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もう、怖くない

 話を聞いてまず思ったのは、どうして、という素朴な疑問。

 なぜ、そんなことを。

 その疑問を薫子にぶつけたのは、それまでずっと黙っていた皓の、少し震える声だった。


「なぜですか、薫子殿」

(……どうして?)


 どうしてこの子が、怒っているんだろう。


「なぜ、そんな偽りをしたのですか。なぜ姉さんが与えられるべきものを、その資格もない娘に与えたりした!」

「……愚かな子だこと」


 何を、と気色ばんだ皓に、薫子は能面のような顔を向ける。


「我が子に最上のものを与えたいと願うは、親として当然のことでしょうに」

「……なんだと?」


 薫子は、どこか誇らしげにさえ見える微笑を浮かべた。


「自分の子でないと知った貴明殿は、その娘を佐倉に一切関わりなきものとした。茜がそのような扱いを受けるとわかっていて、母の私が何もせぬとでも?」

(この、ひとは――)

「なのにそのような姿に育つなど――まったく、役に立たない子だこと」


 白々とした薫子の言葉に、皓と伯凰の横顔から表情が抜け、対照的に茜の顔が絶望に染まる。どうやら彼女は先ほどの言動といい、今の今まで自分が不義の子だとは信じていなかったようだ。

 薫子は小さく息を吐くと、すいとこちらに視線を向けた。


「まぁ、いいわ。おまえは間違いなく、佐倉の血を引く娘なのだから。おまえを三条に連れていけば、佐倉の者もこれ以上おかしな真似はできないでしょう」


 ……そういう、ことか。

 唐突に、理解する。このひとにとって、本当に優衣という存在は、ただの道具に過ぎなかったのだと。どこまでも都合よく利用して、用が済めば一顧だにせず捨て去るだけの。

 それは、と皓が低く声を押し出す。


「三条家の意思と判断していいのか」

「異国の血を引く子。言葉には気をつけなさい。私はおまえが守護すべき娘の母。それに対する最低限の礼儀さえ、弁えてはいないのかしら?」

「……っ」


 いやらしい笑みを浮かべた薫子に、皓と伯凰が息を詰める。


「薫子さん」


 考えるより前に、言葉が口をついて出た。


「あなた、頭が悪いんですか」

「……なんですって?」


 少しの間の後、妙にぎこちない動きでこちらを見た薫子に、軽く首を傾げてみせる。


「いや、だから。どんな気の毒な思考回路を持っていれば、わたしがあなたの言うことを素直にきくとか、その子があなたに礼儀正しくするとか思い上がれるんですか。本気でバカなんですか? わたしはあなたたちに関しては、ゴミの日にまとめて捨てたいような記憶しかありませんし。はっきり言って、あなたと茜さんの顔なんて見たくもないのですけど」


 思ったままを淡々と告げれば、能面のようだった薫子の顔が、般若のような怒気に染まる。それを見てさえ奇妙に冷静なままの自分が少し意外だったけれど、この際言いたいことは全部言ってやろうと腹を括る。こんな機会は、もう二度とないかもしれないのだから。


「大体、わたしが佐倉貴明さんの子どもなら、いずれそちらの親族に似てくる可能性があることくらい、わかっていたでしょうに。その場しのぎのごまかしが、いつまでも通じると思ってたんですか? あなたが覚えているのは四年前までのわたしでしょうし、その辺は考慮するにしても、考えなしもいいとこですね。そこまで杜撰で浅はかで短慮で傲慢で自業自得を地でいくような方が自分の生みの親かと思うと、結構――いえ、とっても哀しくなるので、これ以上あなたと関わり合いたくないんです。ここは佐倉貴明さん名義の家ですし、あなたが既に彼と離縁されているなら、この家に入る権利もないのでしょう? そちらの大事な娘さんを連れて、とっとと失せやがってください。ついでに二度とそのムカつくツラをわたしの前に見せんじゃねえよ、クソババア」


