祓魔師のお仕事
魔。
或いは悪魔と呼ばれるものは、古くから人々の隣に、心の裡に、常に存在していた。
生きるために生きることが当たり前だった時代。
死というものが人々にとって最大の恐怖であった中で、人は己の中にある根源的な闇への恐怖、そして大いなる自然への畏怖といったものとともに生きるために、『恐れ、遠ざけるべきもの』の象徴たる魔を必要としたのだろう。
その後、人が高度なコミュニティを形成し、その円滑なまとまりを導く存在としての『神』を造り上げたときから、『悪魔』は神と敵対するもの、神の存在をより一層輝かせるものとしての役割を与えられた。
さまざまな欲望を唆し、神への道を妨げるもの。無限の堕落を誘うもの。浅ましい願いを叶えることで、人を闇へと堕とすもの。
そんな中で、現在祓魔師と呼ばれる者たちの技能が必要とされるのは、一神教の概念の中で人々が生み出したものたちの存在による。
『ヨハネの黙示録』の中で語られる堕天の王たるサタン。
滅びの地から来る蝗たちの王アバドン。
天への反逆者たるルシフェル。
偉大なる蠅の王ベルゼブブ。
奈落の底に封印された堕天使アザゼル。
アダムの最初の妻にしてサタンの妻たるリリス。
『ヨブ記』に出現する獣たちの王ベヒモス。荒れ狂う海を象徴するリヴァイアサン。
ファウストの伝説に登場するメフィストフェレス。
ソロモン王に仕えた七十二の軍団長。
人々が“名”と“姿”を定め、“役割”を与えた悪魔たちは、数限りなく存在する。
異教の神々を悪魔に堕とし、人々の闇の部分を肯定するために造り上げられたそれらが、その存在を望む者たちの強い――強すぎるほどの思念を核として虚空に『生まれ』はじめたのは、欧羅巴大陸が中世と呼ばれる時代に入ってからのことだといわれている。
人々が混沌と仮初めの快楽、そしてあまりにも多くの死の中に生きた時代。
敬虔なる神の僕として生きるよりも、享楽的な快楽に溺れて生きることを望む者が、夜の闇に己の欲望を映し出すことをためらわなかった時代。
そんな時代にあって、悪魔の存在を望んだ者たちがどれほど存在したかなど、考えるのは無意味なことだ。
そうした者たちの望み、或いは願いによって『生まれ』た悪魔たちが、己の“名”を、“姿”を認識し、その“役割”を己がものとして理解した瞬間から、悪魔は人々を、神を脅かすものとして存在し続けた。
人々の思念を核として生まれた悪魔たちは、与えられた“役割”のままに人々を惑わし、滅びへと誘い、その魂を食らう。
そんな悪魔たちの中でも、「つくり」が――少々乱暴に現代の言い方に即して言うなら、「初期設定」が単純であったものは、すぐにその自我を保っていられなくなり、稀にいくつかの伝承を残すことはあってもすぐに消えてしまう、儚い存在だ。
たとえ消え去ることはなくとも、それらは己自身の目的も意思も持つことはなく、上位の悪魔に使役されるばかりの下級悪魔として無意味に彷徨い続けている。
しかし、「つくり」が複雑であったもの。
あまりに多くの人々の欲望を孕んで生まれたもの。
そんなものたちは人々の思念を、欲望を、絶望を、魂を食らうたびに自己を確立させ、力を増し、そうしてまた定められた“役割”を果たすために力を求める。
――悪魔とは、かつて人の欲望から生まれたもの。
人の欲望を叶えるために存在するもの。
人が闇への恐れを薄れさせ、己が欲望を叶えるために必要なものに溢れる今の世においては、もはや生まれることのない高慢なる誘惑者。
そんな『人格』と呼べるほどの明確な自我を持つ悪魔たちが、日本において確認されることは、そう多くない。
毎年訪れる多くの外国人観光客にふらふらとくっついてやってくる下級悪魔ならばその辺にいくらでも彷徨っているが、どんなレベルの悪魔であっても、その根幹に必ず「一神教の神への反逆」という存在意義が組み込まれているのだ。
現在、日本における一神教の信者数はおよそ百万。世界的に見ても、非常に低い割合でしか存在しない。
