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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
祓魔の章

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学生の本分は勉強です

(――なんだ、これ)


 全身が、一瞬で総毛立つ。

 ほとんど無意識に影の中から使役を呼び出そうとした大地を押しとどめたのは、恐らく何かの術を仕掛けようと印を結んだ日向の姿。


「動くな、黒崎!!」

「……っ!」


 咄嗟に叫んだ大地の声に、日向がびくりと体を震わせて硬直する。


「……ええ子やなぁ。おまけに賢い」


 動けない。

 背後からするりと伸びてきた男の手が、大地の頬に軽く触れる。


(な……んだ、コイツ……っ)


 気配が、ない。

 その声ははっきりと耳に触れるのに、その手の感触さえ確かに感じられるのに、まるでこの場の空気に溶け込んでいるかのように、気配というものがまったく感じられない。

 ――なのに。


「あぁ……坊? わかっとるやろうけどぉ、こないなとこで、おまえの使い魔なんぞ出すんやないで? 折角苦労して調教したモン、目の前で潰されとうないやろ?」


 そこにあるのは、ただ圧倒的な力。

 ほんの少し気を抜くだけで、押し潰されてしまいそうなほどの――


 ぎり、と奥歯を噛んだとき、背後から溜息混じりの、どこか困ったような声が聞こえた。


「ワイのマスターなぁ。今テスト勉強が忙しいて、おまえらみたいなモンの相手しとる場合やないんやー」

「……は?」


 間の抜けた声を零した大地に、せやから、とやはり間の抜けた答えが返る。


「あいつなぁ、なんやえらい真面目なやっちゃねん。もうちょい人生ゆるーく考えてもええんやないか思うんやけど、あれも性分っちゅうもんやろうしな。こればっかりはしゃーないわ」


 さわさわさわ。


「ちゅーわけで、ワイもここでおまえらとやり合うつもりはあらへんねん。おとなしゅう帰ってくれるんやったら、こっちゃも助かるんやけどな?」


 ぽんぽんぽん。


「……そういう、ことを」

「ん? なんや?」


 その瞬間、大地は生まれてはじめて、自分の中のナニかがぶっちりとキレる音を聞いた。

「ひとの顔やら体やらを、べたべた触りながら、言ってくれてんじゃ、ねえええぇーっ!!」


 思いきり反動をつけて繰り出した大地の後頭部を、まともに鼻っ柱に食らった「ソレ」が、ごふうっとよろめいて離れていく。


 先ほどまでとは別の意味で全身に鳥肌を立てながら振り返った大地は、さぁ踏んでやる、と思いながら振り上げた足の向かうべき場所に何もないことに気づいた。


 きっと中空に視線を上げると、咄嗟に距離を取ったらしい「ソレ」が、ふよふよと浮いたまま痛そうに片手で顔を抑えている。


「あたたー……。いきなりなんやねん、鼻血でも出たらどないしてくれるつもりやー」

「黙れ変態」


 冷ややかに言ってやると、くわっと目を剥く。


「変態ちゃうわ! ワイにはちゃーんと、ライっちゅー名前があるんやで!」

「初対面のガキを無断で触りまくるような変態を、名前で呼ぶような礼儀なんぞ持ち合わせとらんわ」


 ライと名乗った異形は、心底無念そうに顔をしかめる。


「しゃーないやん、ワイは昔っから、可愛らしいモンを撫で撫ですんのに憧れとったんやー。ホラ、こない体じゃあ、仔犬やら仔猫やら触ろ思てもかなんやろー? ……あぁ、ようやっと触っても壊れへんぬくぬくしたモンに出会えた思たのに、中身がこないいけずやなんて。やっぱりこの国には神も仏もないねんなー」


 ぶつぶつとわけのわからないことをぼやいているライに、大地はふと眉を寄せる。


「おまえ……一体、なんだ?」


 ライは目を丸くした。


「は? 今ゆうたやんけ。ライや」


 いやそういうことではなく、と思った大地だったが、見れば見るほどこのライというのは、さっぱり正体がわからない。


 気配がないのは――恐らくそのマスターとやらが、このキャンパスを神域レベルにまで浄化している能力者だからだろう。

 契約により、その人物とライ自身が同調していることで、完全に気配を感じられなくなっているのだ。


 やけに派手派手しい外見ではあるが、完全な人型をしていて、そこから本性を読み取ることはできない。

 強いて言うなら、通常の人間にはあり得ない金色の瞳をしてはいるが、これは夜行性の獣には珍しくもない特徴である。


 おまけにやることなすこと、やけに人間くさい。というか、変態くさい。

 どうやら随分と長い時間『生きて』いるモノのようだが、だからといって性質が向上しているわけではないらしい。


(はぁ……)


 なんだか、どっと疲れた。

 だがしかし、これは向こうから目的の術者への手掛かりが「おこしやす」と転がり込んできてくれたようなものだ。


 大地はなんともいえない顔をしている日向を振り返り、軽く頭を下げる。


「先ほどは失礼しました」

「いえ……。こちらこそ、勝手な真似をして申し訳ありません」


 ライがひょいと首を傾げる。


「なんやーおまえら。エライ他人行儀やなぁ、ちゃあんと仲ようせなあかんでー」

「やかましい」


 得体の知れない物体Xに、人の道を諭されるいわれはない。

 大地はライを睨みつけ、すぅ、と息を吸った。


「『〈縛〉』」

「へ? なんやぁ?」


 大地の放った言霊に応じて、宙に浮いているライの体が、瞬時に目には見えない力で拘束される。


(……は?)


