佐倉家 ~過去~
そこは、完璧なまでに整えられた築山と、滾々と湧き出る清水を湛える池。それらを繋ぐ石橋を繊細な美意識で組合せて作り上げられた、美しい庭園を望む一室だった。
開け放たれた障子の向こうでは、樹齢の高い松が池に陰を落としている。華やかさとは無縁の静謐な空気はどこまでも清冽な色をして、あらゆる穢れを拒絶していた。鳥の声は愚か、虫の音さえ許されないような沈黙の中、静かに挨拶の言葉を口にしたのは、まだ幼さの残る少年だ。
美しい顔立ちをしている。広々とした和室に凛と背を伸ばし、真っ直ぐに上げたその顔は、いまだ男らしい力強さとは無縁のものだ。しかし、鮮やかな色を宿した瞳は強く厳しい光を浮かべ、若年故の侮りを寄せつけない。夜が明ける直前の空を写し取ったかのような瞳の先。上座に座しているのは、この屋敷の主である少年の祖父母、そして父の三人だった。
祖父は老いて尚衰えのうかがえぬ頑健な体躯を茄子紺の着流しに包み、すべて色の抜けた総髪を一分の隙もなく後ろに撫でつけている。その右に控える祖母は、浅藤色の着物を優雅にまとい、いまだ落ち着いた色香さえ滲ませる優美な老婦人。
そして父は、温和でもの柔らかな印象を見る者に与えるが、修行着である袴に包まれた身体は厳しく引き締まり、男としてまさに働き盛りの壮年に差しかかっている。
皓、と少年の名を呼んだのは、異国から嫁いできた己の血を継いだ証をその身に宿す孫息子を、こよなく愛する祖母だった。
「このように突然、おまえが私たちに会いにくるとは珍しいこと。おまえに会えるのは嬉しいけれど、どうしてそんな難しい顔をしているのかしら」
ころころと少女のようにほほえむ祖母の柔らかな声に、皓は張り詰めていた肩をわずかに緩めた。すっと小さく息を吐き、祖母に目礼する。それから、祖父と父の良く似た、しかし一方は炯々と鋭く、一方は柔らかく穏やかな眼差しを順に見返す。
「おじいさま、おばあさま、父さん。――今日は、姉さんのことでお聞きしたいことがあって参りました」
一礼してそう告げると、三組の瞳が揃って意外そうな色を浮かべる。滅多に顔を合わせることもなく、母親から高慢な性格を受け継いだ腹違いの「姉」を皓が忌避しているのは、彼らとてよく知っている。
訝しげに眉を寄せた父の貴明が、ゆったりと腕を組む。
「茜が、どうかしたのか?」
「……違います、父さん。ご存じの通り、僕は茜さんとは不仲ですから」
ぐっと、腹に力を込める。
自失して一日。悩んで三日。
それでも、どうしてもわからなかった。
「……先日、僕は姉さんにお会いしました。僕と同じ髪、同じ瞳を持つあのひとと」
一目見て、皓の胸に込み上げたのは、紛れもない歓喜だった。その姿が、仕草が、柔らかく零れるような笑顔が、この身を流れる血を震わせ、心を震わせた。彼のひとが、どうして自分のそばにいないのか、不思議に思った。
(――どうして)
間違いなく同じ血を分け、花のように笑う少女が、なぜ一族の誰からも顧みられることなく、ひとり打ち捨てられるようにしてそこにいるのか。
「父さん。おじいさま、おばあさま。なぜ、姉さんを捨てたのですか。なぜ、あのひとを姉と思う必要はないと、どうしてそんなことをおっしゃったのです!」
あんなふうに、誰かの顔が絶望に染まる瞬間を、はじめて見た。
きっと何も知らなかったのだろう彼女の瞳がガラス玉のようにすべての感情を失い、自分の姿を映したときの、心臓が引き裂かれるような痛みはいまだ生々しく胸にある。……そんな痛みさえ、彼女が覚えたものに比べれば、何ほどのこともないのだろうけれど。