それでなくとも、そもそも多神教の盛んなアジアにおいては、一神教の神でさえ、数多いる神々の一柱にすぎない扱いをされている。
そんな反逆すべき神を求める人々の気配に乏しい世界にわざわざやってきたところで、“役割”を果たすべき彼らにとっては退屈なだけ。
稀に気まぐれなサガのままに訪れることがあっても、気に入った人間の魂をいくつか食らえば、彼らはすぐに己に課せられた“役割”を果たすに相応しい世界へと帰っていく。
そのため日本を含むアジアにおいては、それなりの自我はあっても「神への反逆者」としての役割意識が薄い、半端な存在である中級悪魔たちが数多くその活動事例を報告されている。
悪魔の力を借りてでも自分の欲望を叶えたい、悪魔の力で自分の手は汚さずに他人を害したい。
そんな他力本願な浅ましい人間など、どこの国にも掃いて捨てるほどいるのだ。
そんな人間の単純な欲望や魂は、選り好みをしない中級悪魔たちにとっては、非常に食らいやすい餌なのである。
質より量を地でいく彼らは、自分の“役割”を果たすことよりも目先のエサを食らえればそれでいいという、ある意味ではプライドの高い上級悪魔よりも厄介な存在であるかもしれない。
食欲のまま、力を求める本能のままに彷徨ううちに、次第に己が存在理由すら見失い、自己崩壊を起こして消滅する際にはその内に貯め込んだ瘴気で土地を穢す。
――なんとも迷惑な話である。
それゆえ、この国における祓魔師の仕事は、ほとんどが中級悪魔の存在を把握し、それらが自己崩壊を起こす前に清め祓うことにある。
中級、といっても、多くの魂を食らい続けた悪魔は、ときに食らう魂にも「格」を求める上級悪魔よりも強大な力を持つ。
そうでなくとも、「つくり」が上級悪魔より単純な分だけ思考回路も攻撃パターンも読みやすいとはいえ、例えばその属性に炎を持つ中級悪魔が攻撃力のすべてを火炎に変えようものなら、建物のひとつくらいは簡単に消し炭になってしまう。
雑霊もどきの下級悪魔ならば、ぷっちり踏んでやれば消えてくれる程度のものだが、中級以上の悪魔と対峙するのは常に命懸けの真剣勝負なのだ。
よって、そういった悪魔の出現が報告されるたびに、現在佐倉家祓魔部門の副長を務めている大地は「悪魔を召喚しようと思うような、卑劣で浅薄でいい加減で頭悪くて姑息で考えなしで卑怯で浅ましくてのーたりんで浅はかで短絡で、救いようがないほど腐った脳髄の持ち主なんて、いっそ全部まとめて食われてしまえばいいのに」と思いながらも、なんの罪もない一般市民のみなさんをその脅威から守るべく、日々地道に懸命に働き続けてきたのだが――
(……よーりーにーよって、こんなときにこんな厄介な案件持ち込んでくるんじゃねーよ、三条のダボが。マジでいっぺんシメんぞコラ。ふざけんのも大概にしろや、一週間以内にケリつけらんなかったら、このオレ直々にてめえらの無能当主ヤってやっから覚悟しとけやボケ)
――一見冷静な白皙の面の下で、完全に大地がやさぐれているのは、ほかでもない。
彼の可愛い妹、瑞樹の誕生日という一年で最も大事なイベントが、十日後に迫っているのである。
このところ瑞樹は、通っている中学の友達と遊びに出歩くことが増えている。陽に焼けたせいで増えてしまったそばかすを嘆きながらも、いつも楽しげにしているのは、兄としては非常に喜ばしいことである。
しかしその分、自分と過ごしてくれる時間が目に見えて減っている気がしている大地は、ここは兄としての誇りにかけて、彼女の誕生日には選びに選び抜いたプレゼントを用意しようと思っていたのだ。
なのに一体なぜ、こんな京都くんだりまでやってきて、厄介な悪魔祓いなんぞに精を出さねばならないのだろうか。
もちろん、それが自分の義務であり仕事であるとわかってはいるが、ココロの中で役立たずな三条家当主をタコ殴りにするくらいは許されるに違いない。絶対。
「はぁ……」
だが、焦りというものは「仕事」をする上で、最大のマイナス要因である。
