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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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過去の傷

「タカ」


 あきらとの対面を終え、薄暗い廊下に出た貴明を待っていたのは、相変わらずヒゲ面もむさ苦しい側近筆頭の西園寺だ。


「明緒が、戻ってるんだって?」

「ああ。どういうわけか、翔くんと一緒にいたらしい」


 へぇ? と意外そうに片眉を上げた西園寺は、歩き出した貴明の右後ろ、彼の定位置にしっくりとおさまる。


「なぁ」

「なんだ?」


 一拍置いて、西園寺は言った。


「――明緒がおまえから距離を取るようになったのは、別におまえのせいじゃねぇぞ」

「知っている」

「そうか……って、おいぃ!?」


 珍しく声をひっくり返した西園寺に、貴明は小さく苦笑を浮かべる。


 それくらい、わかっている。


 明緒が貴明から距離を置くようになったのは、彼がまだ十歳のときのことだ。


 幼い子どもが遊び半分で放った攻撃術式によって、貴明は瀕死の重傷を負った。


 それからというもの、明緒はまるで一息に大人になってしまったかのように変わってしまった。


 ――あきらに語ったことも、決して嘘ではなかったけれど。


 哀れなほどに聡い弟は、貴明がどれほど複雑な想いを抱えていようとも、結局は彼を憎むことなどできないのだということを、きっと本人以上にわかっていた。


 だから、貴明が弟から距離を置こうとも、その天真爛漫な姿を見ることに苦痛を覚えようとも、まるで無邪気な仔犬のように、いつだって慕う瞳を隠そうともしなかった。


 あの美しい野生の獣のような存在は、己に向けられる感情の本質を、いとも容易く見抜いてしまうから。


 まだ幼かった彼にとって、貴明は『自分よりも遙かに大きな兄』だった。


 その兄が、些細な悪戯のつもりで放った術式を躱せない、防げないなど、きっと想像することもできなかったのだろう。


 周囲の人間もまた、幼い頃からあまりに聡明だった彼が、自分と相手との力量の差を看破できないことなどあるまいと過信していたのかもしれない。


 思慕や信頼などという感情は、容易くその目を曇らせるものであるというのに――それが幼い子どもであるなら、尚更のこと。


 だから、貴明は意識が戻ってから明緒を責めるようなことはしなかった。


 その顔を見れば、とうに彼が罰を受けていることはわかっていたから。


 彼を厳しく叱ったのは、恐らく明仁。


 そして、彼を許していないのは明緒自身。


 ならば貴明にできることは、彼の代わりに許してやることだけだった。


 どれだけ情けない兄でも、せめて幼い弟に対して、それくらいはカッコつけたいと思ったのかもしれない。


 自分でもよくわからないし、それが正しいことだったのかどうかも、いまだにわからない。


 貴明は、ゆっくりと西園寺に告げる。


「だがあのとき、明緒の術式を防げない私の未熟さが原因であったことも、また事実だ。……どちらにせよ、昔の話だ」


 西園寺は、ぐっと眉を寄せた。


「ならなんで、あいつは佐倉に戻らない?」

「さてな。本人に聞いてみたらどうだ」

「あいつの中で、あのときのことがまだ『昔の話』になってねェからじゃねえのか」


 貴明は少し呆れた。


「おまえこそ、いつまで明緒を子ども扱いするつもりだ。そんなことが本人に知れたら、冗談抜きにあの世逝きだぞ?」

「バッ、誰がそんな恐ろしいことをするかってんだ! ただ――」

「ただ、なんだ?」


 ちらりと視線を向けると、西園寺は気まずそうに顔を背ける。


「……あいつは、ある意味おまえよりもずっと脆い。それっくらい、わかってんだろ」


 誰よりも強く美しく、周囲からの賞賛も賛美も嫉妬さえもすべて、傲慢なまでの奔放さで撥ね除けてきた白の子ども。


 あらゆるカミをその言霊ひとつで従えてみせる、巫の司。


 幼くして周囲からそんなふうに呼ばれ続けてきた明緒は、それゆえにひどく孤独だった。


 だからこそ、彼は最も身近な肉親であり、同時に『決して自分を憎まない』存在である貴明にひどく執着していた。


 あのとき明緒は、自分はもうこんな高度な術式を使えるのだ、と貴明を驚かせるつもりだったようだ。


 倒れ伏した貴明が生死の境を彷徨っている間、父の明仁に生まれてはじめて顔の形が変わるほどに殴り飛ばされても、母の翠蘭に抱き締められても、彼は涙ひとつ零さぬほどに自失していた。


