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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
祓魔の章

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トラップには気をつけましょう

 優衣の部屋の前に置いておいた式神からの知らせを受け、そのささやかなわがままにより発生していたかもしれない騒動を、幸いにも未然に防止することに成功した皓は、道場へ戻る道をひとりてくてくと歩いていた。


 はぁ、と小さく溜息をつく。


(まったく……。姉さんも、少しは自覚してくれたらいいのに)


 何しろ、優衣はいくら本人が「大丈夫」だと言っていても、いつまた不調の波が訪れて倒れてもおかしくない状態なのだ。


 そんな彼女がコッソリ自室を抜け出して、万が一どこかでぱったり人事不省にでもなろうものなら、一体どんな騒ぎになることか。


 ただでさえこのところギブアップ寸前の父の胃袋が、「こ……コレ以上は、もう無理でさぁ……。ふっ、情けないオイラを笑ってくんな……! げふうっ(吐血)」と精根尽き果てても、皓は少しも驚かない。


 ……そんな、もの凄く近い将来に起こりそうな恐ろしい事態からは、とりあえず目を背けておくことにする。


 ただ、少し気になっているのは、先ほど見た限りではあるが、本当に優衣が以前より大分調子がいいように見えることだった。


 本人はのほほんと「慣れたのかも」などと言っていたけれど、そんなことでは説明がつかないくらいに、優衣の気配は落ち着いている。


 もちろんそのこと自体は、非常に歓迎すべき事態である。


 だが、それが何に起因するのかがわからない。


(柴田に、少し話してみるかな……)


 いまだに制御腕輪に頼らなければならない優衣の状態は、決して楽観できるものではないのだ。


 何か彼女にとってプラスに働く要因があるというなら、どんな小さなことでも把握しておかなければならない。それほどに、優衣の状態はまだまだ危うい。


 本当は――もしそんなことが許されるのなら、あの制御腕輪を外すのには、第三者の承認が必要なようにしてしまえたらと思ってしまう。


 皓自身でも、伯凰でもいい。優衣が力を暴走させたときに、確実に対処しうる人間の承認を必要とするようにしてしまえれば、どれほど安心できるだろう。


 皓は今まで何度も、何度も、優衣が力を暴走させては心も体もぼろぼろにする様を、ずっとそばで見てきた。


 たとえそれが彼女自身の望みであったとしても、そんな姿を見せられ続けることが辛くないわけがない。


 伯凰はそのたび、『見ていられないなら外に出ていろ』と冷たく言った。


 ……そんなことができるはずもないくらい、わかっているのだろうに。


 あの兄貴分は、ときどきそんなふうにこちらを試すようなことをしてくるのが腹立たしい。


 父も母も、優衣の苦しみを本当に見ていることしかできないのに、できることのある自分が逃げ出せるわけがない。


 そばで見ていることがどれだけ辛くても、苦しくても、できることがある分だけ自分は恵まれているのだと思う。


 姉弟として過ごした時間はまだそれほど多くなくても、皓にとっての優衣は既に、『自分に一番近いもの』だ。


 彼女の姿をはじめて見たあの日から、皓の意識の中で当然に守るべきものであり、幸せを願うべきものだった。


 それが、この体に流れる血のせいなのかはわからない。


 もしかしたら、自分の存在そのものが優衣をひどく傷つけてしまった、罪悪感のゆえなのかもしれない。


 それでも――どうしても。


 皓、とその声で名を呼ばれるたび、子どものような笑顔を向けられるたび、胸に沸き起こる喜びだけは本物だから。


(ふ……っ、まさかあのシスコンの気持ちがちょっとわかってしまうかも、なんて思う日がくるとはな……)


 若干遠い目をした皓が思い出したのは、今頃京都で明仁に追い使われているのだろう幼馴染みのことだ。


 昔から、妹の瑞樹に対してかなりのシスコンっぷりを見せていた大地が、ことあるごとに『瑞樹が「お兄ちゃん」って言えるようになったんだぜ』だの、『瑞樹が自転車に乗れるようになったんだ、スゲーだろ』だの、『瑞樹がオレにブレーンバスターを極められるようになったんだー』だのと報告してくるのを、生温かく聞き流していた。


 なのに、今ならその気持ちに同調できてしまいそうな自分がなんだか怖い。


 ……少なくとも、もし今優衣からプロレスごっこをしようと誘われたなら、間違いなく「喜んでー!」と応じる自信がある。


 何しろ、あのどこか子どものままのようなところのある姉は、ときどき本当に『何この可愛いイキモノ……!』と皓だけでなく、その様子を目にした家人たちが密かに悶絶したくなるようなことを平気でしてくれるのだ。


