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 パリの街並みは、数年前に暮らしはじめた当初から、とても魅惑的な場所だった。

 華やかなファッション。至るところに溢れる芸術。きちんと手入れされた毛並みのペットを連れた、おしゃれな人々が闊歩する公園では、画家の卵たちがいつでもキャンパスに向かっている。

 ただ、この国の近頃の問題点は、国民の若年層の多くが肥満になりつつあるということである、ということを証明するかのように、恰幅のよい人々も多い。こちらに来てから、自分の服も少々サイズが変わってしまったけれど、美食溢れるこの街では仕方のないことだと思う。

 多少――ほんの少しだけ丸みが増したせいで、ますます幼く見られることが増えたものの、手入れを欠かしたことのない髪と肌は、今でも自慢の艶やかさを保っている。


(どうせなら、もっと真っ黒の髪ならよかったのに……。まったく、誰に似たのかしら)


 祖国にいた頃は、少しクセのある自分の髪が、色を抜くまでもなく茶色がかっていることに不満を覚えたことはなかった。けれどこの国で過ごす中、母が持つ真っ直ぐな黒髪を褒めそやされるのを、何度も聞いた。

 面長で、ふっくらとした頬と一重の瞳、それに子どものように小さな唇で構成された自分の顔は、典型的な東洋系だ。これで髪も黒のストレートだったなら、この国ではもっとちやほやしてもらえただろうに、と思うと少し面白くない。


 父も母も艶やかな黒髪をしているというのに、どうして自分ばかりがこんな髪をしているのだろうか。子どもの頃は、誰もが美女と振り向く母によく似ていると言われていたのに、近頃ではそう言ってくれるひとも珍しくなった。大人になってもいまだに「可愛い系だね」と言われるばかりで、母のような優美さをあまり自分のものにできなかったことはわかっている。


 だが、たまには可愛いではなく、きれいだと言ってもらいたいのが乙女心というものである。髪を切ればきっと似合うのに、なんてことを言う友人も多いが、そんなことは断固拒否だ。自分の理想は、母のような大人のオンナなのだ。


(まぁ、いいわ)


 この街は、買い物をするには最高だ。欲しいと思うものが、これでもかというほど溢れている。この間買ったプラダのミュールも、夏のバカンスまで取っておくのがもったいないほど。

 今日の目的は、新しい室内楽の講師にアピールするために相応しい服を購入することだ。やはり、講師が好みのイケメンだとテンションが上がる。幸い、彼はこの国に多いゲイではないようなので、安心して狙いにいける。


 残念ながら、東洋人である自分は凹凸では欧米女性に敵うべくもない。だが、我ながら完璧に作り上げた楚々として儚げに見える風情は、彼女たちにはそうそう真似のできないものだ。あまり露出するのではなく、自分の魅力を完璧に引き出す色とデザインの服を求めて入ったのは、行きつけのブランドショップ。顔見知りの店員が、金払いの良い客に見せる営業スマイルを浮かべて、如才なく近づいてきた。

 そんな彼女たちを適当にあしらいながら、試着して気に入ったいくつかの商品とカードを預ける。


(……?)


 いつもならすぐに梱包した商品とともに、クレジット手続きに必要なサインを求めてくるはずの店員が、奇妙に表情を抑えた顔をして戻ってくる。何ごとかと問えば、カードが使用不能になっていると言われ、仰天した。


「そんなはずはないわ! まだ期限だって十分先のはず……」

「大変申し訳ありませんが、当店ではこちらのカードはお使いになれません。ほかのカードはお持ちではありませんか?」


 釈然としないものはあったが、カードはもう一枚持っている。それを押しつけ、返されたカードを睨みつけるが、やはり期限切れなわけもない。苛々と靴の爪先を踏み鳴らしていると、先ほどの店員が、今度ははっきりと表情を消した顔で戻ってきた。

 そして、まさかと思うとおりのことを口にする。


「申し訳ありませんが……」

「こっちのカードも使えなかったっていうの!?」

「あの、お客さま。カードをどちらかで磁石に触れさせたりはしませんでしたか?」


 慇懃な口調にむっとしつつ、差し出されたカードをひったくる。


「そんな覚えはないけど……。もう、二枚とも再発行しろっていうの? やんなっちゃう、気分が台なしだわ!」


 またのお越しを、と送り出す言葉さえ、厭味のように聞こえてくる。

 まったく、カードが使えないなど冗談ではない。店を出るなり携帯端末を取り出し、普段使っているカードの裏に記載してある番号を呼び出す。カードの再発行を依頼すると、型どおりの応答が返ってくる。

 早くしてちょうだいと思いながら、新しいカードが来るまでは、母親のカードを使わせてもらおうと思案する。だが、少しして聞こえてきたオペレーターの言葉は、まるで想定外のものだった。


『お待たせして申し訳ございません。お客さまがお持ちのカードは、二時間前に解約されておりますが……』

「は? 何言ってるの?」

『いえ、確かにそのように手続きが取られております。尚、お客さまがお持ちのもう一枚のカードも、同時に解約されています。解約手続きをなさったのは、タカアキ・サクラさまです』

「な――お父さまが!?」


 信じられない。

 昔から、滅多に会うことができない分だけ、父は思う存分自分を甘やかしてくれた。欲しいものも、留学の夢も、望めばすぐに叶えられた。


(どうして……?)