深く深呼吸することで自分を立て直した大地は、まずは式神を作成することにした。
大地の専門は祓魔だが、佐倉一門の基礎術式にも長けている。
式神を同時に複数運用することができる者は、他家から優秀だと言われる佐倉の家人の中にもそう多くない。
しかし、大地はせっせと式神たちを作り続け、できあがったそれらの並んだ文机を眺めて満足げにうなずいた。
(ふっふっふ。我ながら、ファンのみなさんにお見せできないのが残念な完成度)
某子ども向けお野菜アニメの人気マスコットキャラクターを、ほぼ網羅した式神たちの姿は、確かに見る者をほっこり和ませるものがある。
ちょっぴり遊び心が湧いた大地は、しばしそれらに『敬礼』や『ジェンカ』をさせてしまった。
しかし今は、そうやって可愛らしいフォルムを愛でるために式神を作ったわけではない。
「ほーら、行ってこーい」
京の都に飛ばした式神たちは、どんなわずかなものでも三条家に残されていた瘴気に通じるものがあれば知らせるよう設定してある。
京都守護の維持だけで精一杯の三条には、今は襲撃者追尾に回すだけの人員も余裕もないだろう。
あるはずのない、否、あってはならない当主襲撃に浮き足立つ三条の家人たちに、襲撃者を追うことよりも京都守護の維持を最優先にするよう命じたのは道彦自身だと聞いている。
だが、彼らがいまだに煮え湯を飲まされたような気分でいることだけは間違いない。
三条家は、その歴史と伝統こそ日本の最高峰に位置しているが、それだけに「外敵」への備えに関してはかなり弱い。
古き伝統と技術を伝える、というのは非常に素晴らしいことであるのと同時に、次世代へと受け継がせるにはあまりに多くの時間と徹底した教育が必要となる。
彼らが現在にまで伝えているのは、京都守護の伝統儀式だけではない。
それに必要とされるさまざまな呪具の素体となる器や漆器の伝統、社を造営する建築技術。
三条が今までこの地で密かに守り伝えてきたものは、数限りない。
しかし、そうやって伝統――或いは文化といわれるものを連綿と守り続けることは、ときに新たな技術を受け入れ、己の一部として取り込むことを許さない。
それは、彼らが古い伝統のしがらみに囚われているから、ということだけでは決してない。
ただ単純に、それに振り向けるだけの時間が彼らには許されないのだ。己に与えられたすべての時間を、熱意を注がなければ、それだけの古い伝統を今にまで正しく伝え続けることなどできはしないから。
だからこそ三条家は二十数年前に、増え続ける「外敵」からの脅威に対処する術を求め、東の地で――この日本で最もその術に通じている佐倉家との繋がりを求めた。
……その結果がこの窮状なのだから、皮肉なものだ。
そんな三条家が、今も辛うじて守護している京都中に飛ばした式神たちの姿が見えなくなると、大地は軽く息を吐いた。
(まぁ……多分これも無駄になるんだろうけど。情報収集は基本のキだし、最低限やることはやっとかねぇとな)
万が一、何か手掛かりのかけらでも拾うことができれば御の字、というところだろうか。
そんなことを考えながら、次の手を打つべく大地が立ち上がろうとしたとき、襖の向こうから家人が声をかけてきた。
「大地さま。よろしいでしょうか」
「ああ。なんだ?」
すい、と襖が開く。一礼した家人が用件を告げる。
「三条家より使いの方がいらっしゃいまして、大地さまにお目通りをと。此度の件に関して、お話があるようです」
面倒だな、と思ったが、まさか居留守を使うわけにもいくまい。
「……わかった。今行く」
恐らく三条家の使者は明仁を訪ねてきたのだろうが、今回の件は既に大地に全権が移っている。
家人の案内で使者が待っているという客間に向かうと、そこにいたのは背広姿の二十歳そこそこの青年だった。
大地の姿を見ると一瞬驚いたように目を瞠ったものの、すぐに居住まいを正して深く一礼する。
「突然の訪問、お許しください。私は三条家家人、黒崎日向と申します」
(……黒崎?)
