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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
祓魔の章

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イツワリノナマエ

 耳を劈くような笛の音が聞こえたとき、優衣はちょうどいつもながらの不規則な眠りの淵から、ぽっかりと目を覚ましたところだった。


 意識が戻るなり鳴り響いたその音に、反射的に思ったのは今日は火災訓練の日だったっけ、というものだ。


 しかし、続けて聞こえた祖父の声に、そんな寝ぼけた意識はきれいさっぱり消し飛ぶ。


(……っ)


 咄嗟に跳ね起きようとしたものの、途端にぐらりと視界が揺れた。


 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながらどうにかベッドから降りて普段着に着替える。


 部屋の外へ出ようとしたときに聞こえてきたのは、翔のいつもより硬い声だった。


「優衣? 起きてるか? ……っと」


 言葉で応える前に襖を勢いよく開くと、翔は少し驚いた顔をした。

 すぐに眉を寄せ、長い指でそっと頬に触れてくる。


「……大丈夫だ」

「で、も……っ」


 混乱とも焦燥ともつかない痛みに、胸が疼いた。


 高野家の大地という少年が、皓にとってどんな存在かなんて知っている。

 幼い頃からともに育った、兄弟同然の幼馴染み。

 自分よりもずっと皓と兄弟らしい彼を、少し羨ましく思ったことだってある。

 その大地がこんなふうに消息を絶ったと聞いて、皓が平気でいられるはずがない。


 翔はこつんと優衣の額に軽く額を当てると、もう一度「大丈夫」と口にした。


「皓から、伝言だ。――自分が戻るまで、絶対に腕輪を外すな。外したら今度こそ伯凰さんにあることないこと言ってやる、だそうだ」


 ゆっくりと、柔らかな声で。


「大丈夫だ。皓も高野も、オレよりずっと強い。だから、おまえが怖がることなんて、何もないんだ」


 大丈夫、と。

 何度も優しく紡がれる低い声に、胸を締めつけるようだった痛みがゆるゆると溶けていく。


「本当……?」


 翔は真顔でうなずいた。


「まったく自慢できることじゃねぇが、オレは今んところ、あいつらとサシで勝負しろと言われたらその場で無条件降伏させていただきます。あいつらはガキの頃から英才教育を受けてきた超エリートだぞ? 技の種類も経験値も違い過ぎだってのに、勝負になるか。開始二秒で瞬殺だ」

「そ、そうなんだ……?」


 優衣からすれば、翔も皓たちも凄すぎて、そんな差があることすらわからないのだけれど。


 それでも、きっぱりと言いきってくれた翔の言葉がすとんと胸に落ちてくると、なんだか本当に大丈夫な気がしてきた。


(うー……)


 ぼす、と翔の胴にしがみつく。

 大きな手が、宥めるようにぽんぽんと背中を軽く叩いてくれる。


「……心配して、待ってることしかできないって、本当にやだ」

「……だな」


 強くなりたいと、何度も思った。

 いつか、じゃ駄目なのに。

 今、大切なひとたちの助けに、少しでもなりたいのに。


「けどな、優衣」


 頭の上で、翔が小さく笑う。


「男ってのはな。心配して待っててくれる相手がいねぇと、がんばることができないイキモノだったりするんだぞ?」

「……え?」


 きょとんとして見上げた優衣に、翔はだから、と続けた。


「おまえは自信を持って、力一杯心配しながら待っててやれ。な」







 ――ガス漏れ事故の発生により、学部棟の改修工事及び安全確認が終了するまでの三日間、キャンパスを全面封鎖。


 そんな内容の一斉配信メールが大学側のサーバーから届いたとき、遙はその「事故」による被害者の一員として、自宅療養中の身であった。


 昨日の夕刻、気がついたときには収容先の病院のベッドの上だった。


 隣で先に目を覚ましていた健介が、知らせを聞いてすっ飛んできた舞子を見て「おまえの言うてたこと、ほんまやったんやな……。よっしゃ、改めてオヤジさんに怨念届けな」と真顔で言っていたのが、ちょっと怖かった。


 それからさまざまな検査を受けても、異常はなし。


 多少の倦怠感はあったもの、特にこれといった自覚症状もなかった遙は、すぐに自宅に帰された。


 そうして一晩眠れば、気分はスッキリ爽快――といけばよかったのだが。


(何が、ガス漏れ事故だよ……)


 携帯端末を持ったままの腕を、やたらと明るく感じる光を遮るように目の上に乗せる。


 あんな気色悪い体験をした翌日に、るんたったとその現場付近に向かうことができるほど、遙の神経は太くない。


 たとえキャンパスが封鎖されていなくても、恐らく今日は自主休講を選択していたことだろう。


 ……だが、こうして家に引き籠もっているというのも、あんまりよろしくないかもしれない。


 目を閉じると、思い出すのは動く死体。

 狂った女。

 そして――


「遙ー? どないした? まだ顔色ようないんやから、無理したらあかんでー!」


 ……なぜか再び半透明に戻っていた居候が、ベッドで横になっている遙の枕元で、遙が何かするたび「無理したらあかん!」を壊れた再生機器のようにしつこく繰り返しているのである。


