イタリアのマ○ドナルドは、お洒落です
(……なんだ?)
どくん、とふいに乱れた鼓動に、皓は修練で汗だくになっていた額を拭いながら首を傾げた。
どくん、どくん、と落ち着かなく走る鼓動に思わず胸に手を当てたものの、それはわずかな間のことだった。
すぐに元通りになった鼓動に、一体なんだったんだと首を捻りながら、鬱陶しく額に張りつく髪をざっと掻き上げる。
時刻は午後三時過ぎ。
無事一日のノルマを達成した皓は、軽くシャワーを浴びて汗を流した。
自室へ戻る途中、きれいに刈り込まれた植え込みを眺めて、ふと先日母から聞いた話を思い出す。
(……あきらさんと綾人さんが、結婚ねぇ?)
それは実にめでたいことなのだが、なんというかこう――
(うーん……。イメージ的に、婚約者同士っていうよりは、むしろお釈迦サマと孫悟空って感じだったような)
――少々失礼なことを考えてしまったが、まだ十五才の皓には、恋愛だの結婚だのというものの意味が、今ひとつよくわからない。
それでも、最も身近な「恋人同士」であるところの姉たちの様子と比べてみても、どうにも彼らの関係は淡泊というか、随分あっさり風味だったような気がするのだ。
とはいえ、幼い頃に「どうしてお母さんは、お父さんと結婚したの?」と素朴な疑問を母に投げかけた際、返ってきた答えは「なりゆき……かしら?」だったのだから、夫婦の形というのはきっと千差万別なのだろう。
そんなことを考えながら自室へ向かっていた皓は、廊下の反対側からやってきた人物の姿に目を瞠る。
「若狭さん? いつ戻られたんですか?」
父の最も近しい側近衆である西園寺と若狭は、幼い頃から皓をはじめ、子どもたちをびしばしにしごきまくってくれた恩師でもある。
そして、西園寺のモットーが「友情、努力、勝利! これぞ青春ってーヤツだな、はっはっは!」というものであるのに対し、若狭は「男は黙って背中で語れ」とでもいうのか、とにかく寡黙な人物だ。
あまりの寡黙っぷりに、幼い頃はやはり常にむっつりだんまりの側近候補、来生家の竜と親戚関係にあるものだとばかり思っていたのだが、実際はなんの血の繋がりもないらしい。
しかし、意思疎通の手段がいまだにほとんど「こっくり」か「ふるふる」だけである竜に比べれば、若狭は言葉を向ければきちんと返事が返ってくるだけわかりやすい。
今も以前と変わらず、彼の表情はそのままほとんど動かなかったが、穏やかな声でゆっくりと口を開く。
「十二分ほど前に、正門をくぐった。久し振りだな、皓」
「そうでしたか。お疲れさまです。……ヴァチカンは、どうでしたか?」
「相変わらずだ。――やはり、世界一の諜報組織の名は伊達ではないな」
ヴァチカン市国。
それは、教皇を頂点とするカトリックの総本山にして、世界中に存在する信徒たちから寄せられる情報がどこよりも早く確実に集められる、世界最高の諜報機関である。
彼らには大仰なハッキングシステムも、ちょっとした倉庫を丸ごと埋め尽くすようなスーパーコンピュータも必要ない。
そんなものよりもずっと汎用性も柔軟性も高い「人間」が、肌で感じた情報を常にリアルタイムで送ってくるのだ。その情報量と精度は、他の追随を許すものではない。
同時にヴァチカンは現在、質量ともに世界最高水準の祓魔師を擁する悪魔祓いの最高峰『ダンテ』本部が存在する場所でもある。
かつては『神聖騎士団』というかなり耳に痒い呼称だったらしいのだが、戦後その構成員の要望により改名された結果が、悪魔の饗宴を謳った堕天使文学『神曲』の作者名。……西洋人の感性というのは、やっぱりよくわからない。
そのヴァチカンに若狭が派遣されたのは、数ヶ月前――優衣がこの家に入った直後のことである。
「……姉さんの件で、何か?」
慎重に向けた問いには、あっさりと答えが返った。
「いや。そちらは特に心配するようなことはない。ヴァチカンも、李家の玉蘭殿の前例があるからな。そう無茶なことはしてこないだろう」
「そうですか……」
その言葉に、少なくとも近々に何か動きがあることはなさそうだと知り、ほっと息をつく。
