孤独
――父さま。母さま。どちらへ行かれるのですか。
白い回廊に、幼い子どもの声が弾むようにして楽しげに響く。
明るい日射し。庭一面に咲き乱れる美しい花々。
遠くから聞こえてくる美しい賛美歌は、生まれたときから毎日のように聞いているから、教わらずともすっかり覚えてしまった。
自分の呼びかけに笑顔で振り返った両親に、小走りに駆け寄る。
父の大きな手がくしゃくしゃと髪をかき混ぜてくるのが、最近少し恥ずかしい。
照れくささもあって一瞬払いのけようかとも思ったけれど、その温かさと心地よさはやっぱり嬉しい。
母が目の前にゆっくりと膝を落とした。ふんわりと香る甘い匂いとともに、細く柔らかな指がそっと頬を包んでくれる。
慈母のような、と周囲が讃える笑顔が、こうして自分を見つめるときには一層柔らかく、美しくなることを知っているのは、きっと父と自分だけ。
だから、こんな母の笑顔を知っているのも、父と自分のふたりだけ。
そのことが嬉しくて、くすぐったい。
いい子にね。待っていてね。私たちはすぐに帰ってくるわ。
だから、父さまと母さまの帰りを、あなたはここで待っていて。
どこへ、という問いに答えは貰えなかった。
頬に触れた母のキスと、軽々と自分を腕に抱き上げて笑う父の力強さに、そんなことはすぐにどうでもよくなる。
ただ笑って何度もうなずいた。
待っています。いい子にして待っていますから、早く帰ってきてくださいね。
いつも通りの、他愛ない約束だった。
それが両親との最後の約束――決して果たされることのない約束であることなど、知らぬまま。
……清められ、まるで眠っているだけのような物言わぬ骸となって戻ってきた彼らを、嘘つき、と罵った。
帰ってくる、と言ったのに。
嘘つき。嘘つき。嘘つき!
涙が涸れるほどに泣き、喉が嗄れるほどに叫んで罵った。
この世のすべてを憎んで呪った。
両親のいない世界など、いっそ滅びてしまえばいい。
なのになぜ、両親の失われた世界で、自分はまだ生きているのだろう。
――子どもは知らない。
幼い彼を守るために、両親が命をかけたことを。
そうすることでしか、彼らは大切なものを守れなかったのだということを。
両親にとって、彼の未来は己の命よりも大切だったということを。
彼らがただ――子どもの幸福な未来だけを、望んでいたことを。
(……殺してやる)
けれど、すべてをなくした子どもに残されたのは、たったひとつの願いだけ。
(殺してやる)
両親の命を奪った存在を、すべてこの手で破壊する。
(みんな、殺してやる……!)
――その術だけを、力だけを望んで求め続けた哀れな子どもは、いまだほかの何も知らない。
数日前、祖父が訪ねたときには数分の面会しか叶わなかったという三条家の当主は、今日までの間に少し容態が改善したらしい。
依然として、床から頭を上げることもできない様子ではあったが、その顔に滲む疲労と苦痛の色は想像していたほど濃いものではない。
それでもこうして彼との対面を許されたのは、自分が佐倉家の後継であるからだろうな、と思いながら、皓は彼の枕元から少し離れたところに腰を下ろす。
(……?)
