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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
祓魔の章

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半透明の居候

 女というのは、実にワケのわからないイキモノである。


 それが、物心ついたときから皆城遙が認識しているこの世の真実であった。


 それは別に、遙が幼い頃から早熟で、幼稚園の可愛らしい既婚職員にぽーっとしては自爆する級友たちに「ふっ……愚かな」と憐れみの目を向けていたからではない。


 クラスを仕切る系の女子たちに標準搭載されている、相手によって顔のウラオモテを見事に使い分けるスキルの恐ろしさを、何度も目の当たりにしたからでもない。


「ちょっと遙! アンタこんな夜遅くまで、お風呂にも入らないで何をダラダラしてるの!?」


 遙はそのとき、大学で出されたレポートを完成させるべく、自宅二階の自室でラップトップに向かっているところだった。


 時計を見れば、夜の十一時過ぎ。


 ちなみに遙は、義務教育を終えてからこっち、親から入浴時間についてとやかく言われたことはない。


(はぁ……)


 感情的になった女性には、どんな正論も無駄である。


 よって、突然ずだだだだ、と階下から駆け上ってきた母親が、やはりなんの前触れもなく、ばーん! と扉を開くなりもの凄い剣幕で意味不明なことを言い出したときも、遙は慌てず騒がずメタルフレームの眼鏡を軽く押し上げ、ゆっくりと彼女に向き直った。


「……母さん」

「何よ!?」

「何かあった?」


 キレた女性には、まずは言いたいことを言わせてやるべし。


「だって、ピンカートンが酷いんだもの!」


 残念ながら、彼女が何が言いたいのかまるでわからなかった。


「……は?」


 今夜の母が憤然と口にした言葉は、常日頃からその言動に慣れているはずの遙にとっても意味不明に過ぎた。


 一体それはどこの外国人? と首を傾げた遙に、母は「むきー!」とでも言いたげに拳を固めると、なんの迷いも見せずに、言った。


「今、テレビで『蝶々夫人』をやってたの! ピンカートンのアホたんちんときたら、蝶々夫人と子どもまで作っておきながら、アメリカで別の女と結婚した上に「ゴメン」の一言もなしに捨てたのよ!? 遙は酷いと思わないの!?」


 ……ここで、忙しい大学生のレポート作成を、そんなオペラという架空の物語の登場人物に対する憤りのままに邪魔してくれるアナタの方が、よっぽどヒドくはないでしょうか――などと思っていては、このひとの子どもなんてものはやっていられない。


(感情移入が激しすぎなんだよなぁ……。もういいトシなんだから、少しは落ち着いてくれればいいのに)


 母の舞子は、普段はひとり息子の遙に対してもむしろ放任主義である。


 彼女は、遙が義務教育の間は完璧なまでのソトヅラのよさでPTAの役員をしてみたり、いろいろな趣味に手を出してはママ友の輪をびっくりするような早さで広げてみたりと、世間一般的には恐らく「いい母親」と評されてもおかしくないのだろう。


 だが彼女は非常に残念なことに、感情の起伏スイッチというものが、どうも他人様とは違う場所に装着されているらしいのだ。


 人生で真っ先に接した女性であるところの母親がそんなヒトであったため、遙は前述のようなこの世の真実を、周囲の子どもたちよりも早く認識するに至った。


 そのお陰で、というのもなんだが、今となっては周囲の女性陣がどんなに不思議な言動をしたところでそう驚くこともなくなっている。


 結果として、周囲からは概ね「皆城くんって落ち着いてるよね」というありがたい評価をいただいているのだが――それはただ単に慣れの問題である、としみじみ思う今日この頃。


 はぁ、と再び溜息をついた遙は、いまだにぷりぷりとお怒り中の舞子に対し、殊更ゆっくりと静かに口を開いた。


「――母さん。過去三分間の自分の言動を顧みて、何もおかしいと思わないというのであれば、おれは今すぐ、精神科のドアを叩くことを進言する」


 少しの沈黙ののち、舞子はふいっと目を逸らした。


「……本当にこの頃、言うことが可愛くなくなったわね」


 遙かはうむ、とうなずいた。


「その原因は、百パーセント母さんだと思うから安心してくれ」

「明日の晩は、ビーフシチューよ」

「そう。あぁ、一応言っておくけど、肉はケチらないように」


 わかったわよ、と拗ねたように口を尖らせる舞子の得意技は、「都合が悪くなったら、相手の好物を作ってごまかしちゃえ」である。


 料理の腕前がプロ並だからこそ許される、卑怯技だ。


 彼女の作り上げる「和牛すね肉を圧力鍋でじっくり煮込んだスペシャルビーフシチュー」よりも美味いシチューに遭遇したことのない父と遙は、その技を繰り出された場合、大抵のことは不問に処すことにしていた。