しかし、李家の玉蘭から、彼女が“歌姫”の異能を顕現させた当時の騒ぎを聞いている皓は、心の底から安堵することはできなかった。
術者が力を発現させる際、その力の波動はさまざまな形を取って顕れる。
それは光の刃であったり膜であったり、ときには渦巻く流れであったりする。
――李家の“歌姫”のそれは、優美極まりない翼の姿となって見る者すべての心を震わせる。
だがその姿は、あまりにもヴァチカンが「御使い」、或いは「天使」と呼ぶものの造形によく似ていた。
ひとはどんな時代にあっても、常に崇拝の象徴を求めるもの。
数十年前、李家の玉蘭が“歌姫”としてはじめて公の場で力を見せたとき、ヴァチカン側はすぐさま彼女を彼らの“聖女”と認定する、よって今後は『ダンテ』のためにその力を示せ、と要請してきたのだという。
当時十六才だった玉蘭は、そのあまりに一方的かつ超絶上から目線、おまけに「逆らったらたかだか香港の小さな一門、どうなるかわかってんの? ん?」という雰囲気ばりばりのその要請を、当然ながら蹴っ飛ばした。
彼女は迎えにやってきた祓魔師を、素手でぼっこぼこにのしイカになるまで叩きのめして送り返してやったらしい。
……それでもいまだにしつこく同じ要請を続けているというのだから、ヴァチカン側の根性というのも相当立派なものである。
そのしつこいというより、かなりねちっこいというか、諦めの悪さにかけては天下一品のヴァチカンが、新たに“歌姫”となった優衣の存在を知ったらどう出てくるか。
今のところ、特に動きはないようだが――
「ところで、皓。おまえはイタリア人というものが、総じて美的センスに優れた人種だと思っているか?」
「は? ……ええまぁ、確かになんとなくそんなイメージを持ってはいますが」
突然、普段は滅多に世間話などしない若狭が口にした言葉に、戸惑いながら応じる。
ふぅ、と何やら切なげな溜息が返ってきた。
「俺も、以前はそう思っていたのだがな」
「……イタリアで、何かあったんですか?」
以前、イタリアの街中ではマク○ナルドのロゴマークは、あのアメリカンテイストばっちりの赤と黄色ではなく、どこぞの高級ブランドのような黒と金で表示されているんだぞ、と教えてくれた若狭は、ふっと何かを思い出すように視線を飛ばした。
「この間、ちょっとした所用で、イタリアのとあるドゥオモで人と待ち合わせをすることがあったんだが……」
「はぁ」
「そのときの俺が、それはもう『壮麗』としかいいようのない、総白大理石の素晴らしい建築美を再び堪能できることに、少々わくわくしていたと思ってくれ」
「……はい」
そういえば若狭は、西洋建築マニアが高じて今の役職に就いたのだった。
なんだろう。
その目が完全に据わっているのが、怖い。
「なのに、だ。――教皇がそのドゥオモを訪問したんだかなんだか知らんが、その壁一面に推定五十畳はありそうな、べったりと真っ赤なだけの背景を背負った教皇のポスターが、ばばーんと痛々しく貼られていてな」
「……!」
それは、なんという蛮行だろうか。
皓は心の底からおののいた。そのときのことを思い出したらしい若狭がのまとう空気が、一気に重く、かつ真っ黒になったので。
「……あ、赤はカトリックのイメージカラーですもんね?」
そのイメージカラーは、アメリカ大統領選挙の際、候補者のネクタイのカラーリングにも影響を与えるほどのものなのだ。
教皇のポスターがアメリカンマ○ドナルドなテイストになってしまうというのも、ある意味仕方のないことなのかもしれない。
だがしかし。
「そうだな。だがそのとき俺は、二度とイタリア人に対して『センスがいい』、もしくは『洒落ている』という表現を用いないことを心に決めた」
「はい。僕もです」
たったひとつの過ちが、国民全員の名誉を損ねることがあるのだと、ぜひともそのドゥオモの責任者には知ってもらいたいものである。
「それで今、アレックスが貴明のところに挨拶に行っていてな」
己の鬱屈を吐き出して幾分さっぱりしたのか、うむとうなずいた若狭が続けた言葉に、皓は思わず首を傾げた。