『敵』と認識したものに対して、優衣がどれだけ容赦なくなれるのかなんてことは、もう十二分に知っている。


 だが、逆に一度『身内』と判断した者たちに対しては驚くほど無防備というか、時折こちらが戸惑うほど素直に心を向けてくる。


 それは嬉しいことなのに、そのアンバランスさが見ていて不安になることがある。


 年齢には少し不似合いなほどの無邪気さを見るたび、彼女がそれだけ幼い頃に「子どもらしさ」を許されなかったということなのだと見せつけられるようで、どうしようもなく胸が痛むことだってある。


 ――それでも、そばにいられるなら、それでいい。


 近くにいれば、ほんの少しでもできることはあるはずだから。


 そんなことを考えながら歩いていた皓は、ふと何か奇妙なものを見た気がして足を止めた。


 振り返り、改めて三秒ほど確認してみてもそれが幻ではないと知った皓は、首を捻りながら口を開く。


「……そんなところで、何をしていらっしゃるのですか?」

「っ!?」


 途端にばっと音のするような勢いでこちらを振り返ったのは、植え込みの間に身を潜めながら何かの様子をうかがっていた少女だった。


 艶やかな訪問着が、よく似合っている。


 だが訪問着というのは、かくれんぼをするのに不利な服装トップスリーに間違いなくランクインするのではないかと思う。


 先日、群馬の術者一門、斎木家の次期当主でありながら突然出奔してしまった彼女――杉本あきらは家人たちの説得により、斎木家当主襲名を受け入れたと聞いている。


 だがなぜ、今頃その準備に追われているだろう彼女が、こんな他家の庭でかくれんぼよろしく息を潜めているのだろうか。


 あの晩、少しだけ挨拶したときには、彼女はまるで少年のようにラフな服装をしていた。


 そのときの印象が強いせいか、こうしてきっちりと化粧を施して長い髪を結い上げ、橙の着物に季節の草花をあしらった帯も艶やかに美しい訪問着を着ていると、なんだか別人のように見える。


 その変身ぶりに感心していた皓に、あきらは「しー! しー!」と必死の様子で口の前に人差し指を立てた。


「武士の情けがあるのなら! ここは黙って見逃しておくんなせい!」


 ……どうやらあきらは、かなり動転している模様である。


 歌舞伎役者のような節回しにちょっぴり興味をそそられた皓は、周囲に誰の姿もないことを確認すると、ひょいとしゃがんだ。


「えぇと……。何があったのかは知りませんが。少し落ち着いてみませんか?」


 にっこり笑って、小声で話しかける。


「僕としては、ここであなたを見逃すことになんの支障もありません。けれど、笑っちゃうほど超絶的な方向音痴だというあなたがもし迷子になられているというのなら、残念ながら恐らく単独で目的地まで辿り着くのは不可能なのではないかと思われるのですが」


 あきらの人差し指がぴくりと震える。


「……おまえ。そのもの凄くジェントルな親切ヅラで、ひとのコンプレックスをピンポイントで爆撃するか?」


「はぁ。困っている女性には親切にしろと、常日頃から母よりきつく言われておりますもので」


 そう言うと、若干顔を引きつらせたあきらがさっと身を引いた。


「マザコンか、おまえ」

「いえ。単に逆らっていい相手とそうでない相手を、明確に区別しているだけです」


 そこは断固として主張すると、あきらは何やら憐れむような顔をした。


「……結構、苦労してそうだな」

「それほどでもあります」


 ちょっぴり哀しくなったけれど、皓は現実から目を背けるようなことはしなかった。……我ながら、ちょっと偉いと思った。


 そんなことを話している間に、どうやらあきらは少し落ち着きを取り戻したらしい。


 はあああぁ、と地の底まで届きそうな溜息をつくと、よいせと揃えた膝を抱え込む。


「あー……自己紹介はこの前したな。あたしのことは、あきらでいい。おまえも、皓でいいか?」

「はい」


 さすがに年上の女性、しかも他家の次期当主を呼び捨てにするつもりはないが、とりあえずうなずいておく。


「そうか。――実はだな、今日はおまえの父上に、改めて先日の詫びと礼とご挨拶その他諸々をするためにやってきたんだが。その前にちょっと時間があったんで、手洗いを借りてさぁ戻ろうと思ったら、いつの間にやら見知らぬ場所にいて」

