はじまりの理由
皓、と呼ぶあまりに聞き慣れた声に、浅い眠りから引き戻される。
目を開いた皓は、自分が部屋の隅で片膝を抱えたままうつらうつらしていたことに気づき、頭を振って眠気を追い払った。
「……気分は」
低く問うと、まだまだ血の気の薄い顔をした大地は、それでも淡く苦笑を浮かべた。
「最悪」
「だろうな」
大地が本当に「最悪」なときは何も言わないことを知っている皓は、べしっと殴りつける勢いでその額に手のひらを当てた。大地が顔をしかめる。
「痛ぇし。……つか、おまえに『調整』されるとか、却って気分悪くなりそうなんだけど」
皓は軽く胸を張って、その顔を見下ろした。
「以前の僕と同じだと思うな。今までどれだけ、暴走してはぶっ倒れた姉さんの相手をしてきたと思ってる」
「あー……ハイ。とりあえず、優衣さまに感謝しとくわ」
「当然だ」
以前は相手の体に触れ、乱れた力の流れに自分の力を注ぎ込んでゆっくりと整えていくこのワザを、明仁と同じく天才型で大雑把なところのある皓はあまり得意としてはいなかった。
だが今ではむしろ、得意技のひとつとなっている。
その理由を思えばあんまり嬉しくないが、不得意分野を克服しつつあることは、やはり誇らしい。
父のスピードや繊細さにはまだまだ遠く及ばないものの、少なくとも祖父よりは絶対に上だと自信を持って言うことができる。
「――皓」
「なんだ」
「おまえ今、当主よりは全然マシだとか思ってんのかもしんねぇけど。人間、自分より下と比べて安心するようになったらお終いだぞ? ……っだだだだだっ!」
いくら幼馴染みだからといって、ひとの思考をそうやって簡単に読むとは大変失礼である。
みしみしとこめかみを圧迫された大地が悲鳴を上げ、皓はふんと鼻を鳴らした。
「余計なことを言うな、ボケ」
「ボケはどっちだ! 怪我人相手に何してくれやがる!」
涙目になった大地に、べしっと手を振り払われた。
どうやら、そろそろこんなことをする必要もなくなったようだ。毒気は粗方抜けたようだし、あとはきちんとメシを食って寝ていれば、放っておいても回復する。
「ったく……って、今、何時?」
額をさすりながら、大地が問う。
「午後――九時六分。一応言っておくが、おまえがぶっ倒れたのは昨日だからな」
「あー……道理で腹減ってると」
大地のぼやきを裏付けるように、ぐぎゅるるる、と彼の腹が自己主張をはじめた。哀れな腹の虫を宥めるべく、厨房に命じて膳を運ばせる。京都の秋野菜をふんだんに使った美しい品々に加え、「とりあえず肉!」という要求に応じて皿一杯に山と盛られた肉料理の数々。
しばらくの間、それらを咀嚼することにのみ口を使っていた大地は、食後の煎茶を飲んでようやく一息ついたらしい。
「……むぅ。茶はやっぱ、ウチの方が美味いな」
「出されたモンに文句を言うな、罰当たり」
大地は偉そうに胸を張った。
「文句じゃねえ。これは郷土愛とゆーものだ」
「どうでもいいが、そろそろ状況説明をしてもいいか?」
「おう」
一通り現状と今後の方針を聞いた大地は、ふうん? と意外そうに首を傾げる。
「ほんじゃ、オレもアルファを使ってその上級悪魔探しに参加すればいいわけか?」
皓は首を振った。
「いや。おまえは別命あるまで待機だ」
大地は目を丸くした。
「へ? なんで?」
「明緒さんは、こんなやり方で対象を探し出せるとは思っていない。それはおまえもそうじゃないのか」
この場合の沈黙は、是だ。
これがもしほかの土地でのことであったなら、もう少し話が簡単であったかもしれない。
しかしこの京都には、中級悪魔レベルの禍物ならば掃いて捨てるほどにいるのである。
『ダンテ』の祓魔師たちの言う「使い魔が怯える」というのがどれほどの精度で対象を捉えるものなのかはわからない。だが、それらの禍物をわずかも警戒せず、目的の上級悪魔の気配だけに反応するなどという都合のいい話があるわけもない。
おまけに、今まであれだけ大地が使い魔を使って探索しても、手掛かりさえ発見できていないのだ。彼の上級悪魔が、完全に気配を消してしまっているのは間違いないだろう。
いくらほかに方法がないとはいえ、どう見積もっても、彼らが目的を達成するのは気が遠くなるほど先のことになりそうだ。
