真理
うふふ、と女の笑い声が響く。
――この神経にねばりつくような笑い声だけは、本当に、気持ちが悪い。
女の外見が若く、可憐と言ってもいい容貌をしているだけに、おぞましさが一層際立つ。
「そうやぁ? 恭二はんはうちのそばにいてくれはる。けど、こんなんじゃ足らへん。こん恭二はんは体だけ。うちは恭二はんの全部が欲しい」
まるで、調子外れの歌を歌うように。
「やって、お腹が空いてまうんやもの。眠うなるんやもの。けど、そんなんおかしい。恭二はんがいてへんのに、うちだけ生きとるなんて、そんなんおかしい。そやろ?」
首の折れた、「動く死体」に、愛しげに寄り添いながら。
「……けど恭二はんは、ほんまいけずや。うちだけ置いて、消えてもうた。体だけ元に戻したかて、魂がないんやったら意味がない。こん恭二はんはうちのことを守うてくれはるけど、笑うてくれへん。しゃべってもくれへん。そんなん、いやや」
子どものように、拗ねた口調で。
ほやから、と笑う。
「うちが、恭二はんを生んであげる。……やけど、あのクガミいうセンセが言うとったん。恭二はんのお骨や駄目やて。体の「さいぼう」がないと、恭二はんは作られへんて。ほやから、うちは恭二はんの体を作ったんや。恭二はんを、うちが生んであげるために」
(クガミ……って、まさか、陸海教授のことか?)
先日書き上げたレポートで、遙は無事彼から合格判定をいただいたばかりである。
――まさか、この女が言っているのは。
「ほやけど、あのセンセもいけずや。死んでもうた人間に会いたいゆう気持ちはわかる、けどそないなことを望んだらあかんて。あのセンセに、一体うちの何がわかるいうんや? うちは、恭二はんがおらんかったら生きていけへん。そんなん、いやや」
会いたい。
死んだ人間――恐らくは、恋人に。
どうしても、会いたい。
「なぁ……。ほやから、邪魔せんといて? うちは、こん恭二はんを使うて、あのセンセに恭二はんを作ってもらいたいだけなんや。それの何が悪い言うのん?」
(――丸ごと全部、潔いほどに一から百まで間違っとるわ、このアホ女ーっっ!!)
……と。
遙は内心で絶叫したつもりだったのだが、どうやらそのまましっかり口に出していたらしい。
そばにいるライたちだけでなく、それまでずっとふわふわと定まらない瞳をしていた女までが、驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
先ほどから続いている異常事態に、いい加減そろそろ気絶しちゃおうかな、と思っていたはずなのに、こうして自己主張を叫ぶことができるとは。
我ながら、ちょっと自画自賛したいところである。
どうやら舞子に鍛え上げられた遙の環境適応能力は、自分で思っていた以上に立派なものであったらしい。
(ふ……っ、ありがとう、母さん!)
やられっぱなしというのは、断じて性に合わない。
改めて母に感謝の気持ちを捧げたところで、遙はびしぃ! と女に人差し指を突きつけた。
「そのいち! 死んだ人間を、てめえの都合で弄ばない! ヒトとしての基本だこれは!」
続けて、中指も並べて立てる。
「そのに! 我が国では、人間へのクローン技術の適用は認められていません! そーゆーことがしたいんだったら、どこか別の国に行っておやんなさい! 真面目なニッポンの研究者に迷惑かけんな!」
目を丸くした女に手の甲を向け、中指だけを立ててみせるのは、さすがに思いとどまった。
それをしてしまったら、こっちが人間失格だ。
「最後におまけ! そうやってもし仮にアンタがその男のクローン体を生むことができたとしても、その子どもはその男とはまったく別個の人間です! 死んだ人間が帰ってくるなんてことはありえません! わかったら、そんな無意味なことをしようだなんて思うな、ばーかばーかばかあほまぬけ!」
――ちょっぴり余計なことまで言ったような気もするが、今まで散々気色の悪い思いをさせられた遙は、言いたいことを言って大分スッキリした気分になっていた。
ライが何やら生温かい視線をこちらに向けているが、今の遙の気分は文句があるならベ○サイユへいらっしゃい、である。