「……はぁ」


 なんだか、いやな予感がする。


 あきらはひどく面目なさそうな顔をして、切々と続けた。


「仕方なくその辺の誰かに道を尋ねようと思ったんだが、突然床が抜けるわ、天井から竹槍が降ってくるわ。火攻め水攻め、果ては縛呪で壁に張りつけられそうになるわで……。もしかしたら佐倉の進入禁止区域に入り込んでしまったのかもしれないが、あたしには断じて悪意も敵意も悪戯心もない。もしおまえにその権限があるなら、現在あたしを侵入者として認識しているだろうここの防御システムを解除してもらえると、とってもありがたいんだが」


 ひどく真剣なあきらの言葉に、皓の背中をだらだらと汗が伝い落ちていく。


「あ……あはは、はい。今すぐに――」


 どうにかぎこちなく応じると、あきらはぱっと顔を輝かせた。


「そうか! 助かる!」


(……すみません、あきらさん。そのココロの底からほっとしている明るい笑顔が、今はちょっぴり眩しいです)


 どうやらあきらは、古参家人の趣味を通り越して、もはや芸術作品にすらなりつつあるトラップ満載の新人棟にうっかり迷い込んでしまったらしい。


 あのトラップの山をくぐり抜けておきながら、その訪問着にほとんど乱れが見られないのは、さすがは斎木の次期当主といったところだろうか。


 しかし、ここは既にトラップの有効範囲外だ。


 一応式神を飛ばして新人棟の管理に確認してみると、あきらは見事にトラップをすべてコンプリートしたようだと答えが返る。


 家人もひどく困惑した様子で、普通ならば数個クリアすれば外へ出られるはずなのに、どういう方向感覚を持っていればこのようなことに――と、感心しているのか呆れているのかわからない返事が返ってきた。


「……あきらさん」

「なんだ?」


 この日皓は、相手に何か言いたいのにさまざまな感情が入り乱れてどれを選択したものか迷いまくった挙げ句、結局すべてをなかったことにするというオトナの階段をひとつ、昇ることになった。


「……いえ、トラップの方は既に停止しているそうです。ご安心ください。それでは、母屋の方へご案内すればよろしいでしょうか?」


 あきらは眉を下げてうなずいた。


「悪いな」

「いえいえ」


 ここでアナタをひとりで放り出して、法具の保管庫や禁術の封印してある書庫に迷い込まれては、今度こそシャレにならない事態になってしまいかねませんから、という言葉は、にっこり笑った笑顔に隠す。


 どうやら彼女は、今更お嬢さまモードに移行するつもりはなかったらしい。明るく軽い口調で声をかけてきた。


「おまえの姉上、元気になったか?」

「……ええ、まぁ」


 微妙な返答になったが、大らかなあきらは気にしなかったらしい。楽しげに笑って、ひょいとこちらの顔をのぞきこんでくる。


「そうか。この間ちらっと会ったけど、滅茶苦茶可愛いよな――って、同じ顔のおまえに言っても微妙だな?」

「いいえ? 姉の方がずっと可愛いですから、問題ありませんよ」


 笑って応じると、なぜか沈黙が返ってきた。


 見れば、あきらが何やらむーん、と眉を寄せている。


 皓は首を傾げた。


「どうかしましたか?」

「いや……。一瞬、おまえとのココロの距離感を考え直そうかと思ったんだが、その気持ちがもの凄くわかってしまう自分がいたので、現状維持の方向で舵を取ることにしただけだ。気にするな」


 すちゃ、とあきらが凛々しい仕草で片手を挙げる。


 皓は、何かおかしなことを言っただろうかと不思議に思いながらうなずいた。


 彼女のキリッとした瞳の片方は、その身に宿る神の輝きを映して、本来のものとは大分違った色合いに見える。


 なんの異能も持たない人間には、彼女の生来の焦げ茶色にしか見えないのだろう。


 だが今、皓の目に映るそれは、淡い銀色。


(『如月』――か)


 凄まじい破魔の力を持つという、斎木の神剣。


 見る者の心を奪うほどに美しいという彼の刃を、皓はいまだに目にしたことがない。


 先日の一件であきらと共闘した翔は、間近にその美を目の当たりにしたはずなのだが「どんなって……日本刀だったぞ?」という、本人にまったく芸術的素養がないことを露見する感想しか教えてくれなかった。残念なひとだ。


