その朝、目覚めた人形はすべてを失っていた
(――なぜ)
目が覚める、という経験ははじめてだった。
今までに、眠ったことなどない。
だから、意識がなくなるというのは、きっと自分が壊れるときだと思っていた。
ぼんやりと瞬きした目に入ったのは、渡る風にざわめく樹木の梢と、その隙間から柔らかく揺れる木漏れ日。
草の実を求める小動物が、ちょろりと体の上に登ってきて、真っ黒な丸い瞳でくりくりと辺りを見回し、去っていく。
思考がひどく散漫で、自分が体を動かせることを思い出すのに少し時間が必要だった。
樹齢がどれほどあるのかもわからない大木の幹に背中を預けて、自分はどうしてこんなところにいるのだろう、と記憶を辿る。
記憶。
血の色の――記録。
(なんだ……?)
それは、記録だった。
まるで他人事のように遠く、明確ではあってもひどく実感がない。
それが自分の辿ってきた時間だということはわかるのに、不思議なほどに何も感じない。
やはり自分は壊れたのだろうか、と思いながら核に意識を集中して――気づく。
そこに、なんの“名”も刻まれていないことに。
一瞬どういうことだと困惑して、すぐにどうでもいいことだと感じた。
どうせ、必要のない“名”だったのだ。そんなものなど、もういらない。
誰も呼ばない“名”など、最初から必要なかったのだから。
……けれど、“名”がなければなんの力も使えない。
それもいいかと――このままこの森の奥で、今度こそ壊れるのを待つのもいいかと思ったけれど。
――生きろ。
それは、誰かの『命令』だったのか。
それとも、命に溢れる森そのものが、その『命令』に満ちていたのか。
わからない。
自分に残っている『命令』はもうそれだけで、そして抗いがたい誘惑に満ちていた。
ふと、先ほど確認した記録の中で見た、自分のエサとなるものたちがときに人間に理解され、新たな名を与えられて、彼らとともに生きていた様が蘇る。
あのときの自分が何を感じたのかは、もう思い出せない。
けれどこんな自分を理解して新たな名を与えてくれる人間など、どこにもいないことはわかっていた。
どうせ、誰も呼ばない“名”だ。
『自分』を動かすためだけに必要な、ただの鍵。
偽りの、名前。
だから。
(……『ライ』)
これが、今から自分の“名”。
『自分』は、『ライ』だ。
そう認識した途端、核が刻まれた“名”に従い目覚め、新たな力が再び満ちた。
以前の『自分』に与えられていた“名”は、もう思い出せない。
それでいい、と思った。
“人間を殺せ”という『命令』が聞こえなくなったことを、自分が喜んでいるのかさえわからなかったけれど、“名”を失ったときにきっとすべてをなくしたのだろう。
それまでの記憶はただの記録と成り果てて、本当に空っぽになってしまった。
――生きろ。
今、自分に聞こえる『命令』はこれだけだ。
だが、生きるとはなんだ?
すべての生き物は、次の世代に命を繋ぐために生きている。
ならば虚空に生まれ、いずれ虚空に消えるのだろう自分はなんのために生きればいいのか。
今はもう、こうして命の力に満ちた森に在るだけで、エサなど食らわずとも自分が満たされることは知っていた。
このままこの森に在り続けることが、自分が『生きる』ということなのか。
決して人の訪れることのない、空と大地の狭間に広がるこの森で、誰と関わることなく、静かに終わりを待てばいいのか。
そんなことを考えながら、どれほどの時間を過ごしただろう。
――樹々が風に喜ぶ様も、そこに生きる動物たちも、きれいだった。
美しく、ときに容赦なく、その循環は感嘆するほど見事に滞りなく巡っていた。
けれど、自分をその輪の中にわずかも関わらせることなく完結している、美しい生命の循環を眺めているばかりなのは、どうしようもなく寂しかった。
だから、森を出た。
自分の奥深くにある記録の中には、自分と似た姿の『人間』が大勢いたから。
森を出れば、またエサを食らわなければならないのはわかっていたけれど、自分の内のどこかから、人間だけは決して食らうなと声がした。
それはもしかしたら、過去の『自分』からの警告だったのかもしれない。
『人間』は、『自分とは違うもの』を排除することに、少しもためらうことがないものだから。
そうして闇に蠢くエサを食らいながら近づいてみた人間は、記録の中と少しも変わることなくそこにいた。仲間と笑い合い、ときに諍い、ときに愛し合って、新たな命を繋いでいく。
きれいだった。
森とは違って、その営みのすべてがきれいなものばかりではなかったけれど、人間はいつだって最後には、優しくてきれいなものを望んでいた。
人間のふりさえしていれば、自分もその輪の中に入れるのが嬉しかった。
さまざまな人間に触れ、さまざまなものを覚えていくのが楽しかった。
笑う、ということすらできるようになって、そんな自分に気づいたときには、そばに必ず自分に笑いかけてくれる人間がいた。
嬉しくて、楽しくて――そして結局、自分は人間とは違うのだと思い知る。
笑顔をくれた者も、歌を歌ってくれた者も、みんな自分を置いて逝ってしまう。
ほんの少しの間だけ、と思って離れた土地に、次に戻ってみれば、そこに住むのはまったく別の顔ぶればかり。時折、知った顔に似た者を見つけて声をかけると、「どうして祖父のことを知っている?」と不思議そうに問い返される。
やはり世界は自分以外のものですべてが完結していて、その中に紛れ込むことはできても、受け入れられることはないのだと知った。
死ぬことを許されている人間と、壊れることさえ許されない自分と。
その違いの大きさに、笑った。
自分に泣くことはできなかったから、ただひたすらに笑い続けた。
――こんなことが、前にもあった。
遠い記録の中で、以前の『自分』も確かにこうして己を嗤った。
所詮、自分は同じことを繰り返すだけの人形か。
もう、いい。もう――終わりにしよう。
自分で自分を壊すことなどできないから、自分を壊してくれる誰かを探しにいこう。
今の“名”であればどんな人間にでも呼べるのだから、そこそこ力のある人間ならきっと自分を破壊できるだろう。
……けれど、自分や自分と似たものを『悪魔』と呼ぶ人間たちが、そんな願いを聞いてくれるとは思えなかった。
話をしたくても、自分が『悪魔』だと知ればきっと彼らはすぐに攻撃を仕掛けてくる。これまであまりに多くの闇に蠢くエサを食らってきた自分が、生きようとする本能が、己の存在を脅かす攻撃を受けたときにどんな反応をするかなんて考えるまでもなかった。
そうしてふと思い出したのは、かつての『自分』が『楽園』と感じた場所のこと。
あまりに多くの人間を殺した過去の『自分』が、ただのひとりも殺すことなく去ることのできた場所。
あの場所ならば、自分が『悪魔』だと知っても言葉を聞いてくれる人間がいるかもしれない、となんの根拠もなく思った。
久しぶりに訪れた街並みは、記録の中のものとは随分異なっていたけれど、そこに満ちる清浄な空気の匂いは、ひどく懐かしいものに感じた。
その清浄な空気の中心を辿って見つけた、『一人目』。
言葉をかけるより先に、自分の正体を見抜いたらしい彼があれほど即座に攻撃してくるとは思わなかったけれど、やはりここにも自分の言葉を聞いてくれる者などいないのか、と絶望しかけたときに――
見つけた。