「僕が、佐倉の後継として立てられたからですか? それが姉さんを捨てた理由ですか。いえ、どんな理由であろうと、あんなふうに姉さんを傷つけていいわけがない。どうして、あんな……!」
「皓!」
更に言い募ろうとした皓の言葉を遮ったのは、はじめて聞く父の上擦った声だった。
「おまえは……何を、言って? 私の娘は、茜だけ――」
「……っならば! あの、優衣という名のひとは、父さんの娘でないというなら、誰の子だと言うのです! この李家の瞳を持つ、僕によく似た――いえ、おばあさまの若い頃の絵姿に瓜ふたつのあのひとは!」
この家を継ぐ者としての厳しい修行を受けはじめてから、こんなことをしたことなどない。こんなふうに、彼らに対して声を荒げるなんて。
けれど、どうしても納得がいかなかった。なぜあの少女が、自分に紛れもない愛情を注ぐ家族から、わずかな情のかけらも与えられることがないのか。
なぜ。どうして。
「――皓」
ほとんど悲鳴のような声で父親を糾弾する皓の耳に、少しの沈黙の後、先ほどまでとは違う、静かながら凛と響く祖母の声が届いた。
「少し、昔の話をしましょう」
淡々と低く抑えられた祖母の声が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「貴明の妻……薫子が、三条の家から嫁いできた者だということは、知っていますね」
「はい」
三条家は、この世界では東の佐倉、西の三条と称される名門中の名門だ。その佐倉家の次期当主である貴明と、三条家直系の薫子との縁談が取りまとめられたのが、二十三年前のこと。
佐倉家は、遡れば平安の昔にまで行きつく旧い家である。元々、異能と呼ばれる能力のある人間が生まれやすい家系だったこともあって、時代に添い陰陽師、霊媒師、或いは拝み屋と名を変え品を変え、この現代まで生き残ってきた。大戦前の動乱時などは、現在は禁忌として封印されている術による、暗殺稼業をメインとしていたらしい。
しかし戦後、戦勝国の組織に統制されていく情勢の中『人を呪わば穴ふたつ。長く生き残りたければ、やはり世のため人のため』をスローガンに掲げた人物が当主となったことで、佐倉家のその後は決まった。戦争の傷により行き場を失った有能な人材を破格の待遇で片っ端から勧誘し、怨霊が出たと聞けばそれを封じ、祀る者が絶えて荒御霊となった地霊が在ると聞けばそれを奉る。
次第に国土が復興するにつれ、西の地は元々そこを守護していた三条家が頭角を現した。比べて被害の大きかった東には、いつしか佐倉家が敷いた術者のネットワークが根を張り、その分家がそれぞれの地で鎮めや、地元の術者一族との折衝に当たっている。
要は、関東から東の地を網羅する術者派遣請負業者というわけだ。現在、その頂点に君臨する佐倉家当主である明仁は、歴代当主の中でも五本の指に数えられるほどの実力者である。
しかし、三条家の娘という威光を背負ったまま佐倉の家に入った薫子は、「商売」として術者を軽々しく動かす佐倉のやり方に、最初から嫌悪を隠さなかったのだという。
西の地では、術者の助力を願う場合、さまざまなしきたりや儀礼を通さなければならない。ビジネスライクに簡易な手続きのみで術を行使するなど、その矜持が許さなかったらしい。結婚後すぐに第一子に恵まれたものの、薫子は佐倉の稼業に一切関わることはなかった。自然、夫婦仲も冷めたものになっていく。
「そんな中、ふたり目の娘が産まれたときのことよ。薫子に、京都で暮らしていた頃から親しくしていた男性……いえ、はっきり言いましょう。彼女には、外に恋人がいることがわかった。当然、ふたりの子どもは本当に貴明の子なのか、誰もが疑念を覚えたわ。佐倉の血を持たない者に、この家を継がせるわけにはいかないのですもの」