 そうしてかなり予想外なことに、後ろ手に固められた格好のライが、そのままぼたっと地面に落ちる。


 大地は、目を丸くした。

 ちょっとした牽制のつもりで放った基礎術式が、まさか通用するとは。


「おまえ……。少しは抵抗するとか、逃げるとかしないのか?」


 あまりの呆気なさに、戸惑う。

 巨大な芋虫よろしく地面に転がったライが、うごうごともがきながら情けなく眉を下げる。


「ワイかて、好きでこないなっとるわけやないわいー」

「さっきは、あれだけオレらをビビらせてくれたじゃねぇかよ」


 ライは拗ねたように唇を尖らせた。


「喧嘩は、最初のハッタリが肝心やんかー」

「……そりゃーそうだな」


 しかし、あのとき感じた恐ろしいほどの力は、断じて大地の気のせいなどではない。

 それだけの凄まじい力をライが持っていることは、間違いない――はずなのだが。


(力があるのに、使えない? そんなことがあるもんなのか?)


 大地が首を捻っている間に、ライはうごうごとがんばって、芋虫からよいせと胡座を掻いた人型に復活した。

 なんだか、とっても誇らしげである。


 そうして、一度「ふっ」とカッコつけるようにしたライは、おもむろに口を開いた。


「あんなぁ、坊。ワイは今まで、温泉っちゅーもんに行ったことはあらへん」

「……あ?」


 真面目な顔で、またなんだかおかしなことを言いだした。

 ライは、むぅと眉を寄せながら先を続けた。


「せやけど、ワイは今のマスターがホンマに気に入っとんねん。多分、ニッポンジンが温泉っちゅーもんを気に入っとるのと、おんなしくらいにや」

「……ほほう」


 それならば、かなりのものである。


「ほやから! マスターの機嫌が悪なるんはかなんねん! おまえらが何しにきゆうたかは知らんけどぉ、そういうんはせめて、マスターのテスト期間が終わってからにしてえな!」


 もの凄く切実、かつこれだけは譲れん! とばかりにきっぱりと繰り出されたのは、あまりにもまっとうな青年の主張であった。

 大地と日向は進退窮まって、顔を見合わせる。


「まぁ……。真面目に勉学に励んでいらっしゃる学生さんの邪魔をするというのは、確かに問題ですよね」

「それはそうですが。もし田島沙織が、この異形のマスターを利用しているのだとしたら――」


 言いさした日向の言葉に、ライの不思議そうな声が被さる。


「なんやー、おまえら。ワイのマスターに、しょーもないことやらせよ思うて来たんとちゃうんか?」

「しょうもないこと?」


 ライは軽く肩を竦めた。


「そらー、アイツん力がありゃあ、どないえげつないやり方で人間殺そが何しようが、やりたい放題やもんなぁ。ホンマ、ようあの年までなーんも知らんと無事に生きてこられたもんや」


 思わず眉を寄せた大地に、ライはしみじみと続ける。


「まーなぁ、あれっくらいの力があったら、そんじょそこらのモンじゃあアイツに近寄っただけで消えてまうんやろうけど。うはは、今度から歩く水洗便所呼んでやろ」


 一瞬の沈黙ののち、大地はくわっと口を開いた。


「なんっで水洗便所だよ! そこは普通、空気清浄機だろ!?」

「お、なかなかのナイスツッコミやな! おまえ、東のモンのくせに見どころあるで!」


 偉そうにうなずくライのボケっぷりを、日向はとりあえず無視することにしたらしい。そっと声をかけてくる。


「大地くん……。今は、そういうことをやっている場合では」

「う。……すいません黒崎さん」


 だが、ここはライの言う通りだ。

 これほどまでに問答無用で周囲を浄化してしまう異能が、もし外法を扱う術者に利用されるようなことになったら――


(……考えたくもねえな)


 それはどんな逆凪も穢れも恐れることなく、呪詛と呼ばれるあらゆる術式を行使できるということ。


 ほかのどんな系統の術者よりも、単独で確実な清めを行うことのできる術者の身が狙われやすいのはそのためだ。


 かつて李家の“歌姫”の力を持つ優衣が攫われたのも、恐らくはその『祝福』ばかりが目的ではなかったのだろう。


 それは、どんなゲームでも簡単に状況をひっくり返すことのできるクイーン。

 否、使い方次第では最凶のジョーカーともなりうる力。


「やりたい放題、か。……確かにな」


 つぶやいた大地に、相変わらずけろりとした声でライが応じる。


「ほやから、そないなことはワイがさせへんて。気に入っとるゆうたやろ? アイツにそないしょーもないことさせよいうヤツがおったら、ワイがきっちりぷっちり丁寧に心込めて潰したるわ」