 実際のところ、彼女がこんな素っ頓狂な言動をするのは家族の前だけらしいので、そこは一応安心している。


「あんまり無理しないで、早めに寝るのよ?」

「わかってる」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」


 先ほどとは打って変わって、舞子が静かに扉を閉めて去っていくと、その場にククッと楽しげな笑い声が響いた。


「おまえのハハオヤちゅうんは、相っ変わらずおもろいオナゴやなぁ」

「……アレを面白いですませられるのは、おまえが赤の他人だからだ」


 憮然として言い返した遙に、尚もくっくっとしつこく笑っているモノがいる。


 それは金髪金目の、石膏で型を取って大英博物館にでも送りつけたら間違いなくそこの芸術的な収蔵物となりそうな、かなり現実離れしたレベルの美青年であった。


 現実離れしているのも、当然といえば当然だろうか。


 何しろ初対面で「あんさん、エライ気に入ったわ。これからひとつよろしゅうなぁ」と胡散くさい関西弁で言ってくれたこの外国人は、まるで気の抜けた風船のように中途半端な高さでふよふよと浮いている上に、半ば透けているのである。


 生まれてはじめてユーレイ、しかも外国産という不思議に遭遇した遙は、そういった場合の常套手段として、とりあえず無視をすることにした。


 だが残念ながら、「ワイのことはライって呼んでぇな」と言いながらしつこくまとわりついてくるユーレイを追い払うスキルを持ち合わせてはいない。


 そうしていつの間にか、ライがこうして話しかけてくることにも慣れてしまった。


 この辺りの適応能力の高さも、幼い頃から舞子の不可思議な言動に慣れ親しんでいたお陰と、もしかしたら言えないこともないかもしれない。


 遙は、いい加減にその鬱陶しい笑いをやめてくれないだろうかと思いながら、ライを軽く睨みつけた。


「大体、以前から気になっていたんだが。どうしておまえは、そんな微妙な関西弁なんだ」


 こちらの言葉には常日頃から慣れている遙だが、この得体の知れない外国産ユーレイの話す言葉は、どこの言葉なのだかいまいちよくわからない。


 京言葉にしては若干きつめだし、大阪弁にしては当たりが柔らかく、かといって奈良言葉というにはクセが違う。


 そう言うと、ライはむっとしたように眉を寄せた。


「微妙てなんやねん。ワイはむかーし昔にこん国にきたときぃ、周りのモンが喋っとるのを聞いとうだけで言葉を覚えたんやで? むしろ褒め称えんかい。ちゅーか、おまえこそなんやねん。こん土地に暮らしよりながら、けったくそ悪い東言葉なんぞ喋りよってからに。ご先祖さまに申し訳ない思わんのかいっ」


 空中で行儀悪く胡座を掻きながら、まるで自分が生粋の関西人のようなことを言う。


 遙は「んなもん知るか」と顔をしかめた。


「そんなことはオヤジに言え。確かにウチは、先祖代々京都府民だったらしいがな。おれがガキの頃に東京に転勤になったとき、『単身赴任はイヤだい』と駄々をこねた上に、家族総出で向こうに引っ越すことを決めたのはオヤジであって、おれじゃない」


 外資系の会社勤めの父は、元々標準語と京言葉を完全に使い分けられるひとであったようだ。


 母も東京行きが決まった際、「ママ友の輪で浮かないために必死だったんだから」という理由で流暢な標準語をマスターしている。


 そのため、東京で彼らに育てられた遙が現在身につけているのは標準語がメインだ。


 遙は高校二年までは東京の大学に進学を希望していたのだが、受験の年に京都に戻ることになった父が、「大学に進学するなら京都以外は認めん!」などと言い出した。


 その子煩悩っぷり(単に子離れしていないだけともいう)に少々頭が痛くなったものの、奨学金の返済やらアルバイトやらに追われてかつかつの学生生活を送るくらいなら、それまで打ち立てていた人生プランを少々修正する方がずっとマシである。


