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李伯凰

 はじめてふたりで動物園に行ったあの日、翔の激しすぎる感情をぶつけられた優衣はひどく混乱してしまった。

 そのことに、彼は気づいていたらしい。焦りすぎたと苦笑を滲ませ、それからはひたすら優衣を甘やかすようになった。

 動物園の次は水族館。遊園地。緑溢れる公園に、アスレチックフィールド。少し遠出をして、鎌倉の海。


 きれいなものを見て。

 美味しいものを食べて。

 そのたび、世界が広がった。


 不意に抱き締めてくる腕の温もりや、触れるだけの優しいキス。包み込むような抱擁の中、安心しきっている自分に気がついたのはいつのことだったか。目を閉じて、そのまま眠ってしまいたいと思えるほど、その揺るぎない腕の中に閉じ込められているのは心地よかった。


 愛している、と。

 告げる言葉と、優しく頬を撫でる指。そっと抱き締めてくる、温かくて強い腕。瞳の奥を覗き込んでくる視線の甘さが、伝えてくる。生まれてはじめて与えられる愛情に、どうしていいかわからず怯えても、そのたび触れる、眩暈のするようなキスに何もかもが蕩けていく。

 ずっと欲しくて堪らなかったものを与えられて、手を伸ばさずにいられるひとなんて、きっといない。


 愛されたかった。愛してみたかった。

 だけど、怖い。

 愛されたいのに。愛したいのに。

 信じるのが、怖い。


 そんな葛藤さえ見透かしてしまうのか、不安に心が揺れるたび、真っ直ぐに見つめてくる漆黒の瞳に囚われる。どこか辛そうな、何かを思い詰めたような瞳と、時折息苦しいほどの抱擁とともに耳元で囁かれる甘い言葉。その耳に心地良い響きに、不思議なくらい、頑なに強張っていた気持ちが解けていく。大丈夫なのだと、声がする。


 ――この腕の中が、私の居場所。もう、ひとりじゃない。もう、何も怖いことなどないのだと。


『愛してる』


 空っぽだった心を満たすもの。温かくて、優しくて、少し切ない。


『オレを、信じてくれないか』


 後悔の滲んだ、揺れる声で。もう離さないと、縋るように抱き締めながら名を呼ぶ声に、胸が疼く。


『おまえじゃないと、駄目なんだ』


 どうして、なんて。

 もう、いい。だって、仕方がないじゃないか。翔がくれるすべてが嬉しい。

 気持ちが変わるものだなんて、知っている。今はこうして抱き締めてくれる翔だって、いつかきっと離れていく。

 それがなんだ。


 抱き締めてくれる翔の気持ちが嬉しいのも、翔のくれるすべてを失いたくないと願う気持ちも、本当のこと。だったら先のことに怯えて、自らそれを遠ざけるなんて、バカらしいにもほどがある。自分がこんなにも温かな気持ちを与えられることも、与えられたそれを失いたくないなんて思うことも、今まで想像すらできなかったけれど。


 欲しいものを、欲しいと願うことを許される。

 手を伸ばすだけでそれに手が届く。

 なんて、幸せなんだろう。

 だから教えて。


 ――どうしたら、あなたがわたしにくれる気持ちと同じくらい、あなたを好きになれますか?






 家の外で、誰かが言い争っている声がする。三日煮込んだミートソースの仕上げにとりかかっていた優衣は、ペッパーミルを動かしていた手を止めた。

 みじん切りにして炒めた人参とタマネギとニンニクにマッシュルーム、それに牛挽肉をトマトの水煮とコンソメスープとワインで煮込み、ケチャップにソース、醤油で味を調えて、ベイリーフと各種スパイスで煮込んだ鍋は、我ながらかなり魅惑的な香りを放っている。仕上げに胡椒をもう少し足そうとしたところで聞こえてきた甲高い女性の声は、かなり近所迷惑レベルのものだ。


 夕刻、というにもまだ早い時間。これが夜中だったら睡眠妨害もいいところだが、なんにせよ喧嘩ならどこか遠くでやってもらいたいものだ。聞こえてくるのはヒステリックな女性の声ばかりだから、いわゆるキャットファイトでもしているのだろうか。


 そんなことを呑気に考えながら最後の仕上げをして鍋の火を止め、蓋をする。あとは冷めたら一食分ずつパッケージングして冷凍しておけば、しばらく保つ。つくづく、義務教育とはありがたい。最低限の調理器具の使い方さえ学んでいれば、テレビや雑誌で入手したレシピをそれなりに仕上げることができるのだから。

 台所の後片付けをして、冷蔵庫の中をチェックしてみると、牛乳がほとんどなくなっていた。低温殺菌牛乳で作ったカフェオレに対し、ほぼ中毒状態になっている優衣にとって、牛乳が切れているというのは断じて許しがたい事態だ。腰に巻き付けるタイプのエプロンを外して、手提げに財布とエコバッグを突っ込む。


 火の元を再確認していざスーパーへ、と玄関を開いた途端、優衣は固まった。

 視線の集中砲火、とでもいうのだろうか。

 どうやら先ほど聞こえていた言い争いは、まだ済んでいなかったらしい。門の前には、タクシーと驚くほど大きな黒のジープが斜向かいの状態で停まっていた。タクシーのそばには、派手な服装の若い女性が立っている。

 家の前には、サングラスをかけた長身の青年と、細身の少年が――


(……え?)