 皓は小さく溜息をついた。


「あきらさんは――」

「ん?」


 束の間迷って――それでも、ずっと心の奥に引っかかっていた疑問に対する答えをくれる相手が目の前にいるという誘惑には、どうしても抗えなかった。


 自分よりも少し高い位置にあるあきらの横顔を見つめる。


「『如月』の継承が決まった際、すぐにそれを受け入れられたと聞いていますが……。突然そのような力と立場を手にすることに、戸惑いはなかったのですか?」

「……どうして、そんなことを聞きたがる?」


 あきらが不思議そうな顔をして見返してくる。


「ご不快に思われたのでしたら、申し訳ありません。ただ――どうしたらそんなふうに、前向きにご自分の変化を受け入れられるものなのかと」


 優衣は、泣いていたから。


 こんな力はいらない、“歌姫”になんかなりたくない、と心が潰れるほどに泣いていたから。


 翔から話を聞いたとき、皓はそれを当然だと思いながらも、優衣のその気持ちが力の制御の妨げになるのではないかという危惧を覚えた。


 力を否定することは、自分自身を否定することと同じだ。


 そんな気持ちを抱えたままで、繊細な力の制御など叶うはずもない。


 どれだけ頭ではそうするしかないと、そうするべきだとわかっていても、「こんな力さえなければ」という思いは、きっといまだに彼女の心にあるのだと思う。


 もしかしたら、本人はそれを意識していないかもしれない。


 それでも、いくら本来自分自身のものとはいえ、未知の力に対する恐怖や忌避感は、そう簡単に消せるものではないだろう。


 一体どうしたら、そんな思いを乗り越えられるというのか――


 皓の言葉に感じるものがあったのか、あきらは「そうだなぁ」とつぶやいて空を見上げた。


「あたしも、まぁ――少しも怖くなかった、って言ったら、嘘になるな」

「そう……なのですか」


 やはり、と思いながらも、今の彼女からはそんな葛藤をまるで感じないため、少し意外な気もする。


「ああ。けどすぐに、それ以上に嬉しいって思った」

「……なぜですか?」


 あきらはさらりと答えた。


「あたしは元々、いずれ斎木の当主になるだろうっていわれてたひとのそばにいたくて、術の世界を選んだからさ」


 意味がよくわからず首を傾げた皓に、あきらは小さく笑みを浮かべる。


「斎木の当主になるってことは、『如月』の主となるってことだ。そんな危険な立場にあのひとを立たせなくていいんだって――それが、嬉しかった」


 少し照れたように笑うあきらは、本当に心からそう思っているのだと、彼女の迷いない表情が語っていた。それが少し羨ましく、同時にひどく眩しく思う。


「おまえが、誰のことを考えてんのかは知らないけどな。あたしは実際経験したから言うが、人間ってのは、どんなことにでも意外とすぐに慣れるモンだぞ?」

「……はい」


 その通りだと、いいのだけれど。……本当に。


「ありがとうございます。あきらさん」

「別に、礼を言われるようなことはしてないぞ」


 つくづく、男前なひとである。


 しかし、術の世界で生きる女性は、概して和の装いにも幼い頃から親しんでいる。


 あきらの立ち居振る舞いも、話し言葉さえ別にすれば、実にしっとりとたおやかだ。


 女性って凄いなぁ、と妙なところで感心した皓だったのだが――


「うひぃっ」


 母屋へ辿り着き、そこで待っていた斎木家の綾人が絶対零度の眼差しをあきらに向けた途端、彼女は素っ頓狂な声を上げて皓を盾にした。


 皓は彼女の男前指数及びお嬢さま指数を、大幅に下方修正した。


「先日は大変お世話になりました。皓殿。――今日も我が家の次期当主がご迷惑をおかけしてしまったようで、申し訳ありません」

「いえ……お気になさらず」


 まずは、以前と変わらず端然とした口調で皓に挨拶をした綾人が、あきらに視線を戻してゆっくりと口を開く。


「……あきら」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいー!」


 途端にへこへことコメツキバッタのように謝り倒したあきらに、静かな声が返る。


「まだ何も言っていない」

「だってどうせ、おまえはいくつになったら落ち着きとか思慮深さとか、何かする前に一歩立ち止まって考えるスキルを身につけられるんだ、って言うつもりだったでしょ!?」


 あきらは、自分のことをよく知っているようだ。


 どうやら、己を知っていることと進歩することは、まったく別の次元の話らしい。


 綾人は軽く首を傾げた。


「いや。そんなことはないが」

「ほ……ほんと……?」


 意外そうな声を零したあきらに、綾人はあくまでも真顔で淡々と続ける。


「ああ。おまえがそういったイキモノであると十二分に理解しているにもかかわらず、ほんのわずかな間とはいえ、他家の屋敷で単独行動をさせてしまった。その己の不明と不甲斐なさを、心底恥じているだけだ」