 今まで、どれだけ贅沢をしても咎められることなどなかったのに。ひょっとして先月、日本で買えばひとつ百万はするバッグをふたつ購入したのがいけなかったのだろうか。だからといって、いきなりカードを止めるなんてあんまりだ。少しは何か言われるかな、と思っていたけれど、どちらも素敵で選べなかったのだから仕方がないじゃないか。大体、日本で買うよりずっと安かったのだから、文句を言われる筋合いなんてない。


 フランスに来てからずっと、こちらの生活が楽しくて――それに、母を邪険に扱う父の親族連中を思い出すのがいやで、ずっと連絡していなかった父の携帯番号を呼び出す。何か説教してくるかもしれないけれど、こちらの生活様式も知らない父に、カードの重要性をきっちり言い聞かせてやらなければなるまい。

 そう思いながら、コール音を聞くこと数回。

 切り替わった音声は、父の携帯端末に繋がらないことを伝えてくる。何度かけ直そうと、それは同じだった。


「どうなってんのよ、もう!?」


 癇癪を起こし、近くのベンチに腰を降ろす。心底いやではあったが、背に腹は代えられない。一応登録しておいた父の屋敷の番号を呼び出すと、今度はすぐに繋がった。


『はい。こちらは佐倉家でございます。私は執事補の各務と申します』

「あたしよ! お父さまを呼んでちょうだい!」


 完璧な応対をする相手を苛立ちのままに怒鳴りつけると、わずかな沈黙が返る。


『――申し訳ございませんが、お名前とご用件を聞かせていただけますか』


 父のところで自分にこんな返事をするとは、新人なのだろうか。落ち着いた声に聞こえるが、もしかしたらまだ若いのかもしれない。


「あたしは、佐倉茜よ! お父さまは佐倉貴明! あなたの雇い主よ、わかったらさっさとお父さまを呼びなさい!」


 左様でございますか、と返った言葉は、あくまでも淡々としていた。


『先日、当家からそちらにうかがった弁護士が、薫子さまと茜さまに、いくつか書類にサインをいただきに上がったことはご記憶にございませんか?』

「は? ……ああ、お父さまとお母さまの離婚に必要だからって、なんだかいろいろ持ってきてたわね。それが何よ?」


 昔から顔見知りの弁護士で、この留学についての手続きも滞りなく済ませてくれた彼は、数カ国語に通じる佐倉家お抱えの人物だ。面倒な説明はいい、と示された箇所に母とふたり、事務的にサインして印鑑を捺したことは、まだ記憶に新しい。

 幼い頃から別居していた両親が、自分が二十二才になるのを待って離婚するという話は、昔から聞いていた。両親の仲はとうに壊れてしまっているけれど、自分が独り立ちすることのできる年まで親子関係が存続していた方が、いろいろと都合がいいからだということも知っている。


 母の実家は、父の家への体面から、表だって母と自分に援助することはできない。だが、ピアニストになる夢を叶えるにせよ、ほかの道を選ぶにせよ、有力な企業グループをいくつも牛耳っている佐倉家がバックについていれば何も問題はない。その期限である誕生日はすぐそこに迫っていたが、昔から父は離婚が成立しても今まで通りに援助してくれると言っていた。


 彼らがわざわざ面倒な手続きまでして不必要な離婚をするのは、あの家を継ぐことになっているいけすかない弟を婚外子にしないためだ。自分にはない才に溢れ、男のくせに腹立たしいほどきれいな顔をした弟は、父やその両親にも随分と可愛がられていて、ずっと気に入らなかった。

 あんな子どもが父の子であることも、自分の弟であることも認めたくなんてなかったけれど、母が父から見放される原因となった妹よりはまだましか、と思う。少なくともあの弟は今頃、連れて歩くにはもってこいの美少年になっているだろう。日本に帰ったら、手懐けて荷物持ちをさせるのもいいかもしれない。

 思考が脱線しかかったところに告げられた言葉は、少し意外なものだった。


『その際、随伴した当家の者が、少々失礼なことをしたとうかがっておりますが』

「失礼って……。あぁ、あれのことかしら? すれ違ったときに、あのひとのボタンにあたしの髪が絡まっちゃって。少し痛かったけど、謝ってもらったし、軽く叩かせてもらったから気にしてないわよ」