 そんなこんなで今年の春、無事志望通りの大学に進学した遙は、概ね恵まれた人生を送っていると思っていた。


 ……数日前、とある公園でこの外国人ユーレイに取り憑かれるなどという、愉快すぎるオプションがひっついてくるまでは。


 本当にどうしてあのとき、見事に色づいた紅葉に誘われて、ふらふらと小さな公園に立ち寄ったりしてしまったのだろうか。


 そんなことをしていなければ、今頃こんなモノの相手をすることもなく、以前と変わらぬごく平凡なキャンパスライフを続けることができていたのだろうに。


 まったく、後悔先に立たずとはこのことだ。


 本当に心の底から残念なことに、この外国産のユーレイは、まるで空気を読むことがないのである。


 遙の行くところには常にひっついてきては、目にするすべてにアレはなんだ、コレはなんだと絶えず声をかけてくるため、このところサークルの方にもろくに顔を出せずにいる。


 そんなライの姿も声も、遙以外の人間には認識することができないらしいのが、救いといえば救いだろうか。


 何しろライの外見というのは、目に入るだけで鬱陶しいと感じてしまうほど派手なのだ。


 身につけているものはごく普通の開襟シャツとチノパンなのだが、そのきんきらきんの髪とギリシャ彫刻のような顔立ちのせいだけでなく、とにかく持っている雰囲気が派手! なのである。


 どんな美人も三日で飽きるという格言通り、遙は三時間でその鬱陶しさに慣れた。


 だが、もしこんなものが誰の目にも見える状態だったなら、一体どんな騒ぎになるものか――想像したくもない。


「……いやいや、遙。フツーは半透明の人間が浮いとうだけで、大騒ぎになるもんやと思うで?」


 ライがぱたぱたと手を振りながら、呆れたように言う。


「他人事みたいに、そこだけ常識人のようなツッコミをするな」


 むっとして睨みつけると、ライはなぜか胸を張った。


「西に生きるモンが、ツッコミを忘れて生きてられるかいー!」

「ユーレイのくせに何を言う」


 ライはぱっと顔を輝かせた。


「ナイスツッコミや! さすがワイの見込んだ男なだけあるわ! そないおまえに、えぇこと教えたる。ワイがおまえにしか見えへんのはな、ワイとおまえの相性がそんだけバッチリやからなんやで!」

「……あっそう」


 空中で胡座をかいたままふんぞり返るという実に器用なことをしたライは、何やら偉そうにうんうんとうなずいている。


 だが、こんな役立たずで鬱陶しいばかりのユーレイと相性がバッチリだと聞いて、喜びを感じる人間がいるだろうか。いてもいやだが。


「ワイもなぁ。そらもう長ーいこと、あちこちふらふらしてってんけどぉ。おまえほど美味そな人間なんぞ、二百年くらい前にいっぺん見たっきりや」


 もの凄くしみじみと、まるでそれが素晴らしいことのように言う。


 遙は思わず半目になってライを見遣った。


「半透明の分際で、ひとを食う気か?」

「食うわけないやろ? もったいない。ワイはそういうんはもう飽き飽きなんやー」


 ……飽きたのか。


 その辺は深く突き詰めると、なんだかアレな結論に至りそうな気がするので、聞かなかったことにする。


 だが、飽きたというからには、この世への未練なんぞは既にないはずである。


 遙はぺっと手を振った。


「だったらとっとと成仏しやがれ、半透明」

「そらー無理や! ワイ、仏教徒やないもーん」


 へへーん、と悪戯小僧のように笑ってみせたライを触れるものなら、一度この手で思いきりしばき倒してやりたい、と心底思う。


 密かにぐっと拳を握った遙を知ってか知らずか、ライはふと表情を改めた。


「そらワイかてな、こないなーんもおもろいこともできひん自分に嫌気がさしてぇ、ここいらやったら少しはゆっくりできるかいなー思うて来てみたんやで?」

「そうか、温泉なら湯布院か箱根の方が有名だぞ」


 遙の親切な助言に、ライはむぅ、と唇をとがらせた。


「誰が湯治に来たゆうねん。ワイみたいなんがぼーとできるゆうたら、ここぉみたいな土地が一番なんや。おまえに会う前、コイツならえぇかー思うて挨拶しよとした相手には、なんや問答無用で叩き出されてもうたしなぁ。ほんま、おまえに会えてよかったわ。おまえんそばにおったら、余計なモンが近寄ってきいひんさかいな」