ふぅ、と息を吐いて手を下ろした遙に、わずかな沈黙のあと、ぼそりと女がつぶやいた。
「……嘘や」
「あ?」
「やって、恭二はんが言うてたもん。あのセンセは凄いて。おんなし動物を、ぎょうさん作る研究しとるて。――人間かて、動物やないの。なのになぁして、恭二はんは作れん言うのん?」
遙はふん、と腕を組んだ。
「アンタに生物学的な知識がゼロであると仮定した場合、おれの言うことが理解できるかどうかは甚だ疑問だが、できるだけわかりやすく説明してやる。感謝しろ」
ライがしみじみと息をつく。
「遙……。おまえ、キレると殿さまになるタイプやったんやな……」
遙は、きっとライを睨みつけた。
「そこはせめて、俺さまと言え。つうか邪魔すんな」
「堪忍やー」
素直なライに、遙はよしとうなずいた。
まだまだ勉強中というにもおこがましい学生の身分ではあるが、このアホ女には、その考え違い心得違いをきっちりきっぱり思い知らせてやらねば気がすまない。
「――いいか? 確かに、核を抜いた受精卵に既に存在している動物の遺伝子情報を組み込むことは、技術的には可能だ。けど、その膨大な数の情報が発現するタイミングや順番というのは、それを組み込まれた受精卵や、その受精卵を育てる子宮という外的要因に、もの凄く左右されるものなんだ」
過去の事例で、「死んだペットを再生します」というビジネスの中で誕生したクローン猫が、その元となった猫とは毛皮の柄が違っていた、などということがあるのはそのためである。
また、たとえ一卵性の双生児であっても、その指紋は必ず異なっているし、何より人間の個性や人格というものは、育つ環境によって大きく変化する。
遺伝子情報というのは、確かにその命を形成する根幹的なプログラムではあるのだろうが、決してそれだけで命のすべてが規定されるものではないのだ。
その命が生み出されたときと同じ状態の同じ母胎、同じ受精卵。そしてそれらを取り巻く同じ社会環境なんてものを作り出すなんて、たとえ神にだってできはしない。
だから、どんな手段を用いようと、今後どれほど技術が発展しようと。
死者が蘇る、なんてことは決してない。
この世にもし、誰にも揺るがすことができない真理というものがあるなら、それはきっとこんな形をしている。
――遙がクローン技術というものに対して、どうしても人間への適用を認められないと思うのは、この女のような人間が恐ろしいからだ。
まったく同じ命を作り出すことはできなくても、クローン体は確かにほぼ同じ形質、先天的な素質を持って生まれてくる。
けれど、そんなあらかじめ期待される姿や能力を、もし生まれてきた子どもが備えていなかったなら、一体どうなる。
そのとき、「期待はずれ」だと、「またやり直せばいい」と、その技術を使うことに慣れた者が思わずにいられるものだろうか。
そんなふうに――生まれる前からクリアすべき基準を設けられている子どもが、その基準をクリアできなかったという理由で「失敗作」扱いされてしまうことが、絶対にないと言えるのか。
……言えるわけが、ない。
人間は、そこまで強い生き物じゃない。
だから、遙は認められない。認めたくない。
いくら「できること」であっても、決してひとが踏み込んではいけない領域というものが、この世界にはあるのだと思う。
「だからもし仮に、死んだ人間と同じ遺伝子を組み込んだ受精卵をアンタの胎の中で育てたとしても、それはアンタの血肉が育てた、まったく新しい別の命だ。遺伝子がその人間のすべてを決めるなんてのは、ろくに現実ってものを見ようともしねえどっかの妄想力豊かなアホが作った、ただのバカバカしい幻想だ。……ひとの命ってのはな! アンタがその空っぽの頭で考えてるほど、簡単なもんでも、軽いもんでもねえんだよ!」
決して。
命とはこんな、愚かな女の戯言に弄ばれていいようなものではない。
たとえそれが、既に失われてしまったものであったとしても。
いまだこの世に存在しないものであっても。
遙の言葉を、じっと立ち尽くしたままぴくりともしない女は理解することができたのだろうか。
奇妙なまでの静けさの中響いたのは、掠れながらも静かに揺るぎない少年の声だった。