 最後ににこりと笑って言ってやると、すっきりした。物凄く、すっきりした。自分と同じ色の瞳が揃ってまん丸になっているが、知ったことか。


「な……な……」


「あなたの短絡的な思考から察するに、それが母親に対して言うことか、とでもおっしゃりたいんですか? さっき、言ったじゃないですか。わたしはもう、ありもしない母親の幻想を求めるような子どもじゃない。あなたに虐待された分だけきっちり歪みましたけど、その分頑丈に育ってるんです。わかってます? わたしがあなた方に殴りかからないのは、あなた方と違って、公共の場で騒ぎを起こさない程度の道徳心を備えているからなんですよ?」


 胸のあたりに持ち上げた右手を、握って開くを繰り返す。


「この容姿のお陰で、力一杯殴る蹴るの暴行を加えても正当防衛で済む変態や痴漢には事欠かなくて。我ながら結構上達したと思うのですけど、よかったら試してみますか?」


 かつて自分が加えられた分だけ、セレブぶった衣服をまとったふたりに拳を叩き込むことができたら、とっても気分がよさそうだ。翔はどんな相手だろうと女であるというだけで殴ることはできなさそうだが、優衣は幸い同じ女だ。容赦してやる必要など、どこにもない。


「お……おまえは! 私の言うことを聞いていればいいのよ!」

「いやです。少しは、ひとの言うことを聞きましょうよ。本当に救いようのない脳みその持ち主なんですね、薫子さん」


 引きつった声で喚いた薫子に、あぁいやだいやだ、とわざとらしく溜息をついてやる。それまで半ば自失していたような伯凰が、頭痛を散らすように眉間を揉んで顔を上げる。


「……優衣」

「なんですか」


 視線を向けると、彼は少し考えるようにしてから口を開いた。


「あー……。おまえが貴明殿と和解したら、このふたりは滅茶苦茶不愉快だと思うんだが。やってみる気はないか?」


 それはまた、なんというか――


「気分がよさそうですね」

「だろう?」


 伯凰が笑ってうなずく。その隣で皓が絶句したのは、見なかったことにする。


「でも、面倒ですし。父親が欲しい年でもありませんので、遠慮しておきます」

「そこをなんとか」

「いやですよ。子どもならその子がいるじゃないですか。同じような顔がもうひとつ増えたって、鬱陶しいだけでしょう」


 溜息混じりにそう言った途端、皓と伯凰が揃って目を剥いた。怖い。


「そんなわけがあるか!」

「そうだよ、姉さん! 父さんもおじいさまもおばあさまも、どれだけ毎日鬱陶しく溜息をついているか! 姉さんに合わせる顔がないだの、三条に騙された自分が愚かだっただの、いっそのこと景気よく三条をこの世から抹消してやろうかだの、どんよりぶつぶつ輪になってつぶやいてて、そりゃもう気色悪いんだよ!?」


(どうでもいいですけど、既に姉さん呼びはデフォルトなんですね、皓くん)


 この少年が自分の弟であることは、もう十二分に理解している。けれど、まともに会話をしたこともない相手にそんな呼び方をされても、それが自分を示す呼び名だとは思えない。


「や、大体、貴明さんの顔も覚えてませんし。まるで知らない相手と親戚づきあいとか、それこそ鬱陶しいです」


 面倒なばかりの家族ごっこなんて、今更したいと思うわけがない。

 そう言うと、なぜか伯凰がひどく焦ったような顔になる。


「待て、その、助けると思ってだな」


 皓が何かに気がついたようにうなずいた。


「あぁ……。玉蘭さまやおばあさまを差し置いて先に姉さんに会ったなんて言ったら、確かに伯兄さんの命はないかもね」

「おまえは! 他人事みたいに言うな!」


 くわっと目を剥いた伯凰に、皓は可愛らしく笑って応じる。


「だって僕は、前にも会ってるし。姉さんが姉さんだって気がついて報告したのだって僕だし。そもそも、このふたりがここに向かってるって報告受けて僕が向かったのも、みんな知ってるし。伯兄さんは、それに便乗してくっついてきただけでしょう」