「……どこのどいつだ?」

「はん?」


 途端に据わった声になった遙に、金色の瞳が丸くなる。


「その、おまえを叩き出したというのは、どちらにいらっしゃるどちらさまだ?」

「……なんやねんいきなり、気色悪いわぁ」

「教えろ、今すぐ教えろ。そしておれはそのすんばらしいお方に会って、おまえの叩き出し方を教えてもらうんだ」


 遙の切実な願いを、ライはあっさりと笑い飛ばした。


「はっはっは、そらー無理やな! ソイツはいかにもよーさん金持っとるよなおっちゃんやった。おまえがなんぼ金積んだかて雀の涙、一昨日来いゆうて追い返されるんがオチやー」

「く……っ」


 地獄の沙汰も金次第。


 現在、ファミレスの時給八百円也のバイト代で月々の小遣いを捻り出している遙には、残念ながらこんなことに無駄金を遣う余裕はない。


 苦悩する遙をどう思ったのか、ライがへらへらと笑いながら軽く手を振った。ムカつく。


「まぁまぁ、そない邪険にしなぁて。世の中ギブアンドテイクやーゆうやろ?」

「おまえが今まで、何かおれの役に立ったことがひとつでもあるというなら言ってみろ」

「おまえは知らんでもええこっちゃ」


 またしても偉そうにふんぞり返る。遙は深く溜息をついた。


「……おまえのよーな半透明に、何かを期待したおれがばかだった」


 もはや何も言うまい。再びラップトップに向き直る。


 とにかく、このけったいな外国産ユーレイを追い出す手段を有する人物が、この京都のどこかにいることがわかっただけでも大進歩だ。


 遙はライに取り憑かれてからというもの、ヒマさえあれば厄落としで有名な寺だの神社だのをあちこち訪れていた。


 しかし、一向に効き目がないどころか、「ニッポンの神さんって、随分ようさんおるんやなぁ」と感心しながら、鳥居の上で命! のポーズを決めるような罰当たりなユーレイを目の当たりにして、もうすっかり諦めモードに入っていたのである。


 だがしかし。


(ふ……っ人間、何ごともたった十や二十の失敗で諦めてはイカンということだな!)


 希望はある。

 たとえその姿が、今は影も形も見えずとも。


 そんなふうに己の人生を前向きに考えはじめた遙の背後から、ひょいと液晶画面を覗き込んできたライが首を傾げた。


「なぁなぁ、遙ー」

「なんだ。レポートの邪魔だけはするなと、以前から言っておいたはずだぞ」


 じろりと睨みつけるが、ライはまったく堪えた様子もなく続ける。


「いんやー、ワイも邪魔する気ぃはないねんけどぉ。そこの文章、意味が繋がっとらんでー? おまえの書きゆう英語てしょっちゅう前置詞が間違うとるから、なんとのう意味はわかるんやけど、なんや見ててハラハラすんねんー」


 ぴた、とキーボードを叩いていた遙の手が止まる。


「……ライ」

「なんやー?」


 のほほんと見返してくるライに、遠い将来よりも目先の都合を優先させることにした遙は、そのままびしっと言ってやった。


「ギブアンドテイク、上等だ。これからもおれにひっついている気なら、今後はレポートの英作文チェックをおまえの任務と心得るがヨイ」


 ライの瞳が驚いたように丸くなり、次の瞬間、何が嬉しいものやら破顔した。


「よっしゃ、契約成立やな! いやー、よかったわぁ。これでワイの今後は安泰やー」


 実にユーレイにあるまじき明るい顔をしたライは、非常にほくほくした様子で遙の英作文にダメ出しをはじめた。


 それはそれでなんだか微妙にムカついたが、はじめてこの鬱陶しいユーレイが役に立ちそうな感じなのだからして、そんな些細な感情は無視することにする。


「ほやけど――幹細胞核の移植とその適用? なんや、えらいけったいな勉強しとるんやなー」

「ウチの教授が書いた論文だ。それを読んで各々考察を述べよって、要は読書感想文みたいなモンだ」


 生物遺伝工学――その世界では常に注目を浴びているという教授は、『いずれこの道を志そうという若者ならば、英語論文のひとつやふたつ書けて当たり前』という持論の持ち主でもあった。