「あなたは……それを――その狂骨を、そんなことのために、作ったのか。なんの関係もない、何人もの命を……犠牲にして?」
くっと。
少年の、よく見れば美し過ぎるほど美しい顔に、その唇に、嘲る色が浮かぶ。
凄絶に――鮮やかに。
「……なんて、愚かなことを」
女が、ゆるりと瞬く。
「狂骨なんてものは……所詮ただの人形だ。その血も肉も、術者が造り上げた仮初めの器だ。その人形を動かしているのは、あなたの力だ。そこには命となり得るものなど、何もない。時がくればすぐに腐り落ちる、肉の塊でできた醜い人形。――その核となる骨を、一体どこで手に入れた? 愛しい男の墓を暴いたか?」
哀れだな、と少年は嗤った。
「あなたに、そんな愚かしいことのために利用されたひとたちが。そんな浅ましい姿に仕立て上げられた、その男が。……本当に、哀れだ」
最後はつぶやくように告げられた言葉に滲むのは、少年の胸の痛みか。それとも、死者への悼みだろうか。
女はしばらくの間じっと立ち尽くしていたが、不意にゆるりと男の折れた首に手を添えると、何ごとかを小さくつぶやいた。
(うげ……っ)
みしみしと音を立てて、奇妙にねじくれていた男の首が元に戻っていく。
まるで悪趣味なホラー映画のような光景に、思わず後退る。
あっという間に元の姿に戻った男に寄り添った女は、再び歪んだ笑みを唇に浮かべた。
「――ほんなら、しゃあないなぁ。……しゃあない。うちは、恭二はんがおってくれたらええんやもの。魂がのうても、それっくらい我慢せななぁ?」
その声の孕む狂気が、一層、深まった気がした。
「下がっとり、遙」
女の視線が再び遙に向く前に、すいとライが間に割って入る。
「おまえん言葉は、もう、この女には届かん」
「……ライ」
おまえ、と思わずつぶやく。
「いつから、半透明じゃなくなった?」
「って、そこかーい!?」
くわっと目を剥いて振り返ったライは、しかし本当に半透明ではなくなっていた。
これではまるで、本当に生きている人間のようではないか。
ほとんど無意識に伸ばした手が、ぽす、とその体にぶつかって止まる。
ライが困った顔をした。
「まぁ……詳しいことはあとで説明したるさかい、今は下がっとり」
「……うむ。よく考えたら、スカスカの半透明のままで、あの不気味ヤローに蹴りを入れられるわけがないな。うむうむ。よし、納得……って、できるかああああぁーっっ!!」
ライが驚いたように目を瞠る。
「おぉ、それが噂のノリツッコミとかゆうヤツやな!」
「心の底からどうでもいい!」
突然、なんの前触れもなく、バネ仕掛けの人形のように女の傍らから男が跳ねた。
真っ直ぐに遙に飛びかかってきた男の手が、あり得ない速度で眼前に迫る。
(……っ)
反射的に顔の前に腕を掲げる。
ライは、その手が遙に届く前にあっさりと男の腕を掴み取った。
まるでつまらない玩具を眺めるかのように醒めた目をすると、なんのためらいもなくそれを握りつぶす。いやな音が、した。
「――ゆうたやろ。そない汚い手ぇで、遙に触んな」
手首の骨を砕かれた男の手が、だらりと落ちる。
そのまま乱暴に投げ返され、再び床に落ちた男のそばにしゃがんだ女が、不満そうに眉を寄せる。
「なんなん……? なぁして邪魔するん? なぁ……そん子ぉ、うちにちょうだい? そん子ぉがおったら、うちはこの恭二はんが壊れてもうても、またなんぼでも作れるんやもの。なんぼでも」
「黙り。女」
「いやや、いやや。なぁ、ちょうだい。そん子ぉ、うちに、ちょうだい?」
ちょうだい、と。
まるで、無邪気な子どものわがままのように言う女の声が、その目が、自分に向けられるのが気持ち悪い。
いくらでも作ることができる、と。
喪われた恋人の形をなぞった人形を、壊れたならまた作ればいいと――そう言うのか。
ライ、とまだ浅く途切れがちな声で少年が呼ぶ。
「おまえ……遙さん、を、連れて……ここを、離れろ」
「なんやて?」
訝しげな顔をして振り返ったライに、少年は苦笑を浮かべた。
「おまえがそれを、破壊できないのは――遙さんに、そんなものを……見せたくない、から……だろう?」
ライが、わずかに眉を寄せる。
「行け。――それは、オレが破壊する」