ふうと息を吐いた皓は、少し考えてから口を開いた。
「それより――僕はやはり、おまえを拉致った『ライ』という金色の異形が気になる」
「あ? けどありゃあ、どう見たって悪魔じゃねえぞ?」
きょとんとした大地に、皓はそうだろうなとうなずく。
「それはわかっている。『ダンテ』の祓魔師たちも言っていたからな。契約者の命令もなしに、人間を助ける悪魔などいないと」
「ああ。遙さんとライがどういう契約をしてんのかは知らねぇが、ライはあのとき、完全に自由意思で動いてた。っつうか……」
ごにょ、と言葉を濁した大地にどうした? と視線を向ける。
何やら視線を泳がせた大地は、眉を寄せて口を開いた。
「あいつ――ライな。そりゃもう、とんでもねぇ力を持ってたんだけど。普段はそれをほとんど使えねぇレベルにまで抑えるように、自分で制約かけてたんだよ」
「どういうことだ?」
意味がわからず、皓は首を傾げる。
「多分、だけど。遙さんの体に、負担をかけないようにするためだと思う」
「……なんだそれは?」
困惑した皓に、大地は『ライ』と接触したときのことを思い出すようにしながら先を続けた。
「遙さんは、ライを支配していなかった。――命令、丸無視してたからな。少なくとも、血の契約はしていないはずだ。なのにあんな力が普段からずっと自分に同調してたら、遙さんがどんだけすげえ異能持ちでも、平気でいられるもんじゃねえと思う」
強すぎる力は、それなりの圧力を持つものだ。
契約者の血を媒介にした完全な契約を交わしているのでなければ、確かにその影響はどんな危険な形で現れるかわからない。
言霊だけで交わされる仮初めの契約は、その分拘束力も緩い。
だが同時に、互いにとってリスクが低いということでもあるのだ。
なのに――もし大地の言う通りの状態であるならば、ライのみが一方的に契約のリスクを負っていることになる。
「だから、自分の意思で自分の力に制限をかけたというのか? ……異形が?」
そんなことをしたら、異形の方に余計な負荷が掛かる上に、敵の襲撃を受けたときに下手をすればそのまま破壊されてしまう。
どんな異形であれ、その最優先事項は常に「自己の保存」だ。そんな意味不明なことをする異形など、皓は今まで見たことも聞いたこともない。
信じられない、と首を捻った皓に、大地は困ったように眉を下げる。
「オレだって、目の前で見なかったら信じらんなかったろうけどな。あいつ、遙さんが狂骨に襲撃される前は、〈縛〉で簡単に拘束できたんだぞ?」
「……マジか?」
「大マジです。――どういう理由でかはわかんねぇけど、ライは遙さんをえらく大事にしてる。それこそ、遙さんの負担にならないようにするためなら、自分が攻撃受けたときに抵抗できなくても構わないと判断するくらいに。契約者の血に縛られていない自由意思を持つ悪魔が、自分の安全より人間の安全を優先することなんてありえない。だから、あいつの正体がなんであれ、悪魔でないことだけは確かだ」
そこまできっぱりと言った大地は、つうか、と苦笑を浮かべた。
「あいつな。オレに『死ぬな』っつったんだぞ?」
それにはさすがに、皓も苦笑を返すしかなかった。
人間に、「死ぬな」と言う異形。
そんな素っ頓狂なものが、人間を惑わし貶め、食らうことを本性とする悪魔であるわけがない。
「世界は広いからな。僕たちが知らないどんな異形がいたって、不思議ではないんだろうが――」
「皓?」
「いや。ただ、あまりにもタイミングが合いすぎるだろう」
「まぁ……な」
三条家の当主襲撃。上級悪魔の出現。そして、それなりの力を持つ祓魔師である大地をあっさりと攫ってみせた、正体不明の金色の異形。
常ならばありえない事態が、こうも立て続けに起こることが単なる偶然であるとは、どうしても皓には思えなかった。
「そもそも……はじまりはなんだったんだろうな」
ふとつぶやいた言葉に、大地が訝しげな顔をする。
「あ?」
「いや。なんとなく思っただけなんだが」
「おまえの『なんとなく』を放っておくと、あとで泣きを見る。なんでそんなことを思った?」
即座にそんなことを言う大地に、皓は少し困ってしまった。
