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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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柴田源三

 結局、翔は優衣に自分の血まみれズタボロの格好を見られるようなことにはならなかった。


 なぜなら、あのとき――不思議な歌声でその場に満ちていた瘴気や毒気をすべて大気に溶かしてくれたとき、優衣はかなり無茶なことをしてしまったらしく、翔が佐倉の本家に到着したときにはまだ意識不明の状態だったのだ。


 それを聞いて蒼白になったものの、既にすべきことはしてある、あとは目が覚めるのを待つだけだからと、そのままバカでかい医療棟に放り込まれた。


 はじめて足を踏み入れる本家の医療棟は驚くほど広く、また最新鋭のものと思しき機材設備が整えられていた。


 そこの責任者だというじーさまが、盛大にしかめっ面をしながらも、見事な手際で治療を施してくれる。


 右肩と脇腹の裂傷が少し厄介だったが、あとは掠り傷だ。


明緒が的確に止血していてくれたお陰で、傷の割に失血が少なかったのは幸いだった。


「――至近距離で、ひとを複数殺したばかりの禍物の攻撃をなんのガードもなしに受けただと? おまえさん、実はもの凄いアホなのか?」


 柴田、と名乗ったじーさま医者の言葉にはまったく弁解のしようもない。


 だが言い訳をするなら、翔と晶の距離はあのときかなり離れていて、障壁の展開に意識を割いている余裕などなかったのだ。


 辛うじて近くまでは移動できたものの、吹っ飛ばされた翔の体はそのまま晶を巻き込んでしまった。


 直接彼が地面に叩き付けられることのないよう、抱え込んで庇うことができたのは、長野での血と汗と涙の滲む特訓のお陰だろう。真面目に修練をしていてよかった。


 頬の傷を精製水の霧吹きで清めたじーさま――柴田は、皺深い眉間にますます深く皺を刻んだ。


 ふう、と息を吐いて、ゆっくりと口を開く。


「当主から、とうに言われたことであろうが……。我らはみな、おまえさんに感謝しとる。優衣さまを、そのお心をずっと守ってくれておったことには、どれだけ感謝をしても足りぬと思うとる」

「……いえ、オレは――」


 守れてなんか、いなかった。


 ずっと傷つけてばかりで、泣かせてばかりだった。


 まだ優衣がこの家に入る前――週に一度、訓練のために訪れていた頃のことを思い出す。


 優衣が気配をコントロールする訓練をしている間に明仁や翠蘭、貴明、凪子に揃って頭を下げられたときにも、同じいたたまれなさを感じた。


 あんなふうに優衣を傷つけた連中を許せないと思いながらも、そんなきっかけがなければ手を差し伸べることもできなかった自分の情けなさを、改めて思い知らされるようで。


 過去のことならば、いくらでも「あのときああしておけば」と言うことができる。


 優衣の生みの母親と姉は、世間体を取り繕うことには長けていたから、優衣を端から見てもわかるほどに痛めつけるのはほとんどが長期の休みの間だった。


 傷を負わせても家政婦にきちんと治療をさせて、「そそっかしい子どもがひとりいると、本当に心配が絶えません」などという言葉を、ぞっとするような笑顔で言っていた。


 優衣のようにおとなしいばかりだった子どもが、あからさまに顔を殴られた痕をつけて登校しても、教師たちは「イジメられているのか」と通り一遍の心配顔をするばかりで、優衣が「違う」と応じればそれ以上積極的に動くことはなかった。


 それでも、もし――翔がただでさえ彼の「異常さ」のために心を痛め、また自分たちの生活を支えるために忙しく働いている両親におかしな引け目を感じることなく、優衣を助けてくれと訴えていたら。


 もしそうしていたなら、きっと彼らならばあまりにも子どもだった自分の代わりに、優衣を助け上げてくれただろう。


 自分の両親ならば、こちらの話を最初から否定することなく、きちんと話を聞いてくれただろうと、今なら思える。思うことができる。


 けれど、あの頃は翔自身もまだ、自分の「異常さ」とどうつきあっていけばいいのかわからなかった。この力で、取り返しのつかないほどに誰かを傷つけてしまうのではないかと、考えずにはいられなかった。