 その少年と、目が合った。

 自分と同じ色の瞳。

 その瞳を知っている。

 その姿を知っている。

 一度見たきりで、それから数ヶ月という時間が経過していても、その姿を見間違えるはずもない。


 皓、といっただろうか。

 もう二度と会うこともないだろうと思っていた、弟。


 どうしてと思うより先に、優衣が髪を切ったせいか、今鏡の中で見る自分とあまりによく似た彼の姿に、なんだか感心する。男女の差はあるけれど、恐らく双子と言ってもほとんどの人間が信じるのじゃないかと思うほどの、相似。

 奇妙な沈黙を破ったのは、ヒュウ、と高く吹かれた青年の口笛だった。


「これはいい。丸っきりおまえの女版じゃないか。なぁ? 皓」

「ハク兄さん!」


 ぐしゃぐしゃと少年の髪をかき混ぜながら笑う青年に、我に返ったらしい少年が声を尖らせる。


(今度は兄ですか……?)


 ダークブラウンの革ジャンを羽織ったその青年は、確かにどことなく少年に似た雰囲気がある。年頃は、二十代半ばといったところだろうか。漆黒の髪に、すらりとした体躯。どこか異国の香りのする端正な顔立ち。

 そして――


「優衣、といったか?」


 愉快げにほほえむ青年が外したサングラスの下には、鮮やかな青紫の瞳があった。


「俺は李伯凰。おまえと皓の――日本語では、なんというのだったかな? 俺の祖父が、おまえたちの祖母の兄という関係だ」


(なるほど、兄ではなくハトコでしたか。そのハトコさんがどういったご用件でしょう。わたしは早いところ、牛乳を買いに行きたいのですが)


「な……に、よ……」


 半ば現実逃避しかけていた優衣の耳に、ひび割れて上擦った女の声が届く。


「何よ……なんなのよ! なんでアンタが、そんな顔をしてんのよ!?」


 悲鳴じみた絶叫と、ぎらぎらと紛れもない憎悪を迸らせる双眸に、ぞっとする。


「アンタじゃない! お父さまの娘はこのあたしよ! アンタなんかが、お父さまの子なわけがないわ! アンタがお父さまの子じゃなかったから、あたしたちは佐倉の家から出る羽目になったのよ!? アンタなんか……っ」


 醜く歪んだ顔。異様な光を浮かべた瞳。

 既視感。

 あぁ、これは。

 自分を痛めつけるときの、母の。


「――優衣」


 母の、声が。


「大きくなったこと」


 いつの間にか。

 もうひとり。

 女は姉か。

 その隣に。


 ――一瞬で、全身が冷えた。


「こちらへ来なさい」


 命じる声に、勝手に足が動きそうになる。本能のレベルまで叩き込まれた恐怖が、服従しろと叫ぶ。薄くほほえむ母の白い顔が、気味の悪い仮面のようだ。


 だけど。


「何をしているの。母の言うことが聞けないの?」


 ……知って、いますか。知らないでしょう。

 だって、あなたはいつだって――わたしのことなんか、見ていなかったのだから。


 ぐっと、指先を握り込む。

 揺らぎそうになる意識を叱咤して、息を吐く。はじめて、母の顔を真っ直ぐに見据える。


「何か……」


 声が、震えそうだ。


「何か、ご用ですか」


 少しだけ、母の顔が訝しげに歪む。たったそれだけのことで、呼吸が楽になる。心臓がうるさいほどに早鐘を打っていたのだと、ようやく気づく。


 でも、大丈夫。

 怖くない。

 もう、怖くない。


(――わたしが欲しいのは、もう、あなたじゃない)


 だから。

 笑ってやる。

 鮮やかに、心の底から。


「知っていますか。薫子さん」


 母とは、呼ばない。

 もう、呼ばない。


「わたしはもう、なんでも親の言うことを聞くような、小さな子どもじゃないんです」


 一瞬、何を聞いたのか理解できないというように瞬きした薫子の顔が、今度こそ醜く歪んだ。


「おまえ……」


 それ以上薫子が何か言う前に、すいと動いた伯凰が薫子の視線を遮る位置に立った。楽しげに口を開く。


「優衣? いいことを教えてやるよ。貴明殿と薫子は既に離縁済み、茜の籍も抜いてある。このふたりはもう、おまえとは赤の他人だ」


 それは、初耳だ。


「――そうですか」


 短く応じると、伯凰がわずかに眉を上げる。


「なんだ、感動が薄いな」

「そのように手続きを取る予定だというお話は、うかがっていましたし。わたしの籍も抜かれたなら、それくらいは知らせて欲しかったですけど」


 名字が変わったとなると、いろいろと手続きが面倒そうだ。伯凰は薫子から視線を逸らさないまま、いやいやと片手を振る。


「おまえは、佐倉の娘だ。貴明殿が、手放すわけがないだろう」

「……は?」


 咄嗟に、何を言われたのか理解できない。こちらを振り返った伯凰が、どこか物騒な笑みを閃かせる。


「十六年。みんな、薫子に騙されてたんだよ。おまえが貴明殿の子どもじゃないなんて――今のおまえを見たら、誰もそんなことを信じたりしないのにな」

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