「いや、本当になんとなく」
「そうか、それで? オラ、腹を据えてじっくりしっかり考えんかい」
「おまえなぁ」
一体どこのヤクザもんだと呆れながらも、皓は自分の思考を整理するべく腕を組んだ。
「――理由が、見えないんだ」
「理由?」
繰り返した大地に、うなずく。
「ああ。おまえがあれだけ探索しても、三条家を襲撃した悪魔を見つけられなかったことからしても、恐らくあの襲撃は『ダンテ』が追ってきた上級悪魔の仕業だろう」
「まぁ……その可能性が、大だろうな」
大地の肯定に、皓は考えをまとめながら先を続けた。
「僕らが記録で見てきた限りでも、上級悪魔は確かに恐ろしい存在ではあるが、その行動原理は必ず首尾一貫していた。奴らが獲物に選ぶのは、そのほとんどが多くの人々から尊敬と崇拝を集める敬虔な聖職者だった」
世界各地に存在する教会で、人々の心の拠り所となるべく日々己の神に祈りを捧げ、心から神を敬う神父や牧師。
教会内での派閥抗争に明け暮れながらも、己の正義を信じ、己の言葉をより多くの人々に届けることが、神への道を拓くと疑わない司教や枢機卿。
或いは、無私の心で奉仕活動を行う人々。
たとえ気まぐれに魂を食われた者たちでさえ、それはすべて彼らの神を信じる人々であり、そこに例外はない。
だからこそヴァチカンは、そんな人々を守るために、世界最高の祓魔師組織を作った。
教義上、悪魔の存在が認められないなどという酔狂な理由で、そんな金の掛かることをしているわけではない。
実害が、あるのだ。
彼らの教えを信じる者たちが死ぬという、許しがたい実害が。
……もしかしたらプロテスタント信者の多い地域で悪魔の被害者数が多く報告されているのは、カトリックの総本山であるヴァチカンが、片っ端から優秀な祓魔師を集めまくっているからなのかもしれない。
だが、そこはツッコんでも仕方があるまい。
カトリックのように総本山といえるものがないプロテスタントには、『ダンテ』のような祓魔師組織が存在しない。
牧師さんというのはヤバいと思ったら自分でどうにかするか、フリーの祓魔師を金で雇うしかないのだから、つくづく大変な職業である。
それはそれとして――
「なのに、今回上級悪魔が襲ったのは、よりにもよって日本の、しかも彼らの神とはまったく無縁の三条家の当主だぞ? 彼がコッソリキリスト教の信者になっていましたー、なんてオチもあるわけがない。中級悪魔ならばまだしも、上級悪魔なんてものが彼を襲撃する理由がどこにある?」
国民の多くが「神さま? 粗末にしたらなんとなくバチが当たりそうだけど、お願いごとを聞いてもらうにはお賽銭が必要だし、とりあえず八百万っていうからにはどこにでもいるんでしょ?」なこの日本の中でも、京都の三条道彦とは「神? ああ、次はどの神を奉らなければならないんだったかな、忙しい忙しい」という、ある意味最も唯一神とは縁遠い人物である。
そんな襲い甲斐(?)のない道彦が上級悪魔の襲撃を受けるというのは、本当に「ありえない」ことのはずだったのだ。
「だから僕は、考えはじめる起点――その上級悪魔の行動のはじまりが、そもそも何をきっかけにしたものなのかが気になるんだ。もしかしたら理由なんてないのかもしれない。それこそ、悪魔のすることだからな。だが、少なくとも奴はまだこの京都にいる。気まぐれに無関係な人間をからかって遊んでいるなら、あれ以来なんの被害報告がないのもおかしい。……理由が、あるはずなんだ。その上級悪魔なりの、理由が」
「はじまりの、理由か……」
むぅ、と大地も眉を寄せ、しばしふたりは揃って頭を捻った。
「さっぱりわからん」
皓と大地の声が、見事にハモる。
そもそも、人にあらざる悪魔の思考を、人間が理解できると思う方がおかしいのだろう。
考えても仕方のないことは考えない、行き詰まったときは行動あるのみ。
これが佐倉一門の基本である。
「現場百回、ってわけでもないが。僕は明日三条家に行って、襲撃された現場を見てこようと思う」
「ほんじゃオレは、遙さんに会いにいってみるわ。ライはどう見ても外国産だし、もしかしたら何か知ってるかもしんねえしな」