 もしそのせいで家族に背を向けられたらと思うと、恐ろしくて仕方がなくて――そんな自分の臆病さが、一番大切なことがなんなのかをわからなくさせていた。


 助けてくれ、と。


 自分にはできないから、どうしたらいいのかわからないから助けてくれ、と周囲に求めることは当たり前のことのはずなのに、そんなことさえ見えなくなっていた。


 そんな自分の愚かさが、優衣をずっとあの地獄のような家の中に閉じ込めた。


 愛している、なんて口にする権利は、もしかしたら自分にはないのかもしれない。


 それでも、どうしても――失えない。


 面影を想うだけでこんなにも胸が震えるのに、どうして手放せる。


 きつく拳を握り締めた翔に、柴田はゆっくりと口を開いた。


「――感謝を、しとるよ」


 静かな声だった。大木のように揺るぎなく、ずしりとした重い響きの。


「優衣さまが、ご家族の内で最初にお心を開いたのは皓さまだ。――優衣さまがお育ちになった境遇を思えば、そんなことはそうそうあり得ることではなかっただろうに」

「……え?」


 思わず顔を上げた翔に、捉えどころのない笑みが向けられる。


「考えてもみぃ。優衣さまのように育ったお子が、同じ血を分けた、同じ年頃の、ご自分とよく似た姿の子どもがずっと家族に愛され、ぬくぬくと幸せに育てられていたことを知って。――相手を少しも羨まず、憎まず、なぜ自分ばかりがと思わずにいられるものかの」

「それ、は……」


 考えたこともなかった。


 優衣が、皓を――弟という存在を憎んでしまう可能性なんて。


 そして、それが決してありえないどころか、多分に起こりえたことだったのだと気がついた瞬間、血の気が引いた。


「あの当時、優衣さまが『家族』というものに既になんの興味も抱いていなかった。だから、皓さまを憎む必要もなかった。確かに、そういうことであったのかもしれん。――だが、それだけであったのなら、あれほど早くに優衣さまが皓さまを受け入れられることも、それをきっかけにしてご家族を受け入れられることもなかっただろうよ」

「でも、優衣は――」


 言いかけ、しかしそれ以上なんと言っていいのかわからなくなってしまった翔に、柴田はゆっくりとうなずいた。


「そうじゃな。優衣さまは皓さまを、不思議なほど素直に愛おしんでおられる。もちろん、それは皓さまが優衣さまを心から慕っておられるからというのもあるじゃろう。だがな、恐らく優衣さまの中で『弟』という存在が、愛おしんで大切に守るものだと、そう位置づけられているのではないかと思う。――おまえさんが、ずっと弟御を大切に守っていたことを、優衣さまはずっとご覧になっていたのであろうから」


 翔は今度こそ、言葉を失った。


「優衣さまは、お優しい方だ。聡明で、お強い方でもある。だが、そばにおまえさんがおらんかったら、優衣さまはきっと皓さまやご家族のことを、今のように受け入れることなどできんかっただろう」


 だから、感謝をしている。


 そう静かに告げられて、込み上げてきたものを、翔は奥歯を噛んでどうにか堪える。


 胸が、ひどく痛かった。


 ――何もできなかったと思っていた。


 ただそばにいるだけで、優衣が人形のように日々を繋いでいることを見ていることしかできなくて。


 そんな自分の弱さを、どれだけ呪ったかわからない。


 けれど、そうではなかったのだろうか。


 自分がそばにいた、ただそれだけのことで、優衣の心にほんの少しは柔らかな何かが宿っていたのだろうか。


「――だからの、おまえさんにはもうちょいと自分を大切にしてもらわんと困る。おまえさんに何かあるたび、優衣さまにあんな無茶をされては、貴明さまと皓さまの胃が保たんわ」

「無茶、って」


 一体どんな、とそれこそ胃が縮むような思いで問い返す。


 柴田の目が、わずかに細まる。


「貴明さまが、優衣さまに贈られた制御腕輪のことは知っておろう? あれをそばに誰もおらぬというのに外された上、李家の鎮め歌を対象の特定もされずにお歌いになられての。報告によると、そのとき佐倉の守護結界を張っていた者たちすべてのところで、瘴気や毒気が根こそぎ浄化されてしまったらしいぞ」