 この鬱陶しい状況は、断じてゆっくりと休養できる環境ではないだろう。


「――ライ」

「なんやー?」


 相変わらず、ふよふよと中途半端な高さで胡座を掻いているライを見上げる。


「昨日の礼を、まだ言っていなかったな」

「……へ?」


 ライが間の抜けた声を零した。


「ありがとう。おまえのお陰で、助かった」


 ヒトとして、たとえ半透明の相手にでも、通すべきスジは通さねばなるまい。

 その信念の元に感謝の意を伝えた遙は、けどな、と続ける。


「おれは断じて、病人でも赤ん坊でも介護の必要な老人でもない。メールの確認をしただけでいちいち騒ぐな、鬱陶しい」


 じっとりと睨みつけると、なんだかライはもの凄く奇妙な顔をしていた。


 あまりにたくさんの表情の中から、どの表情を選択したらいいのか迷いまくった挙げ句、結局全部失敗したかのように崩れた顔である。


 どんな美形でもヘン顔というものはできるんだな、と妙なことに感心する。


「ライ?」

「……お、おう?」


 今度は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたライは、あーともうーともつかない声を漏らしたあと、しみじみとした様子で溜息をついた。


「ほんま、かなんなぁ……」

「あ?」


 なんだいきなり、と眉を寄せた遙に、ライはぼそぼそと続ける。


「……おまえ、ワイのこと、なんも聞かへんねやもん」


 遙はおぉ、と手を打った。


「そういえば、あのときおまえが半透明ではなかった理由を、あとで説明するとか言っていたな。よし、言ってみろ。暇つぶしにはちょうどいい」


 ライが俯き加減だった顔を、がばっと上げる。


「ひっ、暇つぶして! ちゅーか、今の今まで忘れとったんかいーっ!」

「おれは基本的に、自分にとって役に立たない情報はすぐに忘れる派だ」

「や……役に立たないやて……!?」


 よろりと空中でよろめいたライは、なんだかかなりの衝撃を受けたようである。

 遙は今更何をそんなに驚くのやら、と首を傾げた。


「おまえが半透明であろうとなかろうと、向こう側が若干透けて見えるか否かの違いがあるだけだろうが」


 ライの瞳が、まん丸に見開かれる。


「ユーレイの世界の理屈というのは、まぁ――まったく興味がないわけではないが、どんな理不尽も『だって、ユーレイだもん』の一言で片がついてしまいそうだしな。今後のおれの人生に特に必要なものとも思えんし、おまえが話したくないなら別にいい」


