大切なこと
あきら殿、と耳に柔らかく響く声で名を呼ばれて、居心地の悪い気分で畳の目を数えていたあきらは、ぱっと顔を上げた。
(うー……)
こちらでお待ちください、と案内された小さな和室。
勧められた座布団はふかふかすぎて、なんだか却って据わりが悪い。
濡れ縁に面した障子は、すべて開け放たれている。
息苦しい雰囲気はまるでなくとも、明らかに「格上」の相手が目の前にいて、何か粗相をしようものなら、自分だけではなく一門全体の恥になるのかと思うと、どうにもやりづらい。
「どうぞ、楽になさってください。互いに一門の次期当主という立場に変わりはないのです。それほどかしこまることはありませんよ」
にこりと穏やかにそんなことを言われても、父親のような年の相手である。
しかも、佐倉と斎木ではその規模も歴史も何もかも比べものにならないというのに、家出娘の自分がコソコソ逃げ出したくならない方がおかしいと思う。
――それにしても、これが佐倉貴明。
まさか、佐倉の次期当主が直々に現れるとは少々……いや、かなり予想外だった。
御大が出てこなかっただけマシなのかもしれないが、あきらがタイマンで相手をするには、どちらにしても大物過ぎる。
暇なわけでもあるまいに、なぜ彼はこんな小娘の相手をわざわざしにきたのだろうか。
あきらは不思議に思って、とりあえず相手を観察してみることにした。
(あ。そういやこのひとが、あのお嬢さまの父親ってことかぁ……。うむ、ナイスダンディ。あんまり似てないけど)
タイプは違うが、この家の人間は美形が多くて、つくづく目の保養である。
佐倉家の縁者には異国の人間が多いと聞くし、多民族の血が入り交じると美形が増えるという話は本当なのかもしれない。
ここまできたら、実家に引き渡されるだろうことはもう仕方がないと諦めている。
だが、佐倉家だって一度あきらを捕獲し、斎木家に対しする義務を果たしたなら、それ以上手出ししてくることはないだろう。
さすがに佐倉家の人々を相手に大立ち回りをするつもりはないが、身内相手なら問題ない。
隙を突いてまた逃亡を図ればいいか、と呑気に考えていたあきらは、ふと貴明がほほえんだ気配に、はっと意識を引き戻された。
彼は穏やかな声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「家を継ぐことが、おいやでいらっしゃいますか」
「……いえ」
どうしてか、そう答えていた。
あの眼鏡美人の笑顔には問答無用で逆らえない何かがあったけれど、貴明の言葉はあんまり穏やかで、咄嗟に嘘を返すことができなかった。
ならばなぜ斎木家の後継という立場から逃げるのか、と重ねて問われることを覚悟して、あきらはぎゅっと無意識に拳を作る。
しかし、それから笑みを絶やさないまま続けられた言葉は、あきらの予想とはまるで違っていた。
「私には、弟がひとりおりましてね」
「……はぁ」
そんな人物の話を、今まで聞いたことはない。
彼の娘の存在も今日まで知らなかったのだから、特に不思議とも思わず話の先を待つ。
「随分年が離れているものですから、弟というより子どものような気分で、幼い頃は可愛がっていたものですが。――彼は、私などとは比べものにならないほど、術の才に溢れていました。天才、とは彼のためにある言葉なのだと、そう思いましたよ」
柔らかな口調で語られる言葉が、不思議なほど真っ直ぐに染み入ってくる。
「身内のことをこのように語る恥ずかしさは、重々承知の上ですが。私の父もまた、天つ才を持つ人間です。ですが、私はそうではない。そんな人間が長子として生まれた、それだけの理由でこの家を継いでよいものなのかと……いえ、正直に言いましょう。私は、弟の才を羨みました。あれほどの才が私にあれば、誰も私がこの家を継ぐことに、余計な不安を覚えたりすることはなかっただろうに、と」
ゆっくりと静かに語られる言葉はどこまでも穏やかで、当時の彼の煩悶を思わせるものは何もなかった。
けれど。
「私は、兄として私を慕ってくれる弟を、修行の忙しさを言い訳に遠ざけました。――彼を、憎みたくなかったから。私が必死に努力しても為し得ぬことを、遊び半分に為してしまう彼を見ていたくなかったから。そんな私の卑小な心根を、弟もまた理解していたのかもしれません。いつしか私に必要以上には近づいてこなくなり、そして気がついたときには、彼は私の前で笑うことがなくなっていました」
悔やんでいるのだ、と。過去の自分を。
それだけは、痛いほどに伝わってきた。
「大切な者を遠ざけることは簡単です、あきら殿。自分の心から目を背けてしまえばそれで済む。ですがそれは、あなたを大切に想う方を傷つけてまで、せねばならぬことなのですか?」
違う、と言いたかった。
傷つけたかったわけじゃない。そんなことを、思うわけがない。
けれど、自分がしたことはそういうことでしかないのだと、どんな言い訳をしようと結局はそんなふうにしか受け取られないものなのだと――本当は、わかっていた。
「まだ間に合います。あきら殿」
静かに紡がれる声に、少しでも責める色があればよかったのに。
そうすれば、それに反発して、何か言い返すことができたかもしれないのに。