「誰ですって?」
若狭の知人には異国の人間が多いが、皓は今まで、そのアレックスなる人物に紹介されたことはない。
「だから、ヴァチカン所属の祓魔師がひとり、今貴明に挨拶に行っているところだ」
あまりにあっさりと告げられた若狭の言葉に、一瞬思考停止してしまった自分は、絶対に悪くないと思う。
「俺も少し話してみたが、それほど悪い男ではない。まだ若いがそれなりの役職に就いている、将来有望な祓魔師だそうだ。そういった立場の者を挨拶に寄越して筋を通したいというのは、やはり玉蘭殿の件で向こうも少しは学んだのだろうな」
「……っ一体なんのスジですか、若狭さん! そんな愉快な物体を、ホイホイ我が家に持ち込まないで下さい!」
当然の主張を叫んだ皓を、若狭は静かに見つめてきた。
「……皓」
「なんです!?」
きっと睨みつけると、若狭は厳かに口を開いた。
「世の中には、妥協だとか、譲歩だとかいう素晴らしい言葉がある」
「……だからなんです」
「今回ヴァチカンが言ってきたのは、佐倉家の代表に挨拶をしたいということだけだ。それを断る理由はこちらにはない。貴明も自分の胃袋ひとつで娘を守れるなら、それは本望というものだろう」
確かに、それはそうかもしれないが――
「そう心配することはない。世の中の子煩悩な父親というイキモノには、『お父さんスイッチ』というものが搭載されているのだと、以前西園寺が言っていたからな」
きっちりと真顔で言いきった若狭の姿に、皓はかつて自分たちをけちょんけちょんに叩きのめしては、「吐くのも気絶するのも道場の外にしろ。邪魔だ」と言ってくださった当時の幻影を見た。
貴明の望みを叶えるためならば、どんな犠牲も厭わない。
犠牲になるのが、たとえ本人の胃袋であろうとも。
それが若狭のスタンダードだと重々理解していたはずなのに、皓はまだまだ自分が甘かったと思い知らされ、「ふ……」とアンニュイな溜息をついた。
きっと今頃貴明は、呼んでもいないヴァチカンからの使者に対し、表面上は穏やかに取り繕いながらも腹の中では、「ウチの可愛い娘を、若い女性を見れば口説くのが礼儀だと教えられて育っているよーなイタリア男の巣窟なんぞにやるわけがないだろう、一昨日来やがれこのすっとこどっこい」と毒づいているに違いない。
(親って、大変だなぁ……)
しかしどれだけ大変なものであろうとも、ここは父にその務めをしっかり果たして、そんな異国からの使者はさっさと追い返してもらいたいものである。
「……まぁ、ヴァチカンの祓魔師が直々にこちらにやってきたのは、優衣の件だけが目的だったわけではないようだがな」
ココロの中で密かに父親の胃袋にエールを送っていた皓は、ぼそりとつぶやかれた若狭の言葉に顔を上げた。
「どういうことです?」
「俺も直に話を聞いたわけではないんだが……。なんでも、ヴァチカンが以前からマークしていた上級悪魔が、日本にやってきた痕跡があるらしい」
「上級……ですか」
悪魔の社会は、完全なる階級社会だ。
有する力の大小は関係がない。下位の悪魔は、上位の悪魔に絶対的に服従する。
その地にあるすべての中級以下の悪魔を支配する者。
それが、現在祓魔師の間で特に「堕天」と呼ばれる二十八体の上級悪魔である。
そういった「堕天」はすべてヴァチカン内部において最優先抹消対象として認定され、秘された名の代わりにそれぞれの特性に応じたコードネームを付けられているのだと聞いている。
「それでは、これから長崎の方に?」
若狭は外国組織に――特にヴァチカンに対する渉外を担当する部門の責任者だ。
彼らが日本国内でなんらかの活動をする際には、常にその動向を監視するのが彼の重要な仕事のひとつである。
彼らの活動地域のほとんどは、国内でもキリスト教徒の多い九州方面だ。
若狭は少し考えるようにしたあと、どうかなと首を傾げた。
「俺の方に入っている情報の限りでは、どうやら京都らしいんだが」
「京都……ですか?」
思わず目を瞠った皓に、若狭も珍しく迷うような顔を見せた。