 ひく、と翔の口元が引きつる。


「お陰でみな、さっさと仕事が片付いて感謝感激雨あられというところなのだが。当然、そんな無茶苦茶な力の使い方をした優衣さまは、歌い終えた途端にきっちりぶっ倒れてくださってのー」


「……っ」


「まったく、伯凰さまが香港にお帰りになられたばかりだというのに。――今回はどうにか、貴明さまと皓さまで暴走を抑えられたからよかったがのう。おまえさんにまた何かあれば、優衣さまは間違いなく同じことをされるであろうし……」


 はあぁ、とわざとらしく溜息をつかれて、翔はがたんと治療用の丸椅子を蹴って立ち上がった。


「すいませんでした! 以後、気をつけますっ!」


「優衣さまはここを出て右、ふたつ目の角を左、次を左に行って突き当たりの芙蓉の間でお休みじゃー。そろそろ、目を覚まされる頃合いではないかのう」


「ありがとうございます!!」







 慌ただしく医療棟を駆け出していく少年の後ろ姿を見送ると、柴田は彼が廃棄物入れに放り込んでいった血だらけのジャケットとTシャツを眺めた。


 余った包帯を巻き直しながら、ふふんと鼻を鳴らす。


「さすがに、目を覚まされたばかりの優衣さまに、あんな血まみれの格好で会わせるわけにはいかんからのう。せいぜい、包帯ぐるぐる巻きの情けない姿で泣かれるがよいわ」


 古今東西、惚れた女の涙ほど、男の心をざっくりと抉るモノはないのである。少しは反省して、自分の体を粗末にするようなバカな真似は、二度とするまいと誓うがよろしい。


「――これでよろしかったですかな、明緒さま」


 つぶやくような声で、呼びかける。


 苦笑を浮かべた明緒が、すいと扉の陰から姿を現した。


「柴田には昔から、どれだけ気配を消しても見破られてばかりだったな」


 柴田は小さく笑みを浮かべた。


「まだまだ尻に卵の殻がひっついたままのようなヒヨッコと、同じにされては困りますな。……明緒さま。佐倉家の直系たるあなたが、いつまでそのようにフラフラとされているおつもりですか」

「ん? 一生」

「明緒さま……」


 呆れたような咎めるような柴田の視線に、明緒はひらひらと手を振った。


「兄貴にばっかり重荷を背負わせて、悪いとは思ってるよ。おまえたちがおれに、兄貴の補佐を望むのも当然だと思ってる」


 けどな、と明生は戸口に背中を凭れさせながら、ゆっくりと続けた。


「兄貴には西園寺や若狭がいる。皓も随分使えるようになってきてるみてぇだし、おれがいなくたってやっていけるだろ」


 そんなことは、と柴田が言い返す前に、明緒は少し困ったような、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべた。


 彼がこの家にいる間、柴田が一度も目にしたことのないような、柔らかな微笑。


「悪いな」

「……明緒さま」

「ん?」


 呼びかければこちらを見る眼差しは、どこまでも穏やかに落ち着いている。


 柴田はもしやと思いながら問いを向けた。


「見つけられたのですか。あなたが、その人生懸けて助けて差し上げたいと思うお方を」


 淡紅色の瞳が、わずかに瞠られる。


 まるで虚を突かれたような――そんな無防備な表情を浮かべたことに、明緒自身が戸惑ったかのように視線を飛ばす。


「……どうかな」

「それは、よろしゅうございました」

「どうかな、って言ってんだろ?」


 むぅ、と秀麗な美貌をしかめる明緒に、柴田はゆるりと笑みを返す。


「爺に隠しごとをできるなどとは、思うておられませんでしょうに。……明緒さま。これだけは、お忘れなく。もしあなたに何かあれば、佐倉は必ず動きます。あまり、無茶な真似はなさいませぬよう」


 この家が、直系の者のために動く。


 それは――必ず何かが滅びる、ということ。


 明緒は小さく息を吐いた。


「……わかってるよ」

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