「あなたはまだお若い。不安に思うことも、迷うことも多くありましょう。けれどあなたは、決してひとりではないのです。すべてを抱え込んだまま去られては、残された方々はどうしてよいかわからない。――それは、とても悲しく、寂しいことです」
「……っですが、私は……っ」
ならば、どうすればよかった。
逃げるしかないと思った。それが一番いい方法だと思ったから逃げ出したのに、そんな自分が一体どうすればよかったというのか。
混乱して見つめた先で、貴明は少しだけ困ったような顔をしてほほえんだ。
「これは、私が言うべきことではないのかもしれませんが。――綾人殿は、あなたのことをとても大切に想っておられますよ」
「……え?」
思わず、声を零す。貴明はゆっくりと言葉を重ねた。
「こちらにあなたの捜索を依頼にこられた際に、おっしゃっていました。どうか、あなたを傷つけないで欲しい、と」
目を見開いたあきらに、貴明は笑みを深めた。
「一度、きちんとお話をされてはいかがですか。綾人殿は、あなたとの思い出をとてもよく覚えていらした。ですが、今のあなた方は、お互いのことをあまりわかっていらっしゃらないように思えます」
「お、思い出……ですか?」
咄嗟に問い返してしまったのは、あの融通の利かないカタブツ男が、佐倉家の次期当主に自分のことをどう語ったのかが気になった――というより、自分の中にろくな記憶が残っていないからだ。
そうですね、と軽く首を捻った貴明が口を開く。
「あなたが六歳の頃、モモンガに憧れてシーツの端を両手両足首に結び、二階の窓からダイブしたときには、心臓の止まる思いをしたそうですよ」
「……っ」
「それから、いくら仲よしの少女をいじめられたからとはいえ、九歳の少女が同級生の少年五人をぼっこぼこにした挙げ句、ズボンとぱんつを強奪して校庭のど真ん中に蹴り出すのは、少々やりすぎではなかったかと。それに――」
「わあああぁー! もう、もう結構ですっ!」
(あんっっの、アホくそたわけー!!)
一体、なんということをべらべら吹聴してくれているのか。
真っ赤になって悶絶したあきらに、貴明は楽しげに笑ってみせた。
「大丈夫ですよ、あきら殿」
ゆっくりと、小さな子どもに言い聞かせるように。
「一度、綾人殿に思いきりわがままを言ってみるといい。思いのほか、あっさりと聞いてくれるかもしれませんよ」
……それは、確かにそうかもしれないけれど。
俯いたまま、きゅっと唇を噛んだあきらの心を見透かしたように、貴明は静かに言葉を紡いだ。
「綾人殿は、あなたが『如月』の継承者でなければ、言葉に耳を傾けないような方ではないでしょう?」
そんなことは、誰に言われるまでもなく知っているはずなのに。
こうして改めて告げられると、なぜだか鈍く胸が疼いた。
「少なくとも、綾人殿はあなたと話をしたいとおっしゃっていました。話をして、あなたを理解したいと。そのお気持ちだけは、信じて差し上げなければなりませんよ」
「……はい」
どうしてだろう。
物心ついたときから、誰かの前で泣きたいなんて思ったことはなかったのに。
今、目の裏が熱くて、瞬きなんかしたらその熱いものが転がり落ちてしまいそうで、怖くてできない。
俯いて唇を噛んだあきらにそれ以上言葉をかけることなく、短く辞去の挨拶だけを残して、貴明は去っていった。
――逃げるな、と言われた気がした。
貴明が己の過ちを語ってまで自分に伝えたかったのは、きっとそういうことなのだと思う。
一門の当主となり、一族の命運を背負うことがどれだけ重たいことなのかなんて知らない。
今はまだ、知らなくてもいい。
いずれそんなことは、いやでもわかる。それまでは何があっても自分たちが支えるから、あまり気負うな。
そう言ってくれる人たちがいたから、怖いとも思わなかった。
なるようになる、と。
どうせ『如月』の選定を覆すことなど誰にもできないのだから、考えても仕方のないことは考えない。
だから、今自分にできる目の前のことだけを精一杯こなしていけばいいのだと、そんなふうに思って――みんなが、そう思わせてくれた。
自分は恵まれている、と心底思った。
(……でも)
誰もが予想しなかった、自分という存在が『如月』の選定を受けたことで、壊れてしまったものが確かにあって。
それを元に戻したいと願うことは、いけないことなのだろうか。
すぐ目の前にあった、大切な存在の幸せな未来を取り戻したいと思うことは、愚かなことなのだろうか。
そんなことを考えていると、深山幽谷を水墨で描いた襖の向こうから、失礼します、と声がした。
「斎木綾人さまがお越しになりました」
「ぅはいっ」
心の準備がまだの上に、思いきり声がひっくり返った。
そして、容赦なくすらりと開いた襖の向こう。
覚えているより少し窶れたその顔にどうしようもなくほっとしている自分と、相手の瞳が完全に説教モードに入っていることに気づいてすかさず逃げ出したくなっている自分の、一体どちらを信じればいいのかわからない。
あきらは改めて『如月』をしばき倒したい衝動に駆られた。
(てめえがあたしを選んだりしなかったら、こんなことにはならなかったんだぞ、このあほんだらあああぁーっっ!!)
本当に、カミサマというのは何を考えているのかわからない。