 そして先日、その主義のままに、まずは自分の書いた論文を読んでみぃ、と分厚い紙の束を遙たちに配ってくださったのである。


 しかし彼は、受験英語しか知らないぴちぴちの学生たちが、専門用語満載の小難しい論文を理解できると、本当に思っているのだろうか。


 ぶっちゃけ遙は、その三分の一もまともに理解できたとは思えないのだが。


(ほかの連中みたく、潔く「ムリっす」って単位を諦めてもよかったんだけどなぁ)


 生来、自分がかなり負けん気の強いタチであることは自覚しているが、さすがに今回のレポート作成は少し参った。


 これだけの労力と時間をつぎ込んだレポートが「不可」になったら、ちょっと悲しい。


 そんなことを考えていると、その論文にざっと目を通したらしいライが、ふぅん? と楽しげな声を漏らす。


「要するに、アレやな。コイツは、おんなし動物をようさん作ろうっちゅー研究しとるんやな?」


 確かに幹細胞核の受精卵への移植は、クローン技術の基礎技術ではあるが――


「おまえ……もしかして全部読めたのか?」

「ふっ、ワイを誰やと思うとるんや!」

「半透明の居候」


 即答すると、ライの体が微妙に傾いだ。


「……身も蓋もないこと言いなや。――けどぉ」

「けど?」

「いんやー。いつの時代も、金とヒマのある人間が最終的に求めよるモンはおんなしなんやなぁ思うてな」


 妙に醒めた言葉だった。


 遙はライの半ば透けた横顔に視線を向けた。


「一応言っておくが、少なくとも日本では、人間へのクローン技術の適用は法律で禁止されているからな?」

「なんや、そうなんか?」


 意外そうな顔に、当然だ、と応じる。


「倫理的に問題があるというのももちろんだが、まだまだこれは未成熟な技術なんだ。クローン技術で生まれた動物は、もうあちこちの国の研究施設で活躍しているらしいけどな。理論上は問題がなくても、今後どんな遺伝子疾患が現れるかもしれない技術を、そうホイホイと人間に適用できるわけがないだろう」


 ライが小さく苦笑を浮かべる。


「ワイの生まれた国の連中やったら、『そもそもそないけったいな技術で命を生み出すなんぞ、神への冒涜や! 許せへん!』て叫びそうな話やけどなぁ」

「まぁ……欧米はな。そういうところも多いだろうな」


 しかし、国民の五十パーセントがキリスト教徒だという韓国では、クローン技術の研究所に対し政府がバックアップをして、既に優秀な麻薬探知犬のクローン体が実務に投入されているのである。


 科学者たちの探求心というのは、きっと宗教観念とは別のところにあるのだろう。


 けれど――と遙は思う。


「どんなふうに生まれようと、命は命だ。それを許すも許さないもないだろうに」


 そのとき、珍しくライが応えるのにわずかな間があった。


「……遙は――そう、思うんか?」


 遙はうなずいた。


「当たり前だろう? クローン体だろうと自然交配で生まれたものだろうと、好きでそうやって生まれてきたわけじゃないんだ。クローン技術を認めるか認めないかはそれぞれの価値観の問題だろうが、医療分野や食糧問題に活用しうる技術であることは間違いないわけだし。――まぁ、人間にクローン技術を適用するのは、さすがに気持ち悪いから勘弁して欲しいとこだけどな」

「役に立つのに、気持ち悪いんか?」


 不思議そうな問いかけに、軽く眉を寄せる。


「誰かの役に立つ立たないで、生まれる前から人間の価値が決められて堪るか」


 そう言うと、ライの瞳がわずかに揺れたように見えた。


 ――それは一瞬のことだったから、もしかしたら遙の見間違いだったのかもしれない。


「『命とは、希望となるものだ』。おれの尊敬する学者先生の言葉だけどな。こういう勉強をしてる以上、それだけは忘れちゃいけないことだと思ってる」


 遙がこの道を志すきっかけにもなった言葉を告げると、半透明のユーレイは、どこか嬉しそうに「そやな」と笑った。

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