 暇つぶしならば、ほかにいくらでも手段はある。


 久し振りに、こちらに引っ越してきた際にも捨てずに持ってきた懐かしのバトル漫画を一気読みするのもいいかもしれない。


 収納のどこにそれらを放り込んだんだったか思い出そうとしていた遙は、ひどく小さな、つぶやくような声を聞いた。


「……あんなぁ、遙」

「はん?」


 見上げると、ライは一度目を伏せ、少しためらうようにしてから言った。


「実はワイ……おまえの思っとるよな、ユーレイとちゃうねん」

「ほほう。それで?」


 わずかながら興味を惹かれて問い返したというのに、ライはそのまま黙り込んだ。

 表情をなくして固まっていると、見た目が見た目なだけに、本当に作り物の人形のようだ。

 それがなんだか不快で、遙は軽く眉を寄せた。


「おい、そこでなぜ黙る。何ごとも中途半端というのはよくないとおれは思う。相手に対して失礼というものだし、何より先が気になるだろう。続きを言うならさっさと言え」


 遙の教育的指導に、ライはくわっと噛みつくような勢いで口を開く。


「ひっ、ひとが清水の舞台から飛び降りるよな気分でゆうたことを、『ほほう』の一言で済ますなやっ!」

「おまえはヒトじゃねぇだろが。つうかおまえ、清水の舞台から飛び降りるなんて言葉、よく知ってたな?」


 口を開いたら開いたで非常に騒々しいのだが、さっきの無表情よりはずっとマシだ。

 遙にはいくら美しかろうと、人形を眺めて楽しむような趣味はない。


「ワイは昔っから、ニッポンのぽっくりさんが好きなんやっ」

「こっくりさん?」


 同じ怪奇現象同士、何か通じるものがあるのだろうか。

 首を傾げた遙に、ライは思いきり顔をしかめた。


「ちゃうわ! その辺をよう、ぽっくりぽっくりキレーな着物着て歩いとるやろ!」

「……それは恐らく、舞妓さんだ」


 脱力しつつ教えてやると、驚いた顔で目を丸くする。


「へ? おまえの母親も、ぽっくりさんなんか?」

「断じて違う」

「なんやようわからんー」


 ライは困ったように眉を下げた。


「わからないのは、おまえの思考回路だ」


 溜息をつき、かなりズレまくった話の方向を修正すべく、遙は眉間を揉みながら口を開いた。


「で? おまえはユーレイでないなら、一体なんだっていうんだ?」

「――ライや」


 その瞬間、ぐっと拳を握り締めて、空振りするだけだとわかっていても相手をどつきたくなった自分は、特に喧嘩っ早いわけではないと思う。


 しかし、「あのなぁ」と睨みつけた先、またしてもライがおかしな顔をしているのに気づいて、戸惑う。


 弱り果てたような――もし今どついたら泣いてしまうんじゃないかと思うほど情けない顔をして、ライは組んだ足を両手で掴んでいた。


「ワイなぁ、遙。……ほんまは、もうええ思うてこん国に来たんや」

「あ?」

「もうええて。もう、終わりにしよて。……ほやけど」


 また、何かをためらうように、一度言葉を切る。

 そして再び口を開いたときには、その声が少し、掠れていた。


「おまえ、前に言うたやろ。どないなふうに生まれようと、許すも許さんもないて。誰かって、好きでそないなふうに生まれたわけやないんやからて」

「ああ……?」


 確かに、以前そんな話をしたような気もするが、一体それがなんだというのか。


 嬉しかったんや、とライは言う。


「おまえにはじめて会うたときも、嬉しかった。こないキレイなモンがほんまにおるんかって、驚いた」


 遙はすちゃっと片手を挙げた。


「……すまん。おまえに他意がないことは一応なんとなくわかるんだが、残念ながらおれは純正日本人であるからして、そういったストレートな褒め言葉に対しては鳥肌及び怖気というものを誘発するんだ。よって、今後は控えてくれるとありがたいんだが」

「ほか?」

「ああ」


 わかった、とライが素直にうなずいてくれて助かった。


 昨日の気色悪い女にも散々キレイだのなんだのと言われたが、あのときは既に気色悪さが飽和状態で、そんなことを気にしている余裕はなかったのだ。


 それから少しして、ライが顔を上げないままぽつりとつぶやく。


「……もっと、違う名前にしとったらよかったなぁ」

「……ライ?」


 今度はまた一体なんだ、と見つめた先で、ライの肩が震えた気がした。


「どうせ、ほんまの名前やないんやからて、どうせ誰もワイに名前なんぞくれへんのやからて、そのまんま――嘘っこなんて名前に、せぇへんかったらよかった」


 ライ――lie.

 嘘、か。

 それは確かに、そのままだ。


「それで?」

「……え?」


 ライがぎこちなくこちらを見た。


「え、じゃねぇ。この流れだと普通は、おまえの本当の名前とやらをおれに言うもんなんじゃねぇのか?」


 思ったままを、何気なく口にして――遙はそのとき、本当にライが泣くんじゃないかと思った。

 その金色の瞳が、今にも濡れるのではないかと。


「……もう、ないんや」

「あ?」

「ワイが『ライ』になったときから、そん名前はもう、ワイのもんやなくなった」


 なんでやろ、と掠れた声で言う。


「もういらんて、思うた。ワイは好きでこない名前になったんと違う、好きでこないなふうになったんと違うて――せやから、こない名前なんぞもういらんて、そう思うて捨てた名前やったんに」


 ぎゅっと、何かに怯えるように体を強張らせる。


「ほんでも……あれだけが、ワイのほんまの名前やったんやって」


 それきり言葉を詰まらせたライに、遙は少し考え、ふむとうなずいて口を開く。


「――ライ」


 呼びかけると、ライの髪がかすかに揺れた。


「なんだかよくわからんが、要するに、今は『ライ』ってのがおまえの本当の名前ってことでいいんだな?」

「……へ?」


 思わず、というふうにぱっと顔を上げたライは、今度はひどく間の抜けた顔をしていた。

 自分が何を聞いたのかわからない、というように何度も瞬く。


「自称だろうがなんだろうが、ほかにないなら仕方ないだろう。それでも気になるなら、今からでも別の名前にしたらどう――」

「いややっ!」


 遙が言い終える前に、癇癪を起こした子どものように喚く。

 その様子がひどく情けなくて、頼りなくて――なんだか、こちらが悪いことをしたような気分になる。


「……いや、別に無理に改名しろとも言っとらんのだが」


 ぼそぼそと言った遙に、ライはこくんとうなずいた。


 ……なんだかいきなりライの精神年齢が下がったような気がするのは、気のせいだろうか。


 それからしばらくだんまりを決め込んでいたライに、コイツは眠ったりするんだろうかと素朴な疑問を覚えていると、不意に少し掠れた声が名を呼んだ。


「……遙」

「なんだ」


 まるで大人に叱られた小さな子どものように、頑なにこちらを見ないまま。


「ワイ……『ライ』のまんまでも、えぇよな……?」


 向けられた問いの意味が、遙にはよくわからなかった。


「あ? 好きにしろよ。そんなのはおまえの勝手だろ?」

「……ほやな」


 そのとき、俯いたままのライがどんな顔をしていたのかは、わからなかったけれど。


 ――泣いている、ような気がした。

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