当時まだ幼いとはいえ、茜が術者としての才に恵まれていないことが誰に目にも明らかだったことも、その疑いに拍車をかけた。そのため、薫子が産んだふたりの子どもと、貴明の間に親子関係があるのかどうかを、DNA鑑定という手段で確かめることになる。
――その結果は、茜が貴明の子である確率は九十パーセント以上。
しかし、まだ名づけられてもいなかった赤子のそれは、限りなくゼロに近かった。
「え……? しかし、それは」
あり得ない。
そう言いかけた皓を視線だけで制した祖母は、小さく息を吐く。
その後薫子は、不義の子を産んだとして三条家からも表向きは勘当され、佐倉家が都内に用意した家に子どもたちを連れて移り住むこととなった。だが、茜の親権だけは渡さないと頑強に主張したのだという。
力の乏しい我が子を佐倉の稼業に関わらせるつもりはない、後継が欲しいのならほかの女と新たに子をもうければいい。ただし、今後も茜に父親と名乗りたいのなら、茜が二十二才になり、大学を卒業する年までは離縁はしない、と。
あまりに勝手な薫子の言いように、佐倉に連なる者たちは激怒した。しかし、幼い茜自身が母親から離れることを拒んだ。貴明のはじめての子である茜に対し、佐倉家の面々もやはりひとかたならぬ思い入れがあった。そのため明仁も、最終的にその望みを受け入れざるをえなかったのだ。
――そして、戸籍上は貴明の子であっても、佐倉の血を持たない赤子は、誰からも望まれぬ子どもとなる。その後貴明が遠縁の娘を内縁の妻に迎え、皓という申し分ない後継が誕生し、数ヶ月先に茜の二十二才の誕生日を控えた今。佐倉家の誰もが貴明と、皓の母親、凪子との婚礼を祝福する準備に追われている今になって。
「――茜と優衣は、間違いなく薫子が産んだ子。けれど、貴明の子はそのうちひとり」
「おばあ、さま……」
「私たちは、赤の他人の子を、今まで可愛がっていたということね。まるで、愚かな鳥のようじゃありませんか」
皓は、掠れる声を震わせた。
「そん……な」
なんて馬鹿な。
そんな、馬鹿な話が。
「――貴明」
それまで端然と座したままだった明仁が、はじめて口を開いた。
「は……」
「西に派遣している人員を、すべて引き上げさせろ。李家の玉蘭殿に連絡し、三条との取引をすべて白紙に戻すよう通達を」
翠蘭の実家である李家は香港を拠点とする術者の一門で、特殊な歌と舞いによる「魂鎮め」を得意とする一族だ。その始祖の血を引く証である瞳を持つ皓は、李家の現当主であり、翠蘭の姪にあたる玉蘭に、幼い頃から随分可愛がられていた。
李家の血を持つ人間は、少々変わった特徴を備えている。生まれたときにはみんな黒い瞳をしているのが、成長して思春期を迎えると、数人に一人の割合でこのような色に変色するのだ。
見る者が、宝玉のようなと讃える紫藍の瞳。中でも女性にこの瞳が現れることは非常に珍しく、皓が優衣のほかに知る限りでは、現李家当主の玉蘭のみ。一族の血を誇る苛烈な女性が、この顛末を知ったなら――
「……玉蘭殿には、私の方から伝えましょう。あの方の気性では、すぐにでもこちらに飛んできかねませんもの」
ゆるりと着物の袖で口元を隠して言う翠蘭に、貴明が表情を険しくしたまま頭を下げる。
「……皓」
ひび割れた、父の声が。
「……どんな、娘だった」
本当に、彼が一度も、娘を見ようとしたことがなかったのだと。
「あのひとは……」
きれいだと、思った。
だけど。
「泣いて、いました」
――多分。
自分たちは、憎まれることすらきっとできない。