 女の髪を痛めたのだから、それくらいの報復は当然である。むしろ、寛大な自分に感謝してもらいたいものだ。


『はい。その際入手した茜さまの毛髪を検体として、貴明さまとの親子関係をDNA鑑定した結果、貴明さまと茜さまの親子関係は認められないとのことでした。それを受け、昨日貴明さまと薫子さまの離婚届が提出されました。同時に、茜さまの佐倉家からの除籍届も提出されております。よって、お二方は今後一切、佐倉家とは関わりなき者であると、佐倉家当主、明仁さまより一門すべてに通達が為されました』

「……は?」


 一体、何を――


『また、薫子さまと茜さまには、優衣さまへの接近禁止命令を取りつけております。おふたりが優衣さまの半径五十メートル以内に近づけば法的に処分されますので、その旨ご理解いただきますようお願い申し上げます』

「ちょ……待って、待ちなさいよ。あなた一体、何言ってるのよ!?」


 悲鳴じみた声を上げたせいで、周囲の人々が驚いたようにこちらを振り向く。そんなことに気づく余裕もなく、茜は更に声を張り上げた。


「ふざけたこと言ってないで、お父さまを出しなさい! あたしを誰だと思っているの!?」

『……久しいな。茜』


 金切り声で喚いたところに、突然懐かしい声が聞こえた。ほっと肩から力が抜ける。


「やだ、お父さま? 驚かせないで欲しいわ、悪ふざけにもほどがあるでしょ?」


 まったく、エイプリルフールでもあるまいに、いい年をして何を遊んでいるのだろうか。


「えぇと……そうだ! あのね、お父さま。先月は、ちょっと買い物しすぎちゃったかなぁとは思っていたのよ? けど、本当に素敵なバッグで、あたしどうしても……」

『茜』

(……え?)


 なんだ。

 今のは、父の声なのか。

 こんな声は知らない。

 こんな、背筋が寒くなるような声を出す父など知らない。


『先ほど、私の娘に関する報告書が、手元に届いた』

「え――」


 咄嗟に言葉を失ったのは、年頃の娘として、あまり父親には知られたくない秘密があるからだ。


『あぁ、おまえが日本にいたときから節操なく男と遊んでいたことは、既に聞き及んでいる。身持ちが悪いのは、母親譲りということか』


 どんな叱責より酷い言葉に、かっと頭に血が昇る。


「な……っそんな言い方はないでしょう!?」

『何がだ。単なる事実を述べたまで。――そんなくだらないことは、どうでもいい。おまえたちは……私の娘を、優衣を、ずっと虐待し続けていたのだな』

「は……?」


 何を言われたのか理解できず、思わず声を零す。


 父の声が、一層低くなる。


『惚ける気か? 優衣が幼い頃の姿を収めた写真が、今まさに私の目の前にあるのだがな。どれも痛ましいほどに痩せこけ、表情も何もなく、あからさまに顔を殴られた痕が残るものも一枚や二枚ではない。おまえたちの家にいた家政婦の証言も取ってある』


 父の声を、恐ろしいと感じたのは、はじめてだった。

 なんて、冷たい響きの。

 だけど。


「な……何よ……っ。だってあの子が、あんな子が生まれたから、お母さまは佐倉家から追い出されて、三条家からだって! あの子が全部悪いのよ! あんな子が生まれてこなければ、お母さまもあたしも、もっとお父さまたちに大事にされたのに!!」


 妹が父の子ではなかったせいで、母がどれだけ不遇を囲ったか。本来ならば母も自分も、佐倉の本邸で数多くの使用人たちに傅かれ、何不自由なく過ごせていたはずなのに。

 あんな小さな家で、家政婦がひとりきりのわびしい生活の中、諸悪の根源である子どもが多少憂さ晴らしの対象になったからといって、それが一体なんだというのか。


『私が、おまえたちを大切にしなければならない義務など、どこにもない』

「……え」

『私が生涯かけて守らなければならんのは、妻の凪子と息子の皓。――それに、たったひとりの娘である、優衣のみだ』


 何か、が。

 音を立ててひび割れ、崩れる。


『おまえたちが私に――佐倉家に対して行った欺瞞はどうでもいい。しかし、おまえたちは私たちから愛おしむべき娘を奪い、その娘を傷つけた。……私は生涯、己の愚かしさを呪うだろう。おまえも薫子も、生きていたければ二度と私たちの前に姿を現さないことだ』

「お……お父、さま……?」


 震える声での呼びかけは、無慈悲なまでにあっけなく切り捨てられる。


『おまえが私を、父と呼ぶな』

「お父さま! いやよ、どうしてそんなことを言うの!?」

『既に言った。おまえは、私の娘ではない。私の娘は優衣だけだと』


 いやだ。嘘だ。そんなことは、嘘に決まってる。

 だって、そんなことを認めたら。


『父と呼びたいならば、薫子にその男の名を聞くといい。薫子自身にも、わからぬのかも知れんが』


 嘲るでもなく、ただ淡々と告げられる言葉が冷たく響く。


『ではな。おまえも薫子も、今後一切、優衣に関わることは許さん』


 それきり断ち切られた声は、まるで知らない他人の色をしていた。

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