 そんな哀れな子どもの姿を、ただ見ていることしかできなかった西園寺たち側近衆にとっても、あの一件はひたすら苦い記憶でしかないのだろう。


 誰よりも慕った相手を己が手で殺しかけてしまった彼が、貴明の前で笑わなくなったのはそれからのことだ。


 まるで、自分にはそんな資格などないのだと言わんばかりに、頑なに。


 以来明緒は、どんな些細なものでも攻撃術式を使うことはなくなり、そうして十八の春にふいと佐倉の家を出ていった。


「西園寺」


 貴明は小さく苦笑を滲ませ、背後を歩く側近を見遣る。


「私は、明緒を憎んだことはない。そして、明緒もそのことを知っている。――あいつは、おまえが思うほどに弱くはない」

「……タカ」

「確かに、私よりもおまえや父上の方が、きっと明緒の気持ちを理解できるのだろうな」

「そういうことを言ってんじゃ……!」


 声を荒らげた西園寺の言葉を、静かに遮る。


「だが私はもう、そんなことでひがむような年でも立場でもない。理解はできずとも、私は明緒の兄で、あいつを大切に思っている。……あいつがどうして佐倉に戻らないのか、私にはわからん。だが、それがあいつの選んだ結果なのだということだけは、わかっているつもりだ」

「……おまえは、それでいいのか?」

「何がだ?」


 珍しく、チッと舌打ちして顔を背けた側近に、貴明は苦笑を深めた。


 弟の明緒が佐倉に戻ることを、一族の誰もが望んでいることは知っている。


 類い希な彼の力、それは同時に諸刃の剣だ。


 それゆえに彼もまた、優衣と同じく幼い頃に幾度もその身を狙われたことがある。


 もちろん、当時本家の庇護下にあった彼は、優衣のように実際に攫われるようなことはなかったけれど。


 いまだに攻撃術式を使うことを己に禁じている彼が、ひとり『外』に出たままであることに不安を覚えないわけじゃない。


「――恐らく、だがな。あいつは佐倉に戻りたくないわけではないんだろう」

「は?」


 ならばなぜ、と顔をしかめた西園寺が納得できるような答えを、貴明は持っていない。


 ふと、庭を照らす白金の月に目を奪われる。


 昔からその光を見るたび、弟の髪のようだと思っていた。


 柔らかく光を撒くその姿は、決して人の手に触れることは叶わない。


 月光を縒り合わせたかのような髪をくしゃくしゃにして、貴明にまとわりついていた小さな子どもは、もういない。


(おまえは、何をしたいんだ? ……明緒)


 この佐倉という安全な場所を出て、ひとり『外』の世界で――そちらは決して、異能を持つ人間に優しいところではないのだろうに。


 西園寺の言うように、明緒は持つ薄刃のような鋭さは、繊細さと表裏一体の危ういものだ。


 彼自身もその危うさを本能的に理解しているのか、他人が己に必要以上に近づくことを好まず、一歩引いたところから周囲を眺めているのが常だった。


 そんな彼が、家族以外の人間を己の内側に入れたところを、貴明はいまだに見たことがない。


 だが――もしかしたら、見つけたのだろうか。


 彼の力を目の当たりにしても恐れず、媚びず、ただ対等のひとりの人間として見てくれる誰かを。……そんな人間が『外』にいるなんて、少し信じられないのだけれど。


 いつからだろう。


 明緒と電話越しに話をするとき、その声が少し柔らかくなったようだと感じたのは。


 そして数年前、「ちょっと顔を見にきた」と言ってふらりと帰ってきたとき、彼は貴明に対してぎこちなくではあっても確かに微笑を浮かべた。


 だから、彼に対してそんな影響を与える誰かが現れたのだろうと思い、ほっとした。


 いい友人ができたようだな、と言った貴明に、明緒は「あんなはた迷惑な役立たずで、浅はかで無能で短慮で考えナシで、ひとの苦労をまるで考えない阿呆が、友人なんていう高尚な呼び方をされるような人生、オレは心の底からご免被る」と即答した。


