逆凪
「のわぁっ!?」
つい今の今まで脂汗だらだらの蒼白な顔で、立ち上がることさえできなそうだった翔が、勢いよく立ち上がる。
驚いた晶は、仰け反った挙げ句に尻餅をついた。
翔が怪訝な顔をしてこちらを見る。
「――何やってんの、おまえ」
「なな、何とか、こっちのセリフだし! 何おまえ、何いきなり復活してんの!? 怪我は!?」
声をひっくり返した晶に、翔はあっさりと答える。
「いや、怪我の方は元々大したことねえし。ただ、瘴気のカタマリにやられた傷だったから、毒気にやられて最悪に気分が悪かっただけで」
「意味がわからーん!」
「うんうん、わからなくていいからとっととさっさと片を付けて帰ろうな。オレと優衣の再会をこれ以上先延ばしにしてくれた場合、うっかりこの公園ごと丸っと蒸発させちゃうかもしれないぞ、はっはっは」
妙に爽やかに笑われて、晶は思いきりおののいた。
(目がマジだよ、怖いよ! 何いきなりウザラブモードに突入してくれてんのコイツ、はっきり言ってキショいですよ!?)
大体、そんな血まみれの姿で大したことないなんて言われても、力一杯「嘘だッ!」とツッコみたいところである。
だが、そんなズタボロの翔がさくさく先に進んでいるというのに、無傷の自分がいつまでも腰を抜かしたままでいられるわけがない。
半ばヤケのような気分で立ち上がり、目を向けた先には何やら呆けたような顔をしている桐原と少女、ひどく険しい顔をしている明緒がいる。
そして――あんな闇に包み込まれていたのが嘘のように、ぽつんとひとり地面にへたり込んでいる小さな子ども。
「……翔」
明緒の低く呼ぶ声に、翔は頭を下げた。
「すみません。オレのミスです」
「誰が謝れっつったよ。……おらこっち来い、止血くらいしてやる」
明緒に問答無用で地面にはたき込まれた翔が、盛大に悲鳴を上げる。
やっぱり大したことあったんじゃねえかコノヤロウ、と呆れたけれど、今はそんなことはどうでもいい。
さっきからずっと晶を捉えて一瞬たりとも離さないのは、瞬きすら忘れたかのような子どもの瞳。
……翔の言っていたことを、丸ごと理解できているわけじゃない。
それでも、たったひとつだけ。
さっき自分が見たものが、ずっとこの子どもを苛み続けていたことだけは、どうしてかわかっていた。……わかって、しまった。
『……悲しい。寂しい。辛い。どうして。――現場に残っていたのが、そんなもんばっかりだったんだよ』
事件のことを語っていたときの桐原の言葉が蘇る。
多分、本当はそれだけだった。
悲しくて。寂しくて。辛くて。
ひとりでは、どうしていいかわからなかった。
本当に、それだけのことだったはずなのに。
「香奈ちゃん……で、よかった?」
一度合った視線は晶の心の奥底まで見通すような真っ直ぐさで、受け止めるのには少し勇気が要った。
それでもどうにか視線を外さないまま、こくんとうなずいた子どもの前にゆっくりと膝を落とす。
「『お友達』が……酷い目に遭ったのが、悲しかったんだよな」
「……うん」
「そのことを、誰にも言えなくて、寂しかったんだよな」
「……うん」
「『お友達』のために……何もできないのが、辛かったんだよな」
「うん……っ」
再びしゃくり上げた子どもの気持ちが、晶には痛いほどよくわかった。
自分にとって愛しくて堪らない家族と同じ生き物が、無残に虐げられ、その命をあまりにも簡単に奪われていく現実を見せつけられるたび、苦しくて堪らなかった。
そんなことは知りたくなかった。
いっそ目を閉じて、耳を塞いで、何も教えないで欲しいと思った。
――それでも。
「けど……もう、こんなことは、やっちゃダメだ」
子どもの細く薄い肩が、びくっと震える。
「おれも、あんなことをしたヤツらなんて、死んで当然だと思うから……連中にも生きる権利があるとか、そんなきれいごとなんて言わないよ。自分の楽しみのために、食べもしないのに生き物を殺すようなヤツには、生きてる価値なんてないと思う。――でもな、香奈ちゃん」
ぐっと、握り込んだ爪が掌に食い込む。
「おれは、『お友達』に酷いことをさせた香奈ちゃんが、最低だと思う。……絶対に、それだけは、許せない」
「……っ」
大きく見開かれた瞳に映っている自分は、一体どんな顔をしているんだろう。
「酷いことをされたのが香奈ちゃんだったら、酷いことをした相手をどうしようが、香奈ちゃんの勝手だ。好きにすればいい。けど、あんな酷いことをした『お友達』は……香奈ちゃんが望まなければ、誰も、あんな酷いことをしなくてもよかったんだよ」
思い出すのは、渦巻く闇。