「おまえ……。誰がここまで運んでやったと」


 声を低めた伯凰が、じっとりと皓を睨みつける。皓は、どこまでも涼しげな顔をしてにこにこと笑っている。


「頼んでないよね? 僕はちゃんと橘に車を出すように言ったのに、顔を合わせるなりひとの首根っこ掴んで拉致したのって伯兄さんだよね? 国際免許取り立てなのに、首都高制限速度30キロオーバーしてたよね?」


 なぜだか突然、奇妙な言い争いがはじまった。おとなしそうな印象のあった皓が、なかなかに腹黒い感じなのが少し意外だ。

 だがしかし。


「あの。喧嘩なら、よそでやってもらえませんか」


 いい加減、近所迷惑も甚だしい。というか、早く牛乳を買いに行きたい。お気に入りの素敵牛乳は、結構な人気商品でもあるのだ。多少割高でも、美味しいものは美味しい。飲めばわかる。こんなことをしているうちに、もし売り切れてしまったらどうしてくれる。

 じっとりと据わった目で睨みつけると、同じ瞳をしたふたりがしまった、という顔をして動きを止める。


「……優衣!」


 そこに、少し硬い響きの、けれどひどく耳に馴染んだ声が届いた。

 ぱっと振り返ると、見慣れた長身の制服姿。ごちゃごちゃと人の溢れた門前を通るのが、面倒だったのだろうか。結構な高さのある鉄柵に手をかけて、一息に飛び越える。相変わらず、大きな体をしているのにびっくりするほど身軽な翔は、鞄を放り捨てるなりそのまま強く抱き寄せてきた。


「翔?」


 驚いて見上げると、翔はこちらを見てはいなかった。


「なんで、あいつらが、ここにいる」


 低く押し殺した、明確な怒りを孕んだ声。それが自分に向けられたものでないとわかっていても、体が竦んだ。凍りつきそうな鋭い視線は皓と伯凰を素通りして、真っ直ぐに女たちの姿を射貫いている。視線だけで相手を殺せるのなら、薫子と茜は今頃死んでいただろうと思わせるほどの、怒り。


 怖い。

 怖い、のに。

 どうして、こんなに嬉しいんだろう。


「翔」


 このひとは、必ず自分を守ってくれる。

 そんなふうに信じさせてくれたのは、いつだったか。いろんなものをあんまりたくさんもらったから、何がきっかけだったかなんて覚えていない。


「翔。もう、いい」


 本当に。


「あのひとたちは、もういらない」

「……優衣?」


 戸惑うような声。

 まだ少し硬くて、だけど気遣う色をした優しい声。

 想ってくれている。愛してくれている。

 ほかの誰に望まれなくても、たったひとりでも、こうして愛してくれるひとがいるから。


「わたしには、翔がいるもの。――だから、あのひとたちは、もう、いらない」


 ひとつだけでいい。大切なものは、ひとつでいい。それ以上は、自分には抱えきれない。

 だから、もういらない。

 自分の心は、そんなに広くないから。


「もう、怖くない」


 あのひとのことは、もう過去になっているから。

 だから――もう、いい。


「そうか」

「うん」


 翔を取り巻いていた物騒な空気が、少しだけ緩む。それと同時に、優衣を薫子たちの視線から隠そうとするかのように抱き込んでいた腕からも力が抜ける。

 翔が小さく息を吐き、低い声で口を開く。


「けどおまえ、またあの気色悪い腐れ女たちと暮らすなんて言ったら、拒否権なしでオレんちに連れてくぞ」


 心底いやそうに、かつ、紛れもない本気で告げられた言葉に大丈夫、と首を振る。


「あのひとたち、もう離婚して、この家では暮らさないみたい」

「……チッ」


 なぜ舌打ちなんだろう。翔はふいに、唇の端を吊り上げた。


「じゃあ、あれか。あいつらが入ってきたら、不法侵入で蹴り出していいんだな?」


 いっそ楽しげに告げられた言葉に、首を傾げる。


「……蹴るの?」

「オレの中で、おまえに傷をつけたあいつらは、女にカウントされてねえからな」


 即答だった。

 ――なんというか、少し翔の愛を見くびっていたかもしれない。

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