短く挨拶を交わしながら、大地は少し意外な気分で日向の感情を押し込めたような顔を見返す。
黒崎家といえば、三条家の分家でも有力な家のひとつだ。
北の黒崎、南の火浦、東の春日、西の風間。
京都守護のために三条家が奉じている東西南北四つの要、その一角を代々守護している家である。
その任の重要性より、守護職の四家は滅多に他一門と関わることはないと聞いていたのだが、今はとてもそんなことは言っていられないのだろう。
(いや――そんなことより)
大地の記憶に間違いがなければ、確か三条家の先代当主の姉が黒崎家に嫁いでいたはずだ。日向の年格好からして、恐らくはその孫だろう。
ということは。
(……コイツも、優衣さまのハトコってことかよ)
優衣が三条家の血を引いていることは、今更否定しようもないただの事実である。
だが、こうして同じ血を持つ人間がリアルに目の前に現れてみると――
(やっぱ、なんかムカつくな)
――この辺り、大地はまだまだ子どもであった。
自分の主であり、親友でもある皓が、心から姉の優衣を慕っていることは知っている。
そしてその優衣が、実の母親である三条家の女に何をされていたのか、佐倉の分家を率いる当主たちは知らされていた。
薄っぺらいファイル一冊分の、報告書。
高野家の現当主である大地の父は、おまえまでこのようなものを見る必要はないと言ったけれど、大地は頑としてその言葉を拒んだ。
大地は、既に見ていたから。
あの日――皓がはじめて優衣に会った日、自分たちの愚かな行動が、どれだけ優衣を傷つけてしまったか。
そうして皓があのとき、大地がどれだけ呼びかけても声が届かないほどに自失してしまったことも。
……自分には、いずれ佐倉家の当主となる皓を支えるだけで精一杯だから、あんな優衣の痛みにまで気持ちを向ける余裕はない。
そんなことをしたら、その重みに潰されてきっと何もできなくなってしまう。
それでも、これからもずっと皓のそばにいる道を選ぶのなら、自分は知っているべきだと思った。
たとえ何もできなくても、「知らない」ということは、それだけで相手を傷つけることがあるのだと、あのときいやというほど思い知らされたから。
「……それで、黒崎家の方が、私にどういったご用件でしょうか?」
できるだけ感情を抑えて言ったつもりだったが、やはり少しきつくなってしまったかもしれない。
父が大地に、あのファイルを見るなと言った意味が、今ならよくわかる。
大切な相手の、大切な存在を傷つけた者。……それに血で連なるだけの者にはなんの咎もないとわかっていても、心のどこかが軋んで歪む。
日向は大地がそんな醒めた目で彼を見ることもとうに承知していたかのように、殊更静かな表情と声で応じた。
「私は三条家当主より、佐倉家の方々がこの京で動かれるというなら、微力ながらその助けとなるよう命じられて参りました」
その言葉に大地は内心、首を傾げた。日向は淡々と続ける。
「余計なことをとご不快に思われたのでしたら、お詫び申し上げます。しかし、この京の街でならば、三条家の名を使えるか否かは大きな違いがございましょう」
「……三条の護りは、どうなさいます」
思わず言うと、日向がはじめて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「私は元来、京の守護職からは外れておりますので」
「黒崎家の方が……ですか?」
意外の念を向けた先、日向は静かにうなずいた。
「黒崎の守護は、兄がその務めを果たしております。……ほかの分家にも三条本家にも、今はそれ以上のことは叶いません。しかし、佐倉家当主御自ら京都まで足を運んでくださった以上、佐倉家がこの事態に何もされぬわけもなく、ならばせめてこのような若輩ではありますが、私にその手助けをせよとの命令です」
(……三条にしては、随分はっきり言ってくるな? まぁ――それだけなりふり構ってらんねえってことか)
常ならば、三条がここまで佐倉に内情を打ち明けることも、いくら後継ではなく年若いとはいえ、守護四家の人間を単なる「家人」として寄越してくることもありえないことだ。
本来なら三条本家に最も近い存在として、当主の側近くにあり、むしろ家人たちから守られるべき立場にある日向をこうして送り込んできたのは、三条家なりの誠意のつもりか。
大地は、胸のうちでひっそりと嘆息した。
(コレ断ったら、まーた佐倉と三条がぎくしゃくすんだろうな……。面倒くせぇ)
他家の人間とともに動くのは、やたらと気を遣わなければならないだけに、大地はあまり好きではない。
しかし、確かにこの京都で動く以上、三条家の名前を使えるか使えないかで大分話が違ってくる。
そもそも、基本的に東の地から出ることのない大地は、京都の地理を通りの上り下りで説明されてもサッパリである。
現在京都に詰めている佐倉の家人は折衝担当の者ばかりで、実戦投入できる術者は、やはり東京から連れてきた者たちだけ。土地の人間がナビ代わりにひとりいるだけでも、動きやすさには格段の差があるはずだ。
(まぁ……いいか。最低限、動けそうなカンジではあるしな)
ぱっと見の印象だが、日向はかなり鍛えていそうだ。
この事態の中で荒れ狂っているだろう感情を、ほとんどこちらに感じさせない辺りからしても、彼はきちんと自分を抑えることのできる人間なのだろう。
「……承知いたしました」
それでも、大地がそう応じた一瞬、その瞳に過ぎったのは焼けつくような、激しい何か。
痛みとも焦燥ともつかないそれはすぐに、抑えた静寂の中に沈んで消えたしまったけれど――
「それでは、よろしくお願いいたします。黒崎さん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
――再び一礼した日向の声は、少し、掠れていた。