 彼が他人に対して、そこまで詳細に形容することができることに、ひどく驚かされたものだ。


 貴明の知る限り、明緒にとって「他人」というものは、常に『有益か無益か』でしか分類できないものだったから。


「おまえたちの気持ちも、わからなくはないが。私からあいつに家に戻れと言うつもりはないよ」

「……そりゃまぁ、明緒にとっておまえの『命令』は、いまだに絶対だろうからな」


 はぁ、と溜息をついた西園寺が、がしがしと首の後ろを掻く。


「ただ、これだけは覚えておけよ。――確かにおまえの言う通り、明緒は弱かねえ。それどころか、本気になったあいつの相手なんざ、当主レベルじゃなけりゃ無理だろうよ」

「ああ」


 それがなんだ、と視線を返した貴明に、西園寺は薄く唇を歪める。


「『外』に出て、確かに少しは変わったんだろうさ。けどな、タカ。おまえに何かあったら、あいつは壊れるぞ」

「何を――」


 バカなことを、と続けようとした言葉は、西園寺の視線に遮られた。


「ずっとおまえらを見てきたオレたちにとっちゃあ、当たり前すぎて確認するまでもないことなんだがな。……明緒は、攻撃術式を使わないんじゃねえ。使えねぇんだ」


 もしかしたら、と薄々思っていたことをはっきりと告げられ、込み上げてきた苦いものを噛み殺す。


「トラウマ、なんて一言で言っちまえば、それまでのことなんだろうがな。十かそこらのガキが、大好きな兄貴が自分のせいで血まみれになってぶっ倒れるところを目の前で見て、平気でいられるわけがねぇだろう?」

「……ひとの不甲斐なさを、そう抉ってくれるなよ」


 西園寺が一層苦々しげに睨みつけてくる。


「アホか。――明緒の強さを過信するな。どれだけナリがでかくなろうと、あいつの中には十歳のままのガキが残ってる。おまえを殺しかけて、泣くこともできずに自分を呪い続けてる、どうしようもねぇバカなガキがな」


 信じて手を放すことと、無関心であることはまるで違う。


 けれど同時に、端から見ていてこれほど似ているものもない。


「そりゃあ、昔っからあいつは一どころか、何も言わなくてもこっちの言いたいことを丸ごと理解するような、可愛げも何もあったもんじゃねぇガキだったが――それでも、言葉ってもんが必要なこともあるんじゃねぇのか」