「……今現在、オレの子どもだましの基礎術式にとっ捕まってるヤツが、何を偉そうに言ってやがる」


 呆れて半目になった大地に、ライはあっさりと答えた。


「そら坊、おまえがワイのマスターに敵意がないからやって」

「あ?」

「そうやなかったら、こんワイがおまえの術なんぞにとっ捕まるかいな。あんまり舐めたらアカンでー!」


 ライは、えっへんと胸を張った。

 ……それはもしかしなくても今のライが、そのマスターに危害を加えようとする者以外に対しては、なんの力も行使することができない、ということなのだろうか。


(なに、コイツ)


 まじまじとライを見つめた大地は、そのとき心に浮かんだ言葉を、そのままつるっと口にした。


「おまえ……アホか?」

「なんでやねん!」


 タイミングといい、発声といい、それは見事な「なんでやねん!」であった。

 その上半身を拘束していなければ、さぞ素晴らしい裏手ツッコミを披露してくれたに違いない。

 大地は首を傾げる。


「なんでって……。そんな制約を自分に掛けたりして、こうしてオレに捕まってる間に、どっかの誰かがおまえのマスターに何か仕掛けたらどうする気だ?」


 当然の疑問に、ライはむしろ誇らしげに笑う。


「うはは、そら杞憂てもんや。――あ、『杞憂』てこないだ覚えたばっかなんやけどぉ、使い方間違うとらんよな?」

「……おう」


 どうして外国産のライが関西弁なのかはちょっと気になるが、『杞憂』という単語を正しく使うことができるとは、なかなか天晴れな異形である。

 素直に感心していると、ライはよっしゃ、機嫌よく先を続けた。


「なんせワイとアイツは立派な契約を交わしとる! つまり一心同体なんやー。こうしとっても、アイツになんぞ敵意を持つモンが近づいたら、すーぐわかるんやで!」


 それは確かにそうかもしれないが――だからといって、ライが自分の力に制約を掛ける理由にはなっていない。

 なぜこの騒々しい異形は、そんなリスクが増えるばかりの面倒なことをしているのだろう。


「――大地くん。よく考えてみたら、田島沙織はそのマスターという人物とはなんの関わりもないかもしれません」

「なぜです?」


 日向が静かな声で、ゆっくりと推測を口にする。


「確信はありませんが……。もし彼女が最初から、これほどの清めを行える術者を利用していたのなら、そもそも逆凪によって人が大勢死ぬような事態は起きていなかったのではないかと」


 大地は軽く眉を寄せた。


「……これほど愚かなことをするような術者ですよ?」


 術式を行使する際に、なんらかのミスがあったことも否定できないのではないか。

 その可能性を指摘した大地に、日向は首を振った。


「『身代わり人形』の術式は、些細なミスも許されません。どんな小さな瑕疵があっても、その逆凪のすべては術者本人に向かいます。田島沙織は確かに愚かなことをしましたが、術に関してはかなりの実力を持っていると判断していいでしょう」

「そう、ですね……」


 田島沙織がなんの術を使ったかはわからないが、少なくとも彼女は複数の人間の命を犠牲にするほど危険な術を成功させた。


 そして『身代わり人形』という防御手段も、同時に間違いなく機能している。


 確かにそれほどのことをできる術者であれば、この清めの異能を利用する気なら、もっと確実にできただろう。


 なんにせよ、大地が今まで感じていたいくつかの疑問は、ライのマスターとなっている無自覚の術者の存在に帰結するわけだが――結局のところ、まったくなんの解決にもなっていない。


(かといって、このままそのマスターとやらに突撃して、それをコイツが『マスターへの敵意』判定したら、また面倒くさいことになりそうだしなぁ)


 さてこれからどうしたものか、と大地が腕組みをしたときだった。


(え?)


 ぱきん、と小さく乾いた音がして、ライを捉えていた大地の術が砕け散る。


「……ダボが」


 膨大な、光の竜巻。

 なんの前触れもなく、唐突に吹き荒れた凄まじい力の渦。


 あまりの圧迫感に咄嗟に目を眇めた大地は、ゆらりと立ち上がったライが、その唇に凄絶な笑みを閃かせるのを見た。

 愉しげに――恐ろしげに。


 ゆるりと、それが開いて。

 言葉、が。


「悪いなぁ、坊」


(な……)


 白い――男の手。

 いつの間にか目の前に現れたそれが、妙にゆっくりと視界を遮る。


「これも運が悪かった思うて、諦めてや」


(……来るな、皓)


 ――それきり、大地の意識は闇に堕ちた。

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