……たくさんのひとを傷つけて、殺して。
きっとそんなことをしたりしなければ、あんなふうに憎悪と苦しみばかりに凝り固まったような存在にならずにすんだ。
あんなにも醜くおぞましい姿に堕ちて、翔や少女に問答無用で消されてしまうようなことにはならなかった。
「で、も……っ」
「わかってたんだろ? 香奈ちゃんが望めば、『お友達』がその通りにするってことは」
「でも……でも、カナ……っ、ひどいことしたひとにしか、ひどいめにあっちゃえなんて、思ってないもん! わるいひとだけだもん!」
泣きながら言い縋る子どもに、晶はゆっくりと首を振る。
「そう思うなら、香奈ちゃんが自分の手ですればよかったんだ。『お友達』に代わりにやってもらったりしないで」
「そ……そんなの、できないもん……」
「……自分にできないことを、誰かにやってもらって、知らん顔をしてるのはね。卑怯者っていうんだ」
何を偉そうなことを言っているのかと、自分でも思う。
けれど、この子には――自分と『同じ』子どもには、自分の言葉しか届かない気がした。
ぼろぼろと涙をこぼす瞳が、わずかも晶の目から逸らされないからだろうか。
恐らくこの子どもにとっても、晶ははじめて出会った『自分と同じもの』だから。
「香奈ちゃん」
「……っぅぇ……っ」
しゃくり上げる子どもに、ゆっくりと告げる。
「おれと、約束して。……もう絶対、『お友達』に酷いことをさせたりしない、って」
「……っ」
「おれは、もう……香奈ちゃんにも、『お友達』の誰にも、あんな酷いことをして欲しくない」
香奈を見ていると、本当に――一歩間違えば、自分がこうなっていたのだろうと思う。
幼く何も知らないまま、痛みを簡単に解消できる方法が突然手に入ったなら、それを使ってしまうのは当たり前だ。
いやなこと、辛いこと、自分を苦しめるもの。
そんなものはいらない。必要ない。
だから、全部消えてしまえ。
誰だってそんなふうに思ったことが、一度や二度はあるはずだ。
それがいけないことなのだと、それがどれほど許されないことなのかも知らないまま。
もしかしたら、香奈には殺意すらなかったのかもしれない。
ただ、苦しくて。
酷いことをする者を排除するのが、正しいことなのだと思ってしまったのかもしれない。
純粋に。真っ直ぐに。
酷いことをする人間の存在を知ってこんなに苦しい自分は正しいのだと、だから酷いことをする相手には何をしてもいいのだと――正義感さえもって思い込んでしまったことが、幼い子どもには真実だったのかもしれない。
「香奈ちゃんは、まだ知らないのかもしれないけど。世の中には、香奈ちゃんの『お友達』みたいな子たちを助けようと、一生懸命がんばっているひとたちだって、たくさんいるんだ。辛くても、悲しくても、少しでも助けることができるようにって」
「カナ……は……っ」
ひとりじゃない。
悲しいのも、寂しいのも、苦しいのも。
その暗闇からどう這い上がっていくのか、どんな道を選ぶのかは自分次第だけれど。
それでも、自分が楽になるために他人を害するなんてことだけは、絶対に許されない。
今はまだ幼いから、実際に自分の手を汚したわけではないから、香奈はきっと、どれだけ自分が重い罪を犯してしまったのかをわかっていない。
他者の命を奪うということがどれほど重く、たくさんの悲しみや憎しみを撒き散らすばかりのものなのかを知るには、香奈はまだ、あまりに幼い。
けれど――幼いからといってすべてを許されるには、あまりにも多くの命が奪われすぎた。
これからきっと、香奈は苦しみ続けるのだろう。
成長し、自分のしたことのおぞましさを知っていくたび、心が壊れるほどに苦しむのだろう。
償うこともできず、許されることもないまま、ひとり自分の罪を背負い続けることが、もしかしたらこの小さな子どもに課せられた永遠の罰なのかもしれない。
――それでも。
「約束して。『お友達』には、優しくしないとダメだ。酷いことなんて、絶対にさせちゃダメなんだよ」
これは、もうひとりの自分。
ほんの些細な違いで晶自身がなっていたかもしれない、もうひとつの姿。
あまりに自分と似すぎていて、だから――放っておけない。
手を伸ばして、子どもの小さな頭に乗せると、びくっと怯えたように体を縮める。
ぽんぽんと軽く撫でてみると、子ども特有の高い体温が掌に伝わってくる。
「わかった?」
「……っ、わ、かった……っ」
ひっく、と何度もしゃくり上げながら。
「か……カナ、悪いこと、したの……?」
「……うん。そうだね」
たとえ、どんな理由があっても。