 綾人が小さく溜息をついて、その場になんとも言い難い沈黙が落ちる。


「皓殿。今後は私の責任において、二度とこのようなことのないよう対処いたしますので、此度の失礼をお許し願えますでしょうか」

「……イエ、本当にお気になさらないでください」


 背中にひっついているあきらが、『ガチで怒られるよりキツイ……』とどんよりしている。


 もの凄く、空気が重い。


(うーん……。困った)


 どうでもいいが、そろそろひとを間に挟んでの説教タイムは終了にしてもらえないだろうか。


 そんな皓の切なる願いが届いたのか、綾人に促されたあきらがようやくよろよろと離れていく。


(……ん?)


 ふと馴染んだ気配が近づいてくるのを感じて、そちらに視線を向ける。


 同じくそれに気づいたらしいあきらが、「あれ?」と声を零した。


 医療棟から戻る途中だったのか、それとも単に庭を散策していたのだろうか。


 翔と連れ立った優衣がこちらを見て、驚いた顔をしている。


 だがそれ以上に驚いた顔をして、次いでぶはっと力一杯吹き出したのは、あきらの美麗な訪問着姿を目にした翔だった。指までさして、大笑いする。


「お……おまえ、杉本か!? なんだそのカッコ! どこのおじょーさまだよ!」


 あきらが、よそいきを着ているところをクラスメイトに目撃された小学生のように、真っ赤になって言い返す。


「ややややかましいっ! ヤマトナデシコの正装といえば和服と決まっておろぉがっ!」


 途端に、翔が表情を消した。そのまま、黙ってあきらを見つめる。


「……っそこで真顔で沈黙するなあ! 無茶苦茶いたたまれんわっ!」


 くわっと喚いたあきらに、翔は厳かに口を開いた。


「たった今、世の男たちのヤマトナデシコ幻想を完膚なきまでに踏みにじってくれたおまえに、情状酌量の余地はない」


 物騒な笑みを閃かせたあきらが、軽く片足を引く。


「よっしゃ、その喧嘩買ってや――るっ!?」

「――いい加減にしろ、あきら」


 先ほどまでとは比べものにならないほど冷えきった綾人の声が、一瞬でその場を支配する。


 彼が片手であきらの顎先をがっしと抑えているのは、折角きれいに着付けた訪問着を崩すまいという配慮の結果なのだろうか。


 もしこれが彼らの標準仕様なのだとしたら、いろいろな意味でなんだか凄い。


 小さく息を吐いた皓は、目を丸くしている翔に苦言を呈した。


「神谷さん。あきらさんは、今日は父さんのお客さまとしていらしているんです。いきなり失礼なことを言うのは……」

「わ――悪い。つい」


 翔が気まずそうな顔になる。皓はふと眉をひそめた。


(……姉さん?)


 彼らの様子を見つめている優衣の顔色が、妙に血の気が薄いように見えた。


 皓は足早に近づき、その顔を覗き込む。


「大丈夫?」

「何が?」


 不思議そうな顔をして見返してくる優衣は、どうやら自分の顔色の悪さには気づいていないらしい。額に触れると、案の定体温が落ちている。


 やはり、この不調の波は油断ができない。


 皓は、そっと優衣に笑いかけた。


「そろそろ、部屋に戻ろうか。ね?」

「……うん」


 どうやら優衣は、皓がこういう言い方をしたときには、素直に応じると決めているらしい。ちょっと嬉しい。


「優衣!?」


 途端に血相を変えた翔に、いつもならこのまま任せるところだ。


 しかし今回ばかりは、そうはいかない。びしっと教育的指導をかける。


「姉さんは、僕がちゃんと部屋まで送ります。神谷さんはおふたりに、きっちり謝罪してから来てくださいね」


 翔とあきらは既に親交を深めていたらしいが、先に他家の次期当主に対する礼儀を欠いたのは翔の方だ。それをこのまま流してしまうわけにはいかない。


 う、と翔が言葉を詰まらせる。


 優衣は何か言いたげに彼を見つめていたが、結局皓に促されるまま、斎木家のふたりに会釈を残して踵を返した。

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