そのとき、道彦がわずかにほほえんだように感じた。
不思議に思って視線を向けると、彼はゆっくりと口を開く。
「いえ。やはり明仁殿の、と思いましてな。ふとした仕草が、よく似ておられる」
一瞬、その言葉が全然嬉しくないと思ったのは、祖父が先日の明緒と皓の仕打ちに対して「まったく最近の若いモンは、年寄りを敬うっちゅーことを知らんのだからのー! フン、東京に戻ったらおまえらの恥ずかしい秘密を、あーんなことからこーんなことまでもれなく証拠写真付きで優衣に教えてやるからの。わかったらほれ、こんな面倒ごとはさっさととっとと片付けてしまわんかいっ」とつむじを曲げてしまったことを思い出したからだ。
それを受けた明緒は即座に「……ふっ、いい度胸だオヤジ。年寄りの冷や水という言葉を知っているか? 老害を垂れ流すばかりになる前に、おれがこの手できっちり引導を渡してくれる」と立ち上がった。
あわや壮絶な親子対決が発生するところを、京都屋敷の家人総出で止める羽目になったという今朝の騒ぎは、今もくっきり生々しい記憶として残っている。
皓はきつく拳を握り締めた。
(く……っ、どうにかして東京に戻る前にお祖父さまの弱みを握っておかなくては――いや今はそんなことを考えている場合じゃなかった)
その点についてはいざとなったら明緒と共同戦線を張ることにする。
皓は改めて一礼すると道彦の病み衰えた顔に視線を当てた。
彼は明仁の訪問以来、今日に至るまでずっと伏せっていたと聞いている。いくら面会を許されたとはいえ、そう長居をするわけにはいかないだろう。
「お加減が悪いというのに、申し訳ありません」
「いえ。ここ数日は、すべて側近たちに任せておりますもので……。明仁殿のお言葉に甘え、随分と休ませてもらいました」
ふと、道彦が何か考える目をして口を閉じた。
「当主殿?」
「……申し訳ない。そちらのお話をうかがう前に、ひとつ――皓殿にお尋ねしても、よろしいでしょうか」
「はい」
口を開くのも辛そうな様子である。
なのになぜ、と疑問を覚えたけれど、特に拒否する理由もない。
少し、静かな間があった。
「皓殿は――最も恐ろしき異形とは、どのようなものだとお考えですか」
「恐ろしい?」
道彦は小さくうなずいた。
「強き異形、おぞましき異形……。我らが滅すべきものは多々ございます。この人の世にあってはならぬものというのは……確かに存在しております」
「……はい」
突然道彦がそのようなことを言い出した理由がわからず、皓はただ話の先を待つ。
「ですが……私はあのとき、心底恐ろしいと――この異形と相対して、迷いなく対峙できる者など、そうはおるまいと……思いました」
しんしんと、静寂に溶け込むような声に滲んでいるのは――
「なぜ、それほどに恐ろしいと思われたのですか?」
向けた問いに返ってきたのは、低く掠れた声だった。
「感情が……あったのです。――あの、異形には」
思わず、目を瞠る。
「我らにも容易く理解できる、感情……人の心とでもいうべきものが、確かにあの異形にはありました。――我らが今まで、異形を迷いなく滅することができたのは……それが、我らとは明らかに異なるものであったからで……ございましょう。たとえ……かつて人であったものでさえ、既に恨みと憎しみばかりに凝り固まり、言葉さえ通じぬものと成り果てていれば、それを哀れとは思っても……既に命なきものとして、滅することに、迷うことはない……」
ゆっくりと途切れ途切れに、道彦は続けた。
「あの異形は……その存在に気づき、咄嗟に仕掛けた私の術を、難なく撥ね除けました。そのときに発せられた瘴気だけで、私はこの有様……それでも」
ごほ、と彼が咳き込み、目を閉じて静かに呼吸を整えるのをじっと待つ。
幾重にも清めを行われた空気の中に、忙しない喘鳴がひどく不似合いだった。
呼吸を整えた道彦が再び紡いだ言葉は、それまでと同じに、低く淡々と落ち着いている。
「――あの異形が、ひどく悲しげな目をしているのを……私は、見てしまったのです」
「悲しげな、目?」
繰り返した皓に、道彦はええ、とうなずく。
「人型をした異形が……人を食らうため、その心に入り込むため、それらしい表情を作ることなど……いくらでもございましょう。ですが――あの異形には、あの目には、本当に……私にも理解のできる悲しみが、あったのです」
……そんなはずはない。異形の中に、そんな感情などあるはずがない。
そんなものがあるというなら。
「――孤独」
道彦は、静かに告げた。