 たとえ、既に伝わっていることであっても。


 形にしてはじめて、確信できるということはあるのだから。


「私たちにも、会話が足りないと?」


 先ほどあきらに告げた己の言葉をそのまま向けられたようで、貴明は小さく息をつく。


 どうやら、他人のことほどよく見えるというのは、確かに真実であるようだ。


 だからこそ、大切にするべきものが多すぎる貴明には、こんなふうに目を配ってくれる側近たちの存在が欠かせない。


 他人に任せられることならば構わないが、自分にしかできないことを取りこぼして、あとで身を切られるような思いをするのは、これ以上は本当に勘弁してもらいたい。


 幼い頃の明緒も、優衣も、貴明は守ってやることができなかった。


 守りたいものを守れない悔しさ。


 それを貴明はもう、いやというほど知っている。


 優衣のそばには、翔がいる。


 あの他人と関わることについては、ちょっぴり――否、かなり難のある弟のそばには、誰がいるのだろう。


「……それを聞いてみるくらい、兄としてはしておいた方がいいんだろうな」

「何?」


 訝しげに眉を寄せた西園寺に、いや、と短く応じる。


「たまには、兄弟で月見酒も悪くないかと思っただけだ」


 あの月光を宿して生まれてきたような弟がこの家を出ていったとき、それが彼の意思ならばと理由を問うことすらしなかった。


 だが確かに思い返してみれば、明生に対しては「言わなくても伝わる」ことが多すぎて、言葉を交わす機会はそれほど多くなかったように思う。


 そうか、とうなずいた西園寺は、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


「そういえば、そろそろ翠蘭さまが戻られるんじゃなかったか?」


 翠蘭は先日京都に出向いた明仁に同行しているが、それは三条家との話し合いの場に同席するためではない。


 彼女は可愛い孫娘のために、最高の正月用晴れ着を吟味するという崇高なる使命を帯びて、目利きの家人とともに呉服店を渡り歩いているのである。


 今回はこれといったものが見当たらなかったため、明仁よりも一足先にこちらに戻ると連絡があったのが昨日の午後のこと。


「いや……。それが今朝になって、ついでだからそのまま石川の方へ行くとおっしゃってな」

「はぁ……」


 翠蘭は、表向きはどこまでもにこにこおっとりと優衣を見守っているようでいて、その溺愛っぷりはハンパではない。恐らく彼女は孫娘にピッタリの晴れ着を見つけだすまで、情熱を途切れさせることはないだろう。


 彼女は息子たちが幼い頃には、彼らが何かやらかすたびに比喩ではなく、荒縄でぐるぐる巻きのミノムシにして庭木に逆さ吊りにするような母親だった。


 だが、『成人した男を教育するのは世間さまです』という持論の持ち主である彼女にとって、目下気にかけるべきはまだまだ幼い孫たちである。


 自分たちがいよいよどうしようもない事態になったなら、きっと助言のひとつくらいはしてくれるのだろう。


 しかし、「いい年をした男がいつまでも母親に頼るものじゃありません、鬱陶しい。あなたたちをマザコンに育てた覚えはありませんよ」と言われるのがわかりきっていて尚、母親の時間を邪魔できる勇気など、貴明にはない。


 ……明緒が明仁や翠蘭よりも貴明に懐いていたのは、野生の獣のようなところのある彼にとって、明らかに自分より上位の存在である両親よりも、なんの威圧感もなく、それでいて間違いなく自分と同じにおいのする貴明のそばが居心地よかったからではないか、などと言ったのは誰だったか。


 なんにせよ、側近の西園寺が「見ていて不安だ」と言うのなら、確かに自分たちには会話が足りないのだろう。


「……西園寺」

「なんだ?」

「賄い方に酒の支度を頼む。――それから」


 先日妻の凪子から言われたことを思い出し、貴明は小さく息を吐いた。


「倉の管理の方から苦情がきているぞ。おまえが山形の『十四代』を気に入りなのはわかっているから、コッソリ晩酌用に持っていくのはやめてくれ、だそうだ」


 西園寺は、いかにも驚いたというように目を丸くする。


「は? 誰もコッソリなんてしてねえぞ?」

「賄い方の許可も得ず、出納帳に記載もせずに強奪していくことを、婉曲かつ穏便な表現方法を用いて言っているだけだと思うが」


 じろりと睨みつけると、西園寺はあらぬ方を向いてほりほりと頬を掻く。


「あー……。だって、面倒くせぇんだもんよ」

「もう一度管理の方から苦情がきたら、おまえに蔵への出入り禁止令を出す」

「うおい! 酒なんてモンは、思いついたときに呑めるから美味いんだろうが!」


 慌てふためく西園寺に、貴明は呆れた。


「……やはり確信犯か。トイレで煙草を吸う子ども並だな」


 まだ何やらぶつぶつと言っている西園寺には、いっそ凪子から直接苦言を呈してもらった方がいいのかもしれない。


 いや、無理か。


 このところ翠蘭が留守にしている分、忙しさに輪が掛かっている凪子にそんなことを頼もうものなら、「次にやったら、その学習能力というものに欠けるとぼけた脳天に、角盆を叩き込んで差し上げますが、よろしいですわね?」とにっこり笑われた上に、懲りるということを知らない西園寺が本当に脳天を割られてしまいかねない。それは困る。


 そんなリアルすぎる未来予想図から意識を戻した貴明は、雲が切れ、一層青みを増した月を再び見上げた。


(――無理に戻れ、と言うつもりはないんだが)


 もう少し、こまめに顔を出すように言うくらいはいいだろう。


 どれだけ力が足りずとも、弟の幸福を願うのは、兄の正しい権利であるはずなのだから。

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