たとえ幼さゆえの、短絡的な暴走だったのだとしても。
香奈のしたことを、悪いことじゃない、なんて言ってやることはできない。
「ご……めん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「……うん」
ふええぇ、と声を上げて泣き出した香奈が、本当に謝るべき相手に謝る機会が与えられることはないのだろう。
桐原の所属する組織が、今回のことをどんなふうに処理するのだとしても、そこに香奈の名前が出てくることはきっとない。
こんな子どもが、見えない動物を操って、ひとを殺させた、なんて。
そんなことは、「あり得ない」のだから。
そうして、さっきからずっと泣きっぱなしだったせいか、香奈は唐突にこてんと糸が切れたように意識を失った。
小さな体を慌てて受け止めた晶は、香奈の頭が地面に激突しなかったことにほっと胸を撫で下ろす。
ぐにゃぐにゃと頼りない体をどうしたものかと困惑していると、背中に軽い衝撃があった。
「――ありがとう。きみがいてくれて、本当に助かった」
「桐原さん……」
ほっとして振り仰ぐと、労うように晶の背中をもう一度叩いた桐原が、香奈の寝顔に視線を移す。
その刹那、彼の精悍な顔が強張る。
何ごとかと思うより先に、桐原は乱暴な手つきで晶の膝にもたれかかっている香奈の体を、力任せに引き剥がした。
(な……って、のおぉおおおぉおおう!?)
気絶した子どもの体をぺいっと地面に放り捨てるのもヒトとしてもの凄くどうかと思うが、男子高校生を姫抱きにするのはもっとどうかと思う。
さすがは元SAT志望だっただけはある、というところだろうか。
人ひとり抱えているとは思えない素早さでざっと香奈から距離を取った桐原が、大丈夫か、と険しい目をして見下ろしてくる。
「アンタののーみそこそ、大丈夫デスか……」
アニキなイケメンに姫抱きにされて気遣われるなんて、女子高生のオトメな妄想の中では全然アリかもしれない。
だが、正しい日本男児である晶にとっては、精神的なダメージがでかすぎである。
桐原が、ほっと息を吐く。
「よかった。無事のようだな。――オレも、サカナギを直に見るのははじめてなものだから、少し焦った」
警察ドラマのヒーローの如き「キミが無事で本当によかった」なイケメンスマイルを大盤振る舞いされても、晶には半目になることしかできないのだから、とっても無駄だと思う。
晶は、ぼそぼそとつぶやいた。
「サカナギってなんですかーっていうか、さっさと下ろしてもらえませんですかねー……」
「オレだって、どうせ抱えるなら美人の方がいいんだがな。……あれがおさまるまで、少し待て。きみはなんの訓練も受けていない上に、あの子とさっき同調したばかりだ。おまけに、いろいろと似すぎている。下手をすれば、引っ張られるぞ」
は、と目を瞠った晶は、厳しい表情を崩さない桐原の視線を追って、思わず息を呑んだ。
まるで打ち捨てられた人形のような小さな体を中心に、何かが――緩く、渦巻いているような。
「な……」
「――あの子は、きみと同じ、なんの訓練も受けていない、ただの子どもだ」
桐原が、低く言葉を紡ぐ。
「は……?」
「あの子がやったことは、呪詛と同じだ。行使する術が危険なものであればあるほど、それに対する反動――逆凪も大きくなる」
それは。
一体、どういう。
「……今日まで無事だったのが、不思議なくらいだ。普通なら――これだけの数の人間をなんの防御策もなしに殺したりしたら、とっくの昔に五体がばらばらになっていてもおかしくない」
「なんだよ、それ!?」
まるで決められた台本を読んでいるかのような、淡々と告げられる言葉にぞっとする。
「それって、今あの子がヤベえ状態だってことじゃねーのかよ!? 何ボケっとして……っ」
「じっとしてろ、素人が」
咄嗟に香奈の元へ行こうと、桐原を殴り飛ばしてでも逃れようとした晶の襟首をぐいと締め上げたのは、まだその手に日本刀を下げたままの少女。
明確に怒気を孕んだ瞳の強さに、気圧される。
「今おまえがあのガキに近づいても、逆凪に巻き込まれて死ぬだけだ。――黙って見てろ。おまえは絶対に、ああはなるな」
「見てろ……だって?」
少女は、ひどく苦しげに目を眇めた。
「ああなっちまったら、あたしたちにできることは何もない」
何を、と。
言い返す前に、それは起きた。
香奈の周囲で渦巻いていた何かがぶわりと激しさを増し、その激しさのまま香奈の胸に殺到する。
小さな体が一瞬浮き上がり――妙にゆっくりと地面へ落ちる様が、スローモーションのように晶の目に焼きついた。