「拒絶されることの、痛み。――あまりにはっきりと……その目に浮かんだ痛みに私が立ち尽くす間に、彼の異形は姿を消しました。……皓殿。あなたは、自分と同じ心を持ち、感情を持ち、人間に拒絶されることに痛みを覚える相手と……なんの迷いもなく、戦うことができますか」
「――それ……は」
言葉に詰まる。そんな皓に、道彦は続けた。
「ただ、破壊すればいいだけのものとは……あの異形は、違うのです。いっそ……明確に『敵』である人間の方が、憎むことができる分だけ、まだやりやすい。譲れない利害関係がある以上、相手の心を理解する必要などないと……割り切ることもできましょう」
あのような異形を、今までに見たことがない、と。
彼は明仁に、そう告げたと聞いている。あれは人であった、と。
ならばそれは――
「人間の、心を持つ異形……?」
「私には……そのように、見えました」
その言葉を、一笑に付して切り捨てることは簡単だろう。
そんなものが存在するはずもないと、異形とは、人と異なるからこそ異形というのだと――そう断じることは、あまりに容易い。
……けれど。
「ですから……私は、あの異形が恐ろしいのです。人の心ほど、脆く……壊れやすいものはございません。あれほどの、恐ろしい力を抱え込むには……人の心は、あまりに弱い」
「――その異形が、いずれ狂うと?」
人の心を持つがゆえに。
それは例えば、孤独。絶望。或いは憎悪。
人の心を狂わせるものなど、その裡にいくらでも存在する。
だがそうして狂気に堕ちたものが、人にあらざる力を持つ異形であったなら、一体どれほどの災厄を引き起こすことか。
「人が添って生きるのは……ひとりで生きられるほどに、その心が強くはないからで……ございましょう」
……孤独。
それが、道彦が彼の異形の中に見た――人の、心か。
「なぜ、ですか」
「……はい?」
言葉を重ね続けたためか、疲労の色が濃く滲みはじめた顔に、今更ながらそこにあるべき感情がわずかも浮かんでいないことに気づく。
道彦は、彼を襲撃した異形を、憎んでいない。
否、それどころか。
「なぜ……その異形を、憐れんでいるのですか」
道彦は彼の異形より襲撃を受けたあと、その追撃を命じていない。
それは、何よりも京都の守護を優先すべきという三条家当主としての判断ゆえだと思っていた。
けれど、もしかしたら。
「憐れんで……。確かに、そうやもしれません」
その声に、ふと抑えた何かが滲んだ。
皓から視線を外した道彦が、中空に何かを見出すように目を眇める。
「……皓殿」
「はい」
「あなたには、ご不快な話やも知れませんが……あなたの姉君に、名を贈ったのは……私なのです」
(……え?)
咄嗟に、自分が耳にしたことを理解し損ねる。
そんな皓の様子を知ってか知らずか、道彦はこちらを見ないままゆっくりと続けた。
「最初から、親に愛されぬ運命に生まれた子に……せめて、ほかの誰でもいい。愛されるよう、優しさに包まれることができるようにと……そう、願って――私はあの子に、名を贈りました。妹の気性ならば、不義の子と烙印を押された娘を……きっと愛することはないだろうと、思ったからです」
「……っ」
ぎり、と噛み締めた奥歯が軋んだ。
何を、言っている。そんなことを、信じろとでも言うつもりか。
ならばなぜ――そこまでわかっていながらなぜ、自分自身が今まで何もしなかった、ふざけるな。
罵る言葉が、喉元まで込み上げる。
けれど。
(……なんで)
わかりたくなんてないのに。
わかって、しまった。
――違うのだと。
彼は、何もしなかったのではない。
きっと、何もできなかった。
当時、先代三条家当主が下した結論は、薫子の勘当。
いくら「彼らの目が届かない」東京屋敷が薫子への援助を続けたとしても、薫子の兄であった彼が堂々と佐倉の本拠地である東京に赴いて、妹やその子どもたちを気に掛けることなどできるはずもない。そんなことをしたら、表向きは決着を付けた佐倉と三条の間で、また余計な諍いが生じてしまう。
だから――何もできない自分を知っていたから、彼は愛することを許されない姪に、名を贈ったのか。せめてもの願いと、祈りを籠めて。
「妹の、したことは……決して許されることではありません。しかし……この三条に久方ぶりに生まれた、才に溢れた娘を……甘やかし、あのように育ててしまったのは、我々なのです」
「……お言葉ですが。十やそこらの子どもならまだしも、物事の善悪を判断できる年になっても尚、己の愚かさを顧みることができないというのは、既に本人の問題でしかないでしょう」
どんなふうに育てられたかなど、犯した罪のなんの言い訳にもなりはしない。
加害者にも事情がある、だから許される権利がある?