あっさりと言う大地に、皓は軽く眉を寄せた。
「別命あるまで待機と言ったはずだぞ?」
「わーってる、ちゃんと明緒さんの許可は貰うって。……ってあれ、そういや黒崎さんはどうしてる?」
ふと思い出したように言った大地に、皓は一瞬答えに詰まる。
「……まぁ、彼も意外と立派な根性の持ち主のようだし。大丈夫、なんじゃないか?」
「は?」
どういうことだ、と視線だけで問うてきた大地に、皓は微妙に視線を逸らしながらぼそぼそと答えた。
「明緒さんが、今日から彼を『ダンテ』付きにしたんだが……」
「……え」
ひく、と大地が頬を引きつらせたのも無理はない。
なにしろ『ダンテ』の祓魔師といえば、標的の悪魔を滅するためなら人命以外のあらゆるものを犠牲にしても構わない、が信条だ。彼らが集団で通った後にはぺんぺん草も残らないと恐れられるヒトビトなのである。
そんな彼らと、京都の街そのものを守護することを誇りとしてきた三条家の人間である日向の相性など、犬と猿の方がまだマシなのではないだろうか。
「今日一日だけで、『使い魔がいちいち反応して鬱陶しいから、この辺に何やらいるモノを処理していいか』『やめてください、それは我々が祀っている小さき神です』という会話が、同行していたうちの連中が記憶しているだけでも二十回は繰り返されたとかで」
「に、二十回程度で済んだんだ?」
皓は厳かに首を振った。
「いや。それ以上は、数えるのが虚しくなってやめたそうだ」
大地が「黒崎さん……」とつぶやきながら、がっくり肩を落とす。
「今日は、いくつかのチームに別れて各地の捜索に当たったらしいんだが。そのほかの『ダンテ』の祓魔師に同行していた連中も、明緒さんに『明日からは上級悪魔の捜索ではなく、彼らの暴走を止めることに専念していいでしょうか』と訴えたらしい。……さっさとこの件を片づけてしまわないと、冗談抜きに今度こそ京都が沈むかもしれないな」
「あ……あはは……」
げにこの世で最も恐ろしいのは悪魔などではなく、生きている人間なのである。
どこか遠くを見ていた大地が、不意にありゃ? と不思議そうな声を上げた。
「『ダンテ』の連中って基本イタリア語だよな? うちの連中にそこまでフォローしてる奴って、そんなにいたっけ?」
その疑問には、皓も同じく首を傾げる。
「それが、おかしな話なんだが。今回やってきた祓魔師は全員、ほぼ完璧な日本語をマスターしていたんだ」
「はい? なんだそりゃ、マジで? ありえなくね?」
大地が目を丸くして言う通り、彼らが常駐する必要性が世界でも間違いなく下から数えた方が早い日本には、『ダンテ』の支部は存在しない。
これまで、極稀にだが『ダンテ』の祓魔師が日本を訪れたことはあった。
だがそれは、あくまでも一時的な派遣要請を受けてのことである。
何より、彼らが任務を果たすために派遣先の国々の言葉を身につけている、などという話は聞いたことがない。
多言語文化で生まれ育った彼らは、その出身地に応じていくつかの言語をマスターしているのは極普通のことであるらしい。
しかし、どこの国の出身であろうと、『ダンテ』の一員となった時点でヴァチカン市国の公用語であるやたらと難解なラテン語を教え込まれ、日常会話はイタリア語とされているはずだ。
ただでさえ日々悪魔祓いで忙しい彼らが、なぜこんな世界ビジネスシェア一パーセントのローカル言語をわざわざ習得したのだろう。
むー、と眉を寄せた大地が口を開く。
「……『ダンテ』のトップが、いきなり日本趣味に目覚めたとか?」
「……そのわりには、今日彼らに破壊されそうになった文化遺産や古い社が、三条家が知ったら揃って発狂しそうなほどあったらしいぞ?」
ふたりは揃って首を捻った。
「わからんなー」
「ああ、わからん」
だがそんなことは、それこそ考えても仕方のないことである。
ふたりは、あっさりと思考を切り上げた。
「まぁ、こっちにとっちゃ楽なだけだし」
「そうだな、僕もイタリア語はちょっと苦手だ。話す相手によって語尾が変わるのが面倒くさい」
そうして改めて、考えても仕方のないことは考えない、という方向で話をまとめたふたりの少年は、明日に備えて早めに休むことにしたのだった。




