そのとき、壊れかけの人形は幸福を知った
『きみは、誰?』
自分に問いかけを残した子どもと同じ――否、それ以上にきれいな空気をまとった、人間。
こんなにきれいな人間が、本当にいるものなのかと束の間、己の目を疑った。
鮮やかに色づいた木の葉を見上げていた漆黒の双眸が、こちらに気づいて驚いたように大きく見張られた。
普通の人間には見えないはずの自分に彼が気づいた瞬間溢れたものは、初めて『笑う』ことを覚えたときに溢れたものにとても似ていた。
……もしあのとき、自分に『泣く』ことができたのなら、きっと泣いていたのだろうと思う。
嬉しくて。
こんなにもきれいな人間を、ただきれいだと思うことができるのが、泣きたいほどに嬉しかった。
彼が自分を拒絶する術を何も知らないのをいいことに、強引に近づき、“名”を押しつけた。
彼が本気で自分を疎んで、“名”と共に自分の存在すべてを否定してくれたなら、きっと消えることができると思った。
けれど。
『どんなふうに生まれようと、命は命だ。それを許すも許さないもないだろうに』
――人形の自分に、命があるなんて思ったわけじゃない。
ただ、彼のその言葉を聞いたとき、自分の中の何かがひどく震えた。
今まで誰も、自分にそんなことを言ってくれなかったから。
今まで誰も、『悪魔』と呼ばれる自分が存在するのを許してはくれなかったから。
どんなふうに生まれようと、好きでそうやって生まれてきたわけではないのだと――自分以外の誰かが言ってくれるとは思わなかったから。
(……遙)
自分にとっての『命』は、おまえだ。
おまえに出会うまで、自分はただの人形だった。『命令』のまま、自ら壊れることもできず、ただみっともなく彷徨うばかりの人形に、おまえだけが教えてくれた。
今までずっと、自分が寂しいから、自分がいやだから、周囲の人間が失われることを恐れていたけれど。
おまえが生きていてくれれば、それでいい。
大切なものが生きているのは、それだけで嬉しいことなのだと、おまえは何度も教えてくれた。
おまえが、生きているのがいい。本当に――それだけでいいんだ。
……たとえそのそばに、自分がもういられなくなったとしても。
おまえは怒るだろうか。蔑むだろうか。
自分が今まで、数えきれないほどの命を奪ってきたことを知ったなら、命を尊ぶおまえは一体どんな目をするのだろう。
それを思うと、少し痛い。
もっと、おまえのそばにいたかった。もっと、おまえを守りたかった。
それだけが、自分が生まれてはじめて手に入れた『生きる希望』だった。
――だけど、それももう終わりか。
仮初めの契約しか交わしていないおまえのそばでは、戦えない。そんなことをしたら、解放された自分の力はあの『一人目』のように、おまえまで傷つけてしまうから。
なんだか、おかしいな。
あれほど自分が破壊されることを望んでいたはずなのに、今、おまえのそばにいられなくなることがひどく辛い。
許されるなら、あともう少しだけ、と思ってしまう。
いや――きっと、これでよかった。あの赤い髪の祓魔師が自分を破壊してくれるのなら、おまえにそんなことをさせずに済む。
優しいおまえは、きっとこんな役立たずな人形でさえ、その手で壊すことなんてできないだろう。
遙。
おまえは、たくさんの言葉をくれた。
人間ではないとわかっていながら、「ありがとう」と言ってくれた。
こんな偽りの名前を、本当の名前にしてくれた。
……本当は、おまえに呼ばれるのなら、もっと違う名がよかった。
けれど、『ライ』であることをやめてしまえば、きっと今の『自分』の中にあるものは、またただの『記録』になってしまう。
それだけは、どうしてもいやだった。
今の『自分』のまま、終わりたいんだ。
おまえが、そう思わせてくれたんだ。
ただ、ひとつだけ。
今、泣けないのが哀しい。
おまえともう一緒にいられないのに、もうおまえを守ることができないのに、やっぱり自分は泣くこともできないらしい。
自分が誰のために、なんのために生まれてきたのかなんて知らない。
それでも、最後はこうしておまえを守るために生きられたことが嬉しい。
おまえと過ごした時間だけは、きっと自分は『生きて』いられた。
おまえは怒るだろうか。
自分があの祓魔師に攻撃されたとき、おまえがまるで、自分が傷つけられたような顔をしてくれたのが嬉しかった、なんて言ったら。
何度も名を呼んで辛そうな顔をしてくれたのが、泣きたいほどに幸せだったと言ったなら、またおまえは怒ってくれるのだろうか。
今なら、人間がなぜいもしない神に縋るのか、少しだけわかる気がする。
おまえの幸せを祈りたいのに、祈る相手がいない。
おまえの未来を、無事を、誰かに託したいのに、願う相手がいない。
それが、寂しい。
不思議だな。
おまえのそばにいて、哀しいことや寂しいことの意味が、全部変わってしまった。
おまえはいつも、どうしてそんなにへらへら笑っているんだと言っていたけれど、おまえのくれるすべてが嬉しくて仕方がなかった。
ずっと、おまえを見ていたかった。
それだけで、幸せだった。
幸せか。
そんなものを、自分が手に入れられるなんて――おまえがこうして与えてくれるまで、考えたこともなかったよ。
こんなふうに、『自分』よりもずっと大切に思えるものを見つけられることが、幸せってことなんだろう?
ありがとう、遙。
最後まで、迷惑をかけてばかりですまない。
だけど、もう。
――さよなら、だ。