京の都は、悪魔にとって決して誘惑の多い土地ではない。
出雲と並び、日本独自の神気の集う京都には毎年多くの外国人観光客が足繁く訪れるだけあって、中級以下の悪魔の出現情報ならば今までにも数多く報告されている。
だが、彼の地に上級悪魔が現れたという前例はなかったはずだ。
それがなぜ、と考えた皓は、そこで浮かび上がった可能性に、くっと眉を寄せた。
先日、明仁が大地を伴って京都を赴いたのは、三条家が強力な悪魔に襲撃された可能性が高いことから、どんな悪魔に対しても単独で対処しうるだけの力を持つ者を選んだ結果である。
しかし逆に言えば、「単独で使える」という基準で人選を行ったのは、京都に上級悪魔なんてものが現れる可能性を誰も想定していなかったからだ。
(まさか……いや)
じわりと、いやな予感が胸の奥を浸食する。
ヴァチカンが――『ダンテ』が動いたというなら、それはかなり確実性の高い情報によるもののはずだ。
……いくら「外敵」に対する備えが弱いとはいえ、これまで三条本家の結界は、絶対の不可侵を誇ってきた。
その強固な護りを簡単に突破することが、中級以下の悪魔に可能なものだろうか。
そんな判断をできるものは、現在この国には存在しない。
現役の術者で、上級悪魔と対峙したことのある者などいないのだから。
以前見た高野家先々代の記録に、とても中級悪魔とは思えないほど高い知性と能力を持つものを祓った際の記述があった。
それは、その配下にある眷属が下級悪魔だけでなかったなら、きっと祓うことなどできなかっただろうと思わせられるほど凄まじいものだった。
もし――今大地が京都で追っているものが、下級悪魔だけでなく、そんな中級悪魔さえ支配しうるものであったなら。
そこまで考えた皓が、無意識にぐっと奥歯を噛み締めたときだった。
(……っ!?)
突然辺りに響き渡った高い笛の音は、一族のすべてに最優先で非常事態を知らせる緊急発令コード。
痛いほどに張りつめた空気の中、ゆっくりと響いたのは祖父、明仁の低く抑えた声だった。
『……佐倉家当主の名において命じる。現在高野家後継、大地ほか一名が、何者かの襲撃により消息を絶っている。敵の正体は不明。よって、佐倉明緒。佐倉皓。並びに現在動けるすべての祓魔師は可及的速やかにこちらに向かえ。繰り返す。佐倉明緒。佐倉皓。並びに現在動けるすべての祓魔師は可及的速やかにこちらに向かえ。――尚、佐倉明緒、佐倉皓の両名に対しては、〈結界同調転移〉の使用を許可する』
ヒュッ、と。
喉が、鳴った。
(な……に、やってんだよ……!)
明仁が、ここまでなりふり構わず――今は「外」で暮らしている叔父にまで招集をかけることの意味に、目の前が暗くなる。
脳裏に浮かんだのは、京都に発つ前、じゃあなといつも通りに笑っていた大地の顔。
ちょっと行ってくる、と笑って。
帰ってきたら、妹の誕生日を盛大に祝うのだと、いつものように、笑っていた。
笑っていた、のに。
なのに、祖父は佐倉本家の者にのみ可能な、禁術すれすれの〈結界同調転移〉の許可まで出して、それほどまで。
「……皓!」
混乱し、今自分が何をすべきなのかさえ束の間見失いかけた皓の襟首を、がつ、と強い力が掴んだ。
瞬く。
この、声は。
「若狭……さん……?」
「落ち着け。――大丈夫だ。本当に大地に何かあったのなら、おまえにそれがわからないはずがないだろう?」
幼い頃から、何度もこの声に叱られた。
簡単に心を揺るがせるなと。
些細な気持ちの持ちようひとつで、手にする結果のすべてが変わることがあるのだと。
「……はい」
そうだ。わかる。わからないはずがない。
この心臓が、まだあいつは大丈夫だと言っている。
「皓」
「はい」
「大丈夫だな?」
「はい。――すみません。少し、取り乱しました」
よし、とうなずいた若狭の手が、離れる。
深呼吸。
「だったら、わかっているな」
「はい」
まだ冷たく痺れている指先を、ぐっと握り締める。
「さっさと行って、あのアホを余計な心配掛けんじゃねえってぶん殴って(こい)(きます)!!」




