を、呆れたように見た。
グエン程美貌の細面でしなやかでは無かったが、確かに整った顔立ちの、立派な体格で格好のいい野獣だった。
ウェラハスが、そのえぐさに思い切りため息を付き、額に手を当てる。
「ギュンターの、報復は無しか?」
マリーエルの問いに、オーガスタスは手の上に顎を乗せ、彼を見つめて説明する。
「元はと言えばあいつがグーデンのペットを寝取ったのが原因だ。あいつ………」
オーガスタスが、思い出して吹き出した。
「…この流血は全部自業自得だと喚き、ローランデの前で、気絶なんて格好の悪い真似出来るかと叫び、ローランデを物陰に隠した途端、ぶっ倒れた」
オーガスタスがあんまり愉快そうに、くっくっくっと、口に手を当てて笑うので、一同は呆れた。
アイリスがそっと囁く。
「…今聞いた噂を思い出したが、出血し過ぎて実はヤバくて、グーデンは王族なのにその件で講師に呼び出しを喰らい、厳重注意されたと聞いたぞ?」
オーガスタスはそう言うアイリスを、茶色の瞳で悪戯っぽく見つめる。
そうした彼は途端、とてもチャーミングに見えた。
「…それ位言わないと……」
「ヤバくなかったのに、ヤバいと、言ったのか?」
ギデオンが聞き、オーガスタスが朗らかに笑った。
「まあ、俺も結構、友達思いだからな」
それを聞いて全員、首を横に、振りまくった。
「だが実際ギュンターは、三日は寝台を離れられなかった。
奴にとっては、それが最悪だったろうな。
じっとしていられない男だったから」
ウェラハスが尋ねる。
「だが傷は、深かったんだろう?」
「喧嘩馴れしてるし、怪我にも馴れた男だから」
アイリスが、頷いた。
「本当は動き回っちゃいけないのに、動いてたんだな?」
「傷を広げないよう、動くのは馴れてるようだった」
ダーディアンが呆れたようにつぶやく。
「今回は、果たしてどうかな」
オーガスタスが肩竦め返答する。
「物影から覗いていたが、まあ、大丈夫だろう。
あいつ、痛みに馴れてるし。
明日には動き回ってるぞ」
アイリスが、睨んだ。
「覗いていたのか?」
オーガスタスが心の底から、笑った。
「苦労、したみたいだな?
お前が真剣に怒鳴ったのはここ数年、見た事が無い」
オーガスタスの笑みに、アイリスは肩をすくめる。
「獰猛な野獣に苦労して鎖を付け、喰い付かれないよう注意しながら檻に、入れてる気分だった」
ダーディアンが、頷く。
「決闘に持ってく迄散々、アーシュラスの奴駄々こねてたしな」
ウェラハスも、頷いた。
「良く、忍耐が持つなと感心した」
アイリスはウェラハスをじっと見つめ、吐息を吐き出した。
「…途中で、放り出して逃げられるんなら迷わずそうしたさ」
そうだろうな、と皆が、心の底から同意した。
ダーディアンが、チラとアイリスを横目で見る。
「その上お前、戦ってるマリーエルを止めに入ったろう?」
マリーエルが顔を、上げる。
ウェラハスも追随する。
「…彼は何も見えて無かった。
よくあの拳を止められたな」
ギデオンも頷く。
「…その気でいかなきゃ、間違いなく喰らってる」
アイリスはマリーエルをじっ、と見た。
大人しくしていると美青年に見える猛獣を。
「…仕方無いだろう?
私はギュンターと違ってちゃんと年長者だから。
若い彼が暴走したら、管理しないと」
オーガスタスが、途端笑う。
「だってお前、俺と違って暴力沙汰は馴れてないんだろう?」
ダーディアンが途端、睨み付ける。
「俺にそう言って武器を取り上げた」
アイリスは二人を嫌そうに見つめた。
「…必要とあれば対処するしか無いだろう?
放って置いて、誰か何とかしてくれるか?
…どう考えても会議じゃない。
議長とは名ばかりで、ただの決闘の、仲裁役だ」
ウェラハスが肩をすくめる。
「会議だと思って出席すると、脳が沸騰するぞ」
ダーディアンがその、一番まっとうな崇高な騎士を見てつぶやいた。
「…あんたでもか」
「当たり前だ」
ウェラハスの、大きなため息がその場を、包んだ。
オーガスタスが途端くくっ!と笑い出し、全員が彼を見た。
「…だがあれはいい案だ。今度から俺もそうしよう」
ダーディアンとマリーエルが咄嗟、顔を上げる。
「まさか……」
マリーエルが言うと、ダーディアンも言った。
「会議場への武器の持ち込み禁止か?もしかして…」
ウェラハスは思い切り、頷いた。
「妥当だ」
ダーディアンが叫ぶ。
「あんたはいいだろう?武器が無くても!
拳で対処しろと言ってるんだぞ?」
アイリスが、ギデオンを見て問うた。
「拳がモノを言う会議なんて、あっていいのか?」
が、ギデオンは笑う。
「私は性に、合ってる」
「だが、少なくとも死人は出ない」
オーガスタスの心から嬉しそうな言葉に、アイリスがぼやく。
「やはりかつては死人が出てるか…」
ダーディアンが思い返す。
「一人が剣を抜けば、全員身を護る為に抜くからな。
どさくさに紛れて不運な奴が喰らったんだろう。
…あれは事故だ」
ウェラハスがそう腕組みする彼を見た。
「会議で死人が出るのはどう考えても異常だ。
…事故で済ませられるか?」
オーガスタスが顎を手に乗せ、ついぼやく。
「両手両足に、枷も付けられれば言うこと無いんだが…」
ダーディアンとマリーエルが、そう言うオーガスタスをじっと、見た。
「…出席者を人間扱いしない気か?」
マリーエルが唸るとダーディアンもが怒鳴る。
「こいつ、その内一人一人に檻を用意する気だぞ!」
「…ああ、それは名案だ!」
笑顔で言うアイリスを、マリーエルとダーディアンが揃って睨んだ。
オーガスタスだけが、全く同意見だと頷く。
「…俺が出席者で人間に見えるのは、ウェラハスだけだしな」
アイリスも同感だ。と感想を述べた。
「…並み居る猛獣に囲まれた、森林に居る気分だった」
だろ?と、オーガスタスがアイリスに振り向く。
ダーディアンがマリーエルを見、マリーエルも彼を見た。
そして二人してギデオンを見る。
マリーエルがギデオンに声かけた。
「…お前も、同類だろう?」
ダーディアンが唸った。
「近衛代表で出席してオーガスタスを泣かせろ!
アーシュラスが喜ぶし、お前は機会を見つけてあいつをぶった斬れる」
オーガスタスはとうとう、アタマに来て怒鳴った。
「これ以上まだ、猛獣を増やす気か!
言っとくが、何時までも俺が議長で居ると思うなよ!」
だが、ウェラハスが思い切り下を向くと、オーガスタスにそっとささやいた。
「…そのセリフは、確か五年前にも、聞いた記憶が……」
皆がそのつぶやきに言葉を無くす。
そして今にも唸り出しそうなオーガスタスを、心から、気の毒そうに、見つめた。
end