そんなことを言っていいのは、被害者側の人間だけだ。
「……失礼、しました。妹の弁護をしたつもりでは、なかったのですが」
「ご自分の後ろめたさを、姉によく似た僕に告白して、少しでも楽になりたかったのですか」
これは手厳しい、と道彦が苦笑を浮かべる。ふぅ、と息を吐き、口を開く。
「皓殿。――甘やかす、というのは……相手を理解せず、ただ孤独に追いやるものでしか、ありませんでした」
低く、重たい声だった。
「我々は、多くを間違えました。――薫子にも、茜にも……あのように接するべきでは、なかった。薫子が、あのように茜を溺愛していたのも……今から思えば、一種の自己愛のように思えます。そして……自分以外に愛せるもののない人間は、どこまでいっても、孤独です」
「だから――薫子殿は、あのようなことをした、と?」
孤独から生まれた、狂気。それゆえに。
「さて……それは、本人にしかわからぬことです。しかし……我らは、甘やかすのみで、あの者らを理解しようとはしなかった。そうして……失いました」
どれほど愚かな女だろうと、道彦にとっては血を分けた妹であり、姪である者たちだ。
彼女たちを三条家から追放すると断を下したのは、道彦自身。
だがそう決断することに、彼女たちを失うことに、彼が苦痛を覚えなかったはずもない。
「……そうですね。だから、私はあの異形を憐れんでしまうのやも……しれません。世界は、広い。あの孤独な異形が、どこかで心を添わせることのできる、誰かと……出会えるならばと、思ってしまった」
それが、狂い堕ちてしまう前に。
「なのに、我々に協力を?」
道彦の顔に、困ったような笑みが滲む。
「そこまで……優先順位を間違えるほどに、愚かではないつもりだったのですが」
「失礼いたしました」
今のは皓の失言だ。素直に詫びるしかない。
「――では、当主殿。改めてお尋ねいたします。彼の異形はどのようなものだったのか、詳しくお聞かせ願いたい」
道彦は襲撃を受けた直後、最低限の指示を出すなり昏倒してしまった。
彼の口から実際に語られたものと言えば、あの日明仁が耳にしたものだけだ。
――この京都のものではない、異形たる人。
異形を追う術者にとって、残された瘴気の残滓以上に手掛かりとして役に立つものはない。
そのため、誰も今までそれ以上を病んだ彼に問うことはなかったが、今は縋れるものがあるなら藁でも縋りたいところなのだ。
なにしろ急がなければ、三条家が綿密な計算の上で京都守護のために祀ってきた神々を、『ダンテ』の面々に「やっぱジャマ」の一言でぷっちり潰されてしまいかねない。
記憶を辿るように眉を寄せた道彦が、そうですね、とつぶやく。
「あの赤い――血の色をした瞳ばかりが、ひどく印象に残っております。闇に溶け込むような長い長い黒髪と、人形のように白い肌をした、異国の……若く美しい、青年の姿をしておりました」
「長い黒髪の、異国の青年」
復唱しての確認は、しかしすぐに否定された。
「いえ……違います」
「は?」
目を瞠った皓に、道彦はゆるりと瞬く。
「確かに……最後に私が見たときには、そのような姿をしておりました。ですが……最初に私の前に現れたときには、まったく違う姿をしていたのです。――私が術を仕掛けた瞬間に、彼の異形は、今言ったような姿に変じました。同時に、異形から溢れ出た瘴気と私の術とが、凄まじい勢いで反発し――爆発が、起きた」
「……では」
「はい。ですからあの異形に、私を襲撃する意思があったのかどうかは、わかりません。ただ……最初にその姿に気づいたとき、人には持ち得ぬ美貌から、一目で異形と悟りました。そして、それがこの屋敷に招かれたものではないと、咄嗟に私が破魔の呪を放つまでは……」
そこで唐突に、道彦の言葉が途切れた。
「当主殿?」
促すと、はっとしたように目を上げ、小さく首を振る。
「……いえ。同じでした。あまりに印象が異なっていたので、少々惑ってしまいましたが……思い返してみれば、確かに同じ顔。同じ異国の――」
――眩い金の髪、金の瞳を持つ、二十代半ばの美貌の青年。
それが求める異形の姿